2026年1月19日月曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(33)
































『自然の哲学』も遂に最後まで辿り着いた

結論「自然の二つの顔」を読むことにしたい

本書では、「自然哲学」という科学のやり方を取るものと、「自然の哲学」というそこから距離を置く立場があり、それに合わせて自然には二通りの顔が付与されることになった

アリストテレス(384-322 BC)においては、この両方の内容を判別することができる

しかし、「自然哲学」と「自然の哲学」の関係が明瞭にされたのは、「所産的自然」と「能産的自然」の区別が提示された時である

以下に簡単にまとめておきたい

(1)所産的自然ということによって、ある時は直接的に感覚的生の知覚を通して、またある時は間接的に科学の観察と仮説と説明を通して、「自然哲学」の客観的世界全体を理解しなければならない

近代人が科学によって自然を支配、所有しようとする時、そこで問題になっているのは所産的自然である

ダーウィン(1809-1882)が、「自然選択」が関わる法則の下に見ている自然も客観的な考え方である

(2)能産的自然が介入するのはこの時で、「自然の哲学」の下での経験の内に現われる

例えば、アリストテレスの「ピュシス」、バークリー(1685-1753)の「言語」、シェリング(1775-1854)の「生産性」、ヘーゲル(1770-1831)の「解決されない矛盾」、ベルクソン(1859-1941)の「飛躍」と「持続」などの質的現象性の形を取っている

能産的自然の経験は、思考にとって「意識」と「身体」と「物質」とが常に一つの全体を成して現われるという意味で、主客の分裂を超えた進路の入口である

自然的であるとは、この3つの領域が同時に占有され、混合され、踏破される時にわれわれが関与するものである

(3)所産的自然の空間化された客観的な面と対立するのは主観的領域ではなく、われわれが生きるたびに構成され分解される自然的混合物の経験である

所産的自然において、時間と空間は客観的な存在としてあるが、能産的経験に変わる時、時間と空間は独立した状態を失う

それゆえ、自然のあらゆる経験には、二つの顔が確かに存在する

一つは空間と分子とアトムの表象により、専門的規則に従って獲得する自然化されるもの(所産的自然)であり、もう一つは組み合わさり重なり合う無限の混合物が、全く別の形の知性と支配により自然化するもの(能産的自然)である

「自然の哲学」は、すべてが関連している宇宙のために、複合物の質的で具体的な論理を展開するように促されるのである


(了)










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