今日から第3章「自然の哲学は質的に構成する経験から生まれる」に入りたい
これまで、数学的物理学と形而上学との対比から自然の哲学を見てきたが、それは何ではないのかという点に重点が置かれていた
この章では、自然の哲学が何であるのかに議論を進めるようである
まず、第1節「客観的経験と構成的経験」から始めたい
客観的認識と呼ばれるものには、2つの領域がある
第1は、認識主体が外部世界の客観的存在に自発的に直面することで生まれる領域である
コギトの重要性を発見したデカルト(1596-1650)以前の実在論はすべてこの領域にあり、一般的に「素朴な」客観性と言われる
例えば、アリストテレス(384-322 BC)が天体の運行を客観的に説明するために天動説を採用する場合などである
そこでは、地上にいる認識主体が観察した結果であるという条件が意識されていないが故に、素朴とされる
第2の客観性は、科学が観察や実験を駆使して生み出した「実証的」とか「批判的」と呼ばれるものである
しかし、有用性を示す科学的客観性は、空間的ないし機械的局面にしか及ばない
そのような知は、自然の中に現前している存在条件の全体を保持、表現しているとは言えないのではないかとアンバシェは指摘する
つまり、それは真実の知ではなく、専門の中に埋没した知になっているというのである
部分を対象にした有益な視点を離れて考察する必要が出てきた時、客観的認識は無力である
そこで求められるのが、全体化する能力がある構成的・包括的経験である
この構成的経験(認識)とは、どのようなことを言っているのだろうか
客観的認識が自然を要素に分解して、現象の測定、数値化に重点を置くのに対し、構成的認識は全体としての自然がどのような複雑な活動により構成されるのかという視点を重視する
その際、観念論や超越論的哲学に陥ることなく、質的経験に基づくべきだと考えるのである
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最後の「自然の哲学でカギになる構成的経験には、観念ではなく質的経験が重要になる」というところと重なる認識に至ったことを思い出したので、以下に貼り付けておきたい
医学のあゆみ 263 (6): 551-555, 2017
改めて読み返してみて、確信が持てないまま書き進んでいる様子が窺えるものの、現在のわたしの歩みの基礎にある考え方が明確に示されている貴重なエセーであると感じた
また、昨年立ち上げたISHE出版の活動を予感させるような気づきも記されていて驚いた
いろいろなことが網の目のように繋がってきていることに目を見張っているこの頃である

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