2025年12月28日日曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(21)
































今日は、第3章、第1節「自然の哲学は反物理学的・反数学的な思想である」を読むことにしたい

自然哲学に数学的構造を取り入れることは、古代ではピタゴラス(572-494 BC)、プラトン(427-347 BC)の意見であったし、後のガリレイ(1564-1642)デカルト(1596-1650)の意見でもあった

しかし、「自然の哲学」に抽象化の道は適しておらず、むしろそれと対立する直接的で具体的なものを受け入れる

その具体例を見ていこう

3-1-1「数学的物理学に対するライプニッツの批判」では、ライプニッツ(1646-1716)の自然主義への愛着と機械論への敵意が指摘される

デカルトの哲学では、自然との出会いを実際には経験できず、その哲学は大きな「造りもの」だという

ライプニッツの宇宙は組織化されているが、それは通俗的機械論の道具立てとは「類において」異なっている

すなわち、ライプニッツの組織化は、限りなく細部へ下降して行き、1つの支配的モナドのもとに階層化されたモナドの集合体となる

宇宙の中には、荒廃し、不毛で死滅したものは何もなく、物質の各部分は草木に満ちた庭や魚のたくさんいる池のようなものと考えられている

デカルトの世界とは異なり、どこまで行っても生きているのである


ここで、ライプニッツとアリストテレス(384-322 BC)の自然主義の比較が出てくる

アリストテレスは、自然の因果性を、技術の因果性との類比によって考えながら人格化する

その過程で、自然と産業との連続性が存在するが、ライプニッツにおいては断絶である

ライプニッツ哲学で重要になる「形而上学的機械論」は、物理学者と数学者の粗末な機械論に取って代わるだけではない

この機械論は延長と運動から生まれるのではなく、目的性と調和の原理から出発し、モナドという「形而上学的点」の間の意識の関係しか残さない










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