2025年12月23日火曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(16)
































本日は、2-2-2「生理学の研究.機械論と生気論」に入ることにしたい

自然主義者がアリストテレス(384-322 BC)に対する伝統的な忠誠を示したのに対し、近代の生理学者にはその痕跡は見られない

生理学における説明には、自然学と同様、アリストテレスの物活論との決裂が見られるからである

身体器官と自動水力装置との間に、機械論的比較をやる

デカルト(1596-1650)は、装置の運動に役立つバネを筋と腱の中に見出す

神経をパイプに譬え、水の流れを「動物精神」の流出に譬える

呼吸などの生命活動は、彼に川の流れが動かす水車や時計の運動を思い起こさせる

そして1世紀足らずの間に生気論からの多くの転向が見られる

この転換期において、機械論は自然学の領域を征服したが、生理学からは除外されることになる

これはどういうことなのだろうか

手法的には還元主義的、機械論的に生命現象を分析しているが、それだけでは説明できない個体に特有の傾向――それは生存に向けての努力(=コナトゥス)とも言えるものだが――について全体論的、哲学的に考えなければならない、あるいは生物にはそういう側面があるということなのか

クロード・ベルナール(1813-1878)は、次のようなことを言っている
生命力は、それが産出しない現象を支配するもので、物理的動因は、それが支配しない現象を産出するものである
生気論が話題にする生命力のようなものは、生命現象を直接産出するものではなく、物理的動因が現象の産出に直接手を下す

しかし、現象の全体を統括し、方向づけているのは生命力の方で、物理的動因ではない

ということなのだろうか

であるとすれば、生命現象の全体を支配している「生命力」と言われるようなものがあり、それに基づいて具体的な作用を及ぼしているのが物理化学的な要素であるという立場なのだろうか

いずれにせよ、生物学への科学的精神の働きは、2つの軸に沿って行われた

一つは、モデルの構築と類比の探究で、もう一つは、有機体を化学的構成部分に分解しようとする方向性であった

類比の探究においては、例えば、四肢の関節と梃、目とカメラ、神経衝動と電流、脳とコンピューターなどが類比とされるが、人工的なものは自然を完全に写し取るものとはなりえない

第二の道を進むと、そこに見られるのは有機体の外観を失った化学反応だけになってしまう










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