2024年4月19日金曜日

キェルケゴールの声を聴く































今日は、キェルケゴール(1813-1855)のアドバイスを聴いてみたい

ひとつの書物を書こうとする者が、自分の書こうとしている事柄に関していろいろと思い煩うということは、結構なことだと、私は思う。同じ事柄に関してこれまで書かれたものを、できるだけ知ろうと努めることも、悪くはない。その際もしも彼が、その事柄のこの乃至はあの部分を徹底的に申し分なく論じ尽くしているような人間に出会いでもすることがあったら、歓喜して然るべきであろう。・・・以上のことを、ひと知れず、そうして恋する者の熱情を傾けて、成し遂げたとすれば、もうそれ以上何も必要はない、早速自分の本を書かれたらよろしかろう、——鳥がその歌を歌うように。誰かがそれから利益をえ、それに喜びを見出すことでもあれば、ますます結構である。くよくよせずに遠慮なくそれを出版されて然るべきであろう、——ただし余輩によって一切が決着せしめられたとか、地上一切の世代はこの本によって祝福を与えられるであろうなどと勿体ぶられることは御無用である。それぞれの世代はそれぞれ自分の課題をもっているわけなのであるから、われこそは先行のものにとっても後続のものにとっても一切であらねばならぬなどと途方もない努力をされる必要はさらさらない。世代のなかのそれぞれの個人もまた、それぞれの日のように、それぞれ特別の苦労を担っている、だから各自自分自身のことを思い煩うだけでも精一ぱいなのである。なにも君主のような深憂の面持ちで全世界を抱擁される必要もなければ、本書とともに新紀元と新時代が画されねばならぬなどと意気込まれる必要もない。況んや最新流行の型にならって、空虚な勿体ぶった約束をされたり、広いさきを見透した自分のこの示唆にこそ将来性があるかのように装われたり、いかがわしい値打ちのものをこれは保証つきだと請合ったりされるようなことは、御無用であろう。広い肩幅をもっているからといって、誰でもがアトラスであるわけでもなければ、また世界を担ったせいでそういう肩を与えられたわけでもない。「主よ、主よ、」と呼ばわる誰もが、だからといって天国にはいるわけでもない。全世界のことはひき受けたと名のりでるところの誰もが、だからといって自己自身に対して責任をもちうるような信頼のおける人間だと限ったわけのものでもない。「ブラヴォ」を叫び「万歳」を口にする誰もが、だからといって自己自身と自己の歎賞の意味とを理解していると限ったわけのものでもないのである。

斎藤信治訳) 

 












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