2025年12月30日火曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(22)
































一昨日に続く第3章、第1節では、数学的物理学に対するジョージ・バークリー(1685-1753)ヘーゲル(1770-1831)の批判について分析される

そして、第2節では「自然の哲学は反形而上学的思想である」ことが論じられる

形而上学的知は、アプリオリで超越的な知であることを願い、経験の宇宙と諸科学から解き放たれた知を願う

これは自然の哲学とは相容れない性質である

自然の哲学の精神は、形而上学的哲学や観念論的哲学、さらに主観主義的哲学の精神とも混同されてはならないのである


まず、第3章、第2節、第1項で論じられる「自然の哲学の精神と形而上学の精神の違い」について確認しておこう

その証人として、バークリーを出してくる

感覚的世界を蔑むところがあるプラトン的形而上学とは異なり、バークリーはこう語っている
私は自分の感覚を信じ、諸事物を見出すように放置しておくだけの単純な、ごくありふれたタイプの人間です。私の意見を率直に申し上げれば、実在的事物というのは私が感覚によって見、触れ、知覚する事物そのものです。
自然の呈示は物理学的世界の呈示とも形而上学的宇宙の呈示とも同一ではない

したがって、物理学と形而上学から取り残された場所を占めることができるのが、自然の哲学である


次に、3-2-2では「自然の哲学と観念論の精神の違い」が論じられ、証人としてシェリング(1775-1854)が登場する

自然の哲学は、感覚と経験の世界と結びついている

シェリングによれば、「あらゆる哲学は観念論であり、またそれにとどまる」という

自然の哲学は観念論であるという批判に応じることができるだろうか

超越論的哲学のような観念論的体系と自然の哲学との間には、全く精神の共通性がないとアンバシェは言う

シェリングから見れば、後のフッサール(1859-1938)がそうであったように、初め人間は世界の現前に独占された「自然的」と言われる状態で生きている

そして、外部世界に自己を対立させるとき初めて、人間は哲学へ向けて第一歩を踏み出す

ただ、内省の出現によって起こる外部世界との乖離は、人間を非活動的にするので、内省を手段に留め、目的にしてはならないとする

この点において、シェリングの思想は精神の哲学よりは自然の哲学に向かっているのが見える

自然を精神の支配下に置くのではなく、その逆になっているように見えるからである

彼は「自然の体系が同時に我々の精神の体系でもある」ような哲学を目指した

(この項つづく)









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