2025年10月1日水曜日

改めて、ブログ「フランスに揺られながら」から20年


























すでに触れているが、最初のブログ「フランスに揺られながら」のプラットフォーム goo のサービスが11月で終了なるとのことで、5月に Hatena Blog に記事を移した

このブログを始めたのはフランスに渡る2年前の2005年2月なので、今年で20年が経過したことになる

当時は気づいていなかったが、それはわたしの思索生活の始まりを意味していた

今振り返ると、この20年は一つの塊としてそこにある

もう少し具体的に言うと、それ以前のように出来事が下の方にどんどん堆積していくというイメージではなく、一つの同じ平面に散らばっているという感じなのである

そのため、視点を少しだけ上の方に移動すれば、その全体を眺望できるという状態になっている

過去が埋もれてしまわないとも言えるだろう


トルストイ(1828-1910)は、意識的に生活するようになってからその人間の人生が始まると言った

もしそうだとすれば、わたしはやっと成人したことになる

随分と遅い誕生ではあったが、それを支えていたのがブログ「フランスに揺られながら」だとすれば、感慨深いものがある

幼少期の記録がそこにあるとも言えるのだが、基本となる考えの芽はすでにそこに表れているような気がしていた

Hatena Blog は読みやすいので、折に触れて読み返し、確認したいものである











2025年9月30日火曜日

今年も四分の三が経過、何思う

































気が付くと、今年もすでに四分の三が流れ去っている

ということなのだが、そのすべてを掬い上げているという感覚もある

一日が長く感じられるようになって久しい

それは、一日の終わりに振り返ってみると、朝に想像していたものとは全く別物の日になっているということを経験し続けるようなものである

朝と夜が同じ一日とは思えないという感覚である

いずれにせよ、今年も年初には思いもしなかったようなことに踏み出している

そして、想像もしていなかったようなことが起こっている

残り四分の一も相当長い時間である

注意深く観察しながら歩みたいものである

10月からサイファイカフェSHE札幌(今回で15回目を迎える)を皮切りに秋のカフェ/フォーラムが始まる

どんな発見があるのか期待しながら、徐に準備を始めることにしたい












2025年9月29日月曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(11)





今日から、第2章「近代の自然哲学.自然学者.自然主義者.実証主義者」に入りたい

この章は、次のような構成になっている

第1節 自然哲学と近代自然学

 1 自然学と数学

 2 数学的自然学と実験技術

 3 自然哲学と技術的思考

第2節 自然哲学と自然主義者

 1 自然の秩序の表象の探究

 2 生理学の研究.機械論と生気論

 3 古い自然主義と新しい自然主義

第3節 自然哲学と実証哲学

 1 自然の秩序と技術の進歩

 2 自然哲学と諸科学の実証哲学

 3 自然哲学と現代の新実証主義












2025年9月19日金曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(10)





今日は、アリストテレス(384-322 BC)の自然学と敵対する体系としての原子論と新プラトン主義がテーマのようだ

なぜ原子論と新プラトン主義が敵対するのか

それは、アリストテレスの中では結びついていた「自然哲学」と「自然の哲学」の絆を緩めているからである

すなわち、原子論の自然哲学は客観的明証性の上に立っているし、新プラトン主義の自然の哲学は観念論的・内省的明証性から生まれているのである

この点について、前者についてはルクレティウス(c. 99-55 BC)の『物の本質について』、後者についてはプロティノス(c. 205-270)の『エンネアデス』にある「自然、観照、一者について」を例に検討してみたい


自然哲学は、原理的に自己の理性の分析と自然の働きとの間に平衡を打ち立てようとする

例えば、アリストテレスは自然の働きを職人の活動に透写して説明する

擬人論的な側面である

これに対して自然の哲学は、擬人論的思考を遠ざけ、自然についての経験と一致させて(自然からの与件に合わせて)説明しようとする

物の本質について』には、自然と理性の擬人論的同化が最初から見られる

しかしアリストテレスとは異なり、そこから超越的で至上の自然についての経験への超出が見られない

自然は本質的に物体と物体が運動する空虚から成り立っていると考える

アリストテレスの有限で円環的なコスモスに対して、あらゆる方向で衝突し合う混乱した無限の宇宙像を描くのである

すべては盲目的進化の結果であり、そこでは偶然と必然が主役で、神を見ることはない


プロティノスと新プラトン主義の思想は、遥かに高く、遥かに遠いところから見る自然の哲学を現している

エンネアデス』では、自然の機械論的解釈をアリストテレスの技術主義として隔てている

自然は形相であって、形相と質料の合成物ではないとする

自然は手仕事によるのではなく、霊魂であるという唯心論的自然学に向かう

事物が存在するのではなく、精神的生の運動が存在する

観照する主観しか存在しないのである

プロティノスにおいて、自然はどう解釈されるのだろうか

彼は答える
自然とは、沈黙の、だがいくらか曖昧な観照である。なぜなら、自然についての観照とは別の、またそれよりもっと明確な観照があるからである。
より明確な観照とは、霊魂が知性的秩序を観照することによって成し遂げる観照だという

自然が質料の中に映る夢のように見えるのは、この観照の下層においてである

そして、この層の反映を抽象すれば、あらゆる実在を欠いた場所しか残らないという


プロティノスによれば、行動は決して観照の延長や補足物ではなく、それはむしろ観照の「衰弱」を意味している

彼は言う

「観照が人間のうちで衰弱する時こそ、人間は行動に移る」

わたしはいかなる図形も引かないが、「わたしが観照すると、物体の線はあたかもわたしから落ちるかのように現実化する」

観照こそ、人間の最高の営みであり、それは生成的な力を持つと言いたいようである

これで第1章が終わったことになる







2025年9月17日水曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(9)





これまで見たように、アリストテレス(384-322 BC)の自然学の体系内部には、探求者の「自然哲学」と理論家の「自然の哲学」が同居し、そうあることを理想としていた

しかし、彼の後継者や中世のアリストテレス学徒はこの課題を成し遂げるすべを知らなかった

彼らの中では、「自然哲学」と「自然の哲学」の間に亀裂があり、2つの学問の間の調和は消失していくのである

中世文明が確立した時期を見ると、ギリシア・ローマの自然主義の伝統を継承するロバート・グロステスト(c. 1175-1253)、ロジャー・ベーコン(1214-1294)、ヴァンサン・ド・ボーヴェ(c. 1184/1194–c. 1264)、アルベルトゥス・マグヌス(c. 1200-1280)などの探究者群が見られる

彼らは明晰な観察者であり貪欲な経験の蒐集者ではあったものの、認識の分散を克服して体系的全体へと統合させることには興味を示さなかった

しかし同時代に真の哲学的精神を発揮したのは、スコラの神学者や形而上学者の一派であった

中でも著名なのは、トマス・アクィナス(c. 1225-1274)である

しかし、彼の興味は神学であり、彼が付きあっていた科学は、モンテーニュ(1533-1592)に言わせれば、千年以上昔の書物の中の死んだ科学であった

「自然の哲学」が実験的探求から断ち切られていたのである

聖トマスの著作を見ると、「自然の哲学」に帰せられる形相性を通しての解析よりもはるかに多くの質料性において考察されている

「自然の哲学」の考察――原理と原因のレベルにおける世界の出来事の考察――を止めるのである

ガリレイ(1564-1642)の『新科学対話』(1638)においても哲学者を皮肉っている










2025年9月16日火曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(8)



今日は、「第一動者」(不動の動者)についてである

アリストテレス(384-322 BC)の世界において、自己自身で可能態から現実態に移行するものは何もないとすれば、動いているものは他のものによって動かされていなければならない

しかし、このような原因と結果の連鎖を際限なく遡ること(無限後退)ができない

そこから、形なく、動かず、永遠で、その衝撃が宇宙の果てまで伝わる「第一動者」が想定されることになる

 アンバシェは言う

運動と変化についての感覚的経験に出発点を置きながらも、形而上学的分析は感覚的経験を、経験的特殊性を通してではなく、「存在としてのかぎりにおいて」われわれに把捉させる

ここは「科学の形而上学化」を考えるうえでも重要なところだと思うが、具体的にどういうことを言っているのだろうか

最初はあくまでも経験から出発する

そこから明らかになったことを個別の経験的レベルに留めるのではなく、その存在のレベルにおいて成り立つ構造や法則に思考を飛躍させるのが形而上学である、と言いたいのだろうか

それが、不動の動者に至った思考過程だということなのだろうか


天体論』の「自然哲学」が観察のデータと数学的表象においてしか考察しないの対して、「自然の哲学」は第一動者を一種の世界霊魂という形で盲目的必然性として把握するところで満足する

「形而上学」は、それが神学であるがゆえに、第一動者の存在そのものにまで到達する

形而上学者は、自然学的事実や機構、あるいは自然学者の第一動者以上のもの――天界と自然全体を経巡っているのは、渇仰と欲望の徴表のような何かである、というような――を見るという

自然とすべての自然的存在によって住み慣らされた領域の外へわれわれを導き出すのである


アンバシェは次のようにアリストテレスの思想をまとめる

形而上学者の宇宙の原理は「純粋の現実態」であり、すべての存在がそれを渇仰する。それは自己自身の内に自己の対象を見出す至福で単独な思惟である。

宇宙の原理は純粋の現実態であり、思惟だと言っている

これはどういう意味なのだろうか

現実態とはすでに完結してしまったものなので、他のものによって動かされることがない

むしろ相手に働きかけるもの、相手を引き付けるもので、それは真善美のような憧れの対象になるものでなければならない

そのような憧れの対象の在り方は、自己充足した思惟、自分に閉じた至福の思惟に他ならないという

宇宙を動かしている原理は、このような思惟だと言いたいようだ

驚くべき思考の羽ばたきである






2025年9月15日月曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(7)



















生物学的研究のおかげで、第三の要素が「自然の哲学」に入ってくる

生について、記述的・観察できる特性を考察するのではなく(それは「自然哲学」の仕事である)、原理や原因のレベルで分析することが課題になる

アリストテレス(384-322 BC)は、生の自然的原理を霊魂(プシュケー)であるという

最も初歩的な霊魂は、栄養摂取的な生を営む上で基底にあるようなもの

次に動物の感覚的霊魂があり、五感を通して受け取るもののほかに、快楽、苦痛、嫌悪、欲望を感じる能力も持っている

さらに、想像や記憶を持つ動物もおり、人間に見られる最高の能力は知性あるいは理性である


そのうえで改めて、アリストテレスにとって 自然学とは「自然的な運動や変化をもつ存在の研究」であり、自然的な存在は「質料」(ヒューレ)と「形相」(エイドス)から成り立つ

霊魂を神学的なものではなく自然学の対象とし、自然体としての生命存在の原理 として理解されると考えたのである

彼の出発点は、自然的発動者としての霊魂が、自然それ自体のように、運動の原理であるはずだという考えである

しかし、自然的運動は有魂の存在には含まれないと言われる

霊魂は動かされず、動かす主動者であり、運動の原因である

霊魂は質料の形相化のレベルに位置づけるられる

目の霊魂は視覚を働かせることであるという言い方をする

霊魂は「自然的・有機的物体の第一の現実態」(生きているものに生命を与える第一の現実態)である

霊魂の本質的特徴として示されるのは、形相と目的になる














2025年9月14日日曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(6)





自然の定義の後に、自然活動を構成する四原因(質料因、形相因、作用因、目的因)に影響を与える条件 ≪宇宙論的カテゴリー≫ の考察が続く


1)偶然と必然: 

アリストテレス(384-322 BC)の自然学では、目的をもって(必然的に)運動・生成する
 
しかし、われわれの日常では目的もなく偶々起こることがある

アリストテレスは、一見すると目的論に反するこのような現象を説明する必要があった

この問題に対して、偶然を「秩序の外の混沌」ではなく、「秩序の中の副次的現象」として位置づけ、彼の考えの大枠を保持した


2)無限と空虚:

  デモクリトス(c. 460-c.370 BC)やエピクロス(341-270 BC)によれば、分割できない原子と空虚からこの世界は成り立っている

そこでは、いろいろな種類の原子が空虚の中を動く機械論的な世界が垣間見える

アリストテレスは、世界には「現実態における」無限はなく、「可能態としての」無限は存在するとした

さらに、そこには「現実的な」空虚も含まないとした

なぜなら、空虚の中では運動は無限の速度になるから

無限や空虚を認めると、目的論的世界観が揺らぐと考えたからだろうか


3)場所と時間:

アリストテレスの世界観の特徴は、次のように言うことができるだろう

第一に、重いものは低所に、軽いものは高所に向かうのが自然であるということと、第二に、存在は一続きの包まれるものと包むものからできているということがある

これにより、存在を限定し、そのものにとって自然な(目的に沿った)動きをすると理解していることが分る

アリストテレスの場所は「包むものの動かない第一の限界」と定義され、「不動の包むもの」である

これに対して、例えば液体を入れた瓶や船を運ぶ川は、「場所」というよりは「容れもの」になるだろう

時間は、運動と意識との依存関係で規定される

われわれの精神が全く動いていない(と思われる)時、あるいは周りの運動に気づかない時には時間が経過したように感じない

運動がない時には時間は存在せず、時間は運動の数によって測定できることになる

月下の世界の出来事は時間の中に包まれ、諸物体は普遍的な場所の中に包まれている
 
のちにプロティノス(c. 205-270)が言うような至福な、消滅を免れる存在は、時間の中に包まれてもいないし、時間で測定されもしない

最近のわたしの経験から想像するとすれば、これは絶対的幸福の状態と言えるのかもしれない










2025年9月11日木曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(5)































これまで、自然(天体、月下の世界、植物、動物)を事実と観察において見る「自然哲学」について簡単に触れてきた

今日から、それとは別の流れにある「自然の哲学」について見ることにする

前者が経験的探求に重きを置くが、こちらは諸現象の存在と運動についての説明に重点が置かれる

具体的には、8巻に及ぶ『自然学』と3巻から成る『霊魂論』である


自然哲学はコスモスの像から始まったが、自然の哲学は自然的世界の定義とともに始まる

アリストテレス(384-322 BC)によれば、「自然的」とは自身の中に動的自立性(運動・静止)の原理を有するもののことである

例えば、星の周転、軽い物体の上昇、重い物体の落下、動物の移動など

しかし、寝台とか外套などの類はすべて技術の産物であるので、自然的傾向を有しないとする

自然と技術の関係を見ると、自然も技術も目的のために作用する

この両者は、目的因によって説明されるのである

さらにアリストテレスは、鍛冶屋の技術と動物の発生を比較する

この両者は外的作用と内的作用という違いはあるが、質料に形相を与えて一つの目的を達成するという点では共通する

技術は自然を模倣すると言われる所以である


アリストテレスは、自然学(天文学、光学などを除き)と数学を乖離させる

自然に対する自然学的アプローチと数学的アプローチは両立しないという立場である

数学は感覚的特性を考慮に入れないが、自然学の対象は感覚的質料と形相を持ち、目的に向かう傾向がある

したがって、 後のガリレイ(1564-1642)やデカルト(1596-1650)がするような運動の評価や測定は自然学の問題にはならない

自然の哲学の目的は、個々の運動が宇宙的全体の調和にどのように寄与しているのかを探ることである









2025年9月6日土曜日

秋のカフェ/フォーラム・シリーズのご案内





秋のカフェ/フォーラムの予定が以下のように決まりましたので、お知らせいたします


◉ 2025年10月18日(土)
第15回サイファイカフェSHE 札幌

『免疫から哲学としての科学へ』を読む(3)
オーガニズムレベルと生物界における免疫を見渡す


◉ 2025年11月5日(水)
第12回ベルクソンカフェ

マルセル・コンシュの哲学(2)
『形而上学』の「まえがき」と「プロローグ」を読む
<このように変更になりました――2025.9.11>


◉ 2025年11月8日(土)
第15回サイファイフォーラムFPSS

(1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑨
カール・ポパーによるプラトン批判
(2)尾内達也: 時間論の起源とTime being-Labour being Theory
(3)久永眞一: 妄想と幻覚の正体?


◉ 2025年11月12日(水)
第13回カフェフィロPAWL

『免疫学者のパリ心景』を読む(2)
この旅で出会った哲学者とその哲学
ファシリテーター: 岩永勇二(医歯薬出版)


◉ 2025年11月14日(水)
第22回サイファイカフェSHE

『免疫から哲学としての科学へ』を読む(4)
免疫の形而上学


◉ 新企画です
2025年12月6日(土)
第1回サイファイ対話CoELP(哲学者との生命倫理対話)

講師: 中澤栄輔(東京大学)
生命倫理の問題を考える―いのちの終わりの倫理



興味をお持ちの方の参加をお待ちしております
よろしくお願いいたします












2025年9月5日金曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(4)






























今日は、昨日の「天」に続き、第二のテーマ「月下の世界」である

この世界は天とは違い、不滅でも永遠でもないわれわれが住んでいる世界である

四元素が関わる生成の宇宙である

すなわち、「乾」と結びついた「熱」は「」の本性を規定し、「熱」と「湿」の結合は「空気」を生む

「冷と「湿」の結合は「」を生み、「冷」と「乾」の混合から「」が生まれる

「水」の「冷」と「湿」が「空気」の「熱」と「湿」に変わる時、蒸気が発生する

つまり、水の「消滅」が空気の「生成」になる

原子論者によれば、実体の生成と消滅は、微粒子状のものの集結と離散が原因だとされる

実体は分解されると考えるが、同質なものにはならないとするアリストテレス(384-322 BC)の認識とは異なる

アリストテレスは、四元素のいずれでもない物体は「複合体」を形成するとした


第三のテーマは「生きもの」で、アリストテレスにとって主要な部分である

彼に比べると、リンネ(1707-1778)やキュビエ(1769-1832)などは一介の生徒にしか過ぎないとダーウィン(1809-1882)に言わしめたほどの高い評価を得ていた

例えば、ミツバチの研究、哺乳類の血管系の記述、胚の発達段階、シビレエイの形態論、さらに、脚と翼と鰭(ひれ)の間の相同や羽と鱗(うろこ)の相同を初めて指摘した

いずれにせよ、この広大な領野において2つの方向性を区別する必要があるという

彼は種の分類と形態論で頭角を現した

比較解剖学の創始者と言ってもよいだろう

最初に考察した最も広い2つの部門は有血動物と無血動物で、これは脊椎動物と無脊椎動物に対応するという

もう一つの方向性は、分類の根拠に発生の様式を取り入れようとするものであった

これによれば、高等な動物として胎生動物があり、次に卵生動物が来て、最後は自然発生に近い形で繁殖する動物である

生物学的活動が、生殖、感覚、運動という3つの相で現れることをアリストテレスは知っていた

この中の生殖を研究することで生命現象の本質に迫ることができると考えられる

ただ、質料因と作用因しか考慮せず、形相因と目的因を全く知らないのは誤りであるとした

いわゆる自然哲学を構成する経験的・記述的な著作のほかに、より徹底的・体系的に自然の原因について議論した著作が必要になる

ここで自然の哲学が登場することになる









2025年9月4日木曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(3)

 

















今日は、「『自然哲学』すなわち探求領野としての自然」という節を読むことにしたい

われわれが理解する自然哲学は、アリストテレス(384-322 BC)の世界における経験的委細を集めたものだという

彼の著作に表れた全体が自然哲学だと言いたいのだろうか

この世界観は、コペルニクス(1473-1543)やガリレイ(1564-1642)が現れるまでの二千年もの間有効だったことになる

その内容を知るために、『天体論』を検討する


まず天体だが、アリストテレスの世界は星を付着して回転する巨大な球の内部に包まれたものとして捉えられ、この球が天と命名された

星自体が運動するのではなく、天の24時間で1回転の運動が星を動かすのである

イオニアの自然学とは異なり、地上の物質から天ができているのではなく、第5元素のエーテルがその実体であった

このエーテルもまた、1887年のマイケルソン=モーリーの実験で否定されるまでの長きに亘ってわれわれの思考を縛り続けることになる

もう一つの特徴は、空虚を含まないことで、同心球が組み合わさり、その中心には不動の大地(地球)があるというものであった

運動は神によって最初の天に伝えられるが、それは物理的なものではなく、魅力と欲求によるもので、その衝撃は「知性」に見守られ、世界の果てまで伝わってゆくのである





2025年9月3日水曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(2)

 

















今日は、第1章「アリストテレスの体系における自然の哲学と自然哲学」を読むことにしたい

その前段として、ギリシア思想の2つの流れについて触れている

一つは『自然について』(ペリ・ピュセオース)という著作を著した人たちであり、もう一つはその視線を内に向け、道徳的考察を行った人たちである

後者には、ソクラテス(c.470-399 BC)以降の哲学者が含まれるだろう

前者には、世界の起源を水としたタレス(c. 624-c.564 BC)、無限の中に起源を見たアナクシマンドロス(c. 610-546 BC)、空気を原初的形態としたアナクシメネス(585-525 BC)、四元素説を唱えたエンペドクレス(c. 490-c.430 BC)、原子論を唱えたデモクリトス(c. 460-c.370)やレウキッポスなどがいる

彼らの仕事がアリストテレス(384-322 BC)の自然学の基礎となるのである


まず、アリストテレスの体系における自然学の位置が検討される

彼は知を3つの領域に分ける

第一に、自然学と数学、後に形而上学となる第一哲学などの理論的諸学

論理学がこの中に入っていないのは、他の学問に入る前段階で所有していなければならないとされたからだという

第二に、倫理学と政治学のような実践的諸学

第三に、有用なもの、美しいものの製造を目的とする制作的諸学

彼の自然学は、自然現象が具体的・感覚的様相を持っているゆえに、形而上学よりもわれわれに近い

自然について考察した作品を見る場合、2つの見方に対応するグループに分けることができるだろう

一つは、自然が一つの広大な探求領野とされ、その中の様々な部分(天界、月下の世界、植物、動物など)を踏査・記述するもので、その後も「自然哲学」と呼ばれるものと対応している

もう一つは、自然を探求領野とは見なさず、説明の原因・原理として考察するもので、「自然の哲学」の名に相応しい









2025年9月2日火曜日

第1回サイファイ対話 CoELP(哲学者との生命倫理対話)のお知らせ

















この秋のカフェ/フォーラムシリーズの新企画として、哲学者と生命倫理について議論するCoELP(Conversations on Ethics of Life with Philosophers)を始めることにいたしました

7月にこのアナウンスをしましたが、今回その概略が決まりましたのでお知らせしたします

詳細はこちらから


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 日 時: 2025年12月6日(土)14:00~17:00

講 師: 中澤栄輔先生(東京大学)

テーマ: 生命倫理の問題を考える――いのちの終わりの倫理

要 旨: 

本講演では、生命倫理の問題をどのように捉え、どのように考えるべきか、その基本的な視点を概説したうえで、「いのちの終わり」に関わる倫理的課題を中心に考えていきます。生命倫理を考える際には、医療技術の進展がもたらす影響、患者の自己決定と専門職の責任、そして制度と個人の価値観のあいだに生じる緊張など、複数の観点を行き来する姿勢が求められます。なかでも終末期医療の場面では、延命治療をどこまで行うか、患者の意思が確認できないときにどう判断するかといった、簡単には結論の出ない問いが浮かび上がります。こうした問いに向き合うときには、倫理原則に即して考えるのみならず、関係性の中で支えられる意思決定、そのための対話の積み重ねが重要になってきます。医療倫理において「正解」が得られない場面は少なくありませんが、そのなかでどのように「よりよい判断」を模索するかという姿勢こそが問われているのではないでしょうか。本講演では、こうした視点から「生の終わり」をめぐる倫理的課題について皆さんとともに考えていきたいと思います。 

 

会 場: 東京ウィメンズプラザ 2F 第2会議室 B


〒150-0001 東京都渋谷区神宮前5-53-67
☎ 03-5467-2377


参加を希望される方は、she.yakura@gmail.com(矢倉英隆)までお知らせください

よろしくお願いいたします












2025年8月31日日曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(1)



























これから、半世紀前の本『自然の哲学』に目を通すことにした

モントリオール大学やチュニス大学の教授を務めたフランス人哲学者ミシェル・アンバシェ(Michel Ambacher, 1915-1982)による著作である

この本でアンバシェは、「自然哲学」と「自然の哲学」を峻別している

序論において、ガリレイ(1564-1642)、ニュートン(1642-1727)、コント(1798-1857)、ダーウィン(1809-1882)の流れにある「自然哲学」に対して、ライプニッツ(1646-1716)、バークリー(1685-1753)、シェリング(1775-1854)、ヘーゲル(1770-1831)、ベルクソン(1859-1941)の流れにあるものを「自然の哲学」としている

前者は自然を包括的、客観的に受け入れる科学者の態度にも通じるものであるのに対し、後者はドイツロマン派の "Naturphilosophie"(自然哲学)のように、機械論的な見方に質的・直感的要素を回復するものだという

この分類から見ると、わたしの場合、「自然哲学」から出発して「自然の哲学」の方向に進みたいと考えているようである

しかし、科学での時間が長かったこともあり、その枠から大胆に出るためにはかなり時間がかかりそうな予感がする

いずれにせよ、アンバシェの言う「自然の哲学」に向かうためのヒントを求めて読み進むことにしたい

第1章では、このような枠組みが、アリストテレスにおいては対立することも融合することもなく、共存していたことを示すようである









2025年8月29日金曜日

ピエール・アドーの古代哲学分析を読む


























このところ、ベルクソンカフェについて振り返っていた

カフェ開店から5回に亘って取り上げたピエール・アドー(1922-2010)のセクションをやっと終えることができた

一日にかける時間に限りがあるためか、一か月かかったことになる

カフェ/フォーラムのまとめもそうだが、短時間で終わらせるよりは、しばらくの間その題材と付き合うという心の状態が気に入ってきたようである

書く前よりは像が明確になってきたとは思うが、提示の仕方には更なる工夫をしてみたいものである

来週からアドーの次に取り上げたアラン・バディウ(1937-)に当たることになる

どのような展開になるのか、いつものように分らないが、こちらもひと月くらいは予定しておいた方がよさそうである



ところで、今日は午後から古い友人とのお茶があった

時間と場所が次々に変わるスリリングなスタートでどうなるのかと思ったが、現世における話題をいろいろ仕入れることができたのは幸いであった

こういう機会を得ると、我が生活はやはり天空に在ることを再確認することになる 

アドーによれば、古代哲学で重要になるのは宇宙的意識(conscience cosmique)だという

それは、宇宙という「全体」から見渡す普遍的な視点を獲得することにより身につくもののようである

毎日、天空に身を置いていると感じているのであれば、少しはその意識に近づいているのではないだろうか

そう思いたいところである

古代哲学についての概観が得られるようになると、わたしの生きる基盤になっている哲学のかなりの部分が古代からのものであることに気づく

ホワイトヘッド(1861-1947)ではないが、古代哲学の中に生きる上で重要になることが尽きているのではないか

とでも言いたい気分になってくる











2025年8月20日水曜日

もうそうなるのかというある気づき、あるいは時間というもの


































1989年から2007年までの18年間は東京で科学研究をしていた

2007年に思い立ち、フランスでの全的観想生活、言葉を換えれば隠遁生活に入った

そしていま、18年が経過しようとしていることに気づく

つまり、数字の年数を比較すれば、科学研究の時代と同じ期間、隠遁生活をしていたことになる

この事実を前にして、いろいろな感慨が巡る

科学研究をしていたのは、それほど長い間ではなかったのか

あるいは、そんなに長く隠遁生活の中にあったのか

ただ、時間の捉え方がこの間大きく変わってきたので、このような感慨は今のわたしにとって本質的なものではない

この変化の源を辿れば、2007年1月の山手線での閃きに突き当たる

「医学のあゆみ」のエッセイでも『免疫学者のパリ心景』でも取り上げたが、その時慌ててメモしたものには以下の言葉があった

いまを生きている自分

これまでに在ったいろいろな自分

普通は昔の自分を遠くに置いたまま

時には捨て去り、それとは別の自分を生きている

それが忙しく現実を生きるということかもしれない

しかし、それが最近変わってきているのではないか

一瞬そんな思いが過ぎった

それはこれまでに在ったすべての自分を現在に引き戻し

彼らと話をしながら生きている、あるいは生きようとしている
そんな感覚である
そのすべてを引き受け、そのすべてが求めるところに従って歩む
そうした方がより満ちた人生になるのではないか
そんな想いが静かに溢れてきた

この時に気づいた新たな空間がその後の年月を経てさらに広がり、茫洋としたものになってきた

包摂力を増したとでも言うのだろうか

それをできる限り拡大すれば、宇宙にもつながるものになりうるのではないか

そんな予感さえ生まれている

そのため、直線的に流れる時間の中にいた時にはあり得なかった、これまでの出来事がそのあたり一面に散らばっているというイメージなのである

そこには古い新しいがない

これまでの時間がひとところに集まっている、あるいは身の回りに広がっていると感じられるからだろう

それはなかなか良い感じなのである










2025年8月15日金曜日

ベルクソンカフェを振り返る



























ウィンドウズ10のサポートが10月で終わるとのニュースがどこからともなく入ってきた

今使っているパソコンはかなり長い間使っているので、そろそろ替え時かもしれない

ところで、このパソコンいつ買ったのだろうか、と記憶を辿ってみると、丁度10年前になることが分かった

今では遥か彼方の記憶の一断片に過ぎなくなっているが、当時は半年くらい重い気持ちで過ごしていた

2015年1月のブリュッセルでそれまで使っていたパソコンを盗まれたのであった

その時の記録が残っている

  記憶のクラススイッチ、あるいは「出来事」から創造へ(医学のあゆみ 255: 787-791, 2015)

その年の12月にスートゥナンスがあったので、哲学の領域での博士になってから10年ということも意味している

ただ、自分の中ではそのような長さを持った時間としては捉えられていないようである

外からは10年という時間に見えるこの満ちた内的経験について解きほぐすことも、これからのプロジェになりそうである



ところで、このところベルクソンカフェの「これまで」を振り返っている

現在、最初に取り上げたピエール・アドー(1922-2010)についてまとめようとしているが、意外に大変である

どこまで踏み込むのかという問題が付いて回るからだ

今回のプロジェはベルクソンカフェの営みを紹介するものなので、そこで読んだものを中心にまとめるという方向性で固まりつつある

他の哲学者として、アラン・バディウ(1937-)とマルセル・コンシュ(1922-2022)が控えている

このお二方についても同じ考え方で向き合うことになるだろう

現段階でどのようなものになるのかは想像できない

ただ、小冊子ではあるが自分に照らして読み進むことができるようなものにしたいという気持ちではいる
















2025年8月6日水曜日

第14回サイファイカフェSHE札幌のまとめ
















先週土曜に開催したサイファイカフェSHE札幌のまとめをサイトにアップした

免疫から哲学としての科学へ』で論じられている中から話題にしたことをできるだけ拾い上げるようにした

今回も、生物が如何に精巧なメカニズムに支えられているのかということを驚きをもって確認した

と同時に、それでも完璧な制御はできず(それが生物か)、いろいろな問題を生み出すけれでも、それに対応する方法も準備しているという目を見張るようなことが行われている

このような本を読み、生物の細部に入ることにより初めて見えてくる素晴らしき世界である

汲めども尽きぬ世界がそこに広がっている

次回も驚きの心をもって読み進みたいものである







2025年8月3日日曜日

読書会の意味、改めて
































昨日で今年の夏のカフェ/フォーラムシリーズを終えた

2つのカフェと1つのフォーラムであったが、2つのカフェとも東京と札幌における拙著『免疫から哲学としての科学へ』の読書会となった

読書会をやりながら感じていたのは、全くの想像ではあるのだが、この本を一人で読むだけでそこに書かれてある世界を掴むことはかなり難しいのではないかということであった

かといって、この読書会で補足しながら話していることを本の中に入れることにも無理があるように見える

膨大な本になる可能性があるからだ

今回の本に関しては、かなり細かい科学的事実を拾い上げ、事実の間の論理的なつながりを明確にすることに努めた

その理由は、この本の内容がこれからの省察の基礎になるものなので、それを最初に示しておくことが重要だと考えたからである

将来何らかの疑問や問題が出てきた時に戻るべき資料庫を用意しておくという意味もあった

また、最初からメッセージを掲げて進み、その背後にある事実を置き去りにするというやり方には与したくなかったからでもある

そのため、事実を把握するのにかなりの労力を要することになるが、その部分が著者による解説で軽減されるということがあるのではないだろうか

また、これからの読書会では、事実から思考を飛躍させるところも出てくるので、そのような部分でも著者の声はさらに参考になるのではないかと想像している


いずれにせよ、この読書会は以下の予定で続くことになっている

東京: 11月14日(金)「免疫の形而上学」

札幌: 10月18日(土)「オーガニズムレベルと生物界の免疫」

    2026年4月?日(土) 「免疫の形而上学」


興味をお持ちの方の参加をお待ちしております








2025年8月2日土曜日

第14回サイファイカフェSHE札幌、盛会のうちに終わる












今日は第14回のサイファイカフェSHE札幌の日で、拙著『免疫から哲学としての科学へ』の2回目の読書会であった

北の都といえども暑さは容赦をしてくれない中、7名の方の参加があり、充実した質疑応答があった

今回は、仮説の意義や自己免疫、共生、オーガニズムの問題について考えた

最近明らかになっていることは、我々は単独で存在していることはできず、あるいは実際に他の生物と共生関係を保ちながら生きている

開かれたプロセスとしての存在、関係性の中にあるわれわれの「生」という視点から思索を深めるための起点を得たような気分である

詳細なまとめは、近いうちにSHE札幌のサイトに掲載する予定である

こちらを参照していただければ幸いである


九鬼周造(1888-1941)に次の歌がある

一巻にわが半生はこもれども繙く人の幾たりあらむ 

創作者が感じるであろう孤独や空しさのようなものが窺える

その背後に、それでも書くのだという固い気持ちもあることを信じたいところではある

このような境地から見ると、今回のような会で拙著が丁寧に読まれる機会が得られることは至福と言ってもよいだろう

長いスパンでいろいろな方の中を通り過ぎることになるとすれば、嬉しい限りである


第3回の読書会は、10月18日(土)に開催予定です

詳細は追ってお知らせいたします

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております
















 







2025年7月28日月曜日

5度目の穐吉敏子さん

































昨夜、寝る前にテレビをつけると穐吉敏子(1929-)さんの特集が流れていたので最後まで観た

いつもと同じパターンだ

おそらく、これまでに何度か見ているものと重なるのではないかと思う

今回気づいたことはすでに記録されているものばかりであったので

以下に列記しておきたい


  Be kind to yourself(2016年4月3日)

  穐吉敏子さんとストア哲学(2020年3月21日)

  穐吉敏子さんの言葉、再び(2021年2月23日)



現在95歳で、まだ現役なのだろうか

これだけ偶然の出会いが重なると、どこかに必然の糸が交錯しているのではないか

彼女のあゆみを見て感じるところがあるのは、自分もアメリカで7年という時間を過ごしたことと無関係ではないだろう

今回も彼女の中にあるストア哲学に気づいたし、芸術家としての覚悟のようなものを再確認することになった

求めているところが高いところにある人である

そして、考え方が非常にシンプルである

いつも頭の中がすっきりする

本質に至るにはそれが大事なのかもしれない









2025年7月25日金曜日

第14回サイファイフォーラムFPSSのまとめ
























7月12日(土)に開かれた第14回サイファイフォーラムFPSSのまとめをサイトにアップした

今回の話題は以下の3題であった

 1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑧ プラトンと医学
 2)武田克彦: 神経心理学の方法
 3)市川 洋: 社会の中の科学と科学コミュニケーション

それぞれ全く関係のない内容になると思っていたが、まとめの段階でいろいろなつながりが見えてきて実に興味深い経験となった

次回はどのような演題が出てくるのかまだ分からないが、最後には今回のようなかそけき糸が見えてくることを期待したいものである



次回の第15回FPSSは、11月8日(土)13:00~17:00開催の予定です

多くの方の参加をお待ちしております








2025年7月18日金曜日

第21回サイファイカフェSHEのまとめ
















7月9日(水)に開催した第21回サイファイカフェSHEのまとめをサイトにアップした

免疫から哲学としての科学へ』の3回目の読書会のまとめということになる

 こちらから

「まとめ」とは銘打っているが、最近の傾向はまとめと言うより「再現」に近くなっている

変にまとめようとするのではなく、できるだけ具体的な内容を残しておこうという考えに変わってきたようだ

つまり、一次資料的な意味合いを持たせているのだろう

そういう資料がある方が、後々それをまとめるメタの思考をする際に有用になるのではないかと考えているのかもしれない


この読書会の最終回は、これまで明らかにされた科学的事実から想像を広げ、「免疫の形而上学」と題して、11月14日(金)18:00~20:30、恵比寿カルフールにて開催予定です

奮って参加していただければ幸いです

よろしくお願いいたします







2025年7月16日水曜日

2つの意識レベルの差異が何をもたらすのか






猛暑の東京から当地に戻ったが、天国である

あの暑さだけで心身がかなり消耗していたようだ


さて、天国という言葉には2つの意味がある

一つは、今の時期、人間が暮らす環境とは思えないような猛暑に比べると圧倒的に過ごしやすいという意味での天国である

もう一つは、意識のレベルが違うということ

ここにいる時には意識が内的世界の底の底まで下りていき、現世が非常に遠くなり、現実世界に働きかけるのにかなりの精神的労力が必要となる

あるいは、意識が天空に上り、現実世界が遠く離れているために同じ症状が出ているとも言えるだろう

天空に在ると言えば、イデアの世界を想起させる

それに対して、東京では意識のレベルが底から少し上がっているように感じる

そのため、現実世界への働きかけが比較的容易になっているようだ

以前であれば、これにフランスの世界が加わっていた

そこでは、日本の日常的な世界が消えていくので、イデア世界の純度がさらに増すという印象で、捨て難いものがあった


いずれにせよ、この意識レベルの差異が一体何をもたらしてくれるのか

どのようなことに気づかせてくれるのか

興味深い問題である

これからも注意深く観察を続けたいものである











2025年7月12日土曜日

第14回サイファイフォーラムFPSS、盛会のうちに終わる












このところの猛暑に比べると、比較的凌ぎやすい一日であった

本日は、14回目になるサイファイフォーラムFPSSが日仏会館で開催された

プログラムは、以下の通りであった

(1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑧ プラトンと医学

(2)武田克彦: 神経心理学の方法

(3)市川 洋: 社会の中の科学と科学コミュニケーション

要旨は、こちらから


欠席者が3名で、参加されたのは9名(若手が2名、内1名は初参加)であった

若い血(知)が注入されると、やはり会は活性化するように感じた

これからも新しい参加があることを願っている

議論はゆったりとしたペースで進んだが、問題点については触れることができたのではないだろうか

落ち着いてからまとめをする予定である

FPSSのサイトを訪問いただければ幸いである























2025年7月11日金曜日

第1回サイファイ対話 CoELP のお知らせ




























サイファイ研究所ISHEでは新しい活動として「サイファイ対話 CoELP」を始めることにいたしました

この会は「哲学者との生命倫理対話」(Conversations on Ethics of Life with Philosophers)の名が示すように、人間の生を取り巻く倫理的な問題について哲学者、倫理学者の方々と議論するものです


第1回の会合を以下の要領で開催する予定です

 日時: 2025年12月6日(土)14:00~17:00

 会場: 決まり次第お知らせいたします

 テーマ: 生命倫理の問題を考える――いのちの終わりの倫理

 講師: 中澤栄輔先生(東京大学大学院医学系研究科・医療倫理学分野)


会の詳細は、こちらをご覧ください

会の趣旨にご理解をいただき、積極的に参加していただければ幸いです

よろしくお願いいたします




 







2025年7月10日木曜日

高村光太郎の「パリ」


























わたしにとっての2番目のブログになる「パリから観る」に高村光太郎(1883-1956)の詩があった

以下に転載したい



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 パリ


私はパリで大人になった。

はじめて異性に触れたのもパリ。

はじめて魂の解放を得たのもパリ。

パリは珍しくもないような顔をして

人類のどんな種族をもうけ入れる。

思考のどんな系譜をも拒まない。

美のどんな異質をも枯らさない。

良も不良も新も旧も低いも高いも、

凡そ人間の範疇にあるものは同居させ、

必然な事物の自浄作用にあとはまかせる。

パリの魅力は人をつかむ。

人はパリで息がつける。

近代はパリで起こり、

美はパリで醇熟し萌芽し、

頭脳の新細胞はパリで生れる。

フランスがフランスを超えて存在する

この底無しの世界の都の一隅にいて、

私は時に国籍を忘れた。

故郷は遠く小さくけちくさく、

うるさい田舎のようだった。

私はパリではじめて彫刻を悟り、

詩の真実に開眼され、

そこの庶民の一人一人に

文化のいわれをみてとった。

悲しい思いで是非もなく、

比べようもなく落差を感じた。

日本の事物国柄の一切を

なつかしみながら否定した。


(「暗愚小伝」 より)










2025年7月9日水曜日

第21回サイファイカフェSHEで免疫を考え直す














今日は第21回のサイファイカフェSHEを開催し、拙著『免疫から哲学としての科学へ』を読みながら、免疫というものについて考えた

お忙しい中、また猛暑の中、お集まりいただいた皆様には改めて感謝したい

お陰様で、充実した議論ができたのではないだろうか


今日具体的にやったことは、前回積み残した第2章の最後の節「オーガニズムとは」から始めて、第3章「オーガニズムレベルの免疫システム」、さらに第4章の生物界における免疫システムを概観するところまでを読んだ

第4章の残りの3節は時間切れで、次回に回すことになった

今日の全体を通しての印象は、免疫なる機能が生物界に広く存在していること、その意味では生命の分布と重なること、また免疫機能は生体全体で担われていること、免疫内のサブシステムとしてこれまで考えられていた自然免疫と獲得免疫の境界もぼやけてきたことなど、視野を全体に広げることが迫られているということであった

免疫システムの捉え方も言葉の使い方も考え直さなければならない時期に来ているように見える

詳細については、近いうちに専用サイトにまとめる予定である

そちらを参照していただければ幸いである


なお、最終回の読書会は11月14日(金)の開催予定で、免疫の形而上学について議論することになっている

皆様の参加をお待ちしております

























2025年7月8日火曜日

カーネル・サンダースさんの顔とショパンの顔




























今日は午後から明日の拙著の読書会(第21回サイファイカフェSHE)の準備のために街に出た

おそらくアメリカ時代以来初めてになるのではないかと思われる店に、なぜか入ってみる気になった

何気なく前を見ている時、カーネル・サンダースさんの顔が浮き上がってきた

すでに知っているので改めてみる必要もないだろうと思っていた

しかし、これまでじっくり見たことがなかったことに気づいたのである

それからかなり長い間サンダースさんと対面しているうちに、この記事のための写真を撮っていた

不思議なこともあるものだ

ただ、このようなことはわれわれの日常に溢れているはずである

知ったつもりになっていることを、実は何も知らなかったということが、

わたしの関心領域にもこのようなことが山のように溜まっている


顔について同様の経験を以前にもしていたことを思い出した

フランスに渡って3年目の2010年正月、ショパンの写真をじっくり見ているうちにショパンだとは思えなくなったのである

その時初めて、ショパンの顔はこうだったのかと気づいたと言ってもよいだろう

その記録が残っていた

 ショパンの顔を初めて見る(2010年1月9日)