2025年4月12日土曜日
第13回サイファイカフェSHE札幌、盛会のうちに終わる
2025年4月5日土曜日
どこかに飛び立ちたい気分
今朝は天気に恵まれたせいか、久しぶりにシガーを愉しんだ
そこに流れてきたのが、この曲である
春の陽気とともにどこかに飛び立ちたい気分になる
そうならない方がおかしいタイミングであった
その勢いに乗って、外にではなく内に向かうことにした
このところ当たっているマルセル・コンシュさんの『形而上学』の中へ
少しは捗ることを願いながら
2025年4月3日木曜日
翻訳するように読み返す
2025年3月30日日曜日
3月を振り返って
今月も終わりに近づいてきた
これで今年の四分の一が終わることになる
今月は、前半で春のカフェ/フォーラム東京シリーズが終わった
それぞれの会の中に相互につながる要素が見つかり、わたしにとっては興味深いシリーズとなった
今月後半はそれらを反芻しつつ模索・瞑想する中で、いくつか新しいプロジェが浮かんできた
いつものように、どのように展開するのか、長い目で様子を見る以外にはないのだが、ひょっとすると面白いところに辿り着けるかもしれないというものもある
ところで、今回のシリーズでも改めて感じたことだが、仕事をしていた時とは異なり、「・・年前」という感覚が薄れているようである
仕事をしていた時には感じたであろうその数字が示す昔には感じなくなっている
例えば、昔は2年前と言うとそれなりの前に感じていたはずである
ここで昔というのは、仕事をしていた18年ほど前までのことだが、その時点で18年前などというと遥か彼方に過ぎ去ってしまった大昔というイメージだった
しかし今は、フランスに渡った時のことを大昔などとは全く感じない
わたしのすぐそこにある
このような感慨が再び浮かんできたのは、コロナで日本に戻らざるを得なくなってから5年が経過したことに気づいたからだ
ただ、仕事をしていた時の感覚での5年昔には感じられない
それは、当時がそのまま「いま・ここ」にあるという感覚の中にいるためではないかと想像している
これは永遠の感覚に近づいているサインではないかとも思っている
いずれにせよ、今年はこのような区切りの年に当たる
何か変化を呼び込まなければならないような気分にもなってくる
2025年3月27日木曜日
「科学の形而上学化」(MOS)のもう一つの側面について
これまでMOSの方向性として強調してきたのは、科学が明らかにした成果について形而上学、歴史、神学などの視点を動員して省察する必要性であった。しかし、このような方向性には同時に、科学の営みそのものに対する批判的な視座も内包されている。それらを分析することは、これまで強調してきたMOSの営みが提示する現在の科学の範囲を超える「新しい科学」だけではなく、現在の科学が抱えている存在論的な問題点を炙り出し、それらを超克する「より緻密な科学」を創出する上で重要な貢献につながるはずである。その試みの概略をスケッチしておきたい。
まず、自然科学は価値中立的であり、形而上学とは一線を画しているという見方について考えてみたい。MOSの前提も、形而上学と決別したものとして科学を捉えるところにあった。しかし、実際にはどうであろうか。科学者が意識しているか否かは分からないが、自然科学を動かしている信念のようなもの(信仰とまでは言わないまでも)があるのではないだろうか。例えば、自然界は理性によって理解可能である、原因と結果から自然現象は説明可能であり、そこには法則性がある、それは数学的様式によって表現可能である、観察できるものが存在するものであり、観察可能なものだけを対象とする、など、科学には暗黙の前提があるように見える。
このような前提は、人類が歩む中で出来上がってきた歴史が刻まれた考え方である。例えば、ソクラテス以前の哲学者のヘラクレイトス(c.540-c.480 BC)はロゴス(理性・言葉・秩序)を世界の根本原理とし、ピタゴラス(582-496 BC)は「万物は数である」と考えていた。ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)も「自然という書物は数学という言葉で書かれている」という見方を採っていた。これらは自然がどのように出来上がっているのかについての考え方を示す言葉であり、科学の前提・信念は科学そのものに内在する形而上学と言ってもよいのではないだろうか。
このことは、意識されることが少ない科学の形而上学について、哲学的に省察することもMOSの大きな役割になるということを意味している。換言すれば、「科学の形而上学の形而上学化」(metaphysicalization of metaphysics of science: MOMOS)とでも言うべき試みになる。この形而上学化の過程においても哲学だけではなく、歴史、倫理、詩などを動員して当たることになる。具体的な問題として、量子論の確率的要素や非線形力学など必ずしも合理的には見えない自然が姿を現し、数式には表しきれない生命現象も明らかにされている。これらを問題にすることはすなわち、科学の暗黙の前提を問い直すことに繋がり、科学とはどういう営みなのか、さらに科学はどうあるべきなのかという根源的な思索へとわれわれを導くはずである。
このように、冒頭に掲げたMOSの2つの側面を追求することは、現在進行中の科学を批判的、発展的に認識するだけではなく、「形而上学的解析を含めた科学」という新しい科学の姿を模索する上でも重要なステップになるものと確信している。
2025年3月24日月曜日
春のカフェ/フォーラム東京シリーズのまとめを終える
春のカフェ/フォーラム東京シリーズのまとめを終えることができた
以前とは異なり、ゆっくりと跡を辿りながらの作業であった
おかげさまで、示唆に富む発見に満ちたシリーズとなった
参加された皆様に改めて感謝いたします
ご参考までに、以下に貼り付けておきます
マルセルコンシュの哲学――2006年のインタビュー記事を読む――
『免疫学者のパリ心景』を読む (1)なぜフランスで哲学だったのか
① 矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑦ プラトンの宇宙観
② 細井宏一: 人文科学と自然科学の間にあるサイエンス ~考えるということ~ ——啓示か、観察か、それとも・・・——
③ 岩倉洋一郎: 科学は自らの発展を制御できるのか?
コメントなどありましたら、お知らせいただければ幸いです
これで、春のシリーズは札幌の会を残すだけとなった
4月12日(土)15:00~17:30 ( 京王プレリアホテル札幌 会議室)
『免疫から哲学としての科学へ』を読む(1)免疫の理論史
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております
2025年3月19日水曜日
人生を味わい直すディネ
2025年3月16日日曜日
あるカフェでの出来事から時間と幸福へ
最後は激しい花粉症で終わった2週間にわたる東京でのカフェ/フォーラムシリーズ
現世に降りてのこの期間は怒涛のような毎日であった
コンシュさんではないが、まさに「縮小された時間」に生きるとはこういうことを言うのだろう
このようなことは、それまでの「果てしない時間」に近い状態ではなかったので、いつものようにすごい落差を感じた
それに関連すると思うのだが、時間に関する感じ方の違いを再確認する出来事があった
その中で「2年前に出された本は・・・でしょうか」というような質問が聞こえてきた
それを聞いた時、「2年前に」何かやっていただろうかという思いで、何のことを質問されているのか瞬時には理解できなかったのである
仕事をしていた時の感覚で2年前と言えば、自分の中ではかなり前になる
当時は時間がどんどん後ろに流れ去り、1年前でもかなり昔という感覚の中にいたからだ
『免疫から哲学としての科学へ』のことを訊かれていることが分かり、それを書いたのがもう2年も前(仕事をしている時の感覚での)になることに驚いたのだった
今では、いつも目に見えるそのあたりに過去が転がっている状態になっているので、その本を書いてから2年も経っているという感覚がなくなっていたのである
今回の朗読会で読んだ中に、このことに関連するところがあった
それは、フランスに渡る2007年の初めに浮かんできた一つの感慨である
いまを生きている自分
これまでに在ったいろいろな自分
普通は昔の自分を遠くに置いたまま
時には捨て去り、それとは別の自分を生きている
それが忙しく現実を生きるということなのかもしれない
しかし、それが最近変わってきているのではないか
一瞬そんな思いが過ぎった
それはこれまでに在ったすべての自分を現在に引き上げ
彼らと話をしながら生きている、あるいは生きようとしている
そんな感覚である
そのすべてを引き受け、そのすべてが求めるところに従って歩む
そうした方がより満ちた人生になるのではないか
そんな想いが静かに溢れてきた
それ以来、このような考えが基底にあったのだろう
フランスに渡ってからすでに18年、カフェ/フォーラムを始めてからでも14年も経過しているが、そんな昔に始めたという感覚はなく、いつもそのあたりに転がっている
そんな感覚の中にいる
その一つの証左として、今回のPAWLでのやり取りを了解したのである
これは仕事をしていた時、あるいは「縮小された時間」に生きていた時にはあり得なかったことである
そしてこの時間の捉え方は、幸福感に至る重要な要素になるような気がしている
2025年3月14日金曜日
第20回サイファイカフェSHEで免疫を論じる
2025年3月13日木曜日
エネルゲイアとエネルギー再考
1)キネーシスはその行為自体が目的ではないが、エネルゲイアはそれ自身が目的であり、目的が行為の中に内在する
2)キネーシスの場合には現在の状態とその完了が乖離するが、エネルゲイアの場合には現在において完了してしまう
3)キネーシスは目的に至るまでは常に未完成だが、エネルゲイアはいつも完成され、完全である
4)キネーシスは時間の内にあるが、エネルゲイアは時間とは無縁である
5)キネーシスは「どこからどこまで」という条件に規定されるが、エネルゲイアにはそれがない
6)キネーシスには速い遅いがあるが、エネルゲイアには速さと遅さがない
つまり、エネルゲイアにおいては、今何かをやった瞬間に目的を達成してしまっているので、常に満たされた状態にいることができる
これこそ幸福と言ってもよいのではないだろうか
しかし、忙しく仕事に追われていると、この状態を経験できない
常に先にある目標に向かっているからだ
さらにこの状態に入ると、自分が移動しているという感覚がなくなり、周りが勝手に動いていくように感じられるのである
つまり、どこに行くのにも、何をやるのにも、自分が前に向かって運動しているという感覚はなく、自分は今ここにいるだけで周りが動いてくれるので、精神的に全く疲れないのである
こう説明した時、何を呑気なことを言っているのか、信じられない、などという声も耳に入ったが、本当にそれが実感なのである
そこで今日の本題である
実はそこに、エネルゲイアと、エネルギーあるいはエネルギッシュとの深いつながりがあるのではないかと思えてきたのである
つまり、この状態に入ると、身体的にはどうか分からないが、精神的には何をやっても全く疲れないので、外から見るとエネルギッシュに見えるということになる
なぜなら、本人は何かをやった瞬間に常に完成し、常に満たされた状態にいるからである
この感覚はフランスに渡る数年前から自分のものになっており、フランスでそれがエネルゲイアであることを藤澤令夫氏の著作で知り、何でもすでに考えられていることに驚いたのである
こうして振り返ると、アリストテレスのこの概念は、わたしの生活の根底を支えてきたキーコンセプトなっていたことが見えてくる
今回のシリーズの大発見(あるいは再発見)と言ってよいかもしれない
2025年3月12日水曜日
現世で生きるということ
今回の滞在は、現世との接触に溢れていた
一つの可能性を探っていたからである
そこで有効だったのが、先週のPAWLでも取り上げられたアリストテレスの「エネルゲイア」である
これを我が物にすると、どんなにスケジュールが混み合っていても、少なくとも精神的には疲れない
普段は天空(あるいは沼底)で気楽に暮らしているのだが、そこではすべてがスムーズに進む(ように感じている)
こちらが何らかの働きかけをすれば、それにちゃんと答えてくれるのが普通である
ところが、現世に降りるとその予想が覆されることがある
こちらが伝えたつもりになっていたものを相手が見ていないことがある
ということなど考えも及ばなかったのだ
現世においては、そういうことがあるので注意するように生きなければならないのだろう
今回の教訓である
いずれにせよ、今回模索している可能性はまだオープンである
2025年3月10日月曜日
学生時代の音楽仲間と再会、熱く語り合う

2025年3月8日土曜日
第13回サイファイフォーラムFPSS、終わる
2025年3月6日木曜日
第12回カフェフィロPAWL開催される
2025年3月4日火曜日
コンシュ哲学を語る第11回ベルクソンカフェ終わる
2025年3月3日月曜日
春の会食終わる
春を迎えて恒例になっている学友との会食があった
今日は春らしい雰囲気になったが、外は寒かったようで、午後から白いものが降っていた
いつものことだが、他愛もないことを駄弁って時を貪ったという感じだろうか
それでよいのだ、というのが結論になるのだが、、
わたしにとっては久しぶりに沼の底から体を出した状態になったので、いろいろ話していたのではないだろうか
特に、このところ考えていた現世における問題なども含めて
学友は某国のビジネスマン指導者の考えには違和感を覚えているようで、最近ヨーロッパの指導者との違いが際立つようになったとの分析をされていた
その点は同意せざるを得ない
ここに来て、歴史の蓄積の差がじわじわと出てきているのだろうか
日本も根本にかえって考え直さなければならないのだが、考えるという行為がどこかに行っている状態なので、なかなか大変である
ところで、厳しい現実の中で生き残りをかけて戦っている人たちがいる一方、何のためになるのか分からないようなことに精を出しているように見えるわたしのような歩みはどう考えればよいのだろうか
ご両人ともやや呆れ顔のように見えたのは気のせいだろうか
2025年3月1日土曜日
春のカフェ/フォーラムを目前に控えて
今日は暖かな日和である
この冬に入る時には、これから寒さに耐えなければならないと暗い気持ちでいたが、想像以上に穏やかな冬となってくれた
今日そこから抜け出て春になったことを確信した
あと数日で「春」のカフェ/フォーラムシリーズが始まる
このようなアクセントが生活に入ると、我が日常の特徴が明確になる
かなり前から気づいているが、再度確認しておきたい
意識の面から言うと、すべての時間をほぼ完全に自分のものとしている
つまり、そのすべてが意識されているという状態だろうか
いろいろな刺激が入る普通の日常では、この状態は維持できない
その深さまで入ることができない
少なくとも自らの中はいつも静寂に包まれていなければならないからだ
もし今の意識状態を知らないとすれば、この違いに気づかずに終わる可能性が高い
生物学的に言えば、代謝が抑えられ、冬眠状態に近いように見える
この状態から立ち上がりを見せるのが、このシリーズである
これまでに醸成されてきたものを遥か下方に眺めながら、外界との接触に入ることになる
できるだけ濃厚な交換ができるようにしたいものである
どのような発見があるのか楽しみにしながら、この2週間を過ごすことになるだろう
2025年2月25日火曜日
サイファイカフェ/フォーラムの内容が絡み合ってくる
2025年2月21日金曜日
日本の鎖国性
2025年2月13日木曜日
天空から現象界での日々へ
前回の記事でも触れたが、このところ現実世界でのプランがいくつか浮かび上がり、どのように対応するのかを考える時間が長くなっている
それまでは天空での時間をいかに充実させるのかだけを考えていればよかったのだが、現実が絡むのですんなりとことは進まない
と同時に、こちらの感じ方も日々変化するので、なかなか大変である
それがはっきりしないと気分も落ち着かないのである
現実に生きている方たちはさぞ大変な日常ではないかと同情を禁じ得ない
まだ具体的な姿は現れていないが、いずれ見えてくるような予感はしているのだが・・・
そんな中、春のカフェ/フォーラムの準備と並行して、コンシュの翻訳も進めている
そろそろ、カフェ/フォーラムに集中することになるのではないだろうか
皆様の参加をお待ちしております
2025年2月9日日曜日
春のカフェ/フォーラム近づく
2025年1月31日金曜日
1月を振り返る
2025年1月19日日曜日
サイファイ研究所ISHE 春のカフェ/フォーラムのプログラム決まる
ISHE研の春のカフェ/フォーラムのプログラムが以下のように決まりました
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております
よろしくお願いいたします
◉ 2025年3月4日(火)
テーマ: マルセルコンシュの哲学――2006年のインタビュー記事を読む――
恵比寿カルフール B会議室
◉ 2025年3月6日(木)
テーマ: 『免疫学者のパリ心景』を読む
ファシリテーター: 岩永勇二(医歯薬出版)
恵比寿カルフール B会議室
◉ 2025年3月8日(土)
プログラム:
① 矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑦ プラトンの宇宙観
② 細井宏一: 人文科学と自然科学の間にあるサイエンス――啓示か、観察か、それとも・・・ ――
③ 岩倉洋一郎:<フォーカス・ディスカッション> 科学は自らの発展を制御できるのか?
日仏会館 509会議室
◉ 2025年3月11日(火)
テーマ: マルセルコンシュの哲学――2006年のインタビュー記事を読む――
恵比寿カルフール B会議室
◉ 2025年3月14日(金)
テーマ: 『免疫から哲学としての科学へ』の第2章を読む
恵比寿カルフール B会議室
◉ 2025年4月12日(土)
テーマ: 『免疫から哲学としての科学へ』の第1章を読む
京王プレリアホテル札幌 会議室
2025年1月15日水曜日
シェリングを摘まみ読む
自然哲学とは何ぞや、ということで関連するものを読み始めている
近代の自然哲学の源にはシェリング(1775-1854)がいるというような指摘をどこかで見た
ということで、シェリングを読んでみることにした
普段は浮かんでこない哲学者なのだが、前ブログで『学問論』を読んだことがある
今回は『自然哲学に関する考案』(1797:松山壽一訳)を読み、印象に残ったところを書き出すことにしたい
哲学は徹頭徹尾、自由の所産なのである(フィヒテ)。哲学は、何人にとっても、自分で作り上げたものにほかならず、哲学の理念といえども、哲学そのものの結果にほかならない。しかるに、「普遍妥当な」哲学などというものは不名誉な妄想である。
これも科学との違いを表している
形而上学にはその人の選択を許すところがあるが、科学は一つの共通の枠組みに収まるものしか認めない
人間が自分自身を外界に対抗させるや否や、哲学への第一歩が踏み出された。かの分離によってはじめて思弁(反省)が始まる。自然が常に合一していたものを、それ以後、人間が分離することになる。人間は対象を直観から、概念を像から、挙句の果てには(人間が自分自身の客体となることによって)自分自身を自分自身から分離してしまう。
しかしこの分離は手段でしかなく目的ではない。というのも、人間は行為すべく生まれついているからである。ところが人間は自省しなければしないほど活動的である。人間のもっとも高貴な活動は無自覚のそれである。人間が自己自身を客体化するや否や、もはや「全」人が行為してはいない。
そのうえで、病める哲学と健全な哲学を議論する
病める哲学とは思弁を目的とするものだが、健全な哲学は思弁を手段にするものだという
このような文章を哲学に入った時に読んでいたと想像すれば、おそらく沁み込んできたのではないだろうか
今回は、自分の中に出来上がりつつあるものを確認するという目で読んでいる
ところで、今年はシェリング生誕250年とのことなので、何か面白いことでもあるのだろうか