2025年6月14日土曜日

マルセル・コンシュ『形而上学』、最初のバージョンを終える


























雨垂れが石を穿つように目に見えない変化を追いながらの日々であったが、やっと穴が開いてくれた

マルセル・コンシュの『形而上学』を最後まで訳し終えた

何だかんだ言って、半年かかったことになる

これから全体を見直すことになる

翻訳をやっていて感じるのは、翻訳前に読んだ時と訳し終わった後のイメージがガラッと変わることである

その本の構造が見えるようになり、著者の考えがより鮮明にニュアンスをもって迫ってくるようになる

普通に読む過程では、そこまで丁寧には読んではいないということだろう

これから全体を見直す中で、コンシュの考えがさらに明確になることを期待している



今回の経験からも、普通に読んでいて、どれだけその本の真意を汲み取ることができるのかという疑問が湧いている

ほとんど理解できていない可能性さえある

今、カフェで拙著の読書会をやっているが、その過程でも感じていることである

多く読む必要はない

「精読」ということにも意識を向けて行きたいものである










2025年6月10日火曜日

夏のカフェ/フォーラムに向けて動き出す





















昨日、古いブログ Mind Files for Philosophical Musings を蘇らせるべく、最初の記事を書いた


18年前に始めた観想生活が今どんなところに来ているのかという分析をスケッチしたものだ

自己評価すれば、それなりに書けているのではないだろうか



ところで、夏のカフェ/フォーラムがひと月後に迫ってきた

そろそろ準備を始めなければならないだろう

一つのテーマは、プラトンの人体論と医学観がどういうものであったのかを理解すること

もう一つは、拙著『免疫から哲学としての科学へ』の第3・4章を読み直すこと

そして、そこから新しい段階につながる糸を探し出すこと

8月開催予定のSHE札幌でも同書の第2章を読む予定だが、これは東京の会が終わってからにしたい

いつものことながら、ひと月でどれだけのことができるのかは予想できない

ただ、更なる問いが現れることを密かに期待しながらの作業になることだけは間違いないだろう








2025年6月8日日曜日

古いブログを再生させる


























2021年11月に立ち上げた Mind Files for Philosophical Musings(哲学的省察のためのマインドファイル)というサイトがある

立ち上げから4年になろうとしているが、意識から消えていた

今朝、偶然にも目に入り、中を覗いてみたところ、僅か数か月後から書き込みがなくなっている

ここは、2008年から記していたパリメモを読み直すというプロジェのための場であった

このように短期間で挫折したのには理由がありそうだ


一つには、十数年前の興味とズレてきたことがあるだろう

自分の中では貴重な経験だと思っていたので、それを咀嚼し直したいという願望があった

しかし、今の感覚でこそ一昔前のことでもすぐ手が届く、そこに在るものなのだが、昔の感覚で言えばやはり大昔になる

ズレが出ない方がおかしいだろう

もう一つには、最初からテーマ別に分類したため、書くときにメモに枠をはめる、あるいは枠に合うものを選び出すという恣意的な作業が入ったことがあるのではないだろうか

これは自分が最も嫌うものだったのである

なぜそうしたのかは分からないが、体質に合わないやり方で始めていたことになる



このような分析をして、このサイトは普通のブログのように思いついたことを書き連ねることで再生を図ることにした

その昔、メインブログに伴走するように書いていた「科学・医学・哲学を巡って」のようなものをイメージしながら

そう決めた途端、心が軽くなっているのを感じることができた

ただ、これからどうなるのかは、前回同様、全く予想ができない















2025年6月7日土曜日

シオランの言葉をもう少し



























今日もシオランの言葉を少々

フランス語ブログ UNE VIE PHILOSOPHIQUE À PARIS(2007-2016) にあった以下の記事から




もちろん、わたしは何もしない
ただ、時間が過ぎていくのを眺めている

それは、時間を埋めようとするよりも良いことなのだ

 

 

自然の視点からものことを見ると、人間は外側に向けて生きるようにできている
自分の内側を見ようと思えば、目を閉じ、努力することをあきらめ、流れから離れなければならない
われわれが「内的生活」と呼ぶものは、生命活動の鈍化によってのみ可能となる遅れてくる現象であり、「魂」というものは臓器の適切な機能を犠牲にしてのみ出現し、開花することができたのである
 

 

わたしはこれまで、明白な欠点を十分に具えていない、興味深い頭脳の持ち主に出会ったことがない

 

60歳のときに知っていたことは、20歳のときにも知っていた
40年に亘る長い、余計な検証作業・・・



これからパスカルのように読んでいきたいものである

 





2025年6月6日金曜日

シオランの声を聴く


































昨日のフィルムに触発され、これまでのシオラン関係のブログ記事を集めてみることにした

今日は「パリから観る」の2010年9月15日の記事からシオランの声を聴いてみたい



1970年(59歳)

わたしは今まで眠られない夜の憂鬱の中でしか書いたことがない
7年間、全く眠ることができなかったのだ
書くためにはこの憂鬱が必要で、今でも書く前にはハンガリーのジプシー音楽を聴くことにしている
その一方で活力も持っていた
嫌悪と恍惚の間で積極的に悲しみを味わっている

 

わたしは書くのが嫌いで、余り書かなかった
ほとんどの時間は何もしていない
パリで最も仕事をしない人間なのだ

 

40歳でまだソルボンヌに登録していた
学生食堂で食事し、永遠にこの生活が続くことを願っていた
しかし27歳以降の登録が禁止されることになり、この楽園を追われたのだ

わたしはよく読み、休みなく読み直す
ドストエフスキーの全作品は5-6回読んだ
再読したもの以外について書くべきではない

ブッダを近くに感じる
それは彼が真の問題を理解していたからだ

 


1977年(66歳)

ルーマニアが好きだったのは原始的なところだ
もちろん洗練された人もいたが、わたしが好きだったのは文盲の人たち

本は打撃を与えるもの、危険なものでなければならない
読み手の人生を変えるものでなければならない
わたしが書く時には人を激しく非難し、覚醒させることを考えている
新聞を読むように読める本は好きではない
本はすべてをひっくり返し、人に疑問を投げかけるものでなければならない
わたしが書くものの有用性など考えていない
なぜなら、本当のところ、読み手のことなど考えていないからだ
わたしは自分自身のために書いている
わたしの中にある強迫観念、緊張を解放するためで、それ以上のものではない

 

哲学は爆発の形を取った断片としてしか成立しないと考えている
論文のように章立てで論じるのはもはや不可能である
この意味で、ニーチェは優れて解放者だった
彼こそ体系を目指すアカデミックな哲学を破壊したのだから
彼が解放者だと言うのは、その後すべてを語ることができるようになったからだ
今は一見まとまりを持っているように見える本を書く時でも断片的になっている

 

断片的な思考は経験のすべての側面を反映している
それに対し、体系的な思考は一つの側面、点検された側面しか反映していない
それは貧しいものである
ニーチェやドストエフスキーにはあらゆる経験、可能な限りの人間のタイプが描かれている
体系の中では一人の統率者だけが話すのだ
それ故、断片的思考が自由なのに対し、すべての体系は全体主義的になる

 

ルーマニア語で書く時、当然のことながら書いていることを意識しなかった
言葉がわたしから独立していなかった
しかしフランス語の場合、すべての言葉がわたしの意識に降りかかってきた
言葉がわたしの前に、外に、細胞の中にあり、それを探したのだ

 

わたしの人生は退屈に支配されていた
この感情は子供の時からのもので、本質的なものだ・・・
何も興味を引かず、何も意味を持たない状態だ
この感情が繰り返し訪れた
人生において真剣なことは何もやることができなかった
本当のところ、わたしは激しく生きてきた
ただ、存在に溶け込むことができなかった
わたしの辺縁性は偶然ではなく本質的なものだ・・・
無用であり、利用することができないことがわたしの夢だった
退屈のお蔭でこの夢を実現できたのだ

・・・わたしは覚醒させるために書くアウトサイダーにしか過ぎない


Cioran, Entretiens (Gallimard, 1995) より








2025年6月5日木曜日

久し振りにシオランの魂に触れる




寝る前にYoutubeを覗くと、懐かしい名前が出ていた

エミール・シオラン(1911 - 1995)

この名前を知ったのはフランスに渡る前年の2006年夏

フランス語を始めて5年目、東京で知り合ったフランス人との会話の中でのことであった

その経過は、最初のブログ「フランスに揺られながら」に残っている

 エミール・シオラン EMIL MICHEL CIORAN(2006-08-04)


久し振りに見てみることにした

これはその昔にも見たような気がする

この雰囲気がいかにもフランスものという感じで、フランスの世界に入ってからしばらくの間は強い違和感を覚えていた

しかし、ある時を境に、自分の中で思索を刺激しているのに気づくことになった

このところ離れていたので、新鮮であった

このフィルムにあった言葉で印象に残ったことを記憶を頼りにメモしておきたい


ルーマニアからドイツを経てフランスに入り、ソルボンヌに登録したが、彼は人生の最後までその状態でいたかったと言っている

わたし自身、大学院生の時はそうできれば最高だと思っていたので、よく分かるという感じだろうか


幸福などあり得ない


人生に意味などないということが、唯一の生きる理由である


書くということは垂直の対話、神と会話することだという

孤独なもの同士の会話、神は自分よりずっと孤独だろうが 

 

必要性の欠如(文學など)

 

パリでは30年間本が売れず、無名だった 

当時、200~300冊しか売れなかったものが、今一番読まれているという


祖国とは言語である

 

わたしは矛盾の中で生きてきたが、何の苦痛も感じなかった

もし体系的な人間だったら理由付けをしなければならないので、嘘をつかなければならなかっただろう 

 

また読みたくなってきた







2025年6月2日月曜日

サイファイ研 ISHE 夏のカフェ/フォーラムのお知らせ






















少し遅くなりましたが、夏のカフェ/フォーラムの予定が以下のように決まりましたのでお知らせいたします

これらの会は広く開かれております

皆様の参加をお待ちしております

よろしくお願いいたします



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2025年7月9日(水)18:00~20:30
第21回サイファイカフェSHE

テーマ: 『免疫から哲学としての科学へ』を読む(3)――オーガニズム・レベルと生物界における免疫――

会場: 恵比寿カルフール B会議室




2025年7月12日(土)13:00~17:00
第14回サイファイフォーラムFPSS

プログラム:
 ① 矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑧ プラトンと医学
 ② 武田克彦: 神経心理学の方法
 ③ 市川 洋:社会の中の科学と科学コミュニケーション

会場: 日仏会館 509会議室




2025年8月2日(土)14:30~17:00
第14回サイファイカフェSHE 札幌

テーマ: 『免疫から哲学としての科学へ』を読む(2)仮説、自己免疫、共生を考える

会場: 札幌エルプラザ4F 特別会議室

*会場と開始時間がこれまでと違いますのでご注意ください










2025年6月1日日曜日

細川護熙氏の話を聴く






今朝は、偶然現れた細川護熙氏(1938-)の話を聴くことにした

もう87歳とのことで驚いた

政治の道を辞した後、芸術の道に打ち込んでいることは知っていたが、かなりの作品が出来上がっている

そのことにも驚いた

中に若い時の教育の話が出てきたが、その中に納まってうまくやるというのではなく、枠の外から見ているところがある

それは、新しいことややり方を生み出す一つのポイントになるとわたしが考えているものだ

それと、基本的な古典の素養だろうか

そこから、高い頂を見ながら人生における歴史的な瞬間を掴み取るという感覚を学び、そのように歩んできたようだ

どこか古武士の風情がある

日曜の朝、よいものを見せていただいた











2025年5月31日土曜日

本日も詩歌・・・長田弘『死者の贈り物』 LES POEMES D'HIROSHI OSADA


































今日も19年前の「フランスに揺られながら」の記事から

詩人の長田弘(1939 - 2015)さんに関するものが2つ見つかった

このように過去の断片を拾い上げていると、それまで意識の奥に沈んていたものがつい最近の出来事のようにそのあたりに転がるようになる

この感覚は、「過去を現在に引き上げて共に生きる」と表現し、そうした方が豊かな人生になるのではないかと考えたことがもたらしてくれるものである

今では体と完全に一体になっている

以下に、そのうちの1つを転載したい



2006-03-22


今日もお決まりのコースになった

今日はジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)の「聖歌隊の少年」が表紙となっている長田弘(1939-)の詩集『死者の贈り物』 

夜カフェに入る

入ると、モーリス・アンドレ(1933-)のトランペットがバロック音楽を奏でている

トランペットをやっていた学生時代、浴びるように聞いていた彼の演奏に触れ、当時確かに生きていたことを感じる

そのカフェでは、コーヒーに小さな切花が添えられていた

その花を押し花にしようとして詩集に挟もうとした時、ある光景が浮かんだ

午後の講義を待っている昼休みの終わり頃、皆が教室に戻ってきた

同級の女性が小さな花を手折ってきたのだろう

何気なく私に差し出した

その瞬間、思いもかけていなかった彼女の心に触れたような錯覚に陥っていた

その花を押し花にした

今でも密かにどこかの本の中にいるはずだ



「死者の贈り物」 を読む

死とは、人生とは、本当にあっけないもの

そんなことを言っているような

例えば、こうだ


 『こんな静かな夜』

 先刻までいた。今はいない。
 
 ひとの一生はただそれだけだと思う。
 
 ここにいた。もうここにはいない。
 
 死とはもうここにはいないということである。
 
 あなたが誰だったのか、わたしたちは
 
 思いだそうともせず、あなたのことを
 
 いつか忘れてゆくだろう。ほんとうだ。
 
 ・・・

  
 『イツカ、向コウデ』

 人生は長いと、ずっと思っていた。

 間違っていた。おどろくほど短かった。

 きみは、そのことに気づいていたか?


 なせばなると、ずっと思っていた。

 間違っていた。なしとげたものなんかない。

 きみは、そのことに気づいていたか?

 ・・・

 ほんとうは、新しい定義が必要だったのだ。

 生きること、楽しむこと、そして歳をとることの。

 きみは、そのことに気づいていたか?

 ・・・



 『あらゆるものを忘れてゆく』

 ・・・

 約束をまもらず、彼は逝った。

 死に引っ張られて、息を切らして、

 卒然と、大きな犬と、小さな約束を遺して。

 いまでもその小道を通ると、向こうから

 彼が走ってくるような気がする。だが、

 不思議だ。彼の言ったこと、したことを、

 何一つ思いだせない。彼は、誰だった?

 あらゆるものを忘れてゆく。

 ・・・



 『夜の森の道』

 ・・・

 信じないかもしれないが、ほんとうだ。

 ひとの、人生とよばれるのは、

 夜の火に、ひっそりとつつまれて、

 そうやって、息を絶つまでの、

 「私」という、神の小さな生き物の、

 胸さわぐ、僅かばかりの、時間のことだ。

 ・・・

 切っ先のように、ひとの、

 存在に突きつけられている、

 不思議な空しさ。

 何のためでもなく、

 ただ、消え失せるためだ。

 ひとは生きて、存在しなかったように消え失せる。

 あたかもこの世に生まれでなかったように。












2025年5月30日金曜日

偶然の一致 THE CELESTINE VISION

























今日も過去に戻ってみたい

19年前の「フランスに揺られながら」から

走りながら生きていた30年ほど前、日常との断裂が生まれた、おそらくアメリカ出張の折に読んだ本から考えが巡っている

つまり、20年ほど前にその10年前のことを思い出して書いたお話になる

現在につながる糸が見える記事である

以下に転載したい




2006-12-05


先日の夜、何気なく古い本棚を眺めていた

この本棚に詰まっている本は、私が謂わば走っている時に買ったものばかりで、いつどこで買ったものかほとんど記憶に残っていない

私にとっては味気のない本棚である

その中の一冊を手に取ってみた

その心は、新聞を開く時の気持ちに近い

以前にも触れたことがあるが、私にとっての新聞はびっくり箱のようなもの

いつもその中から何が飛び出すのか期待して紙をめくっている

今回は、この本を最初に見た時の自分がどんな存在だったのか、当時の私に会えるのではないかという期待感もあった



本は James Redfield という人の The Celestine Vision(1997年10月の初版)

まず驚いたのは、ページの端をよく折ってあること

読んだ記憶などほとんどないが、その時何かをやっている自分がいたということを確認する

いつどこで買ったのかというメモはない

この時期はほとんどそれをやっていない

どこに行き着くのか気にもせず、とにかく流れに身を任せていたのだからしようがない

そのことは当時でも意識していた

中に思いがけずしおりが入っていた

Iowa City の Prairie Lights という本屋のもの

出張で出かけた時に買ったもののようだ

おそらく向こうで気分にまかせてページをめくってそのままにしていた可能性が高い



内容のトーンは科学的、理性的なものの見方に偏りすぎてもっと大きなものに目が行っていない状態から、より霊的なものに目をやり、それを意識することにより人生の意味や宇宙におけるミッションを発見できるのではないか、というようなもの

そのためには、著者の言う "drift time" が必要になるという

要するに閑な時間がなければそこまで目がいかないということで、これはよく理解できる

理と信の対比と理から信へのお誘いが狙いの本だろうか

当時よくこの手の本を買ったものだと感心する

胡散臭いと思っていたはずだから



その初めの方で、coincidence「偶然の一致」について書かれている

それは偶然ではないのですよと言いたいようでもある

私も最近いろいろなもの(出来事)の間でのつながりを見つけようとする精神の動きを感じているので、妙に納得するところがあった

そういう目で見ていて不思議なつながりに出会えば、大きな存在について考えるようなことになるのかもしれない

いずれにしても、毎日何が出てくるのか、それがどういう意味(何かとのつながり)があるのかについて思いを巡らせながら生きていくのも面白そうである












2025年5月29日木曜日

"科学的"哲学を超えた作品の創造


























このところの影響か、過去への視線が強まっているようだ

今朝はブログ「パリの断章」の記事を眺めていた

フランスで大学に所属し、近い将来論文をまとめようとしている時期の考えを書いたものだった

当時の考え方は、今でも自分の中にある願望のようなものだ

つまり、現在でも当てはまる自分の考えということになる

以下に、そのまま転載したい





dimanche 18 septembre 2011


「哲学者とは自らの人生を最初の作品にする創造的な芸術家である」


このようなことを言ったのはニーチェだっただろうか

その人の考えてきたことが生き方と繋がっていなければ意味がない

考えることにより自らを変容させていく

そうしながらより人間に近くなっていく

存在そのものがその人の思想を体現している

生き方としての哲学、魂の癒しとしての哲学をも目指したのがニーチェだ



これが忙しい仕事に追われている現代人に可能だろうか

外の世界と距離をとり、自らの中に入り、自らを振り返る

エピクロスの園に入り、自らのエッセンスを探り、知と情を調和させる

それにより自らを創り直すこと

現代人にこの瞑想の時間がどれだけ取れるだろうか

その時間を意識して取らなければ、自らに嵌められている足枷に気付くこともないだろう



それは大学の哲学学徒とて同じことだ

対象となる内容は異なるが、対象に向かう姿勢は他の専門と何ら変わらない

科学と同じ精神状態でやって行けるのである

哲学が科学になっている証拠だろう

哲学が何たるかも知らずにこの道に入った者の目にはそう映る



ところで、これから論文作成をすることになる

そこに向かうには科学の世界での精神状態を取り戻さなければならない

理性を取り戻し、立ち上がらなければならない

瞑想の中に入り、生き方としての哲学に寄り掛かっているとなかなか立ち上がれない

学問としての哲学と生き方としての哲学の間には深い溝がありそうだ

この溝を自由に往復できるようになるのは一体いつになるのだろうか














2025年5月28日水曜日

やっと18歳の若造か



























昨夜は新しいサイトの「フランスに揺られながら」を読み返していた

日本からフランスに渡る前の緊張感溢れる言葉が散らばっているところである

これまでのサイトでは文字が詰まっていて、いつも見ていた景色の中で読むという印象で、気分がなかなか乗らなかった

しかし、昨日も触れたが、今度のところは白い平野が広がる中に言葉が置かれているので、非常に新鮮で読む意欲を掻き立ててくれる



当時は、期待と不安の中にいたのだろう

そして、よもや13年もの間フランスに滞在することになろうとは想像もしていなかった

あの時点から始まり現在に至るまでの18年に亘る展開も想像を超えるものがあり、その流れは今も進行中である

こうして振り返れば、あの時期は一つの「生まれ変わり」を経験していたのかもしれない

まだ確固たるものもない不安定な状態にあったものが、曲がりなりにも何かを掴み始めているような感覚の中にいる

トルストイに肖り、あの時から真に生き始めたのだとすれば、まだ18歳の若造ということになる

成人してこれからどんな大人になって行くのか

そんな感想さえ浮かんでくる不思議な時間となった










2025年5月27日火曜日

最初のブログ「フランスに揺られながら」、Hatenaブログに引っ越す


























先日も触れた gooブログ閉鎖のニュース

これに伴い、わたしの最初のブログ「フランスに揺られながら」を新しいところに移す必要が出てきた

混み合っているとのことだったので暫く様子を見るつもりでいたが、暇なのでちょっとだけやることにした

Hatenaブログに移すことにして進めると、すんなり動き出すではないか

まだ写真の一部は移動されていないが、記事は読めるようになっている


その中の説明にも書いたが、このブログは最初のブログ活動であるだけではなく、その後を決めることになる思索の跡が記録されたものでもある

その意味では、わたしにとって貴重な記録と言える

明るく広々とした空間におおらかに綴られているという印象で、新鮮な気持ちで自らの原点を読み返すことができるようになったのは感慨深いものがある

これからも多くの示唆を与えてくれることを願っている













2025年5月25日日曜日

" convictions vécues " ということ


























AI との Q&A を読み、改めて考えた

今回のAIの回答は、ISHE のこれまでの歩みについて論評を加えたものである

その歩みはもう10年を超え、試行錯誤の繰り返しであった

その全体について別の角度からまとめたものと言えるだろう

最初に、「泥臭い」とも言える思考実験や内的格闘を経て生み出されたものがあったのである

それがあったからこそ、今まで続いてきたのかもしれない

コンシュが言う " convictions vécues " とは、これのことではないだろうか

直訳すれば「体験された確信」だろうが、人生を生きる中で自分の中に確立されてきた確信のようなものである

AIの回答は、ISHEの活動に現れている" convictions vécues " を表現したものとも解釈できるのではないだろうか


例えば、最初にAIにこの部分を頼み、それに則ってことを進める場合を想像してみよう

そこには素晴らしい言葉や理念が並ぶかもしれない

しかし、それは必ずしも自分の思考に根差すものではない

あるいは、自分の生きた確信が関与する割合が圧倒的に少ないものになるはずである

この「生き抜く中で得られた確信」を持っているかどうかが、AI時代に最も重要な要素になるのではないだろうか

なぜなら、AIにはそれが感じられないからである

これはあくまでも主観的な感想なので、AIの専門家のご意見を伺いたいところである












2025年5月24日土曜日

サイファイ研究所ISHEについて――AIとの対話(2)

























今朝もゆったりしている

昨日 Perplexity が出してくれた問いと答えを読み直していた

そこで、同じ問いを ChatGPT にも出すことを思いついた

出してみて驚いた

出てきた答えがさらに深く充実しており、視点もより専門的になっているように感じたからである

中には主宰者の目を開くようなことも指摘されている

以下に列記した内容を昨日の答えと比較していただければ、その違いは明確になるのではないだろうか


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1)サイファイ研究所 ISHE(以下ISHE)の設立目的は何に焦点を当てているのか

ISHE(Institute for Science and Human Existence)の設立目的は、その名称に込められているように、「科学」と「人間の存在」の関係性を深く問い直す」ことに焦点があると考えられます。以下にその意義を、現代的な視点を交えて構造的に説明します。

🔷 1. 科学と人間存在の再接続
現代科学は驚異的な発展を遂げた一方で、「人間とは何か」「生きるとはどういうことか」といった根本的な問いを置き去りにしてきた側面があります。ISHEはこの断絶に対して、科学的知見と哲学・倫理・芸術的洞察を架橋し、人間の存在そのものを再考する場を提供しようとしているように見えます。例えば、
● 生物学・免疫学と哲学の接続(例:自己とは何か、生と死の境界)
● 時間・空間に関する物理的知見と、人生経験としての時間の意味
● テクノロジー(AI、バイオ、データ化)が進む中での、人間の「尊厳」「目的」の再定義

🔷 2. 知の脱領域化・統合的思考
ISHEの活動の一環として「ベルクソンカフェ」のような場があることからも明らかなように、哲学、科学、芸術、倫理などを横断的に結び直す知の運動がその目的にあります。これは現代社会の「専門化」と「断片化」に対する批判的応答でもあります。現代においては、自然科学の専門性が高まるにつれ、「知の孤島化」が進んでいる。ISHEは、「科学の形而上学化」といった構想を通じて、知の全体性と人間の内面性を回復しようとしている。

🔷 3. ポスト人間中心主義の思想実験室
気候変動、人工知能、ポストヒューマン的な技術の進展の中で、ISHEは人間を中心としない世界観=新しい自然観・存在観を探究する空間として機能しているように思われます。
● 「自然=無限に創造し続ける存在」として捉える(スピノザ的、アナクシマンドロス的自然観)
● 人間を「生きることを考える存在」として、世界の一部に位置づけ直す
● 「宗教なき宗教」「愛に基づく倫理」といった、信仰やスピリチュアリティの再解釈

🔷 4. 哲学する生の回復
ISHEの活動は、単に知的に考察するだけでなく、「生き方としての哲学」=エチカとしての哲学を再興しようとする運動でもあります。これはピエール・アドーやマルセル・コンシュの思想と深く響き合います。

🔶 総括的に言えば:
ISHEの設立目的は、分断された知と生を統合し、「科学する人間」の存在論的・倫理的根拠を問い直すことにある。現代の科学・技術社会の中で忘れられがちな「人間の深み」と「自然の全体性」を、新たな言語で再構築するための場である。



2)ISHEはなぜ人間の存在や生き方に焦点を当てるのか

とても重要なご質問です。「サイファイ研究所ISHEがなぜ人間の存在や生き方に焦点を当てるのか」という問いに対しては、次のように答えることができます。

🔷 1. 科学の発展が人間の意味を置き去りにしているから
現代の科学は、生命を分子に、心を神経回路に、社会をデータに還元できるようになりました。それは非常に強力な知識体系であり、現実を操作する力を持っていますが、同時に以下のような問いを「非科学的」として排除してきました: 「私はなぜここにいるのか」「生きるとはどういうことか」「死すべき存在としての人間に、いかなる意味があるのか」などです。ISHEは、このような「科学の影で問いを失った人間の存在」に再び光を当てようとしていると考えられます。

🔷 2. 科学と哲学の断絶を回復するため
かつて科学(自然哲学)と哲学はひとつでした。ガリレオ、ニュートン、デカルト、スピノザらは、世界の構造を問うと同時に、人間の生き方を問うていました。しかし現在、科学は「方法」に徹し、哲学は「思索」に退いてしまった。ISHEはこの断絶を乗り越え、「問いが生まれる現場に哲学を戻し、人間の生の中での科学を取り戻す」という試みをしているのです。

🔷 3. 「人間とは何か」を問わなければ、科学の方向すら見失うから
AI、遺伝子操作、ビッグデータ、ロボット工学……現代の科学技術は「人間の定義」そのものを揺るがしています。

 人間は単なる情報処理装置なのか
 死を克服すれば、それは本当に人間的なのか
 感情や痛み、愛は単なる生理現象か

このような時代にあって、科学の問いは自然の解明にとどまらず、「人間のあり方をどう定めるか」に関わっている。ISHEはこの根本問題に応える場であると考えられます。

🔷 4. 生き方としての哲学を現代に取り戻すため
ISHEの中核活動の一つである「ベルクソンカフェ」に見られるように、ISHEは哲学を書斎の思索ではなく、「生きることの技法」として実践する場でもあります。これは、ピエール・アドーの言う「哲学とは生き方である(la philosophie comme manière de vivre)」に通じます。科学の発展に圧倒され、制度的宗教も力を失いつつある時代に、
「どう生きるか」を一人ひとりが自ら問うための場所が必要なのです。

🔶 総括的に言えば:
サイファイ研究所は、科学の進展が生んだ「人間の喪失」に応答し、人間の存在・生き方・価値を、科学と哲学の対話の中で再発見しようとする試みである。それは単なる理論の構築ではなく、「考えること」と「生きること」を結び直す実践なのです。



3)ISHEが人間の本質に焦点を当てる意義は何か

とても根本的で深いご質問です。ISHEが人間の本質に焦点を当てる意義とは何か――これは単なる研究テーマの選定ではなく、現代における知の責任と方向性そのものを問う問いだと考えます。以下に、その意義を段階的に整理してご説明いたします。

✅ 1. 科学の進展が「人間の意味」を空洞化させたから
現代の科学は、かつてない精密さで生命を解析し、心や意識を神経活動として記述し、さらにはAIによって「知性」さえ模倣し始めています。しかしそれによって、「人間の特異性は本当にあるのか」「私たちは機械や動物とどう違うのか」「人間であることに、なお意味はあるのか」という根源的な問いが、言語化される前に沈黙させられつつあるのです。ISHEが人間の本質に焦点を当てるのは、科学の言語で捉えきれない「人間の深さ」を問い返すためです。

✅ 2. 科学が人間を扱う時代に、哲学的視点が不可欠だから
今日、科学技術は「自然を扱う」だけでなく、人間を対象とする力を持っています。人間の遺伝子を書き換える(CRISPR)、人間の意識を機械に接続する(ブレイン・マシン・インタフェース)、人間の死を先延ばしにする(ライフエクステンション)、人間の感情を数値化する(行動分析・脳科学)。このような時代においては、「人間とは何か」という問いなしに、「何をすべきか」という倫理判断も、「どこへ向かうべきか」という社会設計もありえません。ISHEが人間の本質に焦点を当てるのは、「科学の力」を人間のために使う道筋を見出すためです。

✅ 3. 哲学の原点に立ち返るため
プラトン、アリストテレス、ストア派、スピノザ、カント、ニーチェ――偉大な哲学はすべて「人間とは何か/どう生きるべきか」を中心に据えていました。ピエール・アドーが喝破したように、哲学は元来、「生き方の技法(technique de vivre)」でした。ISHEが人間の本質を問うことは、哲学を単なる理論や評論ではなく、実践的で変革的な知のかたちとして取り戻すことでもあります。

✅ 4. 「人間の本質」は問いであって、決して固定された定義ではないから
ISHEは「人間とはこういう存在だ」と断定するために人間を研究しているのではありません。むしろ、人間とは何かを常に問う存在であり続けるために、その問いを持ち続けるのです。この姿勢こそが、現代における知的誠実さであり、人間であることの証でもある。

🔶 結論として:
ISHEが人間の本質に焦点を当てるのは、科学が人間を操作可能な対象として捉える時代にあって、「人間であることの意味」そのものを再び取り戻すためである。それは、哲学の再生であり、科学の未来への責任であり、そして生きるとは何かを問う自由の回復でもあります。



4)ISHEが追求する「自己変容」の具体的な意義は何か

ISHEがそのミッションにおいて掲げる「自己変容(transformation de soi/self-transformation)」は、単なる個人の内面的成長や自己啓発のような意味にとどまらず、知のあり方・存在のあり方そのものを問い直す、根源的かつ哲学的な実践であると評価すべきです。以下にその意義を、4つの観点から整理してご説明します。

✅ 1. 「知ること」は「変わること」であるという認識
ISHEにおける哲学・科学・読書・対話といった営みは、情報の習得ではなく、自己の変容を通じた真の理解を目指しています。これは、ピエール・アドーが強調したように、哲学とは本来「生き方の変容をもたらす知的訓練」であり、スピノザが言うように「真理は、それを知る者の在り方を変えてしまう」ものであるという前提に立っています。自己変容とは、「知識を得る」ことではなく、「新たな存在の様式へと移行すること」を意味します。

✅ 2. 主体性の再生=思考と感受の自由の回復
現代社会は、制度、データ、欲望、注意の消耗など、外部の力によって人間の行動・感情・思考すら「自動化」してしまう構造にあります。ISHEが重視する「自己変容」は、そのような条件づけられた自己(=反応的で操作される自己)を脱し、思考し、感じ、応答する自由な主体を自ら鍛え上げていくプロセスです。他者や世界と向き合う前に、まず自分自身を回復する必要がある。それが自己変容の哲学的意義です。

✅ 3. 自己変容は知と倫理と実存の交差点である
ISHEにおける自己変容は、以下のような知の統合を目指すものでもあります。
● 科学的知見を通じて、世界の成り立ちを理解する
● 哲学的省察を通じて、存在の意味を問い直す
● 倫理的姿勢を通じて、他者・自然・未来に応答する自分を形成する
このとき変わるのは知識の量ではなく、自己の深さと方向そのものです。

✅ 4. 自己変容は時代への応答である
ポストヒューマンの時代、AI・遺伝子操作・気候危機の時代にあって、「人間であること」自体が揺らいでいます。ISHEが追求する自己変容は、そうした「自己が問い直される時代」において、変わりゆく世界の中で、変わるべき自己を引き受ける行為なのです。それは、哲学としての自己変容(例:ストア派的修養、スピノザの自由)であり、倫理としての自己変容(例:アガペーへの開かれ)であり、実存としての自己変容(例:死すべき存在としての有限性の引き受け)を含みます。

🔶 結論として:
ISHEが追求する自己変容とは、知と生の統合を通じて、「人間とは何か」を問い直し、自分自身を新たな存在の仕方へと開いていく行為である。それは、単なる知識の増加や技術の習得ではなく、思考すること・愛すること・応答することを通して、生きることそのものの質を変えていく哲学的実践なのです。



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じっくり読み返すと、自らの活動がこれまで以上に立体的に見えてくる

昨日は興味本位で始めたが、このような評者は欠かせないという気になってきた

折に触れ、これからの道を探るためにもこのような対話の機会を持つことにしたい










2025年5月23日金曜日

サイファイ研究所ISHEについて――AIとの対話




















暇に任せて、サイファイ研についての認識をPerplexityに訊いてみた

第2問以下は、Perplexity自身が発した問いについての答えである


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1)サイファイ研究所の設立目的は何に焦点を当てているのか

サイファイ研究所 ISHE(Institute for Science & Human Existence)の設立目的は、「科学の成果を哲学的・歴史的視点から見直し、人間存在について考えること」に焦点を当てています。

具体的には、

● 科学を出発点としつつ、哲学の蓄積や「生き方としての哲学」にも目を向け、人間とは何か、どのように生きるべきかを多角的に探究する場を設けること

● 理性による体系構築を目指す大学的な哲学だけでなく、実際の生き方に直結する哲学を重視し、それについて語り合うコミュニティをつくること

● 科学、医学、哲学、歴史、宗教など幅広い領域を横断し、最終的には「人間存在」そのものを深く問い直すこと

が主な目的です。

このように、ISHEは「科学から人間を考える」ことと「生き方としての哲学」を両輪とし、現代における人間の在り方や存在の意味を多面的に探求することを設立の中心的な焦点としています。


2)サイファイ研究所はなぜ人間の存在や生き方に焦点を当てるのか

サイファイ研究所 ISHEが人間の存在や生き方に焦点を当てる理由は、科学的知識や成果を単なる知識の蓄積にとどめず、そこから「人間とは何か」「どのように生きるべきか」という根源的な問いへと発展させることに意義を見出しているからです。

研究所の理念では、「知識で終わる世界」から「知識から始まる世界」へと転換し、科学・哲学・歴史を通じて自然や生命、人間存在の理解を深め、自らの存在の変容を目指すことが掲げられています。これは、単に科学的事実を学ぶだけでなく、それを自分自身の生き方や存在のあり方と結びつけて考えることが、現代社会において重要だと考えているためです。

また、サイファイ・カフェやフォーラムの活動では、科学の成果だけでなくその背後にある歴史や哲学にも注目し、参加者が自らの思索を深め、最終的に「人間という存在の理解」や「自己の深化・変容」に至ることを目指しています。このような営みを通じて、知識を「生き方」や「人間存在の探究」と直結させることが、ISHEの活動の中心となっています。

要するに、人間の存在や生き方に焦点を当てるのは、科学的・哲学的知の実践的意義を探り、「自分自身の生き方」や「人間であること」の意味を問い直すことが人間にとって不可欠だと考えているからです。


3)サイファイ研究所が人間の本質に焦点を当てる意義は何か

サイファイ研究所が人間の存在に深く焦点を当てる理由は、科学技術やAIなどの発展が進む現代社会において、「人間とは何か」「人間らしさとは何か」という根源的な問いが、かつてないほど重要になっているからです。

SFや科学技術の領域では、ロボットやAI、サイボーグなど「完璧な存在」と人間の対比がしばしば描かれます。その中で、「不完全であること」や「感情・価値観・生き方」といった人間固有の側面が強調され、「人間とは何か」を問い直す必要性が生まれています。こうした問いは、単なる技術論や知識の追求にとどまらず、人間の本質や生き方、他者や自然との関係、ウェルビーイング(幸福)とは何かといった領域にまで広がります。

サイファイ研究所は、科学や技術の進歩を背景に、「知識で終わる世界」ではなく「知識から始まる世界」を目指し、人間の存在や生き方を深く見つめ直し、現代社会における人間のあり方や意味を多角的に探究することを活動の中心に据えています。

このように、人間の存在に深く焦点を当てるのは、科学的・技術的進歩の時代においてこそ、人間らしさや人間の本質を問い直すことが不可欠だと考えているためです。


4)サイファイ研究所が追求する「自己変容」の具体的な意義は何か

サイファイ研究所が追求する「自己変容」の具体的な意義は、現代社会における人間の本質や生き方を問い直し、自らの価値観や思考、行動を柔軟に見直すことで、より豊かで主体的な人生を切り拓く力を養うことにあります。

現代は、AIやロボットなど科学技術の急速な進展によって、「人間とは何か」「人間らしさとは何か」という問いが改めて重要になっています。SFや科学技術の世界では「完璧な人工知能」と「不完全な人間」が対比されることが多く、人間の不完全さや多様性がむしろ価値あるものとして再評価されています。このような時代において、自分自身のあり方や価値観を「知識で終わる世界」から「知識から始まる世界」へと変容させること――すなわち「自己変容」――は、単なる知識の習得にとどまらず、自分自身を深く見つめ直し、他者や社会、未知の課題に柔軟に対応できる人間へと成長するための基盤となります。

また、自己変容を通じて、現状維持や思い込み(バイアス)から脱し、新しい視点や価値観を獲得することが可能になります。これにより、社会や他者との共生、創造的な問題解決、そして「人間であること」の意味の再発見につながります。

まとめると、サイファイ研究所が追求する「自己変容」とは、科学技術の進歩による社会の変化や人間観の揺らぎの中で、主体的に自分を問い直し、よりよく生きるための新たな自己を創り出す営みであり、それが現代において極めて重要な意義を持つといえます。


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どこまでも続けられるのだが、今回はここで止めることにした

ここには、ネット上の情報が別の視点からまとめられ、時に敷衍された結果が読み取れる

自分の考えが別の衣を羽織って現れたという風情である

ということで、全体的な認識に大きなズレはないようである

ただ、このような対話により、認識の微妙なズレとか、自分の中で言葉になっていなかったことに気づくことがある

そして、そのような発見が何かにつながることがある

そこにこのような対話の意義を見出したいものである










2025年5月20日火曜日

プロソケイとカルペディエムの日々















このところも、古代人の教えよろしくプロソケイカルペディエムの日々で、非常にいい感じである

夕方から夜にかけて時を過ごすのに丁度良いところを先日発見

知らない間に外が暗くなっているあの感覚が何とも言えない

それ以来、何度か訪れているが、なかなかよい

これも少しだけパリ時代を思い出させるものとなっている


現在のプロジェと言えそうなものに、コンシュの翻訳がある

翻訳には忍耐強い持続力が求められることを初めての作業で知って以来、やりたくないものの一つになっている

しかし、そのような状況になることがある

今回は内発的な理由であることと、前回の記憶が薄れるだけの時が経っていたこともあるのだろう

始めてしまった

大体7割くらいのところまで辿り着いた

この作業をやりながら感じているのは、日本人であるわたしが理解しようとするのであれば、やはり翻訳は欠かせないということだろうか


これと並行させているものもいくつかあるが、最近いろいろなところで絡み合いを見せている

今日はどんな景色が広がるのだろうか

プロソケイとカルペディエムの一日が始まる






2025年5月16日金曜日

想像以上に開かれていたブログ
















昨日は朝のうち、いつものようにゆったりした状態でスタートした

午後になり、環境を変えてやっていると、ツボにはまったような状態になり、止まらなくなった

何かをしている時には時間は消えているが、まさにその深い状態で、気が付くと暗くなっていた

精神の赴くままに体は道具のように動いている、あるいはそのことさえも意識させないくらいの統一感の中にいるとでも言えばよいのだろうか

一日の動かし方、あるいは一日の流れに乗るやり方のようなものを掴んだ気がする

これはパリ時代の感覚を少しだけ思い出させるものでもあった


ということで、久しぶりに充実した一日となり、気持ちが高ぶっていたのかもしれない

夜、これまで目に入っていなかった扉を開けてみた

そこにはブログにアクセスしている(PVによる)国別の統計があった

日頃から日本語で書いているので、ほとんどは国内の方がアクセスしているものだとぼんやり思っていた

しかし、わたしの想像を遥かに超えて、世界に開かれた場になっていることに今更ながら驚いたのである

このブログに関して言えば、

 日本、アメリカ、シンガポール、香港、カナダ、ドイツ、フランス、フィンランド、イギリス

前ブログ「二つの文化の間から」は、

 日本、アメリカ、フランス、ロシア、ドイツ、シンガポール、カナダ、ウクライナ、ルーマニア

前々ブログ「パリの断章」に至っては、

 アメリカ――<6万>――日本、フランス、ロシア、シンガポール、ウクライナ、ドイツ、香港、カナダ

サイファイ研究所ISHEは、

 日本、フランス、アメリカ、ウクライナ、ロシア、ドイツ、シンガポール、アラブ首長国連邦、イギリス

といった具合であった

世界で暮らす日本人が増えているということなのか、日本語に興味を示す外国の方が増えているということなのか

おそらくその両方ではないかと思うが、いずれにしてもこれらの分布を見て、新たな気分で各サイトに向かわなければならないという気持ちになってきた

非常に新鮮で、精神に清々しい風が吹き込んでくるような情報であった


もう一つ驚いたことがあった

わたしが最初に立ち上げたgooブログ「フランスに揺られながら」の情報も調べようとして入ってみた

そうすると、今年の11月18日をもって21年の歴史に幕を閉じるとのアナウンスがあった

わたしは20年前から実質3年間、真剣に書いていたが、それが今まで公開されていたことになる

長い間お世話になったので思い出は深く、誠に残念である

いずれ引っ越し作業を始めなければならないだろう

ということで、最初の目的を忘れていたが、こちらには国別アクセスの統計はなかったようである








2025年5月14日水曜日

わたしの哲学との付き合い方















これは以前から感じていることだが、先ほど形になってきた

それは、哲学に対する態度というか、哲学との付き合い方とでもいうべきものについてである

特に、哲学を専門として生活をしなければならないという立場にはいないわたしのような者にとっては、なお一層そうではないかと考えていることである


われわれは人生を歩む中で、何かに引っかかり、大きな疑問の中に放り込まれることがある

その時、もがくように出口を求めて模索する

それが自らの実存に関わることであれば、その模索はさらに真剣なものになるだろう

わたしの場合、そこで出合ったのが哲学者の言葉だったのである

それは視界を開く力があった

それ以来、それまで生きる中で出来上がってきたわたしの中にあるものと共振するものを拾い上げてきた

それがわたしと哲学との距離感であり、付き合い方である

つまり、哲学を勉強しましょうと言って始めたのではなく、先日のローマ人の言葉ではないが、まず生きることがあり、その後に哲学だったのである

そこには哲学に向かう必然性があったことになる

そういう学びは真剣なものにならざるを得ない

より正確に言えば、学んでいるという意識さえなくなり、まさに生きることと直接つながる営みと言えるだろう


哲学は知識ではないと言う

いろいろな哲学者の思想を理解して貯えるというような営みではないということだろう

それは科学と言ってもよい頭の使い方だからだ

そうではない何か、未だに科学とは別に哲学が存在している理由に根差すもの

そういうもの底に抱えながら歩みたいものである


今、マルセル・コンシュ(1922-2022)という日本では無名の哲学者の本を読んでいる

2006年に初めて遭遇して以来、折に触れてその考えに接してきた

わたしの考えにも影響を与えているのか、あるいはすでにわたしの中にあったものが反応しているのか

次第に馴染んできたように感じている

これなども、名前の通った哲学者について勉強しましょうというのとは違うやり方になるだろう

わたしのような立場の人間にとっては、このような哲学(者)との付き合い方が最も自然で、長続きするように感じている


他方、誰でも知っている人を対象にした方が、より広く認知される可能性が高いということも言われる

生き残りをかけている専門家であればそういう見方をして、あるところに群がっていくのも頷ける

しかし、それは哲学本来の在り方ではないような気がしているし、普通に生きている人間にとっても重要な要素ではない

どれだけ自分の生き方に関わる考えを生み出しているのかが問われるのだ

研究対象として哲学者を見るという視線ではなく、自らの実存にとっての重要性を見極める洞察力の方が求められている

哲学に限らず、一つのことに対してこのような付き合い方をする人が増えるほど、多様で柔軟で活力ある空間が生まれるような気がしている


今朝浮かんだ考えのスケッチはこんなところだろうか








2025年5月13日火曜日

エリック・オービエ発見



最近は全くフォローしていないので、トランペット奏者にどんな人がいるのか分からない

今日、Aubier で検索していたところ、探している人ではなく、この方が出てきた

フランスのトランペット奏者、エリック・オービエ(Éric Aubier, 1960-)さんである

師匠はモーリス・アンドレ(1933-2012)さん

日本でも活動しているようなので、知る人ぞ知るなのだろう

仕事の合間の清涼剤となった


日課の方は徐々に元のペースを取り戻しつつある

そして、今どこにいるのか分からなくなる頻度が増えている

わたしにとってはよい傾向なのだが、外から見ていると危ない兆候なのかもしれない








2025年5月10日土曜日

なぜ科学から哲学だったのか



























一昨日は朝の願いが通じたのか、これまで閉ざされていた地平が一気に繋がり、広がるのを感じた

何かが動き出す兆しのようなものなのかもしれない

それまで何も見えなかったところに、想像もしていなかったところとのつながりが次々に現れるということがこれまでにもあった

一番劇的だったのは、フランスでの生活を模索していた時のことである

その過程は、拙著『免疫学者のパリ心景』の「フランスでの全的生活を模索する」(p. 11-24)に詳しい

ドクターに進むときにも同様のことがあった

こちらは、同書の「フランスの大学院教育を受けて」(p.33-58)の後半に出てくる

今回の流れも質的には近いものを感じている



このところ、サイファイ研ISHEの過去を振り返っている

昨日は春のカフェフィロPAWLの記録を読み、その中にあった質疑応答の一節を思い出していた

科学から哲学に移ったのは、科学という営みに限界を見たからか、という質問があった

それに対する答えは、そこまで科学について考えていなかったというものであった

つまり、自分のやっていることに対する思考が全くなかったことが哲学に向かわせたというのが答えであった

もし、われわれの存在が永遠の命を持っているのだとすれば、そのようなことを考える必要はなかったであろう

しかしその判断は、われわれの生が有限であるという深い認識に至っていたからこそのものであった

できるうちに考えておこうというのが、その理由ということになる

ISHEの営みもその過程に寄与している








2025年5月8日木曜日

脱自的に生きる



























この春のカフェフィロPAWLで、拙著『免疫学者のパリ心景』の読書会をやった

その中に、2007年1月、山手線の中で突然浮かんできた考えをメモに収めたという場面が出てくる

メモの内容は以下のようなものであった

いまを生きている自分
これまでに在ったいろいろな自分
普通は昔の自分を遠くに置いたまま
時には捨て去り、それとは別の自分を生きている
それが忙しく現実を生きるということなのかもしれない
しかし、それが最近変わってきているのではないか
一瞬そんな思いが過ぎった
それはこれまでに在ったすべての自分を現在に引き上げ
彼らと話をしながら生きている、あるいは生きようとしている
そんな感覚である
そのすべてを引き受け、そのすべてが求めるところに従って歩む
そうした方がより満ちた人生になるのではないか
そんな想いが静かに溢れてきた

                                        免疫学者のパリ心景』p. 83-84

 

これが新たな発見として蘇ってきたのは、ハイデガー(1889-1976)が現存在の在り方として使った「脱自」(Ekstase)という言葉の意味を探っている時だった

脱自とは、文字通り ek-(外に)+ stasis(立つ)こと

つまり、自分の外に出ること、自己を超えて外に立ち、そこから自分を眺めるような開かれた存在の状態だという

さらにこの脱自は、過去・現在・未来という時間とも関係してくる

ハイデガーの時間は、3つに区切られた時間が並んでいるというようなものではなく、3つの時間に対して自己を超えることを意味する

すなわち、過去への脱自においては過去を引き受け、未来への脱自はまだ見えないところに向かって自己を投企し、現在への脱自においては、世界に関わり自己を現成させることである

さらに、この3つが別々にあるのではなく、開かれた地平に向かって相互に関連しながら広がるというイメージのようである

その中で自己の意味や可能性も見えてくるということなのだろうか

そして、これがハイデガーの言う時間であり、人間の本質的な在り方なのだろう

想像をたくましくすると、脱自は深いところで「エクスタシー」とつながっていそうである


18年前に始めた観想生活を「全的生活」と名づけていたが、ハイデガーに肖れば、「脱自的生活」の中にあったとも言えるだろう

昔の小さなエピソードがこのように繋がってくるのを目撃することは、わたしにとっては大発見で、何とも言えないものがある

当時頭にあった " Primum vivere deinde philosophari "(まず生きよ、そして哲学せよ)の言葉通り、自らが生きて感じ取っていたことが、実は深い真理に繋がっていることに気づいたことになる 

ここでいう真理とは、哲学的省察の蓄積の中に眠っているもののことである

哲学的省察が欠かせない理由がここにもある

役に立つ立たないの問題ではなく、必須なのである

今日の一日も広大な地平が広がっていることを願いたいものである



 






2025年5月6日火曜日

現在という永遠
















1週間前よりは、落ち着いてきたようだ

日課にも入り込むことができるようになってきた


今日出合った言葉に「時間は過ぎ去らない。過ぎ去るのは我々だ」というのがあった

ヘラクレイトスに「すべては流れる」「同じ川に二度足を入れることはない」という言葉があった

この世界の万事は留まるところを知らず、流れ動いている

川の水は絶えず入れ替わっているので同じ川ではありえないということなのだろう

しかし、この見方のほかに、川の水は入れ替わっているが、川というものはそこに留まって在るという見方もある


同様に、時間は過ぎ去らないという意味は、過去、現在、未来と時は流れているように見えるが、時間というものは常にそこに在るということなのだろう

それを認めたうえで、過ぎ去っているのはむしろ我々の方だという

我々の部分は、どんどん過去に流されて行っているということなのだろうか

それを繰り返しているうちに、未来に持って行くべき部分がなくなって行く

未来に向けての可能性が失われてゆく

これは有限の存在が持つ宿命のようなものなのだろう


先に、時間というものは常にそこに在ると言ったが、それは抽象的な時間のことであった

しかし、ここに常に在る具体的な時間もある

それは現在と言われる時間で、我々が存在している限り、常にそこに在る

その意味ではやはり、現在というのは永遠と言えるのではないか

現在に身を沈めると、確かに永遠を感じることができる

「今」に身を沈めなければならないのである










2025年4月29日火曜日

帰国して5年、ギアチェンジを求めているのか?

































春のカフェ/フォーラムに対するコメントを読んで驚いたのは、このブログに移して見えてきた分量の多さであった

それぞれのサイトで読んでいる時には何も感じなかったのだが、自分が普段書いているものに比べるとかなり多い

今回は特にSHE札幌でのコメントが群を抜いていた

珍しいことである

いずれにせよ、これからも活発なコメントが飛び交うような会にしていかなければならないという思いを強くした



さて、このところ現世のいろいろなことに当たっていた

とにかく想像もしなかったようなことが起こるので、困ったものというか面白いというか

日常生活というのはこういうものなのだろう

そこで有効になるのが、先日触れたプレメディタチオである

心の動きの幅がほとんどなくなる

まだいくつか現世的なものは残ってはいるが、それは流れの中でこなせそうである

暫く中断を余儀なくされていた日課に戻ることができそうだ



振り返ってみれば、フランスから日本の戻ってきたのが2020年春なので、丁度5年が経過したことになる

気分を変えるには丁度良い切っ掛けになりそうである

今日の夕方、空を眺めているとそこに居座ったまま全く動かない雲を見た

その雲と付き合っているうちに、パリの夕暮れ時に眺めていた空のことが思い出された

気分がパリ時代と重なってきたのだろうか

新しい精神状態に入りつつあるとすれば幸いなことである












2025年4月28日月曜日

春のカフェ/フォーラムシリーズに寄せられたコメント(4)






3月14日には第20回サイファイカフェSHEが開催されたが、コメントが届かなかったので省略した

ということで、今日は4月12日に開催された第13回サイファイカフェSHE札幌について紹介して、この小シリーズを終えることとしたい


テーマ:免疫から哲学としての科学へ』を読む(1)免疫の理論史


会の要旨:

今回から、参加者からの提案を受け、拙著『免疫から哲学としての科学へ』を読み解くことにいたしました。第1回目は、その第1章「免疫学は何を説明しようとしてきたのか」を取り上げます。免疫学の理論史、思想史のような内容ですが、そこに科学という営みの特徴や哲学との関連が垣間見えることと思います。参加予定者は前もってこの章をお読みいただいた上で参加されると、免疫に関する理解が深まると思います。


寄せられたコメント:


◉ 昨日は力のこもったゼミ、どうも有り難うございました。次回をまた楽しみにしています。


◉ 全体(哲学)と部分(科学)の2つの解析の織り成す循環が免疫学の歴史でもあると感じ、人類のあくなき探求を垣間見た気がしてとても興奮しました。仮説が条件によって破壊され、新しい仮説にとってかわる。それが、より客観的、俯瞰的になることで新しい発見が起き、それが最終的には、統一理論にまで繋がるイメージができました。

目に見える状態で観測しなければ、科学じゃないとノーベル賞を取得したシェルドン・グラショーも言ってましたが、例えば、虚数という数字は人間には観測できない数値であるにも関わらずに、その概念を数学方程式に入れることにより飛行機が飛ぶ、という現実的な実用まで至っている。このことから、科学という人間の観測領域だけでは理解できない世界が、哲学という全体を捉えた学問によって、解明されていくイメージが沸き、次回の参加もとても楽しみになりました。

ありがとうございました!


◉ 昨日はいろいろと教えていただき、誠にありがとうございました。非常に楽しい時間でした。外界の刺激の前から存在する細胞に関して外界からの刺激でその後の運命が決まるという点では、免疫細胞のクローン増殖は不均一であるがん細胞のクローン増殖(進化)と類似しているなと改めて感じました。

昨日問題になったCDR1とCDR2の遺伝子配列の多様性獲得のメカニズムというのは、抗原認識後の体細胞超変異の段階でCDR1とCDR2に変異が入ったクローンが有利で選択されるというメカニズムではなく、抗原認識前にV遺伝子のCDR1とCDR2だけに多様性があることのメカニズムということでしょうか?その場合だと、V遺伝子のCDR1とCDR2に変異が入り多様性が生まれるとそのような個体が免疫的に進化的に有利だったからでしょうか。

8月の会も参加できれば参加させていただきます。
今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。


◉ サイファイカフェSHE札幌 第13回の免疫論を読む(1)に参加させて頂きました。『免疫から哲学としての科学へ』を読むをテーマに、これまでにない参加人数(9名)で開催。免疫学という、微生物・外来異物への反応現象、生体の外との関連の中で個体の恒常性を保つ仕組み、そしてメタファーとしての免疫という用語の成り立ちからまずはスタート。外的要素との関連性から、生体反応の的確な観察、例えば免疫反応の強力化や免疫記憶など、生物としての人間集団の生体反応の的確な観察と正確な記述を基盤として、歴史的時間軸の中で熟考を重ね、仮説を提示するその熱量にまずは感嘆した。遺伝子はおろか、その現象の主役となる細胞の本態すら明瞭化していない時代に、そこまでの仮説を組み立てる思考能力に畏敬の念すら覚えざるを得ない。分子生物学、そして遺伝子組み換えといった人為的技術が高度に発展した現在を座標軸として、当時の思索、仮説を眺めてもその正確さに驚くこと頻りである。これぞ、免疫を軸とした科学者の哲学的思考の足跡と感じたのは自分だけではないと思う。あっぱれ。


◉ 昨日は大変楽しい会に参加させていただきありがとうございました。先生のお話は、主に免疫学のこれまでの歴史についてでしたが、既に確立された免疫についての知識の表層の部分を少しだけ知っている程度の我が身にとって、その確立に至るために多くの天才的科学者たちが多大なエネルギーを注ぎ込んで行なった仕事の事を思うと、結果はどうであれ、本当に頭が下がります。懇親会では、先生はじめメンバーの方々から、免疫や科学一般や哲学のこと、また言語や生死のことなど、興味深い話をたくさんお聴きすることができました。話は尽きず、野菜の育て方も丁寧に教えていただきました。次回も楽しみにしております。

先生以外の方のお話もという件につきましては、外部からの講師にお願いするという事であればよいのですが、内部の方のお話となると、お話する方の負担が大きくなりますので、慎重に考える必要があると思います。いずれにしましても、敷居が低く、広く開かれた会であってほしいと思います。


◉ 先日は、貴重な会を開催して頂きありがとうございました。先生の「科学の形而上学化」が具体的に展開される著書の学習は、知的な興奮を呼ぶものでした。また、懇親会では、医師ではない私にとっては、普段聞けない医師の意見を聞け、非常にためになるものでした。札幌では、こういう会は非常に貴重であり、人数が増えていくのも肯けます。


◉ 今回は参加者9名と過去最大の参加人数(?)となっただけあり、本会~懇親会を含めてより活発で様々な質問、感想、意見が取り交わされた感がありました。免疫の現象は紀元前の古代ギリシア時代に既に当を得て直観されていました。免疫という言葉自体はその後の古代ローマ時代に生成、その始原的な語義としては義務や負担からの免除に由来するものだったとのことです。病気から逃れる何らかのメカニズム(免疫)があるとの直観から由来していたにも関わらずそれに該当する医学的な用語が当時見当たらなかったせいか、法・倫理系の用語からヒントを得て作られたというのは、今考えると非常に示唆的です。”示唆的”というのは、免疫学という分野が追究されていく中で人間・生き物、自然の本質、さらに社会・倫理・法(人文系への敷衍には賛否両論はありますが)への思考を類推・誘発されやすく、従って”哲学的”思考にも馴染じみやすい主要な科学的分野の一つではないかという意味合いにおいてです。

実験生物学の黎明期である18世紀から免疫学の知見が積み重ねられていく中で、現代に至っては免疫を担う分子の同定が飛躍的に増加、それとともにメカニズムも複雑化しながら、アウトサイダー・マッツィンガーによる危険理論の提示等免疫という概念自体が広がり、再考も求められているといったexcitingな流れで第1回目講演が終了しました。

ありがとうございました。次回はどういう展開になるか今から楽しみです。












2025年4月27日日曜日

春のカフェ/フォーラムシリーズに寄せられたコメント(3)



































今日は、3月8日に開催された第13回サイファイフォーラムFPSSについて紹介したい


プログラム:

1)矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑦ プラトンの宇宙観

2)細井宏一:人文科学と自然科学の間にあるサイエンス ~考えるということ~  ——啓示か、観察か、それとも・・・——

3)岩倉洋一郎:科学は自らの発展を制御できるのか?


寄せられたコメント:

◉ 昨日は私も改めて自分の人生(哲学研究)を振り返るよい機会となりました。ありがとうございました。拙い文ではありますが、昨日の感想を送らせていただきます。

● 矢倉先生のご発表については力が及びませんでした。目的論という観点で言えば、アリストテレスのそれとの対比の意味で、よい復習となりました。また、「あれ、そんなこと書いてありましたっけ?」という発見も結構ありました。自力で読むという頼りなく孤独な作業が、先生の丁寧な解説により、さらに豊かなものになりました。ありがとうございます。

●「人文科学と自然科学の間にあるサイエンス」について

「考える」ということがこれまでの会社員生活で欠落していたと気づかれる契機として、大阪大学の臨床哲学に触発された部分もあったのではないかと思いましたが、そうでもないということでした。発表のなかで触れられていた梶谷真司氏が推し進める哲学カフェでの「問う-考える」営みは、もとはと言えば、大阪大学の臨床哲学研究科がアカデミックな機関としては最初に日本に持ち込んだからです。

アヴェロエス、アクィナス、ボナヴェントゥラの3人の神学者の対比がわかりやすくまとめられ、より理解が進みました。「二重真理説」は、本来ならカントの理論理性と実践理性を分ける態度に通ずるものがあり、もっとシンパシーを感じてもよいはずですが、どこか「詭弁」めいたものと捉えていました。しかし今回の発表を拝聴し、むしろ二重真理説を好意的に受けとめるようになりました。

 ●「科学は自らの発展を制御できるのか?」について

前回のご発表と同様、科学者の側から危機感を発し、哲学(倫理学)が要請されているということに驚きを感じるとともに、社会にまた一つ希望を見出した気がしました。科研費研究においてもヒトの遺伝子操作に関する哲学研究が行われているにも関わらず、科学者に届いていないということは、もしかしたら声明や提言を出すまでに至っていないのかもしれないと、後から思いました(政治活動と一線を画しているつもりか?)。ですから今回出てきた「サイファイ研究所 ISHEとしての発信(?)」といった提案は非常に有意義な社会実践的な話であり、期待したいところです。

エンハンスメントを規制する説得力ある理由が見当たらないことについて。あらゆる危険や格差が克服された後にも最後まで残るであろう薄気味悪さや畏怖の念といった直観的な理由や生物学的多様性が損なわれるという理由以外に、その是非や自己決定権の割合はともかくドーピングや美容整形は少なくとも本人が自らの意志のもとで行なう行為であるが、エンハンスメントは本当に胎児が望んでいるかどうかわからないものを、所与のものとして施してよいのか、という問題に関わると、これも後からふと浮かびました。


◉ 3月は大変お世話になりありがとうございました。大変遅くなりましたが13-FPSSのコメントを送らせていただきます。よろしくお願いします。

● 矢倉先生の「哲学と科学シリーズ」⑦は、「プラトンの宇宙観」でした。プラトンはエンペドクレスの四元素とテアイテトスの幾何学の影響を受けその宇宙観を形成していったということでした。四元素を幾つかの正多面体との幾何学的な関係で示しています。その図を見せていただきましたが、私は全く理解できず、これはなにか比喩的なものであるのかという質問をしたところ、ハイゼンベルグもその図を見て全く不条理でその意味が何であるのかを理解できなかったという例を示していただきました。ハイゼンベルグのプラトンの本を読んだ最大の収穫は、結局、物質世界を理解しようとするならば、その一番小さな部分について数学的な形式を見つけるそれ以外にないのではないかという確信であったということでした。天才物理学者は同じ図を見ても到達点が違うと思いました。私が驚いたことは、プラトンにみられる「自然を超える存在」を認める宇宙観と「自然」が構築する宇宙観との対立が人類の歴史上このころに始まり、哲学史の底流を流れる大きな問題として、現在まで引き続き継がれているということでした。

● 細井先生の「人文科学と自然科学の間にあるサイエンス~考えることー啓示か、観察、それとも・・・」は、科学者であり宗教家である細井先生が、哲学、神学そして科学の歴史を遡りそれらの関連性を広範な資料で示してくださいました。浅学の私にはその内容に追従できない部分も多々あり、質問もプリミティブなことばかりでした。ギリシャ哲学と神学の関係、神学における科学への動機とその位置づけ、そして現代へと続く科学の形而上学化、やはり問いをたて「考える」ためには基底を学ばなければと改めて思いました。

● 岩倉先生は「科学は自らの発展を制御できるか」で、現在の人類が科学技術の進展により直面したAIと遺伝子改変の問題を採りあげてくださいました。どちらもこれまで科学技術がもたらした危険性とは全く異質なもので、取り扱い次第では人類が違う種へと移行してしまうかもしれないような問題なのかもしれません。国家、企業体そして個人は、倫理観も価値観もそして正義もそれぞれの立場により異なったものであります。さらに、そこには過当競争が存在します。これらの事柄からはいろいろなストーリーが生み出され、未来の予測は全く不能です。制御は極めて困難であろうことが予想されます。しかし、現実はこれまでどおり試行錯誤で進んでいくことになるのでしょうが、AIも遺伝子改変も進歩の速度がこれまでとは桁違いに早いです。矢倉先生の言われるように「宗教・哲学・精神的探究を重視する生き方の探究」を志向する人を増やしていくことが、科学の発展を自ら制御する唯一の道であるように思われました。












2025年4月26日土曜日

春のカフェ/フォーラムシリーズに寄せられたコメント(2)


























第2回は、3月6日に開催された第12回カフェフィロPAWLについて紹介したい

テーマ:免疫学者のパリ心景』を読む vol. 1――なぜフランスで哲学だったのか――

ファシリテーター: 岩永勇二(医歯薬出版)


会の要旨:

「偶然は存在しない。あるのは約束された出遭い (rendez-vous) だけだ」

――本書巻頭エピグラフより

科学と哲学、西洋と東洋、フランス語と日本語…。その両者を往還する明晰な思考から紡ぎだされる『免疫学者のパリ心景』を読んでいると、自分の頭のなかの澱がゆっくりとけて、とても静かで、みずみずしい世界へと誘われる心地よさを感じます。

このたび贅沢にも著者である矢倉先生に朗読をお願いし、内容の再確認だけにとどまらずに、著者の「声と身体」を通した生きた読書体験となることを期待して、この会を企画させていただきました。

初回は、留学の契機となったご経験と、出会った哲学者を述べた箇所の朗読を聴いた後、当日参加される方が感じたインスピレーションをもとに、全員で意見交換ができれば幸いです.

どのような会になるかは、もちろん始まってみないと誰にも分かりませんが、「オープン」で「インタラクティブ」なトークセッションとなることを期待します。

ところで書物を読むとは、印刷された活字を読み、著者の思考をなぞるばかりでなく、書物の魂とのその都度の出遭い、コミュニケーションの体験ともなりうるのではないでしょうか。

今宵のこの読み直し、語り直しの体験が本書との予想もしていなかったような、思いがけない “約束された出遭い” となることを願って――。


寄せられたコメント:

◉ 岩永氏にオーガナイズしていただいた『免疫学者のパリ心景』を読む読書会は、会議室の光を落として、参加者が矢倉先生の朗読の声を心静かに受けとめるという環境ですすめられました。もし会議室の外から部外者がその状況を眺めるとすれば、まるでオカルト集団が怪しげな集会を行っているかに見えたかもしれません。しかしそんなこととは根本的に違うのは、朗読のなかからそれぞれの心に浮かび上がってくる想いを互いに交錯させ、それを表現し合うことで自身のなかで考えを練り上げて、自分の考えを拡げていこうとすることです。

矢倉先生ご自身も、朗読をすすめるなかで、ご自身の著書であるのに、よくこんなに多彩な内容を筋道たてて書けたものだという感想を述べておられました。まさにそこに矢倉先生の「生き方としての哲学」が表出したのものであり、それこそが哲学の普遍性ではないのかと思った次第です。貴重な時間を持てたことを感謝いたします。











2025年4月25日金曜日

春のカフェ/フォーラムシリーズに寄せられたコメント(1)

































今日から何回かに分けて、春のカフェ/フォーラムシリーズの内容と寄せられたコメントを読み直し、その営みを改めて振り返ることにした

第1回は、3月4日に開かれた第11回ベルクソンカフェについて紹介したい

テーマ:マルセル・コンシュの哲学――2006年のインタビュー記事を読む――

会の要旨:

ベルクソンカフェでは、フランス語のテクストを読み、哲学することを目指しています。テクストは、わたしが関心を持っている現代フランスの哲学者マルセル・コンシュMarcel Conche, 1922-2022)の2006年のインタビュー記事(Philosophie Magazine)です。この中で、日本ではほとんど知られていないコンシュが「自然」「時間」「哲学と科学」「形而上学」などについてどのように考えていたのかが語られています。


寄せられたコメント:

◉ 昨日はベルグソンカフェにはじめて参加させていただきました。有り難うございました。マルセル・コンシュのPhilosohie Magazineのフランス語のインタビュー記事を読みながらコンシュの哲学に対する考え方を議論するという方式で、とても充実した内容で時間があっという間に過ぎていました。

コンシュの哲学と宗教に対する独自の見解、科学と哲学の違い、時間に対する考え方、行動と活動の意味、モラルとエティックスの違い、そして私の課題でもある真理としての自然とは何か、さらに真理と幸福について、死に対する観かたと話題は多岐に亘りました。テキストの中で私の印象に残ったコンシュの言葉は「自然の存在は、世界の把握を直接的なものにします。それは「主体」とか「表象」とかいう概念を無意味にします」でした。

マルセル・コンシュの『形而上学』の翻訳を始められている由、早い刊行を楽しみにしています。さらには、その本を題材にまた皆様と議論が出来れば、もう一段深い現代哲学の理解につながるのではないかと個人的にはそれを楽しみにしています。貴重な時間をありがとうございました。











2025年4月23日水曜日

ロバート・ライシュとジョーゼフ・ウェルチ



今朝はロバート・ライシュさんの駄弁りを聞くところから始まった

前々回の大統領選挙の時にも何度か見た記憶がある

鋭い観察眼と語り、ユーモアのセンスが垣間見える対談には教えられることが多かった

今回もアメリカ人ならではの物おじしない若手との掛け合いが面白いだけではなく、いろいろな考えが巡っていた

中心は、ハーバードと中国と最高裁という巨大な組織に対するトランプの態度の分析であった

ハーバード大学がトランプの要求を拒否したことを受けてのことなのだろう

詳しくはビデオをご覧いただくことにして、ここではその中にあった一つのエピソードを紹介するにとどめたい


それは、赤狩りの嵐が吹き荒れた時の公聴会での出来事である

番組の中でもその場面が流れていたが、ジョーゼフ・ウェルチという法律家の行動であった

彼は同じ事務所に所属していた若い法律家と共産党との関係をマッカーシーに執拗に問い質される

それに対して、ウェルチはこう言い放った

「上院議員。もう十分です。あなたはついに良識(decency)を失ってしまったのですか」

この発言から赤狩りの潮目が変わったと言われている

この行動に対してライシュが賞を与えたいと発言したのを見たウェルチの孫娘が、微笑ましい写真とともに手紙をくれたという

ちょっとした良い話と言ってもよいだろう

今日もよいスタートが切れそうだ


ところで、このビデオが現れたのは、数日前にカリフォルニア大学バークレー校でのライシュさんの演説を見たからだろうか

アクティブに社会に関わるご老人である