2024年4月2日火曜日

ポパーによる「プラトンの呪縛」(27)政治綱領(9)
































さて、本日もポパー(1902-1994)によるプラトン論である

ここのところ、議論が少々しつこく感じられるようになって来た

同じことをこれでもかという調子で繰り返している


プラトン427-347 BC)によれば、善とは、道徳についての集団主義的な、部族に根を張った、全体主義的な理論である

これを国際関係で見れば、国家が強力であればその行為に不正はなく、自国民に対してあらゆる某直行為を成し得ることになるとポパーは言う

国家という大きな機械仕掛けの中において、その歯車は2つの方法で徳を示すことができる

第一は、歯車の大きさや形にあった課題に適合すること

第二は、歯車は正しい場所にいて、その場を保持すること

これらは自らの持ち場を固守するという徳である

そして、それが全体の秩序ある徳に適合するという普遍的な徳を、プラトンは正義と呼んだのである


ただプラトンは、機械仕掛けのように動く集団主義を主張するだけでは、読者の心に届かないと考えた

その理論を明確に述べるには、政治的「要求」あるいは政治的「提案」の言葉を使う必要がある

国家とは何か、その真の本性は何かというような本質主義的な問いに答えてはならない

あるいは国家はどのように成立したのか、政治的義務の根源は何かというようなヒストリシズム的問題も同様である

ここで問われるべきは、我々は国家に何を要求するのか、国家の法的義務として何を要求するのかということである

換言すれば、なぜ我々は国家なき無政府状態における生活よりも、秩序づけられた国家における生活を選ぶのか、である


この問いに対する人道主義者の答えは、国家に要求するのは自分に対するだけではなく、他の人々に対する保護であるとなるだろう

現状は、暴力ではなく、法に基づく道を通じて、妥協と決定を通じで変革されるべきであるという考えである

同時に、攻撃からの自己防衛を国家が支援してくれることを望むとしたら、必要限度を超えることなく平等に市民の自由を制限することを受け入れる用意がある

ポパーはこの国家観を保護主義を名づける

ここで言いたいことは、自由放任主義と呼ばれる厳格な非干渉政策を採用しないということだという

リベラリズムと国家による介入とは矛盾するものではなく、自由は国家による保証がなければ不可能である

これはあくまでも政治的な要請であり提案であって、国家の成立についての歴史的な主張でも国家の本来的な本性について語るものでもない


保護主義に対する批判も見られる

国家には、動物的生を全うする人たちを維持するため以上のものがあるという主張である

この批判者には二つの政治的要求がある

第一に、国家を崇拝の対象にしようとしていること

第二に、国家の役人は市民の自由を保護するよりは、市民の道徳的生活を規制するために権力を用いるべきだということ

これに対して、もしこれが実現したら個人の道徳的責任は破壊されることになる

さらに、国家の道徳は市民のものよりも水準が低くなるので、むしろ市民が国家の道徳を規制することの方が望ましいという反論が可能だという










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