2025年11月15日土曜日

イーロン・マスクが語る古代ギリシア哲学



秋のカフェ/フォーラムがひと段落して、少しのんびりできるようになった

Youtubeに行くと、わたしの辞書にはなかったイーロン・マスクが並んでいる

マスクに触れるのは初めてではないだろうか

そして、その話を聞いて驚いたのである

それが、わたしの考え、そしてわたしが体得したことと完全に重なっていたからである

それは新しいことではなく、古代ギリシアの哲学が教えていること、そのものなのである

それを実践することにより、時間はかかるが、確かにマスクが言っている境地に入ることができる

と、わたしは保証することができる

それにしても、こんなところでつながってくるとは思わなかった

驚きの週末である







2025年11月14日金曜日

第22回サイファイカフェSHEで免疫を統合的に議論する






















本日は第22回サイファイカフェSHEを開催し、拙著『免疫から哲学としての科学へ』を読みながら免疫を広い視野から検討した

免疫の本質に至る方法として、解析の対象になるものをできるだけ多く集め、そこに共通して見られる最少要素を探し出すというやり方を採用した

これはソクラテスがやった方法と同じで、アリストテレスはそれを本質を抽出する方法と見なした

その結果、本質的な機能要素として、認識、情報統合、反応、記憶の4つを抽出し、この過程を「認知」と仮に規定した

これは神経系と同じ機能要素で、最近の免疫と神経の直接の結びつきを示す結果はその前提を補強するものである

つまり、免疫は全身が一体となって機能する生存に不可欠の要素であることが示唆される

そこから、スピノザの「コナトゥス」とカンギレムの「規範性」を参照して、免疫を見直す作業を行った

これは著者が言う「科学の形而上学化」の過程であるが、その意義についても議論された

詳細は近いうちに専用サイトに掲載する予定である

訪問していただければ幸いである


























今回で『免疫から哲学としての科学へ』の読書会を完了したことになる

懇親会では、これからも免疫をテーマにした会を継続してほしいとの声が聞こえた

例えば、クリルスキー著『免疫の科学論』やコサール著『これからの微生物学』などの書評会あるいは読書会など

その他、今回の免疫論に続く「免疫論2.0」とでも呼ぶべきものが生まれるようであれば、それについての話があっても面白いのではないか

非常に積極的かつ具体的な提案があったので、来年に向けて考えておくことにしたい

決まり次第、お知らせする予定である

参加された皆様に改めて感謝したい













2025年11月12日水曜日

第13回カフェフィロPAWLで『免疫学者のパリ心景』を読み、古代に思いを馳せる
























今日は、第13回になるカフェフィロPAWLが開かれた

初めてではないかと思うが、参加申し込みされた5名のうち4名が欠席されるという事態になった

そのせいか、プログラムも話の内容も自由度の高いものになったようである

テーマは、拙著『免疫学者のパリ心景』の第2章「この旅で出会った哲学者とその哲学」からいくつかの節を読もうということであった

当初の予定では、ハイデガー、ディオゲネス、エピクテトス、マルクス・アウレリウスを読むことになっていた

しかし流れで、ハデガーではなく、エピクロスを読むことになった


本書が出たのはもう3年前になる

そのため、当時感じていた気持ちを再現するのに努めなければならないところもあった

印象の鮮明さが薄れてきているからだろう

例えば、この章のエピグラフはデカルトの『方法序説』から次の言葉を選んだ

当時の気持ちをこの一字一句が写し取っていると感じたからである
そしてちょうど八年前、こうした願望から、知人のいそうな場所からはいっさい遠ざかり、この地に隠れ住む決心をした。・・・ わたしはその群衆のなかで、きわめて繁華な都会にある便利さを何ひとつ欠くことなく、しかもできるかぎり人里離れた荒野にいるのと同じくらい、孤独で隠れた生活を送ることができたのだった。(谷川多佳子訳)
しかし、今では当時の感動は蘇ってこない

これは致し方ないのかもしれない

今その状態にはいないからである


ところで、今日読んだのはいずれも古代ギリシア・ローマの哲学者であった

当時の自由な空気が伝わってくるように、実に多様な哲学が展開されていた

大きな理由はキリスト教以前であったため、精神への拘束が少なかったためではないかという見方がある

マルセル・コンシュなどはそう考え、哲学者になるとはギリシア人になることである、といフォルミュールまで作っている

立ち居振る舞いが異常に見えることがあったとしても、そこには「精神の高貴さ」が認められるという発言もあった

現代社会ではなかなか聞くことがない言葉である

そういう精神の状態が希求されていないので致し方ないだろう

個人的には、そういう状態を求めたいところである

プラトンによれば、あるものの本質はその始祖に表れているという

そうだとすれば、哲学の本質的なものは古代ギリシアの哲学の中にあると言えるのではないだろうか

汲めども尽きぬ泉がそこにあることになる


詳細な内容は近いうちに専用サイトにまとめることにしている

訪問していただければ幸いである




































2025年11月9日日曜日

新著『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』が刊行される
































先週の金曜にアップロードした新著『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』が本日発売になった


これは、フランス語を読み哲学する「ベルクソンカフェ」でこれまで取り上げた3人の哲学者の思想を「生き方としての哲学」という視点から読み直したものである

そこに、いずれの哲学者からも問題にされる幸福の問題が現れる

この問題にわたし自身も参加してみた

哲学が困難になっている現代社会において、哲学をより深く、しかしわれわれの日常との関係を考慮に入れながら捉え直そうとしている

進歩がないとされる哲学だが、ひとところに留まるということもまたありえないのだ

そのほかにも多くの思索を誘発する種子がいろいろな形で埋め込まれている

本書は今年設立したISHE(アイシー)出版が世に問う最初の作品となる

どうか手に取ってお読みいただき、コメントをお寄せいただければ幸いである


















2025年11月8日土曜日

第15回サイファイフォーラムFPSS、盛会のうちに終わる























今日は午後から日仏会館で第15回サイファイフォーラムFPSSが開催された

個人的には、いつものように直前まで準備に追われていた

最後のところでやっと着地点が見えてくるという幸いに恵まれ、比較的気持ちよく会に臨むことができた

プログラムは以下のようになっていた

最初に、わたしのシリーズ「科学と哲学」第9回として、カール・ポパー(1902-1994)によるプラトン批判を取り上げた

前回、プラトン哲学に対して批判的な目を向けている人物がいることに気づき、その視点を調べておく必要があると思ったのが切っ掛けである

具体的には、彼の論考『開かれた社会とその敵』の冒頭を読んで、プラトン哲学のどこがどのように問題なのかについて考えることにした

テーマが政治的な問題であり、生きるということと密接に関連しているためか、自分の中ではこれまでにないほど力が入っていたように感じた

それが外に現れていたのかどうかは分からないのだが、、



























それから、尾内達也氏による「時空間についてのTNS理論」と久永眞一氏の「妄想と幻覚の正体?」の発表があった

こちらの発表は内容が濃いだけでなく、スコープが広いため、時間内にその全貌を理解するところまではいかなかった

これから時間をかけてその姿が見えるところまで持っていく必要がありそうだ

まとめは専用サイトに掲載する予定なので、訪問していただければ幸いである









































2025年11月5日水曜日

第12回ベルクソンカフェでコンシュの『形而上学』を読む














秋のカフェ/フォーラム東京シリーズが始まった

今日は午前中から先日訪問した公園のカフェで準備したが、オープンスペースで考える喜びを味わいながらの作業となった

完全に時間が消える甘美な滞在ともなった

夜は、第12回ベルクソンカフェマルセル・コンシュの『形而上学』の「まえがき」と「プロローグ」を読んだ

「まえがき」では、コンシュが考える自らの哲学を35の項目に要約したものが提示されている

彼が考える哲学は、現実の全体とその中にいる人間に位置についての「自然の光」(デカルトが言うところの)による真理の探究である

ここに出てくる「現実の全体」とは何をいうのか問われなければならないだろう

彼は道徳と倫理を分けて考えている

道徳とは人間が遂行しなければならない無条件の義務であり、倫理とはその上で個人の選択に任されているもの、生き方の選択である

そして、彼の倫理は幸福の探求でも知恵の探究でもなく、真理の探究だという

さらに、形而上学としての哲学は科学ではないし、そう主張する必要もない

科学は範囲を狭め、証拠をもとに論証を通して、コンセンサスの得られる仮ではあるが真理を獲得する

それに対して、形而上学としての哲学には証拠はなく、その方法論は瞑想だという

したがって、形而上学はそこに整合性があれば成立可能で、いくつもの可能性がある

一つの哲学は理性だけではなく、その人間のすべての能力、その人間の持てる資源を駆使して試みるものだという

それゆえ、哲学には一つの個性を刻印しているし、していなければ本物の哲学ではないと言いたいようである

というような調子で議論が展開していく

コンシュの議論は細かく厳密で、言葉の使い方にも細心の注意が払われているように感じるという感想もあった

詳細は近いうちに専用サイトにまとめる予定である

訪問していただければ幸いである

















vendredi 7 novembre 2025

これまでに、参加者から以下のようなコメントが届いております。


◉ 本日の原文テキストは、これまでで最もスッと読める文章だった。講師も含め出席者の皆さんもそう感じていたためか、読後の質疑応答・議論の時間が長めに取れたのが良かった。今後の会も楽しみになるテンポであった、というのが今回の会の感想である。それでは、内容について、興味をもった点をここに記しておきたい。今回の読書会で取り上げられたテキストは、コンシュがフランス語で著した著作のprologueの文章である。講師が和訳されているテキストも配られて、仏語でまず読み、和訳の助けを得ながらコンシュの考えを理解する試みを行った。

講師の和訳が一冊の本になるときが楽しみである。そう感じさせる名訳を今回のテキストの中からひとつ挙げてみたい。仏語原文のテキストの Page5 の 28) La sagesse est une éthique cohérente avec une métaphysique. のcohérenteの和訳である。講師は、「矛盾しない」と講師の和訳テキストでは訳して下さっている。読者への「優しい配慮」だろう、と会の中で感じた。日常フランス語の和訳ならば、「首尾一貫した」とでも訳すのであろうが、敢えて「矛盾しない」と訳してくださっている。このような配慮に、講師の「コンシュ」という哲学者をに興味を抱いてくれる人が増えてくれたらな、という想いが伝わってくる。このcohérenteという言葉。「コヒーレント」といえば、理工系には、単なる日常語の「一貫性」なだけではなく、専門用語でもある。レーザー等の専門分野では、その分野の定義で使われている。であるから、哲学者が哲学の著作のなかで、cohérenteと使っているからには、哲学的な定義とその定義についての様々な議論もわかっていなくてはならないのだろう、と読者は想う。会の後で調べてみたらやはりそのようであった。

といった感じで、ひとつひとつこれは「哲学用語」であろうと、一語一語調べながらコンシュの原文を熟読するのも一つの読み方であろうが、哲学科の大学生ならばその余裕もあるかもしれない。そうした余裕がない者でも、コンシュの思想をまず垣間見てみようとするならば、ともかくも、まず、ひととおり通しで読んでコンシュの哲学の概観をつかんでみることである。そうした観点から講師の和訳を眺めるならば、読者に対する講師の思いやりと気遣いが感じられる名訳なのである。「矛盾しない」という訳は、「まあ、ともかく、ひととおりリズミカルにコンシュの考えを読んで把握して概観できるようになってから、細かい、哲学的言葉遣いを覚えて行けばいいさね。」という眼差しが読者を見守っているように感じられる。この著作の和訳本が上市されるときが楽しみである。


◉ 昨日はありがとうございました。マルセル・コンシュは自然を無限そのものとして捉え、古典期のパスカル、カント、ヘーゲルらの人格化された神に基づく哲学を批判し、無限を制限するその構造に異論を唱えています。それは、神が意思や目的を持つ存在として想定されると無限がそれによって制限されるということだと思います。ただ、コンシュのいう無限は私の頭には明確なイメージとして形成されていません。到達し得ない無限、無限の外側にも何かが想定されるニュアンスのような、明確にイメージできるものではないのかもしれませんが・・・。

コンシュは自然を神格化せずに、無限の自然こそが哲学の基底であると主張しています。この自由な思考の拡がりに私は共感を覚えます。コンシュは、すべての物事の場、あるいは普遍的な包摂体としての自然の哲学は、精神の合意を実現できなければならず、グーロバル化の時代においては、哲学的エキュリズム(統合主義)を可能にするものでなければならない。それは、自然主義的な知恵なしには進まないとしています。これは宗教や文化を越えて自然という共通の現実に基づいて人々が理解し合える可能性があることを示しているのではないかと思いました。

そして、形而上学としての哲学は科学ではない。一つの哲学は理性だけでなく、人間のすべての能力を駆使して試みるものなのである。哲学は人生と作品に最大限の価値を与えることを目指すもので、それはわれわれの後に続く者たちへの愛の中にあり、作品もまた愛の中にあると述べています。このコンシュの「形而上学」のまえがきとプロローグには、自然から多くのものことを感受しそして瞑想を重ねた結果である、彼の哲学の集体成が示されていると思いました。彼の哲学への姿勢と彼の人格もここには滲み出てきているように私には感じられました。理解不十分なことも多く、コンシュの自然哲学をもうすこし掘り下げていければと楽しみにしています。有難うございました。







2025年11月1日土曜日

今日から11月




















今日から11月

気がついたら今年もここまで来たかという感じである

1日は長く、ドラマがあり、1年の中には計り知れないものが詰まっている

年の初めにはこのようになっていると想像もできなかったことがいくつもある

かなり前からそう感じるようになってきた

プロジェを決めなくなったため、自分を拘束するものがなくなった

それが非常に良い効果を及ぼしているようだ

プロジェとは、年の終わりに見えてくるものになったのである


今年もまだ2か月残っている

どんなことが詰まっているのか

静かに見守りながら歩むことにしたい








2025年10月30日木曜日

カフェ/フォーラムの準備とエセーのまとめ
















このところ、カフェ/フォーラムの準備をしているが、いつものように直前まで当たることになるだろう

それと並行して、これまでのベルクソンカフェで取り上げた哲学者の思想をテーマにしたエセーをまとめている

ベルクソンカフェを含めたサイファイ研究所 ISHEの活動についても簡単に触れている

ここに来てその姿が見えてきたので、遠からず日の目を見ることになるのではないかと思っている


今日は午後から、ランドネがご趣味の方の案内で、何十年振りかで昭和公園を訪れた

ほとんど座っているのが日常なので、かなり歩かされたという感じである

幸い、それほど体には堪えなかったようだ

広い空間が広がっているので、中には瞑想などに使えそうなところもあった

その気になった時の候補の一つに入れておくことにしたい









2025年10月26日日曜日

トランペット アンサンブル J Four の演奏を楽しむ

 



日曜の朝


Youtubeで流れてきたこの演奏を聴くことにした

このところなかなか受け付けなかったトランペットだが、昔から気に入っていた教会でのオルガンとの共演を楽しむことができた

以前に聴いていたものとは違う文化的な背景も新鮮に感じたのかもしれない

どこかに旅をしたような、久しぶりに晴れやかな気分になった


お楽しみを!








2025年10月25日土曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(13)




第2章では自然哲学と自然学、自然主義、実証主義との関係が論じられるようだ

今日は第1節「自然哲学と近代自然学」の中から、気になったところをメモすることにしたい

近代自然学はプラトン主義の一種の復権、復讐だという

アリストテレスは感覚器官を通して自然を描くが、それはデカルトが「混乱した観念」というように、真の本性を認識しない

本来的存在との出会いは、感覚の世界ではなく、知性的・数学的世界において成される

ガリレイは、数学は人間理性が神の理性と出会う十字路を成していると言う

そこにおいて、神と同じだけの明白さと確実さをもって世界の本性を明らかにできると考えられる

それゆえ、数学の哲学が確実なものとして出現できたなら、それは唯一真実の自然の哲学を獲得できただろう

しかし、そこに実用主義的精神が侵入してきたのである

デカルトはガリレイの実用主義を告発している

ガリレイは数学的方法を用いて、若干の演繹はするが、原因と原理の考察にまで遡らなかった

プラトンを忘れて、実用主義を選んでいるというのである


ニュートンは、次のようなことを言っている
数学と自然哲学のあらゆる難問においては、分析によって行う方法が総合に先立つべきである。この方法は、経験と観察から成り立っており、それらから結論を帰納する際には、常に確証される事実を問題としていなければならない。なぜなら、単なる仮定は自然哲学には存在しないからである。反対に、分析によって、構成されるものから構成するものへ、運動からそれを生む力へ、一般に結果から原因へ、さらに個別的原因からより一般的な原因へと処理するのである。総合はその後から介入することによって、発見された諸原因から諸現象の説明を演繹するためにそれらの原因を原因とするだけである。

 現代の科学者であれば、納得できる内容ではないだろうか


ニュートンは、技術よりも哲学に留意し、手先の力ではなく、自然の諸力について書き留めるとして、自らの努力と認識を技術者や職人の実用主義的知と対立させている

しかし、オーギュスト・コントは、科学的経験は本質的に技巧であるという

なぜなら、科学的経験は諸現象の考証を容易にするために、人為的状況の中に物体を置くことによって、自然の状況の外で観察するからである

天文学などの一部の近代科学は、自然哲学の伝統に沿い、古代の知者と同様、自然を真に発見した

他方、近代科学は自然の諸条件から遠ざける機械論的精神や技術的関心の虜になり、技術主義に走っているのではないか

さらに専門化は、われわれの精神を細部に閉じ込める

ベルクソンはこう言っている
近代科学が実験的方法を創始したことは確かである。けれどもそのことは、近代科学がそれ以前に研究されていた経験の領域をあらゆる方面に拡大したという意味ではない。全く反対に、近代科学は経験の領域を一つならずの点で狭めたのである、しかもそれが近代科学の力となっている。

これも納得させられる言葉である

 

 





2025年10月18日土曜日

第15回サイファイカフェSHE札幌、盛会のうちに終わる























本日は、15回目になるサイファイカフェSHE札幌において『免疫から哲学としての科学へ』の読書会を開催した

不手際があったものの、幸い7名の方の参加を得て充実した会になったと思う

今回はまず、ヒトやマウスのオーガニズム・レベルでの解析が最近明らかにしたことを振り返った

その結果、これまでは明瞭だと思われていた免疫システム内のサブシステム(自然免疫と獲得免疫)間の境界や免疫システムと他のシステム(特に神経系の例が提示された)との境界が曖昧になり、相互に親密な交流があることが見えてきた

つまり、オーガニズム全体で免疫という機能を発揮しているというイメージである

その後、細菌からヒトに至る生物界における免疫について検討した

その結果、免疫システム(基本的な機能は外敵からの防御と考えられている)は細菌からヒトに至るすべての生物に存在すること、しかしその構造やメカニズムは種によって大きく異なることなどが明らかになった

つまり、免疫は生物としての条件になっている可能性が示唆される


さらに、免疫を構成する要素を分析すると、認識、情報処理、適切な反応、その記憶という4つの過程があり、これはそのまま神経系の主要な機能要素と重なってくる

このことから、免疫の本質には認知機能があると考えられた

その場合、細菌には神経系がないので、免疫が最古の認知機能を担っていると言えるのではないかというところで終わった

会の詳しい内容は、これからサイトにまとめる予定である

訪問していただければ幸いである













































懇親会は今年の打ち上げという雰囲気で、話も盛り上がっていたようである

わたし自身の仕事についてもいくつかのサジェスチョンをいただいた

また、12月に開催されるサイファイ対話CoELPの生命倫理に関するお話を札幌でも聞いてみたいという声も聞こえてきた

多くの課題を抱えることになった今年最後のカフェ札幌であった



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mardi 21 octobre 2025


これまでに以下のようなコメントが届いている
参加された皆様に改めて感謝したい


◉ どうもお疲れさまです。免疫の有無が生命体の定義にできそうなことに気がついたのは、大きな収穫でした。それで、Google Geminiと対話してみたら今回のカフェの内容に近い話が沢山出てきて、夜更かししてしまいました。


◉ おはようございます。昨日は久しぶりに楽しい時間を過ごし、リフレッシュすることができました。意識の問題は特に興味深く感じました。学生時代に購入して読まずにいた品川嘉也氏の『意識と脳』の序文に大谷卓造先生(京都大学の生理学者)の「意識とは外界から区別されるものとしての自己に関する意識である」という考えが紹介されていました。また4月にお会いするのを楽しみにしております。


◉ いつも素晴らしい会合を作っていただき、ありがとうございます。研究会での免疫の話は、門外漢のため詳しい点は分かりませんが、事実を捉える視点は、他の科学の研究成果を考察する上での大いなる示唆になるように思います。また、懇親会の席では、個人的な事も含め日常の生活の中で感じていることの交流が行われ、研究会と同じように実りあるものでした。このような大学のゼミを思い出させるような研究会は、札幌では貴重であり感謝しています。


◉ 有意義なレクチャーと懇親会、ありがとうございました。細菌・アーキア(“原始生物”)から顎口上綱(”高等生物”)に亘った最新(~2023年)までの免疫学的知見を展開頂きました。2時間では頭がついていけない程の濃い内容でした。その中で最古の認知・免疫システムかつラマルク的遺伝も示唆するCRISPR -Casシステムに以下の疑問が湧きました。十分に古い他の”自然免疫”の多くはその相同・相似システムとしてヒトでも機能しているのに、なぜCRISPR -Casシステムは早くから”進化”の過程で消滅してしまったのか? もしCRISPR-Casシステムが進化過程でラマルク的遺伝形式とともに存続すれば、現在の地球上の生物はどうなっていたのか?(破滅? 両極端な進化と退化?--)次回はMOSが主題となりそうで楽しみにしています。


 白いものがいつ混じってもおかしくない、そんな冬の到来を肌で感じる小雨降る週末の夕方から会が始まりました。日常の生活とは異なった次元の会への参加を待ち侘び、そして実際に会が始まったことにやや興奮気味の8名の参加者(+矢倉先生)の自制した静けさで今回も始まりました。

オーガニズム・レベル、つまり個の枠内での免疫システムとして考察するところから始まり、後半は生物の進化の過程を免疫系を軸に改めて考える試み、つまり生物界に遍在するシステムとしての免疫系の省察の試みであった。暫定的ではあるが、免疫系を構成する4つの機能的要素である、認識、情報統合、反応、そして記憶という4つの要素を座標軸にしつつ、進化の過程での先天免疫、獲得免疫の再省察を通して、免疫系そのものが生命の基本ではないのかとの想像にも到る。蛇足だが、細菌の持つ防御システム、例えば侵入するファージDNAに対する防御機構としてのDNA切断制限酵素、そしてCRISPR-Casのシステム。それら細菌の持つ生命維持メカニズムを応用した形の遺伝子改変技術により現代の我々の生命科学研究が大いに推進していることの偶然さにも感嘆仕切りである。

認識、情報統合、反応、そして記憶といった要素から生物現象を振り返った場合、そのコンポーネントは神経系の構成要素と完全に重複しあうことに気づく。逆説的に、神経系で観察される情報の処理記憶の区分け、例えば意味記憶とエピソード記憶では記憶、そして追想といったプロセスに差異があることが、近年の認知症研究で知られている。そして、近時記憶と長期記憶での保持能力といった視点での認知症解釈もよく知られているところである。そういった神経系のもつコンポーネントを軸に、免疫現象を再度考え直すことも有用ではないのかとの夢想が浮かんでいる。新型コロナウイルスとそのワクチン効果など、若年者と高齢者の有効性や免疫記憶への効果など、神経系のコンポーネントからの再考察も免疫系のもつコンポーネントの新たな発見への繋がるのではないか、そういった妄想とともに来春の会への思いを抱え、雨の中で帰路についた。


◉ 10月18日のサイファイカフェSHE札幌に参加させていただき、ありがとうございました。私の頭の中にある「免疫」の大地の地平線を大幅に拡げてくれた、素晴らしい内容でした。

私なりに乱暴にまとめますと、
① 「免疫」=「生命」: 現存している生物は必ず免疫系を持っている。言い換えれば、免疫系がなければ生命は存在し得ない。
② 「免疫」=「神経」: ほぼ同義である。免疫系を持つということは、神経系を持つということである。
③ ということであれば、ユニークで優れた免疫系を持つ細菌や植物は、各々ユニークで立派な神経系を持っていると考えられる。
④「神経系」は、「意志」や「魂」といった精神的要素をも含む。
⑤そうであれば、細菌や植物も強い意志や崇高な魂を持っていると考えられる。

細菌や植物は、どんなことを考え、どんなことに笑っているのだろうか。妄想が膨れ上がるのを楽しめた会でした。次回も是非参加させていただきたいと思います。ありがとうございました。












2025年10月9日木曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(12)



中断があったが、改めて第2章「近代の自然哲学.自然学者.自然主義者.実証主義者」に入りたい

今日は、この章のイントロについて


17世紀中葉には、これまで扱ってきた「自然」の概念は消滅傾向にあった

デカルト(1596-1650)は『哲学原理』のなかで、機械的技術の生産と自然の生産は同一であると見なしている

さらに、それまであった「自然哲学」と「自然の哲学」の区別を根底から覆すのである

そして、「自然」がその古い意味――女神だとか、何か想像的な力を指していた――から、質料そのものを指すために用いられるようになる

デカルト流の機械論者、合理主義者には、「自然」という観念は神話臭を帯びていたのである

彼らは「物理学」とか「自然科学」という呼称を用いるようになる

しかし、「自然哲学」は、自然学にとって、自然主義にとって、あるいは実証主義にとって異なる関心事となっていかざるを得なかった

これから、自然哲学とそれぞれの分野の関係を見ていくことになるようだ









2025年10月7日火曜日

祝: 制御性T細胞にノーベル賞





昨日、ノーベル生理学・医学賞の発表があった

拙著『免疫から哲学としての科学へ』から引用して坂口志文博士への祝意を表したい

免疫反応の効果を高めるヘルパー細胞や標的細胞を殺傷するキラー細胞とは異なり、免疫反応を抑制して全体の調和を図るように作用する第三の細胞として制御性T細胞は存在している。免疫はその本質として生物学的極性のバランスをとるという規範性を伴う機能を有しているが、この細胞はそこに深く関わっていると見ることができる。(p. 105)






 

2025年10月5日日曜日

リマインダー: 秋のカフェ/フォーラム・シリーズのご案内





秋のカフェ/フォーラムの予定が以下のように決まりましたので、お知らせいたします



◉ 第15回サイファイカフェSHE 札幌

2025年10月18日(土)15:00~17:30
京王プレリアホテル札幌会議室


『免疫から哲学としての科学へ』を読む(3)
オーガニズムレベルと生物界における免疫を見渡す



◉ 第12回ベルクソンカフェ
2025年11月5日(水)18:00~20:30
恵比寿カルフール B会議室


マルセル・コンシュの哲学(2)
『形而上学』の「まえがき」と「プロローグ」を読む



◉ 第15回サイファイフォーラムFPSS
2025年11月8日(土)13:00~17:00
日仏会館 509会議室


(1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑨
カール・ポパーによるプラトン批判
(2)尾内達也: 時間論の起源とTime being-Labour being Theory
(3)久永眞一: 妄想と幻覚の正体?



◉ 第13回カフェフィロPAWL
2025年11月12日(水)18:00~20:30
恵比寿カルフール B会議室


『免疫学者のパリ心景』を読む(2)
この旅で出会った哲学者とその哲学
ファシリテーター: 岩永勇二(医歯薬出版)



◉ 第22回サイファイカフェSHE
2025年11月14日(水)18:00~20:30
恵比寿カルフール B会議室


『免疫から哲学としての科学へ』を読む(4)
免疫の形而上学



◉ 新企画: 第1回サイファイ対話CoELP(哲学者との生命倫理対話)
2025年12月6日(土)14:00~17:00
東京ウィメンズプラザ2F 第2会議室 B


講師: 中澤栄輔(東京大学)
生命倫理の問題を考える――いのちの終わりの倫理



興味をお持ちの方の参加をお待ちしております

よろしくお願いいたします












2025年10月1日水曜日

改めて、ブログ「フランスに揺られながら」から20年


























すでに触れているが、最初のブログ「フランスに揺られながら」のプラットフォーム goo のサービスが11月で終了なるとのことで、5月に Hatena Blog に記事を移した

このブログを始めたのはフランスに渡る2年前の2005年2月なので、今年で20年が経過したことになる

当時は気づいていなかったが、それはわたしの思索生活の始まりを意味していた

今振り返ると、この20年は一つの塊としてそこにある

もう少し具体的に言うと、それ以前のように出来事が下の方にどんどん堆積していくというイメージではなく、一つの同じ平面に散らばっているという感じなのである

そのため、視点を少しだけ上の方に移動すれば、その全体を眺望できるという状態になっている

過去が埋もれてしまわないとも言えるだろう


トルストイ(1828-1910)は、意識的に生活するようになってからその人間の人生が始まると言った

もしそうだとすれば、わたしはやっと成人したことになる

随分と遅い誕生ではあったが、それを支えていたのがブログ「フランスに揺られながら」だとすれば、感慨深いものがある

幼少期の記録がそこにあるとも言えるのだが、基本となる考えの芽はすでにそこに表れているような気がしていた

Hatena Blog は読みやすいので、折に触れて読み返し、確認したいものである











2025年9月30日火曜日

今年も四分の三が経過、何思う

































気が付くと、今年もすでに四分の三が流れ去っている

ということなのだが、そのすべてを掬い上げているという感覚もある

一日が長く感じられるようになって久しい

それは、一日の終わりに振り返ってみると、朝に想像していたものとは全く別物の日になっているということを経験し続けるようなものである

朝と夜が同じ一日とは思えないという感覚である

いずれにせよ、今年も年初には思いもしなかったようなことに踏み出している

そして、想像もしていなかったようなことが起こっている

残り四分の一も相当長い時間である

注意深く観察しながら歩みたいものである

10月からサイファイカフェSHE札幌(今回で15回目を迎える)を皮切りに秋のカフェ/フォーラムが始まる

どんな発見があるのか期待しながら、徐に準備を始めることにしたい












2025年9月29日月曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(11)





今日から、第2章「近代の自然哲学.自然学者.自然主義者.実証主義者」に入りたい

この章は、次のような構成になっている

第1節 自然哲学と近代自然学

 1 自然学と数学

 2 数学的自然学と実験技術

 3 自然哲学と技術的思考

第2節 自然哲学と自然主義者

 1 自然の秩序の表象の探究

 2 生理学の研究.機械論と生気論

 3 古い自然主義と新しい自然主義

第3節 自然哲学と実証哲学

 1 自然の秩序と技術の進歩

 2 自然哲学と諸科学の実証哲学

 3 自然哲学と現代の新実証主義












2025年9月19日金曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(10)





今日は、アリストテレス(384-322 BC)の自然学と敵対する体系としての原子論と新プラトン主義がテーマのようだ

なぜ原子論と新プラトン主義が敵対するのか

それは、アリストテレスの中では結びついていた「自然哲学」と「自然の哲学」の絆を緩めているからである

すなわち、原子論の自然哲学は客観的明証性の上に立っているし、新プラトン主義の自然の哲学は観念論的・内省的明証性から生まれているのである

この点について、前者についてはルクレティウス(c. 99-55 BC)の『物の本質について』、後者についてはプロティノス(c. 205-270)の『エンネアデス』にある「自然、観照、一者について」を例に検討してみたい


自然哲学は、原理的に自己の理性の分析と自然の働きとの間に平衡を打ち立てようとする

例えば、アリストテレスは自然の働きを職人の活動に透写して説明する

擬人論的な側面である

これに対して自然の哲学は、擬人論的思考を遠ざけ、自然についての経験と一致させて(自然からの与件に合わせて)説明しようとする

物の本質について』には、自然と理性の擬人論的同化が最初から見られる

しかしアリストテレスとは異なり、そこから超越的で至上の自然についての経験への超出が見られない

自然は本質的に物体と物体が運動する空虚から成り立っていると考える

アリストテレスの有限で円環的なコスモスに対して、あらゆる方向で衝突し合う混乱した無限の宇宙像を描くのである

すべては盲目的進化の結果であり、そこでは偶然と必然が主役で、神を見ることはない


プロティノスと新プラトン主義の思想は、遥かに高く、遥かに遠いところから見る自然の哲学を現している

エンネアデス』では、自然の機械論的解釈をアリストテレスの技術主義として隔てている

自然は形相であって、形相と質料の合成物ではないとする

自然は手仕事によるのではなく、霊魂であるという唯心論的自然学に向かう

事物が存在するのではなく、精神的生の運動が存在する

観照する主観しか存在しないのである

プロティノスにおいて、自然はどう解釈されるのだろうか

彼は答える
自然とは、沈黙の、だがいくらか曖昧な観照である。なぜなら、自然についての観照とは別の、またそれよりもっと明確な観照があるからである。
より明確な観照とは、霊魂が知性的秩序を観照することによって成し遂げる観照だという

自然が質料の中に映る夢のように見えるのは、この観照の下層においてである

そして、この層の反映を抽象すれば、あらゆる実在を欠いた場所しか残らないという


プロティノスによれば、行動は決して観照の延長や補足物ではなく、それはむしろ観照の「衰弱」を意味している

彼は言う

「観照が人間のうちで衰弱する時こそ、人間は行動に移る」

わたしはいかなる図形も引かないが、「わたしが観照すると、物体の線はあたかもわたしから落ちるかのように現実化する」

観照こそ、人間の最高の営みであり、それは生成的な力を持つと言いたいようである

これで第1章が終わったことになる







2025年9月17日水曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(9)





これまで見たように、アリストテレス(384-322 BC)の自然学の体系内部には、探求者の「自然哲学」と理論家の「自然の哲学」が同居し、そうあることを理想としていた

しかし、彼の後継者や中世のアリストテレス学徒はこの課題を成し遂げるすべを知らなかった

彼らの中では、「自然哲学」と「自然の哲学」の間に亀裂があり、2つの学問の間の調和は消失していくのである

中世文明が確立した時期を見ると、ギリシア・ローマの自然主義の伝統を継承するロバート・グロステスト(c. 1175-1253)、ロジャー・ベーコン(1214-1294)、ヴァンサン・ド・ボーヴェ(c. 1184/1194–c. 1264)、アルベルトゥス・マグヌス(c. 1200-1280)などの探究者群が見られる

彼らは明晰な観察者であり貪欲な経験の蒐集者ではあったものの、認識の分散を克服して体系的全体へと統合させることには興味を示さなかった

しかし同時代に真の哲学的精神を発揮したのは、スコラの神学者や形而上学者の一派であった

中でも著名なのは、トマス・アクィナス(c. 1225-1274)である

しかし、彼の興味は神学であり、彼が付きあっていた科学は、モンテーニュ(1533-1592)に言わせれば、千年以上昔の書物の中の死んだ科学であった

「自然の哲学」が実験的探求から断ち切られていたのである

聖トマスの著作を見ると、「自然の哲学」に帰せられる形相性を通しての解析よりもはるかに多くの質料性において考察されている

「自然の哲学」の考察――原理と原因のレベルにおける世界の出来事の考察――を止めるのである

ガリレイ(1564-1642)の『新科学対話』(1638)においても哲学者を皮肉っている










2025年9月16日火曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(8)



今日は、「第一動者」(不動の動者)についてである

アリストテレス(384-322 BC)の世界において、自己自身で可能態から現実態に移行するものは何もないとすれば、動いているものは他のものによって動かされていなければならない

しかし、このような原因と結果の連鎖を際限なく遡ること(無限後退)ができない

そこから、形なく、動かず、永遠で、その衝撃が宇宙の果てまで伝わる「第一動者」が想定されることになる

 アンバシェは言う

運動と変化についての感覚的経験に出発点を置きながらも、形而上学的分析は感覚的経験を、経験的特殊性を通してではなく、「存在としてのかぎりにおいて」われわれに把捉させる

ここは「科学の形而上学化」を考えるうえでも重要なところだと思うが、具体的にどういうことを言っているのだろうか

最初はあくまでも経験から出発する

そこから明らかになったことを個別の経験的レベルに留めるのではなく、その存在のレベルにおいて成り立つ構造や法則に思考を飛躍させるのが形而上学である、と言いたいのだろうか

それが、不動の動者に至った思考過程だということなのだろうか


天体論』の「自然哲学」が観察のデータと数学的表象においてしか考察しないの対して、「自然の哲学」は第一動者を一種の世界霊魂という形で盲目的必然性として把握するところで満足する

「形而上学」は、それが神学であるがゆえに、第一動者の存在そのものにまで到達する

形而上学者は、自然学的事実や機構、あるいは自然学者の第一動者以上のもの――天界と自然全体を経巡っているのは、渇仰と欲望の徴表のような何かである、というような――を見るという

自然とすべての自然的存在によって住み慣らされた領域の外へわれわれを導き出すのである


アンバシェは次のようにアリストテレスの思想をまとめる

形而上学者の宇宙の原理は「純粋の現実態」であり、すべての存在がそれを渇仰する。それは自己自身の内に自己の対象を見出す至福で単独な思惟である。

宇宙の原理は純粋の現実態であり、思惟だと言っている

これはどういう意味なのだろうか

現実態とはすでに完結してしまったものなので、他のものによって動かされることがない

むしろ相手に働きかけるもの、相手を引き付けるもので、それは真善美のような憧れの対象になるものでなければならない

そのような憧れの対象の在り方は、自己充足した思惟、自分に閉じた至福の思惟に他ならないという

宇宙を動かしている原理は、このような思惟だと言いたいようだ

驚くべき思考の羽ばたきである






2025年9月15日月曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(7)



















生物学的研究のおかげで、第三の要素が「自然の哲学」に入ってくる

生について、記述的・観察できる特性を考察するのではなく(それは「自然哲学」の仕事である)、原理や原因のレベルで分析することが課題になる

アリストテレス(384-322 BC)は、生の自然的原理を霊魂(プシュケー)であるという

最も初歩的な霊魂は、栄養摂取的な生を営む上で基底にあるようなもの

次に動物の感覚的霊魂があり、五感を通して受け取るもののほかに、快楽、苦痛、嫌悪、欲望を感じる能力も持っている

さらに、想像や記憶を持つ動物もおり、人間に見られる最高の能力は知性あるいは理性である


そのうえで改めて、アリストテレスにとって 自然学とは「自然的な運動や変化をもつ存在の研究」であり、自然的な存在は「質料」(ヒューレ)と「形相」(エイドス)から成り立つ

霊魂を神学的なものではなく自然学の対象とし、自然体としての生命存在の原理 として理解されると考えたのである

彼の出発点は、自然的発動者としての霊魂が、自然それ自体のように、運動の原理であるはずだという考えである

しかし、自然的運動は有魂の存在には含まれないと言われる

霊魂は動かされず、動かす主動者であり、運動の原因である

霊魂は質料の形相化のレベルに位置づけるられる

目の霊魂は視覚を働かせることであるという言い方をする

霊魂は「自然的・有機的物体の第一の現実態」(生きているものに生命を与える第一の現実態)である

霊魂の本質的特徴として示されるのは、形相と目的になる














2025年9月14日日曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(6)





自然の定義の後に、自然活動を構成する四原因(質料因、形相因、作用因、目的因)に影響を与える条件 ≪宇宙論的カテゴリー≫ の考察が続く


1)偶然と必然: 

アリストテレス(384-322 BC)の自然学では、目的をもって(必然的に)運動・生成する
 
しかし、われわれの日常では目的もなく偶々起こることがある

アリストテレスは、一見すると目的論に反するこのような現象を説明する必要があった

この問題に対して、偶然を「秩序の外の混沌」ではなく、「秩序の中の副次的現象」として位置づけ、彼の考えの大枠を保持した


2)無限と空虚:

  デモクリトス(c. 460-c.370 BC)やエピクロス(341-270 BC)によれば、分割できない原子と空虚からこの世界は成り立っている

そこでは、いろいろな種類の原子が空虚の中を動く機械論的な世界が垣間見える

アリストテレスは、世界には「現実態における」無限はなく、「可能態としての」無限は存在するとした

さらに、そこには「現実的な」空虚も含まないとした

なぜなら、空虚の中では運動は無限の速度になるから

無限や空虚を認めると、目的論的世界観が揺らぐと考えたからだろうか


3)場所と時間:

アリストテレスの世界観の特徴は、次のように言うことができるだろう

第一に、重いものは低所に、軽いものは高所に向かうのが自然であるということと、第二に、存在は一続きの包まれるものと包むものからできているということがある

これにより、存在を限定し、そのものにとって自然な(目的に沿った)動きをすると理解していることが分る

アリストテレスの場所は「包むものの動かない第一の限界」と定義され、「不動の包むもの」である

これに対して、例えば液体を入れた瓶や船を運ぶ川は、「場所」というよりは「容れもの」になるだろう

時間は、運動と意識との依存関係で規定される

われわれの精神が全く動いていない(と思われる)時、あるいは周りの運動に気づかない時には時間が経過したように感じない

運動がない時には時間は存在せず、時間は運動の数によって測定できることになる

月下の世界の出来事は時間の中に包まれ、諸物体は普遍的な場所の中に包まれている
 
のちにプロティノス(c. 205-270)が言うような至福な、消滅を免れる存在は、時間の中に包まれてもいないし、時間で測定されもしない

最近のわたしの経験から想像するとすれば、これは絶対的幸福の状態と言えるのかもしれない










2025年9月11日木曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(5)































これまで、自然(天体、月下の世界、植物、動物)を事実と観察において見る「自然哲学」について簡単に触れてきた

今日から、それとは別の流れにある「自然の哲学」について見ることにする

前者が経験的探求に重きを置くが、こちらは諸現象の存在と運動についての説明に重点が置かれる

具体的には、8巻に及ぶ『自然学』と3巻から成る『霊魂論』である


自然哲学はコスモスの像から始まったが、自然の哲学は自然的世界の定義とともに始まる

アリストテレス(384-322 BC)によれば、「自然的」とは自身の中に動的自立性(運動・静止)の原理を有するもののことである

例えば、星の周転、軽い物体の上昇、重い物体の落下、動物の移動など

しかし、寝台とか外套などの類はすべて技術の産物であるので、自然的傾向を有しないとする

自然と技術の関係を見ると、自然も技術も目的のために作用する

この両者は、目的因によって説明されるのである

さらにアリストテレスは、鍛冶屋の技術と動物の発生を比較する

この両者は外的作用と内的作用という違いはあるが、質料に形相を与えて一つの目的を達成するという点では共通する

技術は自然を模倣すると言われる所以である


アリストテレスは、自然学(天文学、光学などを除き)と数学を乖離させる

自然に対する自然学的アプローチと数学的アプローチは両立しないという立場である

数学は感覚的特性を考慮に入れないが、自然学の対象は感覚的質料と形相を持ち、目的に向かう傾向がある

したがって、 後のガリレイ(1564-1642)やデカルト(1596-1650)がするような運動の評価や測定は自然学の問題にはならない

自然の哲学の目的は、個々の運動が宇宙的全体の調和にどのように寄与しているのかを探ることである









2025年9月5日金曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(4)






























今日は、昨日の「天」に続き、第二のテーマ「月下の世界」である

この世界は天とは違い、不滅でも永遠でもないわれわれが住んでいる世界である

四元素が関わる生成の宇宙である

すなわち、「乾」と結びついた「熱」は「」の本性を規定し、「熱」と「湿」の結合は「空気」を生む

「冷と「湿」の結合は「」を生み、「冷」と「乾」の混合から「」が生まれる

「水」の「冷」と「湿」が「空気」の「熱」と「湿」に変わる時、蒸気が発生する

つまり、水の「消滅」が空気の「生成」になる

原子論者によれば、実体の生成と消滅は、微粒子状のものの集結と離散が原因だとされる

実体は分解されると考えるが、同質なものにはならないとするアリストテレス(384-322 BC)の認識とは異なる

アリストテレスは、四元素のいずれでもない物体は「複合体」を形成するとした


第三のテーマは「生きもの」で、アリストテレスにとって主要な部分である

彼に比べると、リンネ(1707-1778)やキュビエ(1769-1832)などは一介の生徒にしか過ぎないとダーウィン(1809-1882)に言わしめたほどの高い評価を得ていた

例えば、ミツバチの研究、哺乳類の血管系の記述、胚の発達段階、シビレエイの形態論、さらに、脚と翼と鰭(ひれ)の間の相同や羽と鱗(うろこ)の相同を初めて指摘した

いずれにせよ、この広大な領野において2つの方向性を区別する必要があるという

彼は種の分類と形態論で頭角を現した

比較解剖学の創始者と言ってもよいだろう

最初に考察した最も広い2つの部門は有血動物と無血動物で、これは脊椎動物と無脊椎動物に対応するという

もう一つの方向性は、分類の根拠に発生の様式を取り入れようとするものであった

これによれば、高等な動物として胎生動物があり、次に卵生動物が来て、最後は自然発生に近い形で繁殖する動物である

生物学的活動が、生殖、感覚、運動という3つの相で現れることをアリストテレスは知っていた

この中の生殖を研究することで生命現象の本質に迫ることができると考えられる

ただ、質料因と作用因しか考慮せず、形相因と目的因を全く知らないのは誤りであるとした

いわゆる自然哲学を構成する経験的・記述的な著作のほかに、より徹底的・体系的に自然の原因について議論した著作が必要になる

ここで自然の哲学が登場することになる









2025年9月4日木曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(3)

 

















今日は、「『自然哲学』すなわち探求領野としての自然」という節を読むことにしたい

われわれが理解する自然哲学は、アリストテレス(384-322 BC)の世界における経験的委細を集めたものだという

彼の著作に表れた全体が自然哲学だと言いたいのだろうか

この世界観は、コペルニクス(1473-1543)やガリレイ(1564-1642)が現れるまでの二千年もの間有効だったことになる

その内容を知るために、『天体論』を検討する


まず天体だが、アリストテレスの世界は星を付着して回転する巨大な球の内部に包まれたものとして捉えられ、この球が天と命名された

星自体が運動するのではなく、天の24時間で1回転の運動が星を動かすのである

イオニアの自然学とは異なり、地上の物質から天ができているのではなく、第5元素のエーテルがその実体であった

このエーテルもまた、1887年のマイケルソン=モーリーの実験で否定されるまでの長きに亘ってわれわれの思考を縛り続けることになる

もう一つの特徴は、空虚を含まないことで、同心球が組み合わさり、その中心には不動の大地(地球)があるというものであった

運動は神によって最初の天に伝えられるが、それは物理的なものではなく、魅力と欲求によるもので、その衝撃は「知性」に見守られ、世界の果てまで伝わってゆくのである





2025年9月3日水曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(2)

 

















今日は、第1章「アリストテレスの体系における自然の哲学と自然哲学」を読むことにしたい

その前段として、ギリシア思想の2つの流れについて触れている

一つは『自然について』(ペリ・ピュセオース)という著作を著した人たちであり、もう一つはその視線を内に向け、道徳的考察を行った人たちである

後者には、ソクラテス(c.470-399 BC)以降の哲学者が含まれるだろう

前者には、世界の起源を水としたタレス(c. 624-c.564 BC)、無限の中に起源を見たアナクシマンドロス(c. 610-546 BC)、空気を原初的形態としたアナクシメネス(585-525 BC)、四元素説を唱えたエンペドクレス(c. 490-c.430 BC)、原子論を唱えたデモクリトス(c. 460-c.370)やレウキッポスなどがいる

彼らの仕事がアリストテレス(384-322 BC)の自然学の基礎となるのである


まず、アリストテレスの体系における自然学の位置が検討される

彼は知を3つの領域に分ける

第一に、自然学と数学、後に形而上学となる第一哲学などの理論的諸学

論理学がこの中に入っていないのは、他の学問に入る前段階で所有していなければならないとされたからだという

第二に、倫理学と政治学のような実践的諸学

第三に、有用なもの、美しいものの製造を目的とする制作的諸学

彼の自然学は、自然現象が具体的・感覚的様相を持っているゆえに、形而上学よりもわれわれに近い

自然について考察した作品を見る場合、2つの見方に対応するグループに分けることができるだろう

一つは、自然が一つの広大な探求領野とされ、その中の様々な部分(天界、月下の世界、植物、動物など)を踏査・記述するもので、その後も「自然哲学」と呼ばれるものと対応している

もう一つは、自然を探求領野とは見なさず、説明の原因・原理として考察するもので、「自然の哲学」の名に相応しい









2025年9月2日火曜日

第1回サイファイ対話 CoELP(哲学者との生命倫理対話)のお知らせ

















この秋のカフェ/フォーラムシリーズの新企画として、哲学者と生命倫理について議論するCoELP(Conversations on Ethics of Life with Philosophers)を始めることにいたしました

7月にこのアナウンスをしましたが、今回その概略が決まりましたのでお知らせしたします

詳細はこちらから


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 日 時: 2025年12月6日(土)14:00~17:00

講 師: 中澤栄輔先生(東京大学)

テーマ: 生命倫理の問題を考える――いのちの終わりの倫理

要 旨: 

本講演では、生命倫理の問題をどのように捉え、どのように考えるべきか、その基本的な視点を概説したうえで、「いのちの終わり」に関わる倫理的課題を中心に考えていきます。生命倫理を考える際には、医療技術の進展がもたらす影響、患者の自己決定と専門職の責任、そして制度と個人の価値観のあいだに生じる緊張など、複数の観点を行き来する姿勢が求められます。なかでも終末期医療の場面では、延命治療をどこまで行うか、患者の意思が確認できないときにどう判断するかといった、簡単には結論の出ない問いが浮かび上がります。こうした問いに向き合うときには、倫理原則に即して考えるのみならず、関係性の中で支えられる意思決定、そのための対話の積み重ねが重要になってきます。医療倫理において「正解」が得られない場面は少なくありませんが、そのなかでどのように「よりよい判断」を模索するかという姿勢こそが問われているのではないでしょうか。本講演では、こうした視点から「生の終わり」をめぐる倫理的課題について皆さんとともに考えていきたいと思います。 

 

会 場: 東京ウィメンズプラザ 2F 第2会議室 B


〒150-0001 東京都渋谷区神宮前5-53-67
☎ 03-5467-2377


参加を希望される方は、she.yakura@gmail.com(矢倉英隆)までお知らせください

よろしくお願いいたします












2025年8月31日日曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(1)



























これから、半世紀前の本『自然の哲学』に目を通すことにした

モントリオール大学やチュニス大学の教授を務めたフランス人哲学者ミシェル・アンバシェ(Michel Ambacher, 1915-1982)による著作である

この本でアンバシェは、「自然哲学」と「自然の哲学」を峻別している

序論において、ガリレイ(1564-1642)、ニュートン(1642-1727)、コント(1798-1857)、ダーウィン(1809-1882)の流れにある「自然哲学」に対して、ライプニッツ(1646-1716)、バークリー(1685-1753)、シェリング(1775-1854)、ヘーゲル(1770-1831)、ベルクソン(1859-1941)の流れにあるものを「自然の哲学」としている

前者は自然を包括的、客観的に受け入れる科学者の態度にも通じるものであるのに対し、後者はドイツロマン派の "Naturphilosophie"(自然哲学)のように、機械論的な見方に質的・直感的要素を回復するものだという

この分類から見ると、わたしの場合、「自然哲学」から出発して「自然の哲学」の方向に進みたいと考えているようである

しかし、科学での時間が長かったこともあり、その枠から大胆に出るためにはかなり時間がかかりそうな予感がする

いずれにせよ、アンバシェの言う「自然の哲学」に向かうためのヒントを求めて読み進むことにしたい

第1章では、このような枠組みが、アリストテレスにおいては対立することも融合することもなく、共存していたことを示すようである