2025年6月14日土曜日
マルセル・コンシュ『形而上学』、最初のバージョンを終える
2025年6月10日火曜日
夏のカフェ/フォーラムに向けて動き出す
2025年6月8日日曜日
古いブログを再生させる
2025年6月7日土曜日
シオランの言葉をもう少し
もちろん、わたしは何もしない
ただ、時間が過ぎていくのを眺めている
それは、時間を埋めようとするよりも良いことなのだ
自然の視点からものことを見ると、人間は外側に向けて生きるようにできている
自分の内側を見ようと思えば、目を閉じ、努力することをあきらめ、流れから離れなければならない
われわれが「内的生活」と呼ぶものは、生命活動の鈍化によってのみ可能となる遅れてくる現象であり、「魂」というものは臓器の適切な機能を犠牲にしてのみ出現し、開花することができたのである
わたしはこれまで、明白な欠点を十分に具えていない、興味深い頭脳の持ち主に出会ったことがない
60歳のときに知っていたことは、20歳のときにも知っていた
40年に亘る長い、余計な検証作業・・・
これからパスカルのように読んでいきたいものである
2025年6月6日金曜日
シオランの声を聴く
1970年(59歳)わたしは今まで眠られない夜の憂鬱の中でしか書いたことがない
7年間、全く眠ることができなかったのだ
書くためにはこの憂鬱が必要で、今でも書く前にはハンガリーのジプシー音楽を聴くことにしている
その一方で活力も持っていた
嫌悪と恍惚の間で積極的に悲しみを味わっている
わたしは書くのが嫌いで、余り書かなかった
ほとんどの時間は何もしていない
パリで最も仕事をしない人間なのだ
40歳でまだソルボンヌに登録していた
学生食堂で食事し、永遠にこの生活が続くことを願っていた
しかし27歳以降の登録が禁止されることになり、この楽園を追われたのだわたしはよく読み、休みなく読み直す
ドストエフスキーの全作品は5-6回読んだ
再読したもの以外について書くべきではないブッダを近くに感じる
それは彼が真の問題を理解していたからだ
1977年(66歳)ルーマニアが好きだったのは原始的なところだ
もちろん洗練された人もいたが、わたしが好きだったのは文盲の人たち
本は打撃を与えるもの、危険なものでなければならない
読み手の人生を変えるものでなければならない
わたしが書く時には人を激しく非難し、覚醒させることを考えている
新聞を読むように読める本は好きではない
本はすべてをひっくり返し、人に疑問を投げかけるものでなければならない
わたしが書くものの有用性など考えていない
なぜなら、本当のところ、読み手のことなど考えていないからだ
わたしは自分自身のために書いている
わたしの中にある強迫観念、緊張を解放するためで、それ以上のものではない
哲学は爆発の形を取った断片としてしか成立しないと考えている
論文のように章立てで論じるのはもはや不可能である
この意味で、ニーチェは優れて解放者だった
彼こそ体系を目指すアカデミックな哲学を破壊したのだから
彼が解放者だと言うのは、その後すべてを語ることができるようになったからだ
今は一見まとまりを持っているように見える本を書く時でも断片的になっている
断片的な思考は経験のすべての側面を反映している
それに対し、体系的な思考は一つの側面、点検された側面しか反映していない
それは貧しいものである
ニーチェやドストエフスキーにはあらゆる経験、可能な限りの人間のタイプが描かれている
体系の中では一人の統率者だけが話すのだ
それ故、断片的思考が自由なのに対し、すべての体系は全体主義的になる
ルーマニア語で書く時、当然のことながら書いていることを意識しなかった
言葉がわたしから独立していなかった
しかしフランス語の場合、すべての言葉がわたしの意識に降りかかってきた
言葉がわたしの前に、外に、細胞の中にあり、それを探したのだ
わたしの人生は退屈に支配されていた
この感情は子供の時からのもので、本質的なものだ・・・
何も興味を引かず、何も意味を持たない状態だ
この感情が繰り返し訪れた
人生において真剣なことは何もやることができなかった
本当のところ、わたしは激しく生きてきた
ただ、存在に溶け込むことができなかった
わたしの辺縁性は偶然ではなく本質的なものだ・・・
無用であり、利用することができないことがわたしの夢だった
退屈のお蔭でこの夢を実現できたのだ
・・・わたしは覚醒させるために書くアウトサイダーにしか過ぎない
Cioran, Entretiens (Gallimard, 1995) より
2025年6月5日木曜日
久し振りにシオランの魂に触れる
寝る前にYoutubeを覗くと、懐かしい名前が出ていた
エミール・シオラン(1911 - 1995)
この名前を知ったのはフランスに渡る前年の2006年夏
フランス語を始めて5年目、東京で知り合ったフランス人との会話の中でのことであった
その経過は、最初のブログ「フランスに揺られながら」に残っている
エミール・シオラン EMIL MICHEL CIORAN(2006-08-04)
久し振りに見てみることにした
これはその昔にも見たような気がする
この雰囲気がいかにもフランスものという感じで、フランスの世界に入ってからしばらくの間は強い違和感を覚えていた
しかし、ある時を境に、自分の中で思索を刺激しているのに気づくことになった
このところ離れていたので、新鮮であった
このフィルムにあった言葉で印象に残ったことを記憶を頼りにメモしておきたい
ルーマニアからドイツを経てフランスに入り、ソルボンヌに登録したが、彼は人生の最後までその状態でいたかったと言っている
わたし自身、大学院生の時はそうできれば最高だと思っていたので、よく分かるという感じだろうか
幸福などあり得ない
人生に意味などないということが、唯一の生きる理由である
書くということは垂直の対話、神と会話することだという
孤独なもの同士の会話、神は自分よりずっと孤独だろうが
必要性の欠如(文學など)
パリでは30年間本が売れず、無名だった
当時、200~300冊しか売れなかったものが、今一番読まれているという
祖国とは言語である
わたしは矛盾の中で生きてきたが、何の苦痛も感じなかった
もし体系的な人間だったら理由付けをしなければならないので、嘘をつかなければならなかっただろう
また読みたくなってきた
2025年6月2日月曜日
サイファイ研 ISHE 夏のカフェ/フォーラムのお知らせ
2025年6月1日日曜日
細川護熙氏の話を聴く
2025年5月31日土曜日
本日も詩歌・・・長田弘『死者の贈り物』 LES POEMES D'HIROSHI OSADA
2025年5月30日金曜日
偶然の一致 THE CELESTINE VISION
2025年5月29日木曜日
"科学的"哲学を超えた作品の創造
2025年5月28日水曜日
やっと18歳の若造か
2025年5月27日火曜日
最初のブログ「フランスに揺られながら」、Hatenaブログに引っ越す
2025年5月25日日曜日
" convictions vécues " ということ
2025年5月24日土曜日
サイファイ研究所ISHEについて――AIとの対話(2)
2025年5月23日金曜日
サイファイ研究所ISHEについて――AIとの対話
暇に任せて、サイファイ研についての認識をPerplexityに訊いてみた
第2問以下は、Perplexity自身が発した問いについての答えである
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1)サイファイ研究所の設立目的は何に焦点を当てているのか
サイファイ研究所 ISHE(Institute for Science & Human Existence)の設立目的は、「科学の成果を哲学的・歴史的視点から見直し、人間存在について考えること」に焦点を当てています。
具体的には、
● 科学を出発点としつつ、哲学の蓄積や「生き方としての哲学」にも目を向け、人間とは何か、どのように生きるべきかを多角的に探究する場を設けること
● 理性による体系構築を目指す大学的な哲学だけでなく、実際の生き方に直結する哲学を重視し、それについて語り合うコミュニティをつくること
● 科学、医学、哲学、歴史、宗教など幅広い領域を横断し、最終的には「人間存在」そのものを深く問い直すこと
が主な目的です。
このように、ISHEは「科学から人間を考える」ことと「生き方としての哲学」を両輪とし、現代における人間の在り方や存在の意味を多面的に探求することを設立の中心的な焦点としています。
2)サイファイ研究所はなぜ人間の存在や生き方に焦点を当てるのか
サイファイ研究所 ISHEが人間の存在や生き方に焦点を当てる理由は、科学的知識や成果を単なる知識の蓄積にとどめず、そこから「人間とは何か」「どのように生きるべきか」という根源的な問いへと発展させることに意義を見出しているからです。
研究所の理念では、「知識で終わる世界」から「知識から始まる世界」へと転換し、科学・哲学・歴史を通じて自然や生命、人間存在の理解を深め、自らの存在の変容を目指すことが掲げられています。これは、単に科学的事実を学ぶだけでなく、それを自分自身の生き方や存在のあり方と結びつけて考えることが、現代社会において重要だと考えているためです。
また、サイファイ・カフェやフォーラムの活動では、科学の成果だけでなくその背後にある歴史や哲学にも注目し、参加者が自らの思索を深め、最終的に「人間という存在の理解」や「自己の深化・変容」に至ることを目指しています。このような営みを通じて、知識を「生き方」や「人間存在の探究」と直結させることが、ISHEの活動の中心となっています。
要するに、人間の存在や生き方に焦点を当てるのは、科学的・哲学的知の実践的意義を探り、「自分自身の生き方」や「人間であること」の意味を問い直すことが人間にとって不可欠だと考えているからです。
3)サイファイ研究所が人間の本質に焦点を当てる意義は何か
サイファイ研究所が人間の存在に深く焦点を当てる理由は、科学技術やAIなどの発展が進む現代社会において、「人間とは何か」「人間らしさとは何か」という根源的な問いが、かつてないほど重要になっているからです。
SFや科学技術の領域では、ロボットやAI、サイボーグなど「完璧な存在」と人間の対比がしばしば描かれます。その中で、「不完全であること」や「感情・価値観・生き方」といった人間固有の側面が強調され、「人間とは何か」を問い直す必要性が生まれています。こうした問いは、単なる技術論や知識の追求にとどまらず、人間の本質や生き方、他者や自然との関係、ウェルビーイング(幸福)とは何かといった領域にまで広がります。
サイファイ研究所は、科学や技術の進歩を背景に、「知識で終わる世界」ではなく「知識から始まる世界」を目指し、人間の存在や生き方を深く見つめ直し、現代社会における人間のあり方や意味を多角的に探究することを活動の中心に据えています。
このように、人間の存在に深く焦点を当てるのは、科学的・技術的進歩の時代においてこそ、人間らしさや人間の本質を問い直すことが不可欠だと考えているためです。
4)サイファイ研究所が追求する「自己変容」の具体的な意義は何か
サイファイ研究所が追求する「自己変容」の具体的な意義は、現代社会における人間の本質や生き方を問い直し、自らの価値観や思考、行動を柔軟に見直すことで、より豊かで主体的な人生を切り拓く力を養うことにあります。
現代は、AIやロボットなど科学技術の急速な進展によって、「人間とは何か」「人間らしさとは何か」という問いが改めて重要になっています。SFや科学技術の世界では「完璧な人工知能」と「不完全な人間」が対比されることが多く、人間の不完全さや多様性がむしろ価値あるものとして再評価されています。このような時代において、自分自身のあり方や価値観を「知識で終わる世界」から「知識から始まる世界」へと変容させること――すなわち「自己変容」――は、単なる知識の習得にとどまらず、自分自身を深く見つめ直し、他者や社会、未知の課題に柔軟に対応できる人間へと成長するための基盤となります。
また、自己変容を通じて、現状維持や思い込み(バイアス)から脱し、新しい視点や価値観を獲得することが可能になります。これにより、社会や他者との共生、創造的な問題解決、そして「人間であること」の意味の再発見につながります。
まとめると、サイファイ研究所が追求する「自己変容」とは、科学技術の進歩による社会の変化や人間観の揺らぎの中で、主体的に自分を問い直し、よりよく生きるための新たな自己を創り出す営みであり、それが現代において極めて重要な意義を持つといえます。
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どこまでも続けられるのだが、今回はここで止めることにした
ここには、ネット上の情報が別の視点からまとめられ、時に敷衍された結果が読み取れる
自分の考えが別の衣を羽織って現れたという風情である
ということで、全体的な認識に大きなズレはないようである
ただ、このような対話により、認識の微妙なズレとか、自分の中で言葉になっていなかったことに気づくことがある
そして、そのような発見が何かにつながることがある
そこにこのような対話の意義を見出したいものである
2025年5月20日火曜日
プロソケイとカルペディエムの日々
このところも、古代人の教えよろしくプロソケイとカルペディエムの日々で、非常にいい感じである
夕方から夜にかけて時を過ごすのに丁度良いところを先日発見
知らない間に外が暗くなっているあの感覚が何とも言えない
それ以来、何度か訪れているが、なかなかよい
これも少しだけパリ時代を思い出させるものとなっている
現在のプロジェと言えそうなものに、コンシュの翻訳がある
翻訳には忍耐強い持続力が求められることを初めての作業で知って以来、やりたくないものの一つになっている
しかし、そのような状況になることがある
今回は内発的な理由であることと、前回の記憶が薄れるだけの時が経っていたこともあるのだろう
始めてしまった
大体7割くらいのところまで辿り着いた
この作業をやりながら感じているのは、日本人であるわたしが理解しようとするのであれば、やはり翻訳は欠かせないということだろうか
これと並行させているものもいくつかあるが、最近いろいろなところで絡み合いを見せている
今日はどんな景色が広がるのだろうか
プロソケイとカルペディエムの一日が始まる
2025年5月16日金曜日
想像以上に開かれていたブログ
昨日は朝のうち、いつものようにゆったりした状態でスタートした
午後になり、環境を変えてやっていると、ツボにはまったような状態になり、止まらなくなった
何かをしている時には時間は消えているが、まさにその深い状態で、気が付くと暗くなっていた
精神の赴くままに体は道具のように動いている、あるいはそのことさえも意識させないくらいの統一感の中にいるとでも言えばよいのだろうか
一日の動かし方、あるいは一日の流れに乗るやり方のようなものを掴んだ気がする
これはパリ時代の感覚を少しだけ思い出させるものでもあった
ということで、久しぶりに充実した一日となり、気持ちが高ぶっていたのかもしれない
夜、これまで目に入っていなかった扉を開けてみた
そこにはブログにアクセスしている(PVによる)国別の統計があった
日頃から日本語で書いているので、ほとんどは国内の方がアクセスしているものだとぼんやり思っていた
しかし、わたしの想像を遥かに超えて、世界に開かれた場になっていることに今更ながら驚いたのである
このブログに関して言えば、
日本、アメリカ、シンガポール、香港、カナダ、ドイツ、フランス、フィンランド、イギリス
前ブログ「二つの文化の間から」は、
日本、アメリカ、フランス、ロシア、ドイツ、シンガポール、カナダ、ウクライナ、ルーマニア
前々ブログ「パリの断章」に至っては、
アメリカ――<6万>――日本、フランス、ロシア、シンガポール、ウクライナ、ドイツ、香港、カナダ
日本、フランス、アメリカ、ウクライナ、ロシア、ドイツ、シンガポール、アラブ首長国連邦、イギリス
といった具合であった
世界で暮らす日本人が増えているということなのか、日本語に興味を示す外国の方が増えているということなのか
おそらくその両方ではないかと思うが、いずれにしてもこれらの分布を見て、新たな気分で各サイトに向かわなければならないという気持ちになってきた
非常に新鮮で、精神に清々しい風が吹き込んでくるような情報であった
もう一つ驚いたことがあった
わたしが最初に立ち上げたgooブログ「フランスに揺られながら」の情報も調べようとして入ってみた
そうすると、今年の11月18日をもって21年の歴史に幕を閉じるとのアナウンスがあった
わたしは20年前から実質3年間、真剣に書いていたが、それが今まで公開されていたことになる
長い間お世話になったので思い出は深く、誠に残念である
いずれ引っ越し作業を始めなければならないだろう
ということで、最初の目的を忘れていたが、こちらには国別アクセスの統計はなかったようである
2025年5月14日水曜日
わたしの哲学との付き合い方
これは以前から感じていることだが、先ほど形になってきた
それは、哲学に対する態度というか、哲学との付き合い方とでもいうべきものについてである
特に、哲学を専門として生活をしなければならないという立場にはいないわたしのような者にとっては、なお一層そうではないかと考えていることである
われわれは人生を歩む中で、何かに引っかかり、大きな疑問の中に放り込まれることがある
その時、もがくように出口を求めて模索する
それが自らの実存に関わることであれば、その模索はさらに真剣なものになるだろう
わたしの場合、そこで出合ったのが哲学者の言葉だったのである
それは視界を開く力があった
それ以来、それまで生きる中で出来上がってきたわたしの中にあるものと共振するものを拾い上げてきた
それがわたしと哲学との距離感であり、付き合い方である
つまり、哲学を勉強しましょうと言って始めたのではなく、先日のローマ人の言葉ではないが、まず生きることがあり、その後に哲学だったのである
そこには哲学に向かう必然性があったことになる
そういう学びは真剣なものにならざるを得ない
より正確に言えば、学んでいるという意識さえなくなり、まさに生きることと直接つながる営みと言えるだろう
哲学は知識ではないと言う
いろいろな哲学者の思想を理解して貯えるというような営みではないということだろう
それは科学と言ってもよい頭の使い方だからだ
そうではない何か、未だに科学とは別に哲学が存在している理由に根差すもの
そういうもの底に抱えながら歩みたいものである
今、マルセル・コンシュ(1922-2022)という日本では無名の哲学者の本を読んでいる
2006年に初めて遭遇して以来、折に触れてその考えに接してきた
わたしの考えにも影響を与えているのか、あるいはすでにわたしの中にあったものが反応しているのか
次第に馴染んできたように感じている
これなども、名前の通った哲学者について勉強しましょうというのとは違うやり方になるだろう
わたしのような立場の人間にとっては、このような哲学(者)との付き合い方が最も自然で、長続きするように感じている
他方、誰でも知っている人を対象にした方が、より広く認知される可能性が高いということも言われる
生き残りをかけている専門家であればそういう見方をして、あるところに群がっていくのも頷ける
しかし、それは哲学本来の在り方ではないような気がしているし、普通に生きている人間にとっても重要な要素ではない
どれだけ自分の生き方に関わる考えを生み出しているのかが問われるのだ
研究対象として哲学者を見るという視線ではなく、自らの実存にとっての重要性を見極める洞察力の方が求められている
哲学に限らず、一つのことに対してこのような付き合い方をする人が増えるほど、多様で柔軟で活力ある空間が生まれるような気がしている
今朝浮かんだ考えのスケッチはこんなところだろうか
2025年5月13日火曜日
エリック・オービエ発見
最近は全くフォローしていないので、トランペット奏者にどんな人がいるのか分からない
今日、Aubier で検索していたところ、探している人ではなく、この方が出てきた
フランスのトランペット奏者、エリック・オービエ(Éric Aubier, 1960-)さんである
師匠はモーリス・アンドレ(1933-2012)さん
日本でも活動しているようなので、知る人ぞ知るなのだろう
仕事の合間の清涼剤となった
日課の方は徐々に元のペースを取り戻しつつある
そして、今どこにいるのか分からなくなる頻度が増えている
わたしにとってはよい傾向なのだが、外から見ていると危ない兆候なのかもしれない
2025年5月10日土曜日
なぜ科学から哲学だったのか
2025年5月8日木曜日
脱自的に生きる
いまを生きている自分これまでに在ったいろいろな自分普通は昔の自分を遠くに置いたまま時には捨て去り、それとは別の自分を生きているそれが忙しく現実を生きるということなのかもしれないしかし、それが最近変わってきているのではないか一瞬そんな思いが過ぎったそれはこれまでに在ったすべての自分を現在に引き上げ彼らと話をしながら生きている、あるいは生きようとしているそんな感覚であるそのすべてを引き受け、そのすべてが求めるところに従って歩むそうした方がより満ちた人生になるのではないかそんな想いが静かに溢れてきた
『免疫学者のパリ心景』p. 83-84
これが新たな発見として蘇ってきたのは、ハイデガー(1889-1976)が現存在の在り方として使った「脱自」(Ekstase)という言葉の意味を探っている時だった
脱自とは、文字通り ek-(外に)+ stasis(立つ)こと
つまり、自分の外に出ること、自己を超えて外に立ち、そこから自分を眺めるような開かれた存在の状態だという
さらにこの脱自は、過去・現在・未来という時間とも関係してくる
ハイデガーの時間は、3つに区切られた時間が並んでいるというようなものではなく、3つの時間に対して自己を超えることを意味する
すなわち、過去への脱自においては過去を引き受け、未来への脱自はまだ見えないところに向かって自己を投企し、現在への脱自においては、世界に関わり自己を現成させることである
さらに、この3つが別々にあるのではなく、開かれた地平に向かって相互に関連しながら広がるというイメージのようである
その中で自己の意味や可能性も見えてくるということなのだろうか
そして、これがハイデガーの言う時間であり、人間の本質的な在り方なのだろう
想像をたくましくすると、脱自は深いところで「エクスタシー」とつながっていそうである
18年前に始めた観想生活を「全的生活」と名づけていたが、ハイデガーに肖れば、「脱自的生活」の中にあったとも言えるだろう
昔の小さなエピソードがこのように繋がってくるのを目撃することは、わたしにとっては大発見で、何とも言えないものがある
当時頭にあった " Primum vivere deinde philosophari "(まず生きよ、そして哲学せよ)の言葉通り、自らが生きて感じ取っていたことが、実は深い真理に繋がっていることに気づいたことになる
ここでいう真理とは、哲学的省察の蓄積の中に眠っているもののことである
哲学的省察が欠かせない理由がここにもある
役に立つ立たないの問題ではなく、必須なのである
今日の一日も広大な地平が広がっていることを願いたいものである
2025年5月6日火曜日
現在という永遠
2025年4月29日火曜日
帰国して5年、ギアチェンジを求めているのか?
2025年4月28日月曜日
春のカフェ/フォーラムシリーズに寄せられたコメント(4)
2025年4月27日日曜日
春のカフェ/フォーラムシリーズに寄せられたコメント(3)
2025年4月26日土曜日
春のカフェ/フォーラムシリーズに寄せられたコメント(2)
2025年4月25日金曜日
春のカフェ/フォーラムシリーズに寄せられたコメント(1)
2025年4月23日水曜日
ロバート・ライシュとジョーゼフ・ウェルチ
今朝はロバート・ライシュさんの駄弁りを聞くところから始まった
前々回の大統領選挙の時にも何度か見た記憶がある
鋭い観察眼と語り、ユーモアのセンスが垣間見える対談には教えられることが多かった
今回もアメリカ人ならではの物おじしない若手との掛け合いが面白いだけではなく、いろいろな考えが巡っていた
中心は、ハーバードと中国と最高裁という巨大な組織に対するトランプの態度の分析であった
ハーバード大学がトランプの要求を拒否したことを受けてのことなのだろう
詳しくはビデオをご覧いただくことにして、ここではその中にあった一つのエピソードを紹介するにとどめたい
それは、赤狩りの嵐が吹き荒れた時の公聴会での出来事である
番組の中でもその場面が流れていたが、ジョーゼフ・ウェルチという法律家の行動であった
彼は同じ事務所に所属していた若い法律家と共産党との関係をマッカーシーに執拗に問い質される
それに対して、ウェルチはこう言い放った
「上院議員。もう十分です。あなたはついに良識(decency)を失ってしまったのですか」
この発言から赤狩りの潮目が変わったと言われている
この行動に対してライシュが賞を与えたいと発言したのを見たウェルチの孫娘が、微笑ましい写真とともに手紙をくれたという
ちょっとした良い話と言ってもよいだろう
今日もよいスタートが切れそうだ
ところで、このビデオが現れたのは、数日前にカリフォルニア大学バークレー校でのライシュさんの演説を見たからだろうか
アクティブに社会に関わるご老人である