2026年1月17日土曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(31)
































今朝、昨夜も話題に出ていたシューベルト(1797-1828)を流しながらシガーをやる

わずか31年しか生きていなかったことを改めて確認し、やはり驚嘆する


今日は、第3章、第4節「自然は数多くの種類の混合物からできた媒介的有機体である」に入りたい

これまで自然の哲学について考えてきたが、「所産的自然」と「能産的自然」との緊張関係が現れることになった

そして最後に残るのは、シェリング(1775-1854)が言うように、「能産的自然」しかないことを確認した

ベルクソン(1859-1941)に言わせれば、科学的知性の捏造と対立する組織化としての力として現れる自然の概念である

したがって、自然のこのような性格を正確に位置づけ、客観的で世俗的な体裁を超えて了解するやり方を探索することが残されている


早速、3-4-1「自然は、人間によって客観的に仕上げられた世界と、人間には近づきがたいところにある原理とのあいだに介在する有機体である」について検討したい

その出発点として、ヘーゲル(1770-1831)が言っていたように、自然の感覚による現前とその「概念」を混同しないようにすることがある

なぜなら、客観的な所与として現れる自然は素朴な意識にとってのものであり、包括的に考察される自然はそういうものではないからである

つまり、客観的で感覚的自然は、人間の明晰で総合的な了解に達するためにあるからである

人間が知覚するものは純然たる自然ではなく、「所産的自然」に当たるものである

それは人間が立法者と実験者という二重の役割を通して、自らがデミウルゴスとなって了解する自然である


そこで、人間による客観的で世俗的な外見を通してではなく、創造主の仕業を見るならばどうなるであろうか

ここに神学が入り込む余地がある

ニカイア信条(325年)によれば、「私たちは、見えるものも見えないものも含め、すべてのものの創造主である全能の父なる唯一の神を信じます」と公言している

問題は、その信仰によって達せられた実在や出来事は、科学に依存する可知性を表していないことである

ここで言う「可知性」(intelligibility)は、単に意味が理解できるということではなく、理性によって、構造・法則・因果として、主体から独立に、共有可能な形で理解できること、あるいはそのような理解構造になっていることを指している

信仰による理解はすべてが神に帰せられ、「神秘」に迷い込むところがあり、可知性が要求する構造を持っていない

自然神学啓示神学(一般的な神学)とは異なり、理性を用いて世界(自然)の原理に迫るが、カント(1724-1804)が言うように、デミウルゴスのような有効な組織者(職工)ではあるが創造者でないものしか発見できないだろう

さらに、実証的な分析が進めば進むほど、神学的な解釈は後退することになり、神という仮説は不要になるかもしれない

しかしその時こそ、能産的自然の経験が現れ、われわれの経験的な出来事の世界と、超越的原理が住まうところとの間に、包括的で構成的な自然の活動圏が入り込んでくるという














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