T・S・エリオット(1888-1965)の文化についての考察(深瀬基寛訳)を読んでいたら、いくつか目に付いたところがあったのでメモしておきたい
まず、エピグラフに「絶対権力は絶対的に腐敗する」で有名なジョン・アクトン(1834-1902)の、わたしの心とも響き合う次の言葉が出てきた
わたしは思う。われわれの研究はほとんど無目的というに近いものでなくてはならない。研究は数学とひとしく純潔の精神を以って追いかけられることを願う。ーーアクトン
I think our studies ought to be all but purposeless. They want to be pursued with chastity like mathematics. — Acton
それからこういう一文もあった
最初の重要な主張は、いかなる文化も何等かの宗教を伴わずしては出現もしなかったし発展もしなかったということであります。
あるいは、70年以上経った今でも突き刺さる言葉も出てくる
われわれ自身の時代が衰頽の時代であるということ、また、文化の水準が五十年前よりは下がっているということを或る程度の自信を以て主張することができます。またこの衰頽の徴候が人間活動のあらゆる分野に見えていることを断言し得るのであります。文化の頽廃がさらに悪化しないという理由も考えられないし、文化を全然もたなくなるであろうと断言できる、相当長期間にわたる一つの時代を予見し得ないという理由もまたないのであります。
「カルチュア」を個人、集団・階級、もしくは社会全体の3つのレベルにおける発展として考え、次のように言っている
マシュー・アーノルド(1822-1888)は第一義的に、個人と個人の目指すべき「完成」とを問題にしています。・・・アーノルドの「カルチュア」なるものが近代の読者にとって何となく手薄い印象を伝えるゆえんは、その幾分は彼の描いてみせた風景に社会的背景の欠けていることに基づくのであります。
これは、先日のSHE札幌で取り上げたプラトン(427-347 BC)の向上道と向下道とも関連するのように感じた
それから「文化人」についてのコメントもある
人々はいつもみずからを一芸に達するゆえを以て教養人と考えたがります。事実は彼らは他の諸々の技能に欠くるばかりでなく、彼らの欠くところの技能に目を塞いでいるのであります。いかなる種類の芸術家も、たとえきわめて偉大な芸術家にしても、ただその理由のみによって教養人であるということはできません、芸術家というものはその専業以外の芸術に対してしばしば無感覚であるばかりでなく、時にその起居動作は甚だ粗暴であり、知的能力において甚だ貧弱であります。文化に貢献する人間は、彼の貢献がいかに重要であるにもしろ、必ずしも「文化人」ではありません。
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