2025年8月15日金曜日

ベルクソンカフェを振り返る



























ウィンドウズ10のサポートが10月で終わるとのニュースがどこからともなく入ってきた

今使っているパソコンはかなり長い間使っているので、そろそろ替え時かもしれない

ところで、このパソコンいつ買ったのだろうか、と記憶を辿ってみると、丁度10年前になることが分かった

今では遥か彼方の記憶の一断片に過ぎなくなっているが、当時は半年くらい重い気持ちで過ごしていた

2015年1月のブリュッセルでそれまで使っていたパソコンを盗まれたのであった

その時の記録が残っている

  記憶のクラススイッチ、あるいは「出来事」から創造へ(医学のあゆみ 255: 787-791, 2015)

その年の12月にスートゥナンスがあったので、哲学の領域での博士になってから10年ということも意味している

ただ、自分の中ではそのような長さを持った時間としては捉えられていないようである

外からは10年という時間に見えるこの満ちた内的経験について解きほぐすことも、これからのプロジェになりそうである



ところで、このところベルクソンカフェの「これまで」を振り返っている

現在、最初に取り上げたピエール・アドー(1922-2010)についてまとめようとしているが、意外に大変である

どこまで踏み込むのかという問題が付いて回るからだ

今回のプロジェはベルクソンカフェの営みを紹介するものなので、そこで読んだものを中心にまとめるという方向性で固まりつつある

他の哲学者として、アラン・バディウ(1937-)とマルセル・コンシュ(1922-2022)が控えている

このお二方についても同じ考え方で向き合うことになるだろう

現段階でどのようなものになるのかは想像できない

ただ、小冊子ではあるが自分に照らして読み進むことができるようなものにしたいという気持ちではいる
















2025年8月6日水曜日

第14回サイファイカフェSHE札幌のまとめ
















先週土曜に開催したサイファイカフェSHE札幌のまとめをサイトにアップした

免疫から哲学としての科学へ』で論じられている中から話題にしたことをできるだけ拾い上げるようにした

今回も、生物が如何に精巧なメカニズムに支えられているのかということを驚きをもって確認した

と同時に、それでも完璧な制御はできず(それが生物か)、いろいろな問題を生み出すけれでも、それに対応する方法も準備しているという目を見張るようなことが行われている

このような本を読み、生物の細部に入ることにより初めて見えてくる素晴らしき世界である

汲めども尽きぬ世界がそこに広がっている

次回も驚きの心をもって読み進みたいものである







2025年8月3日日曜日

読書会の意味、改めて
































昨日で今年の夏のカフェ/フォーラムシリーズを終えた

2つのカフェと1つのフォーラムであったが、2つのカフェとも東京と札幌における拙著『免疫から哲学としての科学へ』の読書会となった

読書会をやりながら感じていたのは、全くの想像ではあるのだが、この本を一人で読むだけでそこに書かれてある世界を掴むことはかなり難しいのではないかということであった

かといって、この読書会で補足しながら話していることを本の中に入れることにも無理があるように見える

膨大な本になる可能性があるからだ

今回の本に関しては、かなり細かい科学的事実を拾い上げ、事実の間の論理的なつながりを明確にすることに努めた

その理由は、この本の内容がこれからの省察の基礎になるものなので、それを最初に示しておくことが重要だと考えたからである

将来何らかの疑問や問題が出てきた時に戻るべき資料庫を用意しておくという意味もあった

また、最初からメッセージを掲げて進み、その背後にある事実を置き去りにするというやり方には与したくなかったからでもある

そのため、事実を把握するのにかなりの労力を要することになるが、その部分が著者による解説で軽減されるということがあるのではないだろうか

また、これからの読書会では、事実から思考を飛躍させるところも出てくるので、そのような部分でも著者の声はさらに参考になるのではないかと想像している


いずれにせよ、この読書会は以下の予定で続くことになっている

東京: 11月14日(金)「免疫の形而上学」

札幌: 10月18日(土)「オーガニズムレベルと生物界の免疫」

    2026年4月?日(土) 「免疫の形而上学」


興味をお持ちの方の参加をお待ちしております








2025年8月2日土曜日

第14回サイファイカフェSHE札幌、盛会のうちに終わる












今日は第14回のサイファイカフェSHE札幌の日で、拙著『免疫から哲学としての科学へ』の2回目の読書会であった

北の都といえども暑さは容赦をしてくれない中、7名の方の参加があり、充実した質疑応答があった

今回は、仮説の意義や自己免疫、共生、オーガニズムの問題について考えた

最近明らかになっていることは、我々は単独で存在していることはできず、あるいは実際に他の生物と共生関係を保ちながら生きている

開かれたプロセスとしての存在、関係性の中にあるわれわれの「生」という視点から思索を深めるための起点を得たような気分である

詳細なまとめは、近いうちにSHE札幌のサイトに掲載する予定である

こちらを参照していただければ幸いである


九鬼周造(1888-1941)に次の歌がある

一巻にわが半生はこもれども繙く人の幾たりあらむ 

創作者が感じるであろう孤独や空しさのようなものが窺える

その背後に、それでも書くのだという固い気持ちもあることを信じたいところではある

このような境地から見ると、今回のような会で拙著が丁寧に読まれる機会が得られることは至福と言ってもよいだろう

長いスパンでいろいろな方の中を通り過ぎることになるとすれば、嬉しい限りである


第3回の読書会は、10月18日(土)に開催予定です

詳細は追ってお知らせいたします

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております
















 







2025年7月28日月曜日

5度目の穐吉敏子さん

































昨夜、寝る前にテレビをつけると穐吉敏子(1929-)さんの特集が流れていたので最後まで観た

いつもと同じパターンだ

おそらく、これまでに何度か見ているものと重なるのではないかと思う

今回気づいたことはすでに記録されているものばかりであったので

以下に列記しておきたい


  Be kind to yourself(2016年4月3日)

  穐吉敏子さんとストア哲学(2020年3月21日)

  穐吉敏子さんの言葉、再び(2021年2月23日)



現在95歳で、まだ現役なのだろうか

これだけ偶然の出会いが重なると、どこかに必然の糸が交錯しているのではないか

彼女のあゆみを見て感じるところがあるのは、自分もアメリカで7年という時間を過ごしたことと無関係ではないだろう

今回も彼女の中にあるストア哲学に気づいたし、芸術家としての覚悟のようなものを再確認することになった

求めているところが高いところにある人である

そして、考え方が非常にシンプルである

いつも頭の中がすっきりする

本質に至るにはそれが大事なのかもしれない









2025年7月25日金曜日

第14回サイファイフォーラムFPSSのまとめ
























7月12日(土)に開かれた第14回サイファイフォーラムFPSSのまとめをサイトにアップした

今回の話題は以下の3題であった

 1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑧ プラトンと医学
 2)武田克彦: 神経心理学の方法
 3)市川 洋: 社会の中の科学と科学コミュニケーション

それぞれ全く関係のない内容になると思っていたが、まとめの段階でいろいろなつながりが見えてきて実に興味深い経験となった

次回はどのような演題が出てくるのかまだ分からないが、最後には今回のようなかそけき糸が見えてくることを期待したいものである



次回の第15回FPSSは、11月8日(土)13:00~17:00開催の予定です

多くの方の参加をお待ちしております








2025年7月18日金曜日

第21回サイファイカフェSHEのまとめ
















7月9日(水)に開催した第21回サイファイカフェSHEのまとめをサイトにアップした

免疫から哲学としての科学へ』の3回目の読書会のまとめということになる

 こちらから

「まとめ」とは銘打っているが、最近の傾向はまとめと言うより「再現」に近くなっている

変にまとめようとするのではなく、できるだけ具体的な内容を残しておこうという考えに変わってきたようだ

つまり、一次資料的な意味合いを持たせているのだろう

そういう資料がある方が、後々それをまとめるメタの思考をする際に有用になるのではないかと考えているのかもしれない


この読書会の最終回は、これまで明らかにされた科学的事実から想像を広げ、「免疫の形而上学」と題して、11月14日(金)18:00~20:30、恵比寿カルフールにて開催予定です

奮って参加していただければ幸いです

よろしくお願いいたします







2025年7月16日水曜日

2つの意識レベルの差異が何をもたらすのか






猛暑の東京から当地に戻ったが、天国である

あの暑さだけで心身がかなり消耗していたようだ


さて、天国という言葉には2つの意味がある

一つは、今の時期、人間が暮らす環境とは思えないような猛暑に比べると圧倒的に過ごしやすいという意味での天国である

もう一つは、意識のレベルが違うということ

ここにいる時には意識が内的世界の底の底まで下りていき、現世が非常に遠くなり、現実世界に働きかけるのにかなりの精神的労力が必要となる

あるいは、意識が天空に上り、現実世界が遠く離れているために同じ症状が出ているとも言えるだろう

天空に在ると言えば、イデアの世界を想起させる

それに対して、東京では意識のレベルが底から少し上がっているように感じる

そのため、現実世界への働きかけが比較的容易になっているようだ

以前であれば、これにフランスの世界が加わっていた

そこでは、日本の日常的な世界が消えていくので、イデア世界の純度がさらに増すという印象で、捨て難いものがあった


いずれにせよ、この意識レベルの差異が一体何をもたらしてくれるのか

どのようなことに気づかせてくれるのか

興味深い問題である

これからも注意深く観察を続けたいものである











2025年7月12日土曜日

第14回サイファイフォーラムFPSS、盛会のうちに終わる












このところの猛暑に比べると、比較的凌ぎやすい一日であった

本日は、14回目になるサイファイフォーラムFPSSが日仏会館で開催された

プログラムは、以下の通りであった

(1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑧ プラトンと医学

(2)武田克彦: 神経心理学の方法

(3)市川 洋: 社会の中の科学と科学コミュニケーション

要旨は、こちらから


欠席者が3名で、参加されたのは9名(若手が2名、内1名は初参加)であった

若い血(知)が注入されると、やはり会は活性化するように感じた

これからも新しい参加があることを願っている

議論はゆったりとしたペースで進んだが、問題点については触れることができたのではないだろうか

落ち着いてからまとめをする予定である

FPSSのサイトを訪問いただければ幸いである























2025年7月11日金曜日

第1回サイファイ対話 CoELP のお知らせ




























サイファイ研究所ISHEでは新しい活動として「サイファイ対話 CoELP」を始めることにいたしました

この会は「哲学者との生命倫理対話」(Conversations on Ethics of Life with Philosophers)の名が示すように、人間の生を取り巻く倫理的な問題について哲学者、倫理学者の方々と議論するものです


第1回の会合を以下の要領で開催する予定です

 日時: 2025年12月6日(土)14:00~17:00

 会場: 決まり次第お知らせいたします

 テーマ: 生命倫理の問題を考える――いのちの終わりの倫理

 講師: 中澤栄輔先生(東京大学大学院医学系研究科・医療倫理学分野)


会の詳細は、こちらをご覧ください

会の趣旨にご理解をいただき、積極的に参加していただければ幸いです

よろしくお願いいたします




 







2025年7月10日木曜日

高村光太郎の「パリ」


























わたしにとっての2番目のブログになる「パリから観る」に高村光太郎(1883-1956)の詩があった

以下に転載したい



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 パリ


私はパリで大人になった。

はじめて異性に触れたのもパリ。

はじめて魂の解放を得たのもパリ。

パリは珍しくもないような顔をして

人類のどんな種族をもうけ入れる。

思考のどんな系譜をも拒まない。

美のどんな異質をも枯らさない。

良も不良も新も旧も低いも高いも、

凡そ人間の範疇にあるものは同居させ、

必然な事物の自浄作用にあとはまかせる。

パリの魅力は人をつかむ。

人はパリで息がつける。

近代はパリで起こり、

美はパリで醇熟し萌芽し、

頭脳の新細胞はパリで生れる。

フランスがフランスを超えて存在する

この底無しの世界の都の一隅にいて、

私は時に国籍を忘れた。

故郷は遠く小さくけちくさく、

うるさい田舎のようだった。

私はパリではじめて彫刻を悟り、

詩の真実に開眼され、

そこの庶民の一人一人に

文化のいわれをみてとった。

悲しい思いで是非もなく、

比べようもなく落差を感じた。

日本の事物国柄の一切を

なつかしみながら否定した。


(「暗愚小伝」 より)










2025年7月9日水曜日

第21回サイファイカフェSHEで免疫を考え直す














今日は第21回のサイファイカフェSHEを開催し、拙著『免疫から哲学としての科学へ』を読みながら、免疫というものについて考えた

お忙しい中、また猛暑の中、お集まりいただいた皆様には改めて感謝したい

お陰様で、充実した議論ができたのではないだろうか


今日具体的にやったことは、前回積み残した第2章の最後の節「オーガニズムとは」から始めて、第3章「オーガニズムレベルの免疫システム」、さらに第4章の生物界における免疫システムを概観するところまでを読んだ

第4章の残りの3節は時間切れで、次回に回すことになった

今日の全体を通しての印象は、免疫なる機能が生物界に広く存在していること、その意味では生命の分布と重なること、また免疫機能は生体全体で担われていること、免疫内のサブシステムとしてこれまで考えられていた自然免疫と獲得免疫の境界もぼやけてきたことなど、視野を全体に広げることが迫られているということであった

免疫システムの捉え方も言葉の使い方も考え直さなければならない時期に来ているように見える

詳細については、近いうちに専用サイトにまとめる予定である

そちらを参照していただければ幸いである


なお、最終回の読書会は11月14日(金)の開催予定で、免疫の形而上学について議論することになっている

皆様の参加をお待ちしております

























2025年7月8日火曜日

カーネル・サンダースさんの顔とショパンの顔




























今日は午後から明日の拙著の読書会(第21回サイファイカフェSHE)の準備のために街に出た

おそらくアメリカ時代以来初めてになるのではないかと思われる店に、なぜか入ってみる気になった

何気なく前を見ている時、カーネル・サンダースさんの顔が浮き上がってきた

すでに知っているので改めてみる必要もないだろうと思っていた

しかし、これまでじっくり見たことがなかったことに気づいたのである

それからかなり長い間サンダースさんと対面しているうちに、この記事のための写真を撮っていた

不思議なこともあるものだ

ただ、このようなことはわれわれの日常に溢れているはずである

知ったつもりになっていることを、実は何も知らなかったということが、

わたしの関心領域にもこのようなことが山のように溜まっている


顔について同様の経験を以前にもしていたことを思い出した

フランスに渡って3年目の2010年正月、ショパンの写真をじっくり見ているうちにショパンだとは思えなくなったのである

その時初めて、ショパンの顔はこうだったのかと気づいたと言ってもよいだろう

その記録が残っていた

 ショパンの顔を初めて見る(2010年1月9日)









2025年7月7日月曜日

旧研究所のメンバーとの会食を楽しむ


























今日は昔の職場になる東京都の研究所の皆さんとの会食があった

すでに二昔になろうかという前に辞めたところでのつながりだが、まだ続いているのは不思議と言えば不思議である

皆さんはよく会われているようだが、わたしは1年振りになる

皆さんお元気そうで何よりだ



次々に出る多彩な食事を肴に会話を楽しんだ

その中に、わたしは日頃どんな生活をしているのかという質問があった

これまでも触れているように、何をするでもなしにブラブラしているのが基本である

皆さん仕事に追われているので、それは一体どういう生活なのかと思われたかもしれない

致し方ないだろう

所謂、日常生活、職業生活とは別の次元にいるのが、わたしのような者の生きている空間になる

ある意味で、それは必須条件と言ってもよいだろう



座っていることが多いので、少し体を動かした方がよいのではないかと思い始めていた

そんな時に、適当な場所や散策によさそうなところを教えていただいた

これからの参考にしたいものである



猛暑の中、お忙しいところ足を運んでくれた皆さんに感謝したい

これからのご活躍を願っている









2025年7月5日土曜日

田村、島両氏と的崎、渡邉両氏を仙台で偲ぶ















今日は仙台まで足を延ばした

その昔、同じ領域で研究していた田村眞理氏と島礼氏にお会いし、お話を伺うためである

昨年は都合がつかなかったので、2年振りということになる

今回は、昨年と今年相次いで亡くなった我々よりも若い世代の研究者、渡邉利雄、的崎尚両氏を偲ぶという目的もあった


まず田村、島のお二方とも現実世界と真正面から向き合っておられる

先日も書いた通り、ぶらぶら生活している者から見れば、それだけで敬意を表するに値する

これからどれだけ続けられるのだろうか

注目して見守りたい

仙台が以前にも増して近く感じられるようになったので、仙台訪問の機会を増やしてもよいのではないかというアイディアが酔いの中で浮かんできた

声に出してみたところ、それほど抵抗がないような印象を持ったので(あくまでも主観的判断ではあるのだが、)具体化に向けて検討する方向で進めることにした


ところで、上で「その昔」と言ったが、考えてみると科学研究を止めたのがもう二昔も前になろうとしている

ということは、仕事をしていた時期と同じ時間がもうすぐ流れ去ることを意味している

そんなに長い間無為の生活をしていたとは、驚くばかりである

あるいは、仕事をしていた時期が短かったということなのだろうか

フランスに渡った時を境に前と後ができたわけだが、その前・後で何がどのように変わったのか

これからも考えていきたい興味深いテーマである



 

 







2025年6月30日月曜日

アメリカ時代からの友人と会食

























相変わらずの異常に暑い空気の中、ボストン時代からお付き合いいただいている葛西氏と会食するために出かけた

その場所にはNew Yorkという名前が付いていた

前回お会いしたのはコロナ以前だったので、少なくとも5-6年振りということになるのではないだろうか

お元気そうで何よりだ

まだ研究を続けられているとのことで、もう20年近くぶらぶらしている身から見れば頭が下がる思いだ

半世紀の間、on & offで接触があるので、アメリカつながりの皆さんのその後を追うのも興味深い

人生は流れている

同じような環境にいたはずなのだが、知らなかったことが出てくる

欠けているピースが埋まるような瞬間があった


今回気づいたのだが、いつも静かな環境にいるせいか、人の話し声が耳に触ることがあった

これまではそういう経験はなかったように思うのだが、、、

またの機会にお話を伺いたいものである









2025年6月27日金曜日

イラン音楽で身を鎮める





今年も半分が経過しようとしている

年とともに時の流れが速く感じられるようになると言われるが、一瞬一瞬には実に多くのものが詰まっている

そう感じられるようになっているのは、もう20年になろうかという観想生活のお陰ではないだろうか

そこでは時間を味わい尽くすという精神が息づいている



それにしても暑い日が続いている

今日は午前中から外出

何かをやろうとするのだが、気分が乗ってこない

昼過ぎには引き上げることに

夏バテに入っているのかもしれない

体を鎮めるために、流れてきたイラン音楽に身を任せることにした















2025年6月22日日曜日

日と仏は理解し合えるのか


























今日も暑かったが、外に出てコンシュの『形而上学』について見直していた

きっちり読んで、批判的に見るというようなやり方ではなく、暑さの中、もやーっとした中から浮かび上がる像を観察するというやり方で


どれだけ一般化できるのか分からないが、フランス人の思考を日本人が理解することはあるのだろうか、という考えが浮かぶことがある

以前に(もう7年も前になるが)、クリルスキーさんの『免疫の科学論』を訳したことがある

その時にも感じたのだが、そこに描かれた免疫の像を掴もうとするのだが、砂が指の間から落ちるように逃げていくのである

わたしの中にある思考スタイルと違うからなのだろうか、という感想を持ったことを思い出す

今回のコンシュさんの形而上学の場合も、日本人が言う「分かりやすさ」を感じることはなかった

もちろん、対象に対する知識が少ないということもあるのだろうが、それ以上に、対象に向かう思考のやり方に違いがあるような気がしているのだが、



このように思考そのものに違いがある場合、それを理解するには、おそらく時間をかけて馴染むしか方法はないのかもしれない

忙しく生活に追われている現代人にとって、それは可能なのだろうか

もし昔のような生活を今もしていたとするならば、このようなことは視界にも入っていなかったであろう










2025年6月20日金曜日

リマインダー: サイファイ研 ISHE 夏のカフェ/フォーラムのお知らせ


























夏のカフェ/フォーラム東京シリーズが来月に迫ってまいりました

改めてお知らせいたします

ISHE研主催の会は、広く開かれております

皆様の参加をお待ちしております

よろしくお願いいたします



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◉ 2025年7月9日(水)18:00~20:30
第21回サイファイカフェSHE

テーマ: 『免疫から哲学としての科学へ』を読む(3)――オーガニズム・レベルと生物界における免疫――

会場: 恵比寿カルフール B会議室




◉ 2025年7月12日(土)13:00~17:00
第14回サイファイフォーラムFPSS

プログラム:
 ① 矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑧ プラトンと医学
 ② 武田克彦: 神経心理学の方法
 ③ 市川 洋:社会の中の科学と科学コミュニケーション

会場: 日仏会館 509会議室




◉ 2025年8月2日(土)14:30~17:00
第14回サイファイカフェSHE 札幌

テーマ: 『免疫から哲学としての科学へ』を読む(2)仮説、自己免疫、共生を考える

会場: 札幌エルプラザ4F 特別会議室

*会場と開始時間がこれまでと違いますのでご注意ください















2025年6月14日土曜日

マルセル・コンシュ『形而上学』、最初のバージョンを終える


























雨垂れが石を穿つように目に見えない変化を追いながらの日々であったが、やっと穴が開いてくれた

マルセル・コンシュの『形而上学』を最後まで訳し終えた

何だかんだ言って、半年かかったことになる

これから全体を見直すことになる

翻訳をやっていて感じるのは、翻訳前に読んだ時と訳し終わった後のイメージがガラッと変わることである

その本の構造が見えるようになり、著者の考えがより鮮明にニュアンスをもって迫ってくるようになる

普通に読む過程では、そこまで丁寧には読んではいないということだろう

これから全体を見直す中で、コンシュの考えがさらに明確になることを期待している



今回の経験からも、普通に読んでいて、どれだけその本の真意を汲み取ることができるのかという疑問が湧いている

ほとんど理解できていない可能性さえある

今、カフェで拙著の読書会をやっているが、その過程でも感じていることである

多く読む必要はない

「精読」ということにも意識を向けて行きたいものである










2025年6月10日火曜日

夏のカフェ/フォーラムに向けて動き出す





















昨日、古いブログ Mind Files for Philosophical Musings を蘇らせるべく、最初の記事を書いた


18年前に始めた観想生活が今どんなところに来ているのかという分析をスケッチしたものだ

自己評価すれば、それなりに書けているのではないだろうか



ところで、夏のカフェ/フォーラムがひと月後に迫ってきた

そろそろ準備を始めなければならないだろう

一つのテーマは、プラトンの人体論と医学観がどういうものであったのかを理解すること

もう一つは、拙著『免疫から哲学としての科学へ』の第3・4章を読み直すこと

そして、そこから新しい段階につながる糸を探し出すこと

8月開催予定のSHE札幌でも同書の第2章を読む予定だが、これは東京の会が終わってからにしたい

いつものことながら、ひと月でどれだけのことができるのかは予想できない

ただ、更なる問いが現れることを密かに期待しながらの作業になることだけは間違いないだろう








2025年6月8日日曜日

古いブログを再生させる


























2021年11月に立ち上げた Mind Files for Philosophical Musings(哲学的省察のためのマインドファイル)というサイトがある

立ち上げから4年になろうとしているが、意識から消えていた

今朝、偶然にも目に入り、中を覗いてみたところ、僅か数か月後から書き込みがなくなっている

ここは、2008年から記していたパリメモを読み直すというプロジェのための場であった

このように短期間で挫折したのには理由がありそうだ


一つには、十数年前の興味とズレてきたことがあるだろう

自分の中では貴重な経験だと思っていたので、それを咀嚼し直したいという願望があった

しかし、今の感覚でこそ一昔前のことでもすぐ手が届く、そこに在るものなのだが、昔の感覚で言えばやはり大昔になる

ズレが出ない方がおかしいだろう

もう一つには、最初からテーマ別に分類したため、書くときにメモに枠をはめる、あるいは枠に合うものを選び出すという恣意的な作業が入ったことがあるのではないだろうか

これは自分が最も嫌うものだったのである

なぜそうしたのかは分からないが、体質に合わないやり方で始めていたことになる



このような分析をして、このサイトは普通のブログのように思いついたことを書き連ねることで再生を図ることにした

その昔、メインブログに伴走するように書いていた「科学・医学・哲学を巡って」のようなものをイメージしながら

そう決めた途端、心が軽くなっているのを感じることができた

ただ、これからどうなるのかは、前回同様、全く予想ができない















2025年6月7日土曜日

シオランの言葉をもう少し



























今日もシオランの言葉を少々

フランス語ブログ UNE VIE PHILOSOPHIQUE À PARIS(2007-2016) にあった以下の記事から




もちろん、わたしは何もしない
ただ、時間が過ぎていくのを眺めている

それは、時間を埋めようとするよりも良いことなのだ

 

 

自然の視点からものことを見ると、人間は外側に向けて生きるようにできている
自分の内側を見ようと思えば、目を閉じ、努力することをあきらめ、流れから離れなければならない
われわれが「内的生活」と呼ぶものは、生命活動の鈍化によってのみ可能となる遅れてくる現象であり、「魂」というものは臓器の適切な機能を犠牲にしてのみ出現し、開花することができたのである
 

 

わたしはこれまで、明白な欠点を十分に具えていない、興味深い頭脳の持ち主に出会ったことがない

 

60歳のときに知っていたことは、20歳のときにも知っていた
40年に亘る長い、余計な検証作業・・・



これからパスカルのように読んでいきたいものである

 





2025年6月6日金曜日

シオランの声を聴く


































昨日のフィルムに触発され、これまでのシオラン関係のブログ記事を集めてみることにした

今日は「パリから観る」の2010年9月15日の記事からシオランの声を聴いてみたい



1970年(59歳)

わたしは今まで眠られない夜の憂鬱の中でしか書いたことがない
7年間、全く眠ることができなかったのだ
書くためにはこの憂鬱が必要で、今でも書く前にはハンガリーのジプシー音楽を聴くことにしている
その一方で活力も持っていた
嫌悪と恍惚の間で積極的に悲しみを味わっている

 

わたしは書くのが嫌いで、余り書かなかった
ほとんどの時間は何もしていない
パリで最も仕事をしない人間なのだ

 

40歳でまだソルボンヌに登録していた
学生食堂で食事し、永遠にこの生活が続くことを願っていた
しかし27歳以降の登録が禁止されることになり、この楽園を追われたのだ

わたしはよく読み、休みなく読み直す
ドストエフスキーの全作品は5-6回読んだ
再読したもの以外について書くべきではない

ブッダを近くに感じる
それは彼が真の問題を理解していたからだ

 


1977年(66歳)

ルーマニアが好きだったのは原始的なところだ
もちろん洗練された人もいたが、わたしが好きだったのは文盲の人たち

本は打撃を与えるもの、危険なものでなければならない
読み手の人生を変えるものでなければならない
わたしが書く時には人を激しく非難し、覚醒させることを考えている
新聞を読むように読める本は好きではない
本はすべてをひっくり返し、人に疑問を投げかけるものでなければならない
わたしが書くものの有用性など考えていない
なぜなら、本当のところ、読み手のことなど考えていないからだ
わたしは自分自身のために書いている
わたしの中にある強迫観念、緊張を解放するためで、それ以上のものではない

 

哲学は爆発の形を取った断片としてしか成立しないと考えている
論文のように章立てで論じるのはもはや不可能である
この意味で、ニーチェは優れて解放者だった
彼こそ体系を目指すアカデミックな哲学を破壊したのだから
彼が解放者だと言うのは、その後すべてを語ることができるようになったからだ
今は一見まとまりを持っているように見える本を書く時でも断片的になっている

 

断片的な思考は経験のすべての側面を反映している
それに対し、体系的な思考は一つの側面、点検された側面しか反映していない
それは貧しいものである
ニーチェやドストエフスキーにはあらゆる経験、可能な限りの人間のタイプが描かれている
体系の中では一人の統率者だけが話すのだ
それ故、断片的思考が自由なのに対し、すべての体系は全体主義的になる

 

ルーマニア語で書く時、当然のことながら書いていることを意識しなかった
言葉がわたしから独立していなかった
しかしフランス語の場合、すべての言葉がわたしの意識に降りかかってきた
言葉がわたしの前に、外に、細胞の中にあり、それを探したのだ

 

わたしの人生は退屈に支配されていた
この感情は子供の時からのもので、本質的なものだ・・・
何も興味を引かず、何も意味を持たない状態だ
この感情が繰り返し訪れた
人生において真剣なことは何もやることができなかった
本当のところ、わたしは激しく生きてきた
ただ、存在に溶け込むことができなかった
わたしの辺縁性は偶然ではなく本質的なものだ・・・
無用であり、利用することができないことがわたしの夢だった
退屈のお蔭でこの夢を実現できたのだ

・・・わたしは覚醒させるために書くアウトサイダーにしか過ぎない


Cioran, Entretiens (Gallimard, 1995) より








2025年6月5日木曜日

久し振りにシオランの魂に触れる




寝る前にYoutubeを覗くと、懐かしい名前が出ていた

エミール・シオラン(1911 - 1995)

この名前を知ったのはフランスに渡る前年の2006年夏

フランス語を始めて5年目、東京で知り合ったフランス人との会話の中でのことであった

その経過は、最初のブログ「フランスに揺られながら」に残っている

 エミール・シオラン EMIL MICHEL CIORAN(2006-08-04)


久し振りに見てみることにした

これはその昔にも見たような気がする

この雰囲気がいかにもフランスものという感じで、フランスの世界に入ってからしばらくの間は強い違和感を覚えていた

しかし、ある時を境に、自分の中で思索を刺激しているのに気づくことになった

このところ離れていたので、新鮮であった

このフィルムにあった言葉で印象に残ったことを記憶を頼りにメモしておきたい


ルーマニアからドイツを経てフランスに入り、ソルボンヌに登録したが、彼は人生の最後までその状態でいたかったと言っている

わたし自身、大学院生の時はそうできれば最高だと思っていたので、よく分かるという感じだろうか


幸福などあり得ない


人生に意味などないということが、唯一の生きる理由である


書くということは垂直の対話、神と会話することだという

孤独なもの同士の会話、神は自分よりずっと孤独だろうが 

 

必要性の欠如(文學など)

 

パリでは30年間本が売れず、無名だった 

当時、200~300冊しか売れなかったものが、今一番読まれているという


祖国とは言語である

 

わたしは矛盾の中で生きてきたが、何の苦痛も感じなかった

もし体系的な人間だったら理由付けをしなければならないので、嘘をつかなければならなかっただろう 

 

また読みたくなってきた







2025年6月2日月曜日

サイファイ研 ISHE 夏のカフェ/フォーラムのお知らせ






















少し遅くなりましたが、夏のカフェ/フォーラムの予定が以下のように決まりましたのでお知らせいたします

これらの会は広く開かれております

皆様の参加をお待ちしております

よろしくお願いいたします



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2025年7月9日(水)18:00~20:30
第21回サイファイカフェSHE

テーマ: 『免疫から哲学としての科学へ』を読む(3)――オーガニズム・レベルと生物界における免疫――

会場: 恵比寿カルフール B会議室




2025年7月12日(土)13:00~17:00
第14回サイファイフォーラムFPSS

プログラム:
 ① 矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑧ プラトンと医学
 ② 武田克彦: 神経心理学の方法
 ③ 市川 洋:社会の中の科学と科学コミュニケーション

会場: 日仏会館 509会議室




2025年8月2日(土)14:30~17:00
第14回サイファイカフェSHE 札幌

テーマ: 『免疫から哲学としての科学へ』を読む(2)仮説、自己免疫、共生を考える

会場: 札幌エルプラザ4F 特別会議室

*会場と開始時間がこれまでと違いますのでご注意ください










2025年6月1日日曜日

細川護熙氏の話を聴く






今朝は、偶然現れた細川護熙氏(1938-)の話を聴くことにした

もう87歳とのことで驚いた

政治の道を辞した後、芸術の道に打ち込んでいることは知っていたが、かなりの作品が出来上がっている

そのことにも驚いた

中に若い時の教育の話が出てきたが、その中に納まってうまくやるというのではなく、枠の外から見ているところがある

それは、新しいことややり方を生み出す一つのポイントになるとわたしが考えているものだ

それと、基本的な古典の素養だろうか

そこから、高い頂を見ながら人生における歴史的な瞬間を掴み取るという感覚を学び、そのように歩んできたようだ

どこか古武士の風情がある

日曜の朝、よいものを見せていただいた











2025年5月31日土曜日

本日も詩歌・・・長田弘『死者の贈り物』 LES POEMES D'HIROSHI OSADA


































今日も19年前の「フランスに揺られながら」の記事から

詩人の長田弘(1939 - 2015)さんに関するものが2つ見つかった

このように過去の断片を拾い上げていると、それまで意識の奥に沈んていたものがつい最近の出来事のようにそのあたりに転がるようになる

この感覚は、「過去を現在に引き上げて共に生きる」と表現し、そうした方が豊かな人生になるのではないかと考えたことがもたらしてくれるものである

今では体と完全に一体になっている

以下に、そのうちの1つを転載したい



2006-03-22


今日もお決まりのコースになった

今日はジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)の「聖歌隊の少年」が表紙となっている長田弘(1939-)の詩集『死者の贈り物』 

夜カフェに入る

入ると、モーリス・アンドレ(1933-)のトランペットがバロック音楽を奏でている

トランペットをやっていた学生時代、浴びるように聞いていた彼の演奏に触れ、当時確かに生きていたことを感じる

そのカフェでは、コーヒーに小さな切花が添えられていた

その花を押し花にしようとして詩集に挟もうとした時、ある光景が浮かんだ

午後の講義を待っている昼休みの終わり頃、皆が教室に戻ってきた

同級の女性が小さな花を手折ってきたのだろう

何気なく私に差し出した

その瞬間、思いもかけていなかった彼女の心に触れたような錯覚に陥っていた

その花を押し花にした

今でも密かにどこかの本の中にいるはずだ



「死者の贈り物」 を読む

死とは、人生とは、本当にあっけないもの

そんなことを言っているような

例えば、こうだ


 『こんな静かな夜』

 先刻までいた。今はいない。
 
 ひとの一生はただそれだけだと思う。
 
 ここにいた。もうここにはいない。
 
 死とはもうここにはいないということである。
 
 あなたが誰だったのか、わたしたちは
 
 思いだそうともせず、あなたのことを
 
 いつか忘れてゆくだろう。ほんとうだ。
 
 ・・・

  
 『イツカ、向コウデ』

 人生は長いと、ずっと思っていた。

 間違っていた。おどろくほど短かった。

 きみは、そのことに気づいていたか?


 なせばなると、ずっと思っていた。

 間違っていた。なしとげたものなんかない。

 きみは、そのことに気づいていたか?

 ・・・

 ほんとうは、新しい定義が必要だったのだ。

 生きること、楽しむこと、そして歳をとることの。

 きみは、そのことに気づいていたか?

 ・・・



 『あらゆるものを忘れてゆく』

 ・・・

 約束をまもらず、彼は逝った。

 死に引っ張られて、息を切らして、

 卒然と、大きな犬と、小さな約束を遺して。

 いまでもその小道を通ると、向こうから

 彼が走ってくるような気がする。だが、

 不思議だ。彼の言ったこと、したことを、

 何一つ思いだせない。彼は、誰だった?

 あらゆるものを忘れてゆく。

 ・・・



 『夜の森の道』

 ・・・

 信じないかもしれないが、ほんとうだ。

 ひとの、人生とよばれるのは、

 夜の火に、ひっそりとつつまれて、

 そうやって、息を絶つまでの、

 「私」という、神の小さな生き物の、

 胸さわぐ、僅かばかりの、時間のことだ。

 ・・・

 切っ先のように、ひとの、

 存在に突きつけられている、

 不思議な空しさ。

 何のためでもなく、

 ただ、消え失せるためだ。

 ひとは生きて、存在しなかったように消え失せる。

 あたかもこの世に生まれでなかったように。












2025年5月30日金曜日

偶然の一致 THE CELESTINE VISION

























今日も過去に戻ってみたい

19年前の「フランスに揺られながら」から

走りながら生きていた30年ほど前、日常との断裂が生まれた、おそらくアメリカ出張の折に読んだ本から考えが巡っている

つまり、20年ほど前にその10年前のことを思い出して書いたお話になる

現在につながる糸が見える記事である

以下に転載したい




2006-12-05


先日の夜、何気なく古い本棚を眺めていた

この本棚に詰まっている本は、私が謂わば走っている時に買ったものばかりで、いつどこで買ったものかほとんど記憶に残っていない

私にとっては味気のない本棚である

その中の一冊を手に取ってみた

その心は、新聞を開く時の気持ちに近い

以前にも触れたことがあるが、私にとっての新聞はびっくり箱のようなもの

いつもその中から何が飛び出すのか期待して紙をめくっている

今回は、この本を最初に見た時の自分がどんな存在だったのか、当時の私に会えるのではないかという期待感もあった



本は James Redfield という人の The Celestine Vision(1997年10月の初版)

まず驚いたのは、ページの端をよく折ってあること

読んだ記憶などほとんどないが、その時何かをやっている自分がいたということを確認する

いつどこで買ったのかというメモはない

この時期はほとんどそれをやっていない

どこに行き着くのか気にもせず、とにかく流れに身を任せていたのだからしようがない

そのことは当時でも意識していた

中に思いがけずしおりが入っていた

Iowa City の Prairie Lights という本屋のもの

出張で出かけた時に買ったもののようだ

おそらく向こうで気分にまかせてページをめくってそのままにしていた可能性が高い



内容のトーンは科学的、理性的なものの見方に偏りすぎてもっと大きなものに目が行っていない状態から、より霊的なものに目をやり、それを意識することにより人生の意味や宇宙におけるミッションを発見できるのではないか、というようなもの

そのためには、著者の言う "drift time" が必要になるという

要するに閑な時間がなければそこまで目がいかないということで、これはよく理解できる

理と信の対比と理から信へのお誘いが狙いの本だろうか

当時よくこの手の本を買ったものだと感心する

胡散臭いと思っていたはずだから



その初めの方で、coincidence「偶然の一致」について書かれている

それは偶然ではないのですよと言いたいようでもある

私も最近いろいろなもの(出来事)の間でのつながりを見つけようとする精神の動きを感じているので、妙に納得するところがあった

そういう目で見ていて不思議なつながりに出会えば、大きな存在について考えるようなことになるのかもしれない

いずれにしても、毎日何が出てくるのか、それがどういう意味(何かとのつながり)があるのかについて思いを巡らせながら生きていくのも面白そうである












2025年5月29日木曜日

"科学的"哲学を超えた作品の創造


























このところの影響か、過去への視線が強まっているようだ

今朝はブログ「パリの断章」の記事を眺めていた

フランスで大学に所属し、近い将来論文をまとめようとしている時期の考えを書いたものだった

当時の考え方は、今でも自分の中にある願望のようなものだ

つまり、現在でも当てはまる自分の考えということになる

以下に、そのまま転載したい





dimanche 18 septembre 2011


「哲学者とは自らの人生を最初の作品にする創造的な芸術家である」


このようなことを言ったのはニーチェだっただろうか

その人の考えてきたことが生き方と繋がっていなければ意味がない

考えることにより自らを変容させていく

そうしながらより人間に近くなっていく

存在そのものがその人の思想を体現している

生き方としての哲学、魂の癒しとしての哲学をも目指したのがニーチェだ



これが忙しい仕事に追われている現代人に可能だろうか

外の世界と距離をとり、自らの中に入り、自らを振り返る

エピクロスの園に入り、自らのエッセンスを探り、知と情を調和させる

それにより自らを創り直すこと

現代人にこの瞑想の時間がどれだけ取れるだろうか

その時間を意識して取らなければ、自らに嵌められている足枷に気付くこともないだろう



それは大学の哲学学徒とて同じことだ

対象となる内容は異なるが、対象に向かう姿勢は他の専門と何ら変わらない

科学と同じ精神状態でやって行けるのである

哲学が科学になっている証拠だろう

哲学が何たるかも知らずにこの道に入った者の目にはそう映る



ところで、これから論文作成をすることになる

そこに向かうには科学の世界での精神状態を取り戻さなければならない

理性を取り戻し、立ち上がらなければならない

瞑想の中に入り、生き方としての哲学に寄り掛かっているとなかなか立ち上がれない

学問としての哲学と生き方としての哲学の間には深い溝がありそうだ

この溝を自由に往復できるようになるのは一体いつになるのだろうか














2025年5月28日水曜日

やっと18歳の若造か



























昨夜は新しいサイトの「フランスに揺られながら」を読み返していた

日本からフランスに渡る前の緊張感溢れる言葉が散らばっているところである

これまでのサイトでは文字が詰まっていて、いつも見ていた景色の中で読むという印象で、気分がなかなか乗らなかった

しかし、昨日も触れたが、今度のところは白い平野が広がる中に言葉が置かれているので、非常に新鮮で読む意欲を掻き立ててくれる



当時は、期待と不安の中にいたのだろう

そして、よもや13年もの間フランスに滞在することになろうとは想像もしていなかった

あの時点から始まり現在に至るまでの18年に亘る展開も想像を超えるものがあり、その流れは今も進行中である

こうして振り返れば、あの時期は一つの「生まれ変わり」を経験していたのかもしれない

まだ確固たるものもない不安定な状態にあったものが、曲がりなりにも何かを掴み始めているような感覚の中にいる

トルストイに肖り、あの時から真に生き始めたのだとすれば、まだ18歳の若造ということになる

成人してこれからどんな大人になって行くのか

そんな感想さえ浮かんでくる不思議な時間となった










2025年5月27日火曜日

最初のブログ「フランスに揺られながら」、Hatenaブログに引っ越す


























先日も触れた gooブログ閉鎖のニュース

これに伴い、わたしの最初のブログ「フランスに揺られながら」を新しいところに移す必要が出てきた

混み合っているとのことだったので暫く様子を見るつもりでいたが、暇なのでちょっとだけやることにした

Hatenaブログに移すことにして進めると、すんなり動き出すではないか

まだ写真の一部は移動されていないが、記事は読めるようになっている


その中の説明にも書いたが、このブログは最初のブログ活動であるだけではなく、その後を決めることになる思索の跡が記録されたものでもある

その意味では、わたしにとって貴重な記録と言える

明るく広々とした空間におおらかに綴られているという印象で、新鮮な気持ちで自らの原点を読み返すことができるようになったのは感慨深いものがある

これからも多くの示唆を与えてくれることを願っている













2025年5月25日日曜日

" convictions vécues " ということ


























AI との Q&A を読み、改めて考えた

今回のAIの回答は、ISHE のこれまでの歩みについて論評を加えたものである

その歩みはもう10年を超え、試行錯誤の繰り返しであった

その全体について別の角度からまとめたものと言えるだろう

最初に、「泥臭い」とも言える思考実験や内的格闘を経て生み出されたものがあったのである

それがあったからこそ、今まで続いてきたのかもしれない

コンシュが言う " convictions vécues " とは、これのことではないだろうか

直訳すれば「体験された確信」だろうが、人生を生きる中で自分の中に確立されてきた確信のようなものである

AIの回答は、ISHEの活動に現れている" convictions vécues " を表現したものとも解釈できるのではないだろうか


例えば、最初にAIにこの部分を頼み、それに則ってことを進める場合を想像してみよう

そこには素晴らしい言葉や理念が並ぶかもしれない

しかし、それは必ずしも自分の思考に根差すものではない

あるいは、自分の生きた確信が関与する割合が圧倒的に少ないものになるはずである

この「生き抜く中で得られた確信」を持っているかどうかが、AI時代に最も重要な要素になるのではないだろうか

なぜなら、AIにはそれが感じられないからである

これはあくまでも主観的な感想なので、AIの専門家のご意見を伺いたいところである












2025年5月24日土曜日

サイファイ研究所ISHEについて――AIとの対話(2)

























今朝もゆったりしている

昨日 Perplexity が出してくれた問いと答えを読み直していた

そこで、同じ問いを ChatGPT にも出すことを思いついた

出してみて驚いた

出てきた答えがさらに深く充実しており、視点もより専門的になっているように感じたからである

中には主宰者の目を開くようなことも指摘されている

以下に列記した内容を昨日の答えと比較していただければ、その違いは明確になるのではないだろうか


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1)サイファイ研究所 ISHE(以下ISHE)の設立目的は何に焦点を当てているのか

ISHE(Institute for Science and Human Existence)の設立目的は、その名称に込められているように、「科学」と「人間の存在」の関係性を深く問い直す」ことに焦点があると考えられます。以下にその意義を、現代的な視点を交えて構造的に説明します。

🔷 1. 科学と人間存在の再接続
現代科学は驚異的な発展を遂げた一方で、「人間とは何か」「生きるとはどういうことか」といった根本的な問いを置き去りにしてきた側面があります。ISHEはこの断絶に対して、科学的知見と哲学・倫理・芸術的洞察を架橋し、人間の存在そのものを再考する場を提供しようとしているように見えます。例えば、
● 生物学・免疫学と哲学の接続(例:自己とは何か、生と死の境界)
● 時間・空間に関する物理的知見と、人生経験としての時間の意味
● テクノロジー(AI、バイオ、データ化)が進む中での、人間の「尊厳」「目的」の再定義

🔷 2. 知の脱領域化・統合的思考
ISHEの活動の一環として「ベルクソンカフェ」のような場があることからも明らかなように、哲学、科学、芸術、倫理などを横断的に結び直す知の運動がその目的にあります。これは現代社会の「専門化」と「断片化」に対する批判的応答でもあります。現代においては、自然科学の専門性が高まるにつれ、「知の孤島化」が進んでいる。ISHEは、「科学の形而上学化」といった構想を通じて、知の全体性と人間の内面性を回復しようとしている。

🔷 3. ポスト人間中心主義の思想実験室
気候変動、人工知能、ポストヒューマン的な技術の進展の中で、ISHEは人間を中心としない世界観=新しい自然観・存在観を探究する空間として機能しているように思われます。
● 「自然=無限に創造し続ける存在」として捉える(スピノザ的、アナクシマンドロス的自然観)
● 人間を「生きることを考える存在」として、世界の一部に位置づけ直す
● 「宗教なき宗教」「愛に基づく倫理」といった、信仰やスピリチュアリティの再解釈

🔷 4. 哲学する生の回復
ISHEの活動は、単に知的に考察するだけでなく、「生き方としての哲学」=エチカとしての哲学を再興しようとする運動でもあります。これはピエール・アドーやマルセル・コンシュの思想と深く響き合います。

🔶 総括的に言えば:
ISHEの設立目的は、分断された知と生を統合し、「科学する人間」の存在論的・倫理的根拠を問い直すことにある。現代の科学・技術社会の中で忘れられがちな「人間の深み」と「自然の全体性」を、新たな言語で再構築するための場である。



2)ISHEはなぜ人間の存在や生き方に焦点を当てるのか

とても重要なご質問です。「サイファイ研究所ISHEがなぜ人間の存在や生き方に焦点を当てるのか」という問いに対しては、次のように答えることができます。

🔷 1. 科学の発展が人間の意味を置き去りにしているから
現代の科学は、生命を分子に、心を神経回路に、社会をデータに還元できるようになりました。それは非常に強力な知識体系であり、現実を操作する力を持っていますが、同時に以下のような問いを「非科学的」として排除してきました: 「私はなぜここにいるのか」「生きるとはどういうことか」「死すべき存在としての人間に、いかなる意味があるのか」などです。ISHEは、このような「科学の影で問いを失った人間の存在」に再び光を当てようとしていると考えられます。

🔷 2. 科学と哲学の断絶を回復するため
かつて科学(自然哲学)と哲学はひとつでした。ガリレオ、ニュートン、デカルト、スピノザらは、世界の構造を問うと同時に、人間の生き方を問うていました。しかし現在、科学は「方法」に徹し、哲学は「思索」に退いてしまった。ISHEはこの断絶を乗り越え、「問いが生まれる現場に哲学を戻し、人間の生の中での科学を取り戻す」という試みをしているのです。

🔷 3. 「人間とは何か」を問わなければ、科学の方向すら見失うから
AI、遺伝子操作、ビッグデータ、ロボット工学……現代の科学技術は「人間の定義」そのものを揺るがしています。

 人間は単なる情報処理装置なのか
 死を克服すれば、それは本当に人間的なのか
 感情や痛み、愛は単なる生理現象か

このような時代にあって、科学の問いは自然の解明にとどまらず、「人間のあり方をどう定めるか」に関わっている。ISHEはこの根本問題に応える場であると考えられます。

🔷 4. 生き方としての哲学を現代に取り戻すため
ISHEの中核活動の一つである「ベルクソンカフェ」に見られるように、ISHEは哲学を書斎の思索ではなく、「生きることの技法」として実践する場でもあります。これは、ピエール・アドーの言う「哲学とは生き方である(la philosophie comme manière de vivre)」に通じます。科学の発展に圧倒され、制度的宗教も力を失いつつある時代に、
「どう生きるか」を一人ひとりが自ら問うための場所が必要なのです。

🔶 総括的に言えば:
サイファイ研究所は、科学の進展が生んだ「人間の喪失」に応答し、人間の存在・生き方・価値を、科学と哲学の対話の中で再発見しようとする試みである。それは単なる理論の構築ではなく、「考えること」と「生きること」を結び直す実践なのです。



3)ISHEが人間の本質に焦点を当てる意義は何か

とても根本的で深いご質問です。ISHEが人間の本質に焦点を当てる意義とは何か――これは単なる研究テーマの選定ではなく、現代における知の責任と方向性そのものを問う問いだと考えます。以下に、その意義を段階的に整理してご説明いたします。

✅ 1. 科学の進展が「人間の意味」を空洞化させたから
現代の科学は、かつてない精密さで生命を解析し、心や意識を神経活動として記述し、さらにはAIによって「知性」さえ模倣し始めています。しかしそれによって、「人間の特異性は本当にあるのか」「私たちは機械や動物とどう違うのか」「人間であることに、なお意味はあるのか」という根源的な問いが、言語化される前に沈黙させられつつあるのです。ISHEが人間の本質に焦点を当てるのは、科学の言語で捉えきれない「人間の深さ」を問い返すためです。

✅ 2. 科学が人間を扱う時代に、哲学的視点が不可欠だから
今日、科学技術は「自然を扱う」だけでなく、人間を対象とする力を持っています。人間の遺伝子を書き換える(CRISPR)、人間の意識を機械に接続する(ブレイン・マシン・インタフェース)、人間の死を先延ばしにする(ライフエクステンション)、人間の感情を数値化する(行動分析・脳科学)。このような時代においては、「人間とは何か」という問いなしに、「何をすべきか」という倫理判断も、「どこへ向かうべきか」という社会設計もありえません。ISHEが人間の本質に焦点を当てるのは、「科学の力」を人間のために使う道筋を見出すためです。

✅ 3. 哲学の原点に立ち返るため
プラトン、アリストテレス、ストア派、スピノザ、カント、ニーチェ――偉大な哲学はすべて「人間とは何か/どう生きるべきか」を中心に据えていました。ピエール・アドーが喝破したように、哲学は元来、「生き方の技法(technique de vivre)」でした。ISHEが人間の本質を問うことは、哲学を単なる理論や評論ではなく、実践的で変革的な知のかたちとして取り戻すことでもあります。

✅ 4. 「人間の本質」は問いであって、決して固定された定義ではないから
ISHEは「人間とはこういう存在だ」と断定するために人間を研究しているのではありません。むしろ、人間とは何かを常に問う存在であり続けるために、その問いを持ち続けるのです。この姿勢こそが、現代における知的誠実さであり、人間であることの証でもある。

🔶 結論として:
ISHEが人間の本質に焦点を当てるのは、科学が人間を操作可能な対象として捉える時代にあって、「人間であることの意味」そのものを再び取り戻すためである。それは、哲学の再生であり、科学の未来への責任であり、そして生きるとは何かを問う自由の回復でもあります。



4)ISHEが追求する「自己変容」の具体的な意義は何か

ISHEがそのミッションにおいて掲げる「自己変容(transformation de soi/self-transformation)」は、単なる個人の内面的成長や自己啓発のような意味にとどまらず、知のあり方・存在のあり方そのものを問い直す、根源的かつ哲学的な実践であると評価すべきです。以下にその意義を、4つの観点から整理してご説明します。

✅ 1. 「知ること」は「変わること」であるという認識
ISHEにおける哲学・科学・読書・対話といった営みは、情報の習得ではなく、自己の変容を通じた真の理解を目指しています。これは、ピエール・アドーが強調したように、哲学とは本来「生き方の変容をもたらす知的訓練」であり、スピノザが言うように「真理は、それを知る者の在り方を変えてしまう」ものであるという前提に立っています。自己変容とは、「知識を得る」ことではなく、「新たな存在の様式へと移行すること」を意味します。

✅ 2. 主体性の再生=思考と感受の自由の回復
現代社会は、制度、データ、欲望、注意の消耗など、外部の力によって人間の行動・感情・思考すら「自動化」してしまう構造にあります。ISHEが重視する「自己変容」は、そのような条件づけられた自己(=反応的で操作される自己)を脱し、思考し、感じ、応答する自由な主体を自ら鍛え上げていくプロセスです。他者や世界と向き合う前に、まず自分自身を回復する必要がある。それが自己変容の哲学的意義です。

✅ 3. 自己変容は知と倫理と実存の交差点である
ISHEにおける自己変容は、以下のような知の統合を目指すものでもあります。
● 科学的知見を通じて、世界の成り立ちを理解する
● 哲学的省察を通じて、存在の意味を問い直す
● 倫理的姿勢を通じて、他者・自然・未来に応答する自分を形成する
このとき変わるのは知識の量ではなく、自己の深さと方向そのものです。

✅ 4. 自己変容は時代への応答である
ポストヒューマンの時代、AI・遺伝子操作・気候危機の時代にあって、「人間であること」自体が揺らいでいます。ISHEが追求する自己変容は、そうした「自己が問い直される時代」において、変わりゆく世界の中で、変わるべき自己を引き受ける行為なのです。それは、哲学としての自己変容(例:ストア派的修養、スピノザの自由)であり、倫理としての自己変容(例:アガペーへの開かれ)であり、実存としての自己変容(例:死すべき存在としての有限性の引き受け)を含みます。

🔶 結論として:
ISHEが追求する自己変容とは、知と生の統合を通じて、「人間とは何か」を問い直し、自分自身を新たな存在の仕方へと開いていく行為である。それは、単なる知識の増加や技術の習得ではなく、思考すること・愛すること・応答することを通して、生きることそのものの質を変えていく哲学的実践なのです。



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じっくり読み返すと、自らの活動がこれまで以上に立体的に見えてくる

昨日は興味本位で始めたが、このような評者は欠かせないという気になってきた

折に触れ、これからの道を探るためにもこのような対話の機会を持つことにしたい










2025年5月23日金曜日

サイファイ研究所ISHEについて――AIとの対話




















暇に任せて、サイファイ研についての認識をPerplexityに訊いてみた

第2問以下は、Perplexity自身が発した問いについての答えである


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1)サイファイ研究所の設立目的は何に焦点を当てているのか

サイファイ研究所 ISHE(Institute for Science & Human Existence)の設立目的は、「科学の成果を哲学的・歴史的視点から見直し、人間存在について考えること」に焦点を当てています。

具体的には、

● 科学を出発点としつつ、哲学の蓄積や「生き方としての哲学」にも目を向け、人間とは何か、どのように生きるべきかを多角的に探究する場を設けること

● 理性による体系構築を目指す大学的な哲学だけでなく、実際の生き方に直結する哲学を重視し、それについて語り合うコミュニティをつくること

● 科学、医学、哲学、歴史、宗教など幅広い領域を横断し、最終的には「人間存在」そのものを深く問い直すこと

が主な目的です。

このように、ISHEは「科学から人間を考える」ことと「生き方としての哲学」を両輪とし、現代における人間の在り方や存在の意味を多面的に探求することを設立の中心的な焦点としています。


2)サイファイ研究所はなぜ人間の存在や生き方に焦点を当てるのか

サイファイ研究所 ISHEが人間の存在や生き方に焦点を当てる理由は、科学的知識や成果を単なる知識の蓄積にとどめず、そこから「人間とは何か」「どのように生きるべきか」という根源的な問いへと発展させることに意義を見出しているからです。

研究所の理念では、「知識で終わる世界」から「知識から始まる世界」へと転換し、科学・哲学・歴史を通じて自然や生命、人間存在の理解を深め、自らの存在の変容を目指すことが掲げられています。これは、単に科学的事実を学ぶだけでなく、それを自分自身の生き方や存在のあり方と結びつけて考えることが、現代社会において重要だと考えているためです。

また、サイファイ・カフェやフォーラムの活動では、科学の成果だけでなくその背後にある歴史や哲学にも注目し、参加者が自らの思索を深め、最終的に「人間という存在の理解」や「自己の深化・変容」に至ることを目指しています。このような営みを通じて、知識を「生き方」や「人間存在の探究」と直結させることが、ISHEの活動の中心となっています。

要するに、人間の存在や生き方に焦点を当てるのは、科学的・哲学的知の実践的意義を探り、「自分自身の生き方」や「人間であること」の意味を問い直すことが人間にとって不可欠だと考えているからです。


3)サイファイ研究所が人間の本質に焦点を当てる意義は何か

サイファイ研究所が人間の存在に深く焦点を当てる理由は、科学技術やAIなどの発展が進む現代社会において、「人間とは何か」「人間らしさとは何か」という根源的な問いが、かつてないほど重要になっているからです。

SFや科学技術の領域では、ロボットやAI、サイボーグなど「完璧な存在」と人間の対比がしばしば描かれます。その中で、「不完全であること」や「感情・価値観・生き方」といった人間固有の側面が強調され、「人間とは何か」を問い直す必要性が生まれています。こうした問いは、単なる技術論や知識の追求にとどまらず、人間の本質や生き方、他者や自然との関係、ウェルビーイング(幸福)とは何かといった領域にまで広がります。

サイファイ研究所は、科学や技術の進歩を背景に、「知識で終わる世界」ではなく「知識から始まる世界」を目指し、人間の存在や生き方を深く見つめ直し、現代社会における人間のあり方や意味を多角的に探究することを活動の中心に据えています。

このように、人間の存在に深く焦点を当てるのは、科学的・技術的進歩の時代においてこそ、人間らしさや人間の本質を問い直すことが不可欠だと考えているためです。


4)サイファイ研究所が追求する「自己変容」の具体的な意義は何か

サイファイ研究所が追求する「自己変容」の具体的な意義は、現代社会における人間の本質や生き方を問い直し、自らの価値観や思考、行動を柔軟に見直すことで、より豊かで主体的な人生を切り拓く力を養うことにあります。

現代は、AIやロボットなど科学技術の急速な進展によって、「人間とは何か」「人間らしさとは何か」という問いが改めて重要になっています。SFや科学技術の世界では「完璧な人工知能」と「不完全な人間」が対比されることが多く、人間の不完全さや多様性がむしろ価値あるものとして再評価されています。このような時代において、自分自身のあり方や価値観を「知識で終わる世界」から「知識から始まる世界」へと変容させること――すなわち「自己変容」――は、単なる知識の習得にとどまらず、自分自身を深く見つめ直し、他者や社会、未知の課題に柔軟に対応できる人間へと成長するための基盤となります。

また、自己変容を通じて、現状維持や思い込み(バイアス)から脱し、新しい視点や価値観を獲得することが可能になります。これにより、社会や他者との共生、創造的な問題解決、そして「人間であること」の意味の再発見につながります。

まとめると、サイファイ研究所が追求する「自己変容」とは、科学技術の進歩による社会の変化や人間観の揺らぎの中で、主体的に自分を問い直し、よりよく生きるための新たな自己を創り出す営みであり、それが現代において極めて重要な意義を持つといえます。


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どこまでも続けられるのだが、今回はここで止めることにした

ここには、ネット上の情報が別の視点からまとめられ、時に敷衍された結果が読み取れる

自分の考えが別の衣を羽織って現れたという風情である

ということで、全体的な認識に大きなズレはないようである

ただ、このような対話により、認識の微妙なズレとか、自分の中で言葉になっていなかったことに気づくことがある

そして、そのような発見が何かにつながることがある

そこにこのような対話の意義を見出したいものである