2025年8月15日金曜日
ベルクソンカフェを振り返る
2025年8月6日水曜日
第14回サイファイカフェSHE札幌のまとめ
先週土曜に開催したサイファイカフェSHE札幌のまとめをサイトにアップした
『免疫から哲学としての科学へ』で論じられている中から話題にしたことをできるだけ拾い上げるようにした
今回も、生物が如何に精巧なメカニズムに支えられているのかということを驚きをもって確認した
と同時に、それでも完璧な制御はできず(それが生物か)、いろいろな問題を生み出すけれでも、それに対応する方法も準備しているという目を見張るようなことが行われている
このような本を読み、生物の細部に入ることにより初めて見えてくる素晴らしき世界である
汲めども尽きぬ世界がそこに広がっている
次回も驚きの心をもって読み進みたいものである
2025年8月3日日曜日
読書会の意味、改めて
2025年8月2日土曜日
第14回サイファイカフェSHE札幌、盛会のうちに終わる
今日は第14回のサイファイカフェSHE札幌の日で、拙著『免疫から哲学としての科学へ』の2回目の読書会であった
北の都といえども暑さは容赦をしてくれない中、7名の方の参加があり、充実した質疑応答があった
今回は、仮説の意義や自己免疫、共生、オーガニズムの問題について考えた
最近明らかになっていることは、我々は単独で存在していることはできず、あるいは実際に他の生物と共生関係を保ちながら生きている
開かれたプロセスとしての存在、関係性の中にあるわれわれの「生」という視点から思索を深めるための起点を得たような気分である
詳細なまとめは、近いうちにSHE札幌のサイトに掲載する予定である
こちらを参照していただければ幸いである
九鬼周造(1888-1941)に次の歌がある
一巻にわが半生はこもれども繙く人の幾たりあらむ
創作者が感じるであろう孤独や空しさのようなものが窺える
その背後に、それでも書くのだという固い気持ちもあることを信じたいところではある
このような境地から見ると、今回のような会で拙著が丁寧に読まれる機会が得られることは至福と言ってもよいだろう
長いスパンでいろいろな方の中を通り過ぎることになるとすれば、嬉しい限りである
第3回の読書会は、10月18日(土)に開催予定です
詳細は追ってお知らせいたします
興味をお持ちの方の参加をお待ちしております
2025年7月28日月曜日
5度目の穐吉敏子さん
2025年7月25日金曜日
第14回サイファイフォーラムFPSSのまとめ
2025年7月18日金曜日
第21回サイファイカフェSHEのまとめ
7月9日(水)に開催した第21回サイファイカフェSHEのまとめをサイトにアップした
『免疫から哲学としての科学へ』の3回目の読書会のまとめということになる
こちらから
「まとめ」とは銘打っているが、最近の傾向はまとめと言うより「再現」に近くなっている
変にまとめようとするのではなく、できるだけ具体的な内容を残しておこうという考えに変わってきたようだ
つまり、一次資料的な意味合いを持たせているのだろう
そういう資料がある方が、後々それをまとめるメタの思考をする際に有用になるのではないかと考えているのかもしれない
この読書会の最終回は、これまで明らかにされた科学的事実から想像を広げ、「免疫の形而上学」と題して、11月14日(金)18:00~20:30、恵比寿カルフールにて開催予定です
奮って参加していただければ幸いです
よろしくお願いいたします
2025年7月16日水曜日
2つの意識レベルの差異が何をもたらすのか

2025年7月12日土曜日
第14回サイファイフォーラムFPSS、盛会のうちに終わる
このところの猛暑に比べると、比較的凌ぎやすい一日であった
本日は、14回目になるサイファイフォーラムFPSSが日仏会館で開催された
プログラムは、以下の通りであった
(1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑧ プラトンと医学
(2)武田克彦: 神経心理学の方法
(3)市川 洋: 社会の中の科学と科学コミュニケーション
要旨は、こちらから
欠席者が3名で、参加されたのは9名(若手が2名、内1名は初参加)であった
若い血(知)が注入されると、やはり会は活性化するように感じた
これからも新しい参加があることを願っている
議論はゆったりとしたペースで進んだが、問題点については触れることができたのではないだろうか
落ち着いてからまとめをする予定である
FPSSのサイトを訪問いただければ幸いである
2025年7月11日金曜日
第1回サイファイ対話 CoELP のお知らせ
2025年7月10日木曜日
高村光太郎の「パリ」
2025年7月9日水曜日
第21回サイファイカフェSHEで免疫を考え直す
今日は第21回のサイファイカフェSHEを開催し、拙著『免疫から哲学としての科学へ』を読みながら、免疫というものについて考えた
お忙しい中、また猛暑の中、お集まりいただいた皆様には改めて感謝したい
お陰様で、充実した議論ができたのではないだろうか
今日具体的にやったことは、前回積み残した第2章の最後の節「オーガニズムとは」から始めて、第3章「オーガニズムレベルの免疫システム」、さらに第4章の生物界における免疫システムを概観するところまでを読んだ
第4章の残りの3節は時間切れで、次回に回すことになった
今日の全体を通しての印象は、免疫なる機能が生物界に広く存在していること、その意味では生命の分布と重なること、また免疫機能は生体全体で担われていること、免疫内のサブシステムとしてこれまで考えられていた自然免疫と獲得免疫の境界もぼやけてきたことなど、視野を全体に広げることが迫られているということであった
免疫システムの捉え方も言葉の使い方も考え直さなければならない時期に来ているように見える
詳細については、近いうちに専用サイトにまとめる予定である
そちらを参照していただければ幸いである
なお、最終回の読書会は11月14日(金)の開催予定で、免疫の形而上学について議論することになっている
皆様の参加をお待ちしております
2025年7月8日火曜日
カーネル・サンダースさんの顔とショパンの顔
2025年7月7日月曜日
旧研究所のメンバーとの会食を楽しむ
2025年7月5日土曜日
田村、島両氏と的崎、渡邉両氏を仙台で偲ぶ
今日は仙台まで足を延ばした
その昔、同じ領域で研究していた田村眞理氏と島礼氏にお会いし、お話を伺うためである
昨年は都合がつかなかったので、2年振りということになる
今回は、昨年と今年相次いで亡くなった我々よりも若い世代の研究者、渡邉利雄、的崎尚両氏を偲ぶという目的もあった
まず田村、島のお二方とも現実世界と真正面から向き合っておられる
先日も書いた通り、ぶらぶら生活している者から見れば、それだけで敬意を表するに値する
これからどれだけ続けられるのだろうか
注目して見守りたい
仙台が以前にも増して近く感じられるようになったので、仙台訪問の機会を増やしてもよいのではないかというアイディアが酔いの中で浮かんできた
声に出してみたところ、それほど抵抗がないような印象を持ったので(あくまでも主観的判断ではあるのだが、)具体化に向けて検討する方向で進めることにした
ところで、上で「その昔」と言ったが、考えてみると科学研究を止めたのがもう二昔も前になろうとしている
ということは、仕事をしていた時期と同じ時間がもうすぐ流れ去ることを意味している
そんなに長い間無為の生活をしていたとは、驚くばかりである
あるいは、仕事をしていた時期が短かったということなのだろうか
フランスに渡った時を境に前と後ができたわけだが、その前・後で何がどのように変わったのか
これからも考えていきたい興味深いテーマである
2025年6月30日月曜日
アメリカ時代からの友人と会食
2025年6月27日金曜日
イラン音楽で身を鎮める
2025年6月22日日曜日
日と仏は理解し合えるのか
2025年6月20日金曜日
リマインダー: サイファイ研 ISHE 夏のカフェ/フォーラムのお知らせ
2025年6月14日土曜日
マルセル・コンシュ『形而上学』、最初のバージョンを終える
2025年6月10日火曜日
夏のカフェ/フォーラムに向けて動き出す
2025年6月8日日曜日
古いブログを再生させる
2025年6月7日土曜日
シオランの言葉をもう少し
もちろん、わたしは何もしない
ただ、時間が過ぎていくのを眺めている
それは、時間を埋めようとするよりも良いことなのだ
自然の視点からものことを見ると、人間は外側に向けて生きるようにできている
自分の内側を見ようと思えば、目を閉じ、努力することをあきらめ、流れから離れなければならない
われわれが「内的生活」と呼ぶものは、生命活動の鈍化によってのみ可能となる遅れてくる現象であり、「魂」というものは臓器の適切な機能を犠牲にしてのみ出現し、開花することができたのである
わたしはこれまで、明白な欠点を十分に具えていない、興味深い頭脳の持ち主に出会ったことがない
60歳のときに知っていたことは、20歳のときにも知っていた
40年に亘る長い、余計な検証作業・・・
これからパスカルのように読んでいきたいものである
2025年6月6日金曜日
シオランの声を聴く
1970年(59歳)わたしは今まで眠られない夜の憂鬱の中でしか書いたことがない
7年間、全く眠ることができなかったのだ
書くためにはこの憂鬱が必要で、今でも書く前にはハンガリーのジプシー音楽を聴くことにしている
その一方で活力も持っていた
嫌悪と恍惚の間で積極的に悲しみを味わっている
わたしは書くのが嫌いで、余り書かなかった
ほとんどの時間は何もしていない
パリで最も仕事をしない人間なのだ
40歳でまだソルボンヌに登録していた
学生食堂で食事し、永遠にこの生活が続くことを願っていた
しかし27歳以降の登録が禁止されることになり、この楽園を追われたのだわたしはよく読み、休みなく読み直す
ドストエフスキーの全作品は5-6回読んだ
再読したもの以外について書くべきではないブッダを近くに感じる
それは彼が真の問題を理解していたからだ
1977年(66歳)ルーマニアが好きだったのは原始的なところだ
もちろん洗練された人もいたが、わたしが好きだったのは文盲の人たち
本は打撃を与えるもの、危険なものでなければならない
読み手の人生を変えるものでなければならない
わたしが書く時には人を激しく非難し、覚醒させることを考えている
新聞を読むように読める本は好きではない
本はすべてをひっくり返し、人に疑問を投げかけるものでなければならない
わたしが書くものの有用性など考えていない
なぜなら、本当のところ、読み手のことなど考えていないからだ
わたしは自分自身のために書いている
わたしの中にある強迫観念、緊張を解放するためで、それ以上のものではない
哲学は爆発の形を取った断片としてしか成立しないと考えている
論文のように章立てで論じるのはもはや不可能である
この意味で、ニーチェは優れて解放者だった
彼こそ体系を目指すアカデミックな哲学を破壊したのだから
彼が解放者だと言うのは、その後すべてを語ることができるようになったからだ
今は一見まとまりを持っているように見える本を書く時でも断片的になっている
断片的な思考は経験のすべての側面を反映している
それに対し、体系的な思考は一つの側面、点検された側面しか反映していない
それは貧しいものである
ニーチェやドストエフスキーにはあらゆる経験、可能な限りの人間のタイプが描かれている
体系の中では一人の統率者だけが話すのだ
それ故、断片的思考が自由なのに対し、すべての体系は全体主義的になる
ルーマニア語で書く時、当然のことながら書いていることを意識しなかった
言葉がわたしから独立していなかった
しかしフランス語の場合、すべての言葉がわたしの意識に降りかかってきた
言葉がわたしの前に、外に、細胞の中にあり、それを探したのだ
わたしの人生は退屈に支配されていた
この感情は子供の時からのもので、本質的なものだ・・・
何も興味を引かず、何も意味を持たない状態だ
この感情が繰り返し訪れた
人生において真剣なことは何もやることができなかった
本当のところ、わたしは激しく生きてきた
ただ、存在に溶け込むことができなかった
わたしの辺縁性は偶然ではなく本質的なものだ・・・
無用であり、利用することができないことがわたしの夢だった
退屈のお蔭でこの夢を実現できたのだ
・・・わたしは覚醒させるために書くアウトサイダーにしか過ぎない
Cioran, Entretiens (Gallimard, 1995) より
2025年6月5日木曜日
久し振りにシオランの魂に触れる
寝る前にYoutubeを覗くと、懐かしい名前が出ていた
エミール・シオラン(1911 - 1995)
この名前を知ったのはフランスに渡る前年の2006年夏
フランス語を始めて5年目、東京で知り合ったフランス人との会話の中でのことであった
その経過は、最初のブログ「フランスに揺られながら」に残っている
エミール・シオラン EMIL MICHEL CIORAN(2006-08-04)
久し振りに見てみることにした
これはその昔にも見たような気がする
この雰囲気がいかにもフランスものという感じで、フランスの世界に入ってからしばらくの間は強い違和感を覚えていた
しかし、ある時を境に、自分の中で思索を刺激しているのに気づくことになった
このところ離れていたので、新鮮であった
このフィルムにあった言葉で印象に残ったことを記憶を頼りにメモしておきたい
ルーマニアからドイツを経てフランスに入り、ソルボンヌに登録したが、彼は人生の最後までその状態でいたかったと言っている
わたし自身、大学院生の時はそうできれば最高だと思っていたので、よく分かるという感じだろうか
幸福などあり得ない
人生に意味などないということが、唯一の生きる理由である
書くということは垂直の対話、神と会話することだという
孤独なもの同士の会話、神は自分よりずっと孤独だろうが
必要性の欠如(文學など)
パリでは30年間本が売れず、無名だった
当時、200~300冊しか売れなかったものが、今一番読まれているという
祖国とは言語である
わたしは矛盾の中で生きてきたが、何の苦痛も感じなかった
もし体系的な人間だったら理由付けをしなければならないので、嘘をつかなければならなかっただろう
また読みたくなってきた
2025年6月2日月曜日
サイファイ研 ISHE 夏のカフェ/フォーラムのお知らせ
2025年6月1日日曜日
細川護熙氏の話を聴く
2025年5月31日土曜日
本日も詩歌・・・長田弘『死者の贈り物』 LES POEMES D'HIROSHI OSADA
2025年5月30日金曜日
偶然の一致 THE CELESTINE VISION
2025年5月29日木曜日
"科学的"哲学を超えた作品の創造
2025年5月28日水曜日
やっと18歳の若造か
2025年5月27日火曜日
最初のブログ「フランスに揺られながら」、Hatenaブログに引っ越す
2025年5月25日日曜日
" convictions vécues " ということ
2025年5月24日土曜日
サイファイ研究所ISHEについて――AIとの対話(2)
2025年5月23日金曜日
サイファイ研究所ISHEについて――AIとの対話
暇に任せて、サイファイ研についての認識をPerplexityに訊いてみた
第2問以下は、Perplexity自身が発した問いについての答えである
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1)サイファイ研究所の設立目的は何に焦点を当てているのか
サイファイ研究所 ISHE(Institute for Science & Human Existence)の設立目的は、「科学の成果を哲学的・歴史的視点から見直し、人間存在について考えること」に焦点を当てています。
具体的には、
● 科学を出発点としつつ、哲学の蓄積や「生き方としての哲学」にも目を向け、人間とは何か、どのように生きるべきかを多角的に探究する場を設けること
● 理性による体系構築を目指す大学的な哲学だけでなく、実際の生き方に直結する哲学を重視し、それについて語り合うコミュニティをつくること
● 科学、医学、哲学、歴史、宗教など幅広い領域を横断し、最終的には「人間存在」そのものを深く問い直すこと
が主な目的です。
このように、ISHEは「科学から人間を考える」ことと「生き方としての哲学」を両輪とし、現代における人間の在り方や存在の意味を多面的に探求することを設立の中心的な焦点としています。
2)サイファイ研究所はなぜ人間の存在や生き方に焦点を当てるのか
サイファイ研究所 ISHEが人間の存在や生き方に焦点を当てる理由は、科学的知識や成果を単なる知識の蓄積にとどめず、そこから「人間とは何か」「どのように生きるべきか」という根源的な問いへと発展させることに意義を見出しているからです。
研究所の理念では、「知識で終わる世界」から「知識から始まる世界」へと転換し、科学・哲学・歴史を通じて自然や生命、人間存在の理解を深め、自らの存在の変容を目指すことが掲げられています。これは、単に科学的事実を学ぶだけでなく、それを自分自身の生き方や存在のあり方と結びつけて考えることが、現代社会において重要だと考えているためです。
また、サイファイ・カフェやフォーラムの活動では、科学の成果だけでなくその背後にある歴史や哲学にも注目し、参加者が自らの思索を深め、最終的に「人間という存在の理解」や「自己の深化・変容」に至ることを目指しています。このような営みを通じて、知識を「生き方」や「人間存在の探究」と直結させることが、ISHEの活動の中心となっています。
要するに、人間の存在や生き方に焦点を当てるのは、科学的・哲学的知の実践的意義を探り、「自分自身の生き方」や「人間であること」の意味を問い直すことが人間にとって不可欠だと考えているからです。
3)サイファイ研究所が人間の本質に焦点を当てる意義は何か
サイファイ研究所が人間の存在に深く焦点を当てる理由は、科学技術やAIなどの発展が進む現代社会において、「人間とは何か」「人間らしさとは何か」という根源的な問いが、かつてないほど重要になっているからです。
SFや科学技術の領域では、ロボットやAI、サイボーグなど「完璧な存在」と人間の対比がしばしば描かれます。その中で、「不完全であること」や「感情・価値観・生き方」といった人間固有の側面が強調され、「人間とは何か」を問い直す必要性が生まれています。こうした問いは、単なる技術論や知識の追求にとどまらず、人間の本質や生き方、他者や自然との関係、ウェルビーイング(幸福)とは何かといった領域にまで広がります。
サイファイ研究所は、科学や技術の進歩を背景に、「知識で終わる世界」ではなく「知識から始まる世界」を目指し、人間の存在や生き方を深く見つめ直し、現代社会における人間のあり方や意味を多角的に探究することを活動の中心に据えています。
このように、人間の存在に深く焦点を当てるのは、科学的・技術的進歩の時代においてこそ、人間らしさや人間の本質を問い直すことが不可欠だと考えているためです。
4)サイファイ研究所が追求する「自己変容」の具体的な意義は何か
サイファイ研究所が追求する「自己変容」の具体的な意義は、現代社会における人間の本質や生き方を問い直し、自らの価値観や思考、行動を柔軟に見直すことで、より豊かで主体的な人生を切り拓く力を養うことにあります。
現代は、AIやロボットなど科学技術の急速な進展によって、「人間とは何か」「人間らしさとは何か」という問いが改めて重要になっています。SFや科学技術の世界では「完璧な人工知能」と「不完全な人間」が対比されることが多く、人間の不完全さや多様性がむしろ価値あるものとして再評価されています。このような時代において、自分自身のあり方や価値観を「知識で終わる世界」から「知識から始まる世界」へと変容させること――すなわち「自己変容」――は、単なる知識の習得にとどまらず、自分自身を深く見つめ直し、他者や社会、未知の課題に柔軟に対応できる人間へと成長するための基盤となります。
また、自己変容を通じて、現状維持や思い込み(バイアス)から脱し、新しい視点や価値観を獲得することが可能になります。これにより、社会や他者との共生、創造的な問題解決、そして「人間であること」の意味の再発見につながります。
まとめると、サイファイ研究所が追求する「自己変容」とは、科学技術の進歩による社会の変化や人間観の揺らぎの中で、主体的に自分を問い直し、よりよく生きるための新たな自己を創り出す営みであり、それが現代において極めて重要な意義を持つといえます。
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どこまでも続けられるのだが、今回はここで止めることにした
ここには、ネット上の情報が別の視点からまとめられ、時に敷衍された結果が読み取れる
自分の考えが別の衣を羽織って現れたという風情である
ということで、全体的な認識に大きなズレはないようである
ただ、このような対話により、認識の微妙なズレとか、自分の中で言葉になっていなかったことに気づくことがある
そして、そのような発見が何かにつながることがある
そこにこのような対話の意義を見出したいものである