2025年4月12日土曜日

第13回サイファイカフェSHE札幌、盛会のうちに終わる






本日は午後から、拙著『免疫から哲学としての科学へ』の第1章を読む、第13回サイファイカフェSHE札幌が開催された

新しい方が1名、飛び込みの方が2名おられたため、9名という多くの参加者を迎え、盛会となった

最初に、この本がどのような意図のもとに書かれたのかについて簡単に説明した後、免疫学の歴史を振り返る第1章に入った

本章のタイトルは、「免疫学は何を説明しようとしてきたのか」で、以下のような構成になっている

1 「免疫」という言葉、あるいはメタファーについて

2 免疫学が確立される前に明らかにされていたこと

3 近代免疫学の誕生

4 新しい選択説の出現

5 免疫を担う主要要素はどのように発見されたのか

6 免疫反応の開始はどのように説明されたのか

7 クローン選択説に対抗する新しい理論的試み

8 新しい理論的枠組みを生み出すもの

今日は駆け足ではあったが、第6節まで読み終えることができた

ということで、次回は第7節から始めて第2章に入ることになる

会の詳細は、近日中に専用サイトにまとめる予定である

なお、次回の開催は8月2日(土)15:00~17:30で、会場はもう少し広いところになるかもしれない

専用サイトあるいはこのブログを注意していただければ幸いである





















カフェの最中は、参加者がどのように感じているのか、なかなか察することができない

それが懇親会になると、いろいろな反応が耳に入り、興味をもって話を聞いていただいていたのだということが分かってくる

皆さん盛り上がっていたのか、本日は懇親会の2次会なるものも開かれた

珍しいことである






















こちらの方も話に花が咲き、いろいろな話題が耳に入ってきた

中に、東京でやっているサイファイフォーラムFPSSのように参加者が話題提供する試みを札幌でも取り入れてはどうかという提案があった

これだけの方が参加されるということであれば、開催は可能ではないかと思われるので、どのようなスタイルにするのか、これから考えることにしたい

具体化された段階で、このブログと専用サイトでお知らせする予定である

今回も実り多い意見交換と交歓の時を持つことができた

これで今年の春のカフェ/フォーラムシリーズがすべて終了したことになる

このシリーズに参加された皆様に改めて感謝したい

夏のシリーズもよろしくお願いいたします













2025年4月5日土曜日

どこかに飛び立ちたい気分















今朝は天気に恵まれたせいか、久しぶりにシガーを愉しんだ

そこに流れてきたのが、この曲である

トニー・ベネットレディー・ガガ




春の陽気とともにどこかに飛び立ちたい気分になる

そうならない方がおかしいタイミングであった

その勢いに乗って、外にではなく内に向かうことにした

このところ当たっているマルセル・コンシュさんの『形而上学』の中へ

少しは捗ることを願いながら






2025年4月3日木曜日

翻訳するように読み返す

































4月に入ってから3日が経過しつつあるが、1ヶ月ぶりにやっと以前の日常が戻ってきた

久し振りにコンシュ著『形而上学』の一文一文にじっくり向き合っている

訳すという作業により、文章の奥深さというか、その背後にあるいろいろなものがよりよく見えるようになる

それから、これまでのカフェの記録をやはり訳すように読み直している

そこに潜んでいるであろうこれまでには見えなかったものを探すと同時に、そこから一つの塊が見えてこないかを模索しながら



もう一つ、来週土曜には春のカフェ/フォーラムシリーズ最後になる第13回サイファイカフェSHE札幌が控えている

今回から拙著『免疫から哲学としての科学へ』を読み、免疫という現象の意味と科学という営みについて考えることにしている

3回か4回のシリーズになる予定だが、こちらも翻訳するように読み進みたい

このシリーズを通じて、新しい景色が見えてくることを願っている

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております










2025年3月30日日曜日

3月を振り返って
















今月も終わりに近づいてきた

これで今年の四分の一が終わることになる

今月は、前半で春のカフェ/フォーラム東京シリーズが終わった

それぞれの会の中に相互につながる要素が見つかり、わたしにとっては興味深いシリーズとなった

今月後半はそれらを反芻しつつ模索・瞑想する中で、いくつか新しいプロジェが浮かんできた

いつものように、どのように展開するのか、長い目で様子を見る以外にはないのだが、ひょっとすると面白いところに辿り着けるかもしれないというものもある


ところで、今回のシリーズでも改めて感じたことだが、仕事をしていた時とは異なり、「・・年前」という感覚が薄れているようである

仕事をしていた時には感じたであろうその数字が示す昔には感じなくなっている

例えば、昔は2年前と言うとそれなりの前に感じていたはずである

ここで昔というのは、仕事をしていた18年ほど前までのことだが、その時点で18年前などというと遥か彼方に過ぎ去ってしまった大昔というイメージだった

しかし今は、フランスに渡った時のことを大昔などとは全く感じない

わたしのすぐそこにある


このような感慨が再び浮かんできたのは、コロナで日本に戻らざるを得なくなってから5年が経過したことに気づいたからだ

ただ、仕事をしていた時の感覚での5年昔には感じられない

それは、当時がそのまま「いま・ここ」にあるという感覚の中にいるためではないかと想像している

これは永遠の感覚に近づいているサインではないかとも思っている

いずれにせよ、今年はこのような区切りの年に当たる

何か変化を呼び込まなければならないような気分にもなってくる







2025年3月27日木曜日

「科学の形而上学化」(MOS)のもう一つの側面について

































以下の考察を、サイファイ研ISHEのMOSのページにアップしたので、ここに転載したい


これまでMOSの方向性として強調してきたのは、科学が明らかにした成果について形而上学、歴史、神学などの視点を動員して省察する必要性であった。しかし、このような方向性には同時に、科学の営みそのものに対する批判的な視座も内包されている。それらを分析することは、これまで強調してきたMOSの営みが提示する現在の科学の範囲を超える「新しい科学」だけではなく、現在の科学が抱えている存在論的な問題点を炙り出し、それらを超克する「より緻密な科学」を創出する上で重要な貢献につながるはずである。その試みの概略をスケッチしておきたい。

まず、自然科学は価値中立的であり、形而上学とは一線を画しているという見方について考えてみたい。MOSの前提も、形而上学と決別したものとして科学を捉えるところにあった。しかし、実際にはどうであろうか。科学者が意識しているか否かは分からないが、自然科学を動かしている信念のようなもの(信仰とまでは言わないまでも)があるのではないだろうか。例えば、自然界は理性によって理解可能である、原因と結果から自然現象は説明可能であり、そこには法則性がある、それは数学的様式によって表現可能である、観察できるものが存在するものであり、観察可能なものだけを対象とする、など、科学には暗黙の前提があるように見える。

このような前提は、人類が歩む中で出来上がってきた歴史が刻まれた考え方である。例えば、ソクラテス以前の哲学者のヘラクレイトス(c.540-c.480 BC)はロゴス(理性・言葉・秩序)を世界の根本原理とし、ピタゴラス(582-496 BC)は「万物は数である」と考えていた。ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)も「自然という書物は数学という言葉で書かれている」という見方を採っていた。これらは自然がどのように出来上がっているのかについての考え方を示す言葉であり、科学の前提・信念は科学そのものに内在する形而上学と言ってもよいのではないだろうか。 

このことは、意識されることが少ない科学の形而上学について、哲学的に省察することもMOSの大きな役割になるということを意味している。換言すれば、「科学の形而上学の形而上学化」(metaphysicalization of metaphysics of science: MOMOS)とでも言うべき試みになる。この形而上学化の過程においても哲学だけではなく、歴史、倫理、詩などを動員して当たることになる。具体的な問題として、量子論の確率的要素や非線形力学など必ずしも合理的には見えない自然が姿を現し、数式には表しきれない生命現象も明らかにされている。これらを問題にすることはすなわち、科学の暗黙の前提を問い直すことに繋がり、科学とはどういう営みなのか、さらに科学はどうあるべきなのかという根源的な思索へとわれわれを導くはずである。

このように、冒頭に掲げたMOSの2つの側面を追求することは、現在進行中の科学を批判的、発展的に認識するだけではなく、「形而上学的解析を含めた科学」という新しい科学の姿を模索する上でも重要なステップになるものと確信している。





 

2025年3月24日月曜日

春のカフェ/フォーラム東京シリーズのまとめを終える
















春のカフェ/フォーラム東京シリーズのまとめを終えることができた

以前とは異なり、ゆっくりと跡を辿りながらの作業であった

おかげさまで、示唆に富む発見に満ちたシリーズとなった

参加された皆様に改めて感謝いたします

ご参考までに、以下に貼り付けておきます


マルセルコンシュの哲学――2006年のインタビュー記事を読む―― 

 

免疫学者のパリ心景』を読む (1)なぜフランスで哲学だったのか

 

① 矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑦ プラトンの宇宙観

② 細井宏一: 人文科学と自然科学の間にあるサイエンス ~考えるということ~  ——啓示か、観察か、それとも・・・——

③ 岩倉洋一郎: 科学は自らの発展を制御できるのか?  


免疫から哲学としての科学へ』を読む (2)自己を認識し、他者を受け容れる

コメントなどありましたら、お知らせいただければ幸いです


これで、春のシリーズは札幌の会を残すだけとなった


第13回サイファイカフェSHE 札幌 

 4月12日(土)15:00~17:30 ( 京王プレリアホテル札幌 会議室)

免疫から哲学としての科学へ』を読む(1)免疫の理論史

 

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております




 


2025年3月19日水曜日

人生を味わい直すディネ


























今日は免疫学者の笠原正典氏に時間を割いていただき、歓談の時を持った

昨年もお話を伺う機会があったが、調べたところ7ヶ月前のことであった

ということで、久しぶりの会食となった


お話を伺っていると、悠々自適の生活を送っておられるとのことで、いろいろと人生を振り返ることが多くなっているようであった

その過程で、これまで理解していなかったことを納得するという機会が増えているとのこと

その感覚はわたしの中にもある

音楽や歴史、宗教に造詣が深く、話題が縦横に巡るという流れであった

ただ、哲学はちょっと、という感じであった

わたしも音楽や歴史には興味があるので、結構楽しみながらお話を伺っていた

バッハに関しては前回も伺ったが、今回はメンデルスゾーンが強調されていた

聴きながら、芸術的な作品の評価において重要になるものは何なのか、という疑問が湧いてきた

それが何なのかは分からないが、作る側としては自分の中にあるものをできるだけピュアな形で表現しておくということに尽きるのではないだろうか

逆に言うと、それしかできることはないということになる

それに反応する人が出るか出ないかは、天に任せるしかないような気がしている

それから、以前にも触れた記憶があるが、マイアミ大学を訪問した際に案内されたアメリカ最南端の地での写真も持参していただいた

そこには今では認識もできない若かりし頃の姿が映し出されていた

ヘミングウェイの家も含めて、懐かしい思い出である

その他、いろいろな方の消息を確かめることも行われたが、これも人生の歩みをある程度やった人同士の会話になるのだろうか


気が付くとお客さんはいなくなり、3時間半があっという間に過ぎていた

いつものように、これでよいのだ、というのが結論になりそうである



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jeudi 20 mars 2025

昨夜、携帯で見た34年前のマイアミでの写真が笠原氏から送られてきた

アメリカ最南端に行ったことがあるという証拠の品として以下に貼り付けておきたい

ここに写っているのがわたしであると認識できればの話ではあるのだが、、































2025年3月16日日曜日

あるカフェでの出来事から時間と幸福へ
















最後は激しい花粉症で終わった2週間にわたる東京でのカフェ/フォーラムシリーズ

現世に降りてのこの期間は怒涛のような毎日であった

コンシュさんではないが、まさに「縮小された時間」に生きるとはこういうことを言うのだろう

このようなことは、それまでの「果てしない時間」に近い状態ではなかったので、いつものようにすごい落差を感じた

それに関連すると思うのだが、時間に関する感じ方の違いを再確認する出来事があった


今回のPAWLで拙著『免疫学者のパリ心景』の朗読会があった

その中で「2年前に出された本は・・・でしょうか」というような質問が聞こえてきた

それを聞いた時、「2年前に」何かやっていただろうかという思いで、何のことを質問されているのか瞬時には理解できなかったのである

仕事をしていた時の感覚で2年前と言えば、自分の中ではかなり前になる

当時は時間がどんどん後ろに流れ去り、1年前でもかなり昔という感覚の中にいたからだ

免疫から哲学としての科学へ』のことを訊かれていることが分かり、それを書いたのがもう2年も前(仕事をしている時の感覚での)になることに驚いたのだった

今では、いつも目に見えるそのあたりに過去が転がっている状態になっているので、その本を書いてから2年も経っているという感覚がなくなっていたのである


今回の朗読会で読んだ中に、このことに関連するところがあった

それは、フランスに渡る2007年の初めに浮かんできた一つの感慨である


いまを生きている自分

これまでに在ったいろいろな自分

普通は昔の自分を遠くに置いたまま

時には捨て去り、それとは別の自分を生きている

それが忙しく現実を生きるということなのかもしれない

しかし、それが最近変わってきているのではないか

一瞬そんな思いが過ぎった

それはこれまでに在ったすべての自分を現在に引き上げ

彼らと話をしながら生きている、あるいは生きようとしている

そんな感覚である

そのすべてを引き受け、そのすべてが求めるところに従って歩む

そうした方がより満ちた人生になるのではないか

そんな想いが静かに溢れてきた

 

それ以来、このような考えが基底にあったのだろう

フランスに渡ってからすでに18年、カフェ/フォーラムを始めてからでも14年も経過しているが、そんな昔に始めたという感覚はなく、いつもそのあたりに転がっている

そんな感覚の中にいる

その一つの証左として、今回のPAWLでのやり取りを了解したのである

これは仕事をしていた時、あるいは「縮小された時間」に生きていた時にはあり得なかったことである

そしてこの時間の捉え方は、幸福感に至る重要な要素になるような気がしている








2025年3月14日金曜日

第20回サイファイカフェSHEで免疫を論じる
























春のカフェ/フォーラムシリーズ最終日の今日は、第20回サイファイカフェSHEで拙著『免疫から哲学としての科学へ』を肴に、生物研究のあり方や自己免疫、共生について考えた

学生さん2名を含む多くの方に参加していただいた

改めて感謝したい

話題提供者の花粉症がピークに達したようで、お聞き苦しい状態になったことをお詫びしたい


今日は、前回の積み残しとなった生物学における統一理論をどのように考えるのかという問題から始まった

さらに、仮説の位置づけあるいは重要性と同時に、別の分野の知あるいは見方が及ぼす影響などについても言及があった

それから予定されていた自己免疫と共生(特に細菌や胎児との)という現象の科学的、哲学的な側面についての議論が展開した

最後に、オーガニズムについても議論する予定であったが、それを終えることができず、次回に持ち越された

今回も落ち着いた議論が展開して視界が開ける瞬間があった

参加者の皆さんにとっても有意義な時間であったことを願うばかりである

今日の詳しい内容に関しては、近いうちに専用サイトにまとめる予定である



次回の第21回SHEは7月9日(水)、恵比寿カルフールB会議室で予定している

免疫から哲学としての科学へ』の第3章、第4章をテーマにしたい

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております






































2025年3月13日木曜日

エネルゲイアとエネルギー再考

























春のシリーズも充実のうちに経過し、明日の拙著『免疫から哲学としての科学へ』を読むサイファイカフェSHEで終ることになった

このシリーズに参加された皆様に改めて感謝したい

今回も、準備段階からそれぞれの会の内容にいろいろなつながりが見え、全体がカクテル状態になってくるのを感じていた

あるいは、それぞれを関連付けたくなる心の動きが出てきていると言い換えることができるかもしれない

いずれにせよ、それなりの時を経た証しと言えるのではないだろうか



ところで今回、参加者から「エネルギッシュですね」という言葉が出てきたのを聞き、驚いた

自分の中ではエネルギーを使っているという感覚が全くなかったからだ

そこで関連付けたくなったのが、今回のカフェフィロP'AWLでも話題になった「現実性、現実態」と訳されるアリストテレスの「エネルゲイア」である

この言葉はエネルギーの語源になっていると言われるが、「エネルギーからは想像できないような意味がある」としてきた

しかし、今回のような感想を聞くと、実は深いところでつながっているのではないか、と思い始めたのである

それはこういうことである



まず、エネルゲイアに関する藤澤令夫氏の説明を聞いてみたい

彼は、単純な動きや移動を意味する「キネーシス」と比較しながら、エネルゲイアの特徴を以下のようにまとめている
1)キネーシスはその行為自体が目的ではないが、エネルゲイアはそれ自身が目的であり、目的が行為の中に内在する 
2)キネーシスの場合には現在の状態とその完了が乖離するが、エネルゲイアの場合には現在において完了してしまう
3)キネーシスは目的に至るまでは常に未完成だが、エネルゲイアはいつも完成され、完全である
4)キネーシスは時間の内にあるが、エネルゲイアは時間とは無縁である
5)キネーシスは「どこからどこまで」という条件に規定されるが、エネルゲイアにはそれがない
6)キネーシスには速い遅いがあるが、エネルゲイアには速さと遅さがない

つまり、エネルゲイアにおいては、今何かをやった瞬間に目的を達成してしまっているので、常に満たされた状態にいることができる

これこそ幸福と言ってもよいのではないだろうか

しかし、忙しく仕事に追われていると、この状態を経験できない

常に先にある目標に向かっているからだ

さらにこの状態に入ると、自分が移動しているという感覚がなくなり、周りが勝手に動いていくように感じられるのである

つまり、どこに行くのにも、何をやるのにも、自分が前に向かって運動しているという感覚はなく、自分は今ここにいるだけで周りが動いてくれるので、精神的に全く疲れないのである

こう説明した時、何を呑気なことを言っているのか、信じられない、などという声も耳に入ったが、本当にそれが実感なのである


そこで今日の本題である

実はそこに、エネルゲイアと、エネルギーあるいはエネルギッシュとの深いつながりがあるのではないかと思えてきたのである

つまり、この状態に入ると、身体的にはどうか分からないが、精神的には何をやっても全く疲れないので、外から見るとエネルギッシュに見えるということになる

なぜなら、本人は何かをやった瞬間に常に完成し、常に満たされた状態にいるからである

この感覚はフランスに渡る数年前から自分のものになっており、フランスでそれがエネルゲイアであることを藤澤令夫氏の著作で知り、何でもすでに考えられていることに驚いたのである

こうして振り返ると、アリストテレスのこの概念は、わたしの生活の根底を支えてきたキーコンセプトなっていたことが見えてくる

今回のシリーズの大発見(あるいは再発見)と言ってよいかもしれない








2025年3月12日水曜日

現世で生きるということ
















今回の滞在は、現世との接触に溢れていた

一つの可能性を探っていたからである

そこで有効だったのが、先週のPAWLでも取り上げられたアリストテレスの「エネルゲイア」である

これを我が物にすると、どんなにスケジュールが混み合っていても、少なくとも精神的には疲れない


普段は天空(あるいは沼底)で気楽に暮らしているのだが、そこではすべてがスムーズに進む(ように感じている)

こちらが何らかの働きかけをすれば、それにちゃんと答えてくれるのが普通である

ところが、現世に降りるとその予想が覆されることがある

こちらが伝えたつもりになっていたものを相手が見ていないことがある

ということなど考えも及ばなかったのだ

現世においては、そういうことがあるので注意するように生きなければならないのだろう

今回の教訓である

いずれにせよ、今回模索している可能性はまだオープンである






2025年3月10日月曜日

学生時代の音楽仲間と再会、熱く語り合う






今回の滞在を前に、学生オーケストラの後輩である山崎君(Trp)からお誘いをいただいた

思い返せば、昨年も同じお誘いをいただき、懐かしい時を過ごした

今回は、前回参加された山下(Ob)、安養寺(Fg)両君に加え、新しい方とお会いすることができた

わたしの「パリから見えるこの世界」というエッセイシリーズについて、毎回のように文学的で哲学的な示唆に富むコメントをお送りいただいた先輩の松山さん

当時の演奏会でラベルのピアノ協奏曲などを共演した思い出深いピアノの植田克己さん
今や日本の音楽界を支えるような存在になられている

さらに、同期の毛利君(Cla)、20年ほど前のラ・フォル・ジュルネで偶然会って以来の後輩塩野君(Ob)にも足を運んでいただいた


昨年もそうであったが、残念ながら逆光のため、皆さんのお顔が判然としないのは幸いなのだろうか

不思議なもので、会った途端に学生時代の口調になるだけではなく、全身で反応しているのには驚いた

今回も学生時代の全く記憶にない行状が明らかになり、内心赤面することもあった

さすがに、わたしのように楽器をなくした人はいなかったうえ、機会をとらえて今でも演奏されているようだ

わたしの生活に興味を持たれている方がおり、詳細に質問をされてきた

日常に追われていると、異次元の世界に見えたのではないだろうか

最後までピンとは来ていないようであったが、それでよいのだと思う

わたしが「最後の眠り」について話した時、横にいた塩野君がリヒャルト・シュトラウス(1864-1949)の「4つの最後の歌」の最後が非常に良い!と教えてくれた

4つの歌とは

 「春」 (Frühling)
 「九月」 (September)
 「眠りにつくとき」 (Beim Schlafengehen)
 「夕映えの中で」 (Im Abendrot) 

最初の3つはヘルマン・ヘッセ(1877-1962)作で、最後はヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ(1788-1857)という初めてのドイツの詩人作

ヘッセについては松山さんからもいろいろなコメントをいただいたので、不思議な感じがしている

ところで「夕映えの中で」が何をうたっているのか、AI に訊いてみた

  困難と喜びをともにしながら
  私たちは手を携えて歩んできた。
  いま、静かな大地を見下ろしながら
  (ともに)旅の疲れを癒している。

  まわりの谷はゆるやかに傾き、
  すでに空は夕闇に染まりゆく。
  ただ二羽の雲雀だけが
  夢見心地に霞の中へと舞い上がる。

  さあ、こちらへ来て、
  彼らの羽ばたきを見守ろう。
  まもなく眠りの時が訪れる。
  この孤独の中で
  道に迷わぬように――。


演奏はカラヤン(1908-1989)+グンドゥラ・ヤノヴィッツ(1937- )が最高とのことだったので、以下に貼り付けておきたい















2025年3月8日土曜日

第13回サイファイフォーラムFPSS、終わる






















今日は、終わりには雪になった寒い一日であった

そんな中、第13回のサイファイフォーラムFPSSが開催された

年度末のお忙しいところ、お集まりいただいた皆様には改めて感謝したい

プログラムは以下の通りであった

 1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑦ 「プラトンの宇宙論」

 2)細井宏一: 人文科学と自然科学の間にあるサイエンス——啓示か、観察か、それとも・・・——

 3)岩倉洋一郎: 科学は自らの発展を制御できるのか?


1)拙「科学と哲学」シリーズはすでに7回目を迎え、ソクラテス以前の哲学者が終わり、前回からプラトンに入っている

今回はその宇宙論について概観した

プラトンの世界観は、常に在る生成しないものと、常に生成・消滅し、真に在ることのないものを識別することから始まる

宇宙はそのどちらになるのかとの問いが出されるが、それは後者である

物体性があり、感覚で捉えられるからである(そういうものは生成されたものなので)

それでは一体、誰がどのように宇宙を造ったのか

それが語られた


2)細井氏は、自らの人生を振り返り、それまで欠落していたと結論された「考える」という営みに入られた経緯から始められた

その後、科学、哲学、神学など幅広い領域について、豊富な歴史的考察を交えた分析が進められた

よく理解できないことが少なくなかったので、時間をかけて振り返ることにしたい

今回、一貫して強調されていたのは、人間の特徴である「考える」ことをどのようにやっていくのかということではなかっただろうか

それは科学を考える以前に重要になることのように感じられた


3)岩倉氏の話題は、特に遺伝子改変や人工知能の領域における最近の進歩がもたらしている倫理的な問題についてであった

指摘された問題については、専用サイトにまとめる予定である

演題は、科学がこれらの問題について考え、制御することができるのかという問いであった

個人的には、それは難しいのではないかというのが直感的な回答になるだろう

なぜなら、現在の科学にはこのような問題を考える自省的な側面が組み込まれているようには見えないからである

そこで提唱しているのが「形而上学化された科学」で、現在の科学の中に、このような問題について考える営みを内包させた新しい科学(「新しい知のエティック」と言ってもよいだろう)である

もし、上述の新しい科学が広く実践されるようになれば、この問いの答えはイエスに変わる可能性はあるだろう

いずれの演題の詳細も、近日中に専用サイトに掲載する予定である



なお、第14回FPSSは、7月12日(土)恵比寿カルフールのGalleryで13時から開催されます

プログラムは決まり次第、この場に掲載する予定です

次回もよろしくお願いいたします


























2025年3月6日木曜日

第12回カフェフィロPAWL開催される






















本日は、第12回カフェフィロPAWLにおいて拙著『免疫学者のパリ心景――新しい「知のエティック」を求めて』(医歯薬出版、2022)の朗読会 vol. 1 が開催された

まず、寒い中お運びいただき、議論に積極的に参加していただいた皆様に感謝したい

会のスタイルや運営は、プログラムにある通り、この本の編集者である医歯薬出版の岩永勇二氏にお任せした

驚いたのは、室内を暗転させ、灯りは本に取り付ける小さな読書灯だけというセッティングであった

詩的な内容の本では、このようなスタイルの朗読会が少なくないという

拙著が詩的な雰囲気を持つものであるという評価があったのだろうか

いずれにせよ、この状態で指定された箇所を読み進んだが、この環境が実に不思議な影響を及ぼしていた

読んでいるテクストには、その昔、全身で向かっていた歩みのエキスのようなものが書かれてある

そのため、その背後にあるものまで浮かび上がってきて、こみ上げてくるものがあった

あの暗闇で拙い読みを聴いていた皆様は、一体どのような印象を持たれたのだろうか

伺ってみたいものである


今日の話題は、なぜフランスで哲学だったのかという問いと、フランスに向かう前に刻印を残した二人の哲学者、ピエール・アドーとマルセル・コンシュについて触れた後、わたしが生きる上で非常に重要だったアリストテレスの「エネルゲイア」について考えるというものであった

エネルゲイアについては、この概念を知った後にそれを自らの生活に生かしたというのではなく、それまでの歩みの中で感じ取っていたことが実はエネルゲイアという状態だったという気付きであった

わたしが哲学に入ってからは、このような発見が相次いだと言っても過言ではないだろう

幸福にも深く関係すると考えているエネルゲイアという状態を、実際に経験されている方は意外に少なかった

忙しい仕事に打ち込む、コンシュ流に言えば「縮小された時間」に生きている場合には、それは難しいのかもしれない


また、哲学を体系の構築ではなく、世界の見方の変容と捉えている二人の哲学者が刻印を残したが、それはわたし自身がそのような性向を持った人間であることを示しているのかもしれない

アドーの著作は日本でも翻訳されるようになってきたが、コンシュに関しては未だ日の目を見ていない

現在、コンシュの翻訳を進めているところだが、リスキーなプロジェクトには見えるが、刊行を考える出版社が出てくることを願うばかりである


会の詳細については、近いうちに専用サイトに紹介する予定である

なお、朗読会の vol. 2 を第13回カフェフィロPAWLとして、11月に開催する方向で考えていきたい

次回も盛会であることを願うばかりである









































2025年3月4日火曜日

コンシュ哲学を語る第11回ベルクソンカフェ終わる






















今夜は大雪が心配されたが、第11回ベルクソンカフェを開催した

冷たい霙が降る中お集まりいただいた皆様には改めて感謝したい

今回は、前回のFPSSでも取り上げたマルセル・コンシュという現代フランス哲学を代表する哲学者の生の声を聴くことにした

具体的には、2006年の Philosophie Magazine 第1号に載ったインタビュー記事を読み、その哲学について語り合った

まず、いかなる観点からも正当化できない子供の苦しみの存在を絶対悪と認識したことに由来する無神論哲学について語られる

神というものは理性で説明すべきものではないとして、神学者、神学的哲学者を批判する

彼の批判は、神の啓示を信じている人々に対するものではないことを断っている

そして、哲学と神学、さらに科学との違いを明確にする

科学が狭い領域について証明を通して真実を所有していくのに対して、哲学は瞑想を通して現実の全体についての真理を得ようと試みることであるとする

その方法についてはこれが唯一の道であると断言できないため、いくつかの可能性が生まれる

それを選ぶのは、その人の意見(変わりやすいもの)ではなく、人生を歩む中で感得した確信による

その哲学を生きることができるようなものでなければならないという


また、時間の捉え方として「果てしない時間」と「縮小された時間」を区別し、普通の人は時間に追われて生きると言われるように「縮小された時間」を生きている

しかし「果てしない時間」から見ると、われわれの存在は閃光のようなものになり、モンテーニュに言わせれば、存在の名に値しない

「果てしない時間」という視点がなければ、日常に埋没するだけで、哲学には向かうことはないのかもしれない

その他、彼の哲学的立場としての唯物論ではない自然主義、特にギリシアにおけるすべてを包含するピュシス(Physis)という意味における「自然」の重要性、道徳と倫理の峻別、平和主義、さらに行動と活動、および社会的・政治的自己実現と他者との関係のニュアンスに重点を置く生き方の対比などが語られている

近いうちに専用サイトにまとめる予定なので、そちらを参照していただければ幸いである


当初2回に分けて読む予定だったが、初回が順調に進み、読み終えてしまった

ということで、次週の会はキャンセルということにしたい

何卒、ご理解をいただければ幸いである




































2025年3月3日月曜日

春の会食終わる
















春を迎えて恒例になっている学友との会食があった

今日は春らしい雰囲気になったが、外は寒かったようで、午後から白いものが降っていた

いつものことだが、他愛もないことを駄弁って時を貪ったという感じだろうか

それでよいのだ、というのが結論になるのだが、、


わたしにとっては久しぶりに沼の底から体を出した状態になったので、いろいろ話していたのではないだろうか

特に、このところ考えていた現世における問題なども含めて

学友は某国のビジネスマン指導者の考えには違和感を覚えているようで、最近ヨーロッパの指導者との違いが際立つようになったとの分析をされていた

その点は同意せざるを得ない

ここに来て、歴史の蓄積の差がじわじわと出てきているのだろうか

日本も根本にかえって考え直さなければならないのだが、考えるという行為がどこかに行っている状態なので、なかなか大変である


ところで、厳しい現実の中で生き残りをかけて戦っている人たちがいる一方、何のためになるのか分からないようなことに精を出しているように見えるわたしのような歩みはどう考えればよいのだろうか

ご両人ともやや呆れ顔のように見えたのは気のせいだろうか







2025年3月1日土曜日

春のカフェ/フォーラムを目前に控えて




















今日は暖かな日和である

この冬に入る時には、これから寒さに耐えなければならないと暗い気持ちでいたが、想像以上に穏やかな冬となってくれた

今日そこから抜け出て春になったことを確信した


あと数日で「春」のカフェ/フォーラムシリーズが始まる

このようなアクセントが生活に入ると、我が日常の特徴が明確になる

かなり前から気づいているが、再度確認しておきたい

意識の面から言うと、すべての時間をほぼ完全に自分のものとしている

つまり、そのすべてが意識されているという状態だろうか

いろいろな刺激が入る普通の日常では、この状態は維持できない

その深さまで入ることができない

少なくとも自らの中はいつも静寂に包まれていなければならないからだ

もし今の意識状態を知らないとすれば、この違いに気づかずに終わる可能性が高い

生物学的に言えば、代謝が抑えられ、冬眠状態に近いように見える


この状態から立ち上がりを見せるのが、このシリーズである

これまでに醸成されてきたものを遥か下方に眺めながら、外界との接触に入ることになる

できるだけ濃厚な交換ができるようにしたいものである

どのような発見があるのか楽しみにしながら、この2週間を過ごすことになるだろう







2025年2月25日火曜日

サイファイカフェ/フォーラムの内容が絡み合ってくる


























春のカフェ/フォーラムが来週に迫ってきた

現在、その準備をしているところである

その過程で、全く意識せずに決めているカフェ/フォーラムのテーマが相互に絡み合いを見せてくる

これはいつからか気づくようになったことだが、その程度が増しているように感じる

このような発見は大きな喜びをもたらしてくれる

一つには、これまでの蓄積がそのようなつながりに対して敏感にしているのかもしれない

これを切っ掛けに、さらに深掘りすべき問題も浮かび上がってくる

これからに向けての力を与えられているような気もしている



例えば、FPSSにおいて、哲学と科学が自然をどのように見てきたのかというシリーズをやっている

今回はプラトンを取り上げる予定である

彼はこの世界を具体的なもので説明しようとする人たちと、超越的な存在を認めて自然を説明しようとする人たちがいることを指摘し、前者を不敬虔な人たちと形容している

おそらくプラトンが初めて指摘したこの対立は、21世紀の現在もそこにあるわれわれの問題でもある

ベルクソンカフェで取り上げるフランスの哲学者マルセル・コンシュは、この問題についてもコメントしている

この哲学者については、カフェフィロPAWLの中でも話題になる予定だ


われわれが存在している宇宙はどうなっているのかというテーマは、現代物理学のものでもある

これは、科学と哲学が交わる一つの大きな領域になるのだろう

サイファイカフェSHEで読む予定の拙免疫論をさらに展望すれば、この自然をどう見るのかというところに向かう

免疫が形而上学化された後に広がるその世界もまた、壮大なのである











2025年2月21日金曜日

日本の鎖国性
































このところ(と言うかいつもなのだが)、外形的には単調な日々が続いている

午前中はぼさーっとして考えを巡らし、午後からは集中の時間を取り、寝る前の数時間はリラックスするというのが形になってきた

そして眠りに入る30分ほどをその辺にある本を取り出しての読書に充てている

一昨年の暮れに偶然始まり去年のパリ行きまで続いたのだが、パリから戻りすっかり忘れていた習慣である

それが昨年末に蘇り、今も続いている

これまでシェリング哲学についての論評を読んでいたが、全くと言っていいほど反応する言葉に出会わなかった

やはりシェリング本人の声を聴く方が先だろう

ここ数日は、鶴見俊輔の『戦時期日本の精神史 1931〜1945年』をパラパラとやっていた

昨日のところには、日本の鎖国性という問題が出てきた

島国という物理的な条件から生まれた自己完結性

周りの人は皆、遠い親戚という感覚

鎖国がそれをさらに増強したかもしれない

しかし、この傾向は開国した後も続いている

ある現象を見た時に世界を視野に入れて考えることが、インテリの間でも少ない

それから、外国人と対した時も相手に自分の考えを理解してもらおうとする能力が欠如しているという

説得して相手を共に歩ませることが苦手なのである

それは戦時中、外国の土地に入った時にも見られたようだ



自らを振り返れば、最初にアメリカに行った時、20代のわたしは自分を説明できないことに戸惑った

それまで、周りの人はほとんどが同じ背景を持っており、違った部分は非常に限られていると勝手に想像していたからかもしれない

自分を説明するというような頭の使い方をしたことがなかったのである

第三者が存在しない環境だったのである

それ以来、この存在をどのような枠組みに入れて語るのかということが一つの問題になった

違う環境に入れば入るほど、枠組みの取り方がいろいろ変わってくる

その幅が増えるほど、理解する力や受容する力も上昇するものと思われる

確かに、意識の中に第三者がいない状態においては、言論が家の中でのお話のようになってくる

日本の言論空間を見ていつも感じるのは、他者(親戚や世間を超える)が見ているという感覚の欠如と言えるものである

これは、今でも続いているという鎖国性とどこかで繋がっているような気がしている









2025年2月13日木曜日

天空から現象界での日々へ















前回の記事でも触れたが、このところ現実世界でのプランがいくつか浮かび上がり、どのように対応するのかを考える時間が長くなっている

それまでは天空での時間をいかに充実させるのかだけを考えていればよかったのだが、現実が絡むのですんなりとことは進まない

と同時に、こちらの感じ方も日々変化するので、なかなか大変である

それがはっきりしないと気分も落ち着かないのである

現実に生きている方たちはさぞ大変な日常ではないかと同情を禁じ得ない

まだ具体的な姿は現れていないが、いずれ見えてくるような予感はしているのだが・・・


そんな中、春のカフェ/フォーラムの準備と並行して、コンシュの翻訳も進めている

そろそろ、カフェ/フォーラムに集中することになるのではないだろうか

皆様の参加をお待ちしております






2025年2月9日日曜日

春のカフェ/フォーラム近づく

































すでに2月に入って時が経ってしまった

このところ、現世においてやるべきアイディアがいくつか出てきて、どうするかを考えていた

その姿が見えてくる時は来るのだろうか

こういうことを考えている時には天上の世界が遠のき、己の日常がかなり異常に見えてくる



それと同期するように、ISHE研の春のカフェ/フォーラムが近づいてきた

プログラムはこちらから

これは地上に戻り、リアルな意見交換をする時が近いということである

それに向けて具体的な準備を始める時がきた

その過程で注意したいのは、どれだけ深い読みができるのかということになるだろう

これまでにも増した深さを求めたいものである

そして、今回はどのような発見があるのだろうか

期待して待つことにしたい












2025年1月31日金曜日

1月を振り返る


























今年最初の月が過ぎ去ろうとしている

昨年の1月は英語版の免疫論に当たっていた

今年は、昨年末から始めたマルセル・コンシュの『形而上学』の翻訳を継続している

じっくり吟味しながら読むという作業をやっていると、著者の頭の中に入り込むような感覚が生まれる

そこから、一つのものの見方、考え方が立ち上がってくる

それを自らも体験することで多くのことを教えられる

このような本を読むためには、自由な時間と精神的な暇(余裕)が欠かせないということも見えてくる

ということで、まだ半分くらいの地点にいる



今月を歩む中で、いくつか考えるべきテーマが現れてきた

その一つがジョルジュ・カンギレムである

昨年と一昨年に出した免疫論で、免疫の本質を論じる際に援用した哲学者である

その哲学をさらに深掘りしたいと思ったのである

そのためのサイトを作るために写真が必要になったが、直ぐに使えそうなのはウィキにある解像度の低いものだけ

仕方なく他の使用許可をもらうことにして2か所にメールしたところ、CNRSからすぐに返答があった

やり取りの中で、ネットに出ているのは解像度が低いので、元のバージョンを送ってくれることになった

寛大な対応を受け、真面目に向き合わなければならないという殊勝な気持ちが沸いてきたところである

その他のテーマも、これから長く付き合うことになりそうなものばかりである

ゆっくりと進めていきたいものである



もう一つだけ

過去のカフェ/フォーラムのサイトを読み返すことがあった

そのまとめを書いた人はどこの誰?という感覚になっているので、客観的に読むことができるようになっている

そして、そこには汲めども尽きぬテーマが溢れているのを発見して驚いた

これからも折に触れて過去を覗き、豊かなその泉から何かを汲み取っていきたいものである



2025年もよいスタートだったと言えるのではないだろうか











2025年1月19日日曜日

サイファイ研究所ISHE 春のカフェ/フォーラムのプログラム決まる



ISHE研の春のカフェ/フォーラムのプログラムが以下のように決まりました

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております

よろしくお願いいたします


◉ 2025年3月4日(火) 
テーマ: マルセルコンシュの哲学――2006年のインタビュー記事を読む―― 
恵比寿カルフール B会議室 
 
◉ 2025年3月6日(木) 
テーマ: 『免疫学者のパリ心景』を読む
ファシリテーター: 岩永勇二(医歯薬出版) 
恵比寿カルフール B会議室 
 
◉ 2025年3月8日(土) 
プログラム:

① 矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑦ プラトンの宇宙観

② 細井宏一: 人文科学と自然科学の間にあるサイエンス――啓示か、観察か、それとも・・・ ――

③ 岩倉洋一郎:<フォーカス・ディスカッション> 科学は自らの発展を制御できるのか?  

 日仏会館 509会議室 

 

◉ 2025年3月11日(火) 
テーマ: マルセルコンシュの哲学――2006年のインタビュー記事を読む―― 
恵比寿カルフール B会議室 
 
◉ 2025年3月14日(金) 
テーマ: 『免疫から哲学としての科学へ』の第2章を読む 
恵比寿カルフール B会議室
 

 

◉ 2025年4月12日(土) 
テーマ: 『免疫から哲学としての科学へ』の第1章を読む 
京王プレリアホテル札幌 会議室










2025年1月15日水曜日

シェリングを摘まみ読む
















自然哲学とは何ぞや、ということで関連するものを読み始めている

近代の自然哲学の源にはシェリング(1775-1854)がいるというような指摘をどこかで見た

ということで、シェリングを読んでみることにした

普段は浮かんでこない哲学者なのだが、前ブログで『学問論』を読んだことがある

今回は『自然哲学に関する考案』(1797:松山壽一訳)を読み、印象に残ったところを書き出すことにしたい

哲学は徹頭徹尾、自由の所産なのである(フィヒテ)。哲学は、何人にとっても、自分で作り上げたものにほかならず、哲学の理念といえども、哲学そのものの結果にほかならない。しかるに、「普遍妥当な」哲学などというものは不名誉な妄想である。

これも科学との違いを表している

形而上学にはその人の選択を許すところがあるが、科学は一つの共通の枠組みに収まるものしか認めない

 人間が自分自身を外界に対抗させるや否や、哲学への第一歩が踏み出された。かの分離によってはじめて思弁(反省)が始まる。自然が常に合一していたものを、それ以後、人間が分離することになる。人間は対象を直観から、概念を像から、挙句の果てには(人間が自分自身の客体となることによって)自分自身を自分自身から分離してしまう。

 しかしこの分離は手段でしかなく目的ではない。というのも、人間は行為すべく生まれついているからである。ところが人間は自省しなければしないほど活動的である。人間のもっとも高貴な活動は無自覚のそれである。人間が自己自身を客体化するや否や、もはや「全」人が行為してはいない。

そのうえで、病める哲学と健全な哲学を議論する

病める哲学とは思弁を目的とするものだが、健全な哲学は思弁を手段にするものだという


このような文章を哲学に入った時に読んでいたと想像すれば、おそらく沁み込んできたのではないだろうか

今回は、自分の中に出来上がりつつあるものを確認するという目で読んでいる

ところで、今年はシェリング生誕250年とのことなので、何か面白いことでもあるのだろうか







2025年1月11日土曜日

アトリエのわたし



























寒い日が続いているが、雪がないのは幸いである

毎日、太陽が出て地球が暖まるのを待って、外に出るようになっている

そんな中、一つのことに気がついた

それは、暖まるのを待って家にいる間、生きていないのではないかということだ

動物であれば冬眠をするが、それと余り変わらないような気がしてきた

そう思ったのは、アトリエにいる時は同じように寒いのだが、高い精神の集中を見るからだ

天空の生活においては、その時間だけが生きている時間のように見えてきたのである

そういう認識に達すると、やるべきことがはっきりしてくる

これは意外に大きな発見になるのではないだろうか

それがこの身を促す力を持っているからだ

本当に身に染みて認識しているかどうか、明日から注意深く観察したい











2025年1月5日日曜日

自然哲学について考える

































自然哲学という領域がある

哲学あるいは科学の起源にあると考えられている

しかし、その後の経過を見ると、科学からも哲学からも遠ざけられているようである

現代科学では哲学は排除され、大学の哲学においても自然哲学は存在しないかマイナーな存在でしかないという

科学を経て哲学に入ったわたしのような者から見ると、自然哲学的アプローチは魅力的に見える

拙著『免疫から哲学としての科学へ』は、免疫を自然哲学的に解析したものと言えるのではないかと思っていた

その理解は正しいのか、間違っているのか

これから折に触れて、この問いについて考えていくことにした

 こちらから

このように、プロジェになりそうなことがこれからを歩む中で飛び出すことを期待したい