2025年12月31日水曜日

2025年の大晦日に

























今日は朝から、数年前から溜まったままのメモを何気なく整理していた

その中に、60冊を超えるパリメモを読み返すというプロジェが出てきた

これまで何度もトライして、いつも挫折していたものである

大晦日で気持ちがすっきりしていたせいか、これに対する新しいアイディアが浮かんできた

そのメモを確認するために置いてある部屋まで行くと、使わなくなった机の上は埃だらけ

普段であれば掃除をする気にもならないはずだが、今日は大晦日

何の抵抗もなく体が動いたのには驚く

綺麗になったその場所を見ていると、今度はそこを使いたくなってきた

そして机上には、何年か前に始めてそのままになっていたファイルがあった

これを取り上げるのも面白いのではないか

他には何もすることがない状態が続くような錯覚の中、そんな気にもなってきた

ただこれは、体が脱力状態でいられる時の空想のようなもので、元に戻った時にはどこかに消えている可能性が高いことも知っている

それでも、どこかに向かう考えが浮かんでくるのは楽しいことであり、望ましいことではないか

こんなところで、2025年を締めくくりたい










2025年12月30日火曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(22)
































一昨日に続く第3章、第1節では、数学的物理学に対するジョージ・バークリー(1685-1753)ヘーゲル(1770-1831)の批判について分析される

そして、第2節では「自然の哲学は反形而上学的思想である」ことが論じられる

形而上学的知は、アプリオリで超越的な知であることを願い、経験の宇宙と諸科学から解き放たれた知を願う

これは自然の哲学とは相容れない性質である

自然の哲学の精神は、形而上学的哲学や観念論的哲学、さらに主観主義的哲学の精神とも混同されてはならないのである


まず、第3章、第2節、第1項で論じられる「自然の哲学の精神と形而上学の精神の違い」について確認しておこう

その証人として、バークリーを出してくる

感覚的世界を蔑むところがあるプラトン的形而上学とは異なり、バークリーはこう語っている
私は自分の感覚を信じ、諸事物を見出すように放置しておくだけの単純な、ごくありふれたタイプの人間です。私の意見を率直に申し上げれば、実在的事物というのは私が感覚によって見、触れ、知覚する事物そのものです。
自然の呈示は物理学的世界の呈示とも形而上学的宇宙の呈示とも同一ではない

したがって、物理学と形而上学から取り残された場所を占めることができるのが、自然の哲学である


次に、3-2-2では「自然の哲学と観念論の精神の違い」が論じられ、証人としてシェリング(1775-1854)が登場する

自然の哲学は、感覚と経験の世界と結びついている

シェリングによれば、「あらゆる哲学は観念論であり、またそれにとどまる」という

自然の哲学は観念論であるという批判に応じることができるだろうか

超越論的哲学のような観念論的体系と自然の哲学との間には、全く精神の共通性がないとアンバシェは言う

シェリングから見れば、後のフッサール(1859-1938)がそうであったように、初め人間は世界の現前に独占された「自然的」と言われる状態で生きている

そして、外部世界に自己を対立させるとき初めて、人間は哲学へ向けて第一歩を踏み出す

ただ、内省の出現によって起こる外部世界との乖離は、人間を非活動的にするので、内省を手段に留め、目的にしてはならないとする

この点において、シェリングの思想は精神の哲学よりは自然の哲学に向かっているのが見える

自然を精神の支配下に置くのではなく、その逆になっているように見えるからである

彼は「自然の体系が同時に我々の精神の体系でもある」ような哲学を目指した

(この項つづく)









2025年12月29日月曜日

2025年を振り返る
















今年も残り数日となってきた

この機会に今年を簡単に振り返っておくことにしたい


 今年もサイファイカフェ/フォーラムの開催を軸に、年来のテーマについて考えていた。その過程で気づいたことがある。その一つが、東京の研究所で研究していた時間とパリで始まった全的観想生活の時間が同じになっていたことである。これは全く想像できなかったことで、研究生活がそんなに短かったのかという感慨と、観想生活をそんなに長い間やっていたのかという驚きが交錯している。

 これは先月上梓したばかりの『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』でも触れているが、観想生活に入ってからの時間の捉え方がそれ以前とは全く異なっていることと関係があるのではないかと思っている。具体的に言えば、観想生活の全体を常に抱えながら歩んでいるという感覚があるため、時の流れを感じなくなっているのである。詳細は近著に当たっていただければ幸いである。

 今年も年初には想像もできない展開があった。以下に簡単にまとめてみたい。


1)ISHE出版の立ち上げと『生き方としての哲学: より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』の刊行

 サイファイ研究所ISHEを創設してからすでに10年以上が経過している。その営みから見えてきた思想の種子を発表するための活動として「ISHE出版」を始めることにした。その考えに至ったのは、キンドルダイレクトパブリッシング(KDP)という自己出版のシステム(自費出版とは異なり費用がかからない)があることを知ったからであった。この「民主的な」プラットフォームがなければ、以下の刊行はなかったであろう。その第1作は、フランス語のテクストを読み議論する「ベルクソンカフェ」の内容をまとめたエセー『生き方としての哲学: より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』で、11月上旬に刊行された。

 ここで紹介されている古代ギリシアから現代に至る思想の中に、我々の人生において参考になることが含まれていると同時に、サイファイ研究所ISHEのミッションとも深く関わるテーマが現れていることに驚いている。また、この本はマルセル・コンシュについての論考が含まれている本邦初のものになると思われる。個人的には、3人の哲学者を改めて振り返ることにより、彼らの哲学の入り口に立ったという感覚があり、これからその中に入っていきたいと思いが湧いてきた。

 本書は120ページほどの小冊子なので、お手に取ってお読みいただければ幸いである。これからもサイファイ研究所ISHEの活動の中に埋もれている思索のための種子を紹介していく予定である。この活動へのご理解とご支援をいただければ幸いである。


2) マルセル・コンシュMétaphysique(『形而上学』)の翻訳

 マルセル・コンシュ(1922~2022)は日本ではほぼ無名で、コンシュについて語っているのはわたし以外には見られないという状態にある。それにもかかわらず彼の『形而上学』という著作を翻訳しようと思ったのは、コンシュがわたしにとって最初にフランス語で語り掛けてきた哲学者であり、次のような因縁もあったからである。

 実は、フランス滞在時に形而上学という営みについてお話を伺おうと思い、手紙を出したことがある。返信は期待していなかったが、彼の著書『形而上学』を読んでから話をしようとの回答があった。しかし、他のプロジェクトもありなかなか手に付かず、そうこうしているうちに亡くなられてしまった。

 このような背景のもと、昨年末から素訳を始め、今年の中頃から校正をしていた。一通り読み終わった今であれば意味のあるランデブーになったのではないかと思うと、残念である。いずれにせよ、『形而上学』は刊行にまで持っていきたいとは思っているが、どのようなことになるのかはまだ分からない。


3)サイファイカフェ/フォーラムの開催

 今年もカフェ/フォーラムを継続することができた。また新たな試みとして、哲学者を招いて生命倫理に関する問題を考える「サイファイ対話CoELP」(Conversations on Ethics of Life with Philosophers)を秋から始めた。サイトにもあるように、中澤栄輔先生に講師の任を快諾していただいたことで、このプロジェクトが動き出すことができた。会も盛会のうちに終わり、来年も開催に向けて検討することになる。

 最近、カフェ/フォーラムのまとめ方に変化が見られるので一言だけ。以前は、内容をその日のうちに一気にまとめる傾向があった。しかし最近では、会の流れをたどりながら、個々の事実をじっくり味わい、瞑想しながらまとめるようになっている。その会の内容を伝えるだけではなく、そこから派生する問題についても考えを巡らせる余裕が出てくるので、長い目で見ればよい効果を及ぼすのではないかと期待している。

 以下に今年の活動を列記しておきたい。それぞれの扉を開けると、そこには奥深い世界が広がっているはずである。お楽しみいただくと同時に、今後も末永くご支援いただければ幸いである。


春のカフェ/フォーラム

◉ 2025年3月4日(火)第11回ベルクソンカフェ

テーマ: マルセル・コンシュの哲学――2006年のインタビュー記事を読む

◉ 2025年3月6日(木)第12回カフェフィロPAWL

テーマ: 『免疫学者のパリ心景』を読むvol. 1――なぜフランスで哲学だったのか――

ファシリテーター: 岩永勇二(医歯薬出版)

◉ 2025年3月8日(土)第13回サイファイフォーラムFPSS

(1) 矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑦ プラトンの宇宙観

(2) 細井宏一: 人文科学と自然科学の間にあるサイエンス ~考えるということ~ ——啓示か、観察か、それとも・・・——

(3) 岩倉洋一郎: 科学は自らの発展を制御できるのか?

◉ 2025年3月14日(金)第20回サイファイカフェSHE

テーマ: 『免疫から哲学としての科学へ』を読む(2)自己を認識し、他者を受け容れる

◉ 2025年4月12日(土)第13回サイファイカフェSHE 札幌

テーマ: 『免疫から哲学としての科学へ』を読む(1)免疫の理論史


夏のカフェ/フォーラム

◉ 2025年7月9日(水)第21回サイファイカフェSHE

シリーズ『免疫から哲学としての科学へ』を読む(3)オーガニズム・レベルと生物界における免疫

◉ 2025年7月12日(土)第14回サイファイフォーラムFPSS

プログラム

(1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑧ プラトンと医学 

(2)武田克彦: 神経心理学の方法 

(3)市川 洋:社会の中の科学と科学コミュニケーション

◉ 2025年8月2日(土)第14回サイファイカフェSHE 札幌

シリーズ『免疫から哲学としての科学へ』を読む(2)仮説、自己免疫、共生


秋のカフェ/フォーラム

◉ 2025年10月18日(土)第15回サイファイカフェSHE 札幌

『免疫から哲学としての科学へ』を読む(3)オーガニズム・レベルと生物界における免疫を見渡す

◉ 2025年11月5日(水)第12回ベルクソンカフェ

マルセル・コンシュの哲学(2)『形而上学』の「まえがき」と「プロローグ」を読む

◉ 2025年11月8日(土)第15回サイファイフォーラムFPSS

(1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑨ カール・ポパーによるプラトン批判

(2)尾内達也: 時間と空間についてのT-N-S理論

(3)久永眞一: 妄想と幻覚の正体?

◉ 2025年11月12日(水)第13回カフェフィロPAWL

『免疫学者のパリ心景』を読む(2)この旅で出会った哲学者とその哲学

ファシリテーター: 岩永勇二(医歯薬出版)

◉ 2025年11月14日(水)第22回サイファイカフェSHE

『免疫から哲学としての科学へ』を読む(4)免疫の形而上学

◉ 2025年12月6日(土)第1回サイファイ対話CoELP(哲学者との生命倫理対話)

講師: 中澤栄輔(東京大学)

生命倫理の問題を考える――いのちの終わりの倫理


4)上の記録から分るように、今年のSHEでは1年間に亘り、拙著『免疫から哲学としての科学へ』の読書会が行われた。2年前の著作を読み直すことで、この本が提起している根源的な問いが改めて迫ってきた。最終章のタイトルが示している通り、「新しい生の哲学に向けて」どのように歩むのか。来るべき年の課題になりそうである。


5)今年のPAWLにおいては、編集者の岩永勇二氏(医歯薬出版)をファシリテーターとして、3年前の著作『免疫学者のパリ心景』の朗読会が開かれた。この過程で、2007年からの全的観想生活に至る小さな「出来事」の連なりを再確認すると同時に、それがバディウの言う真理に導く「出来事」に当たることを改めて意識することになった。この点については『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』でも触れている。

 さらに、始原に本質があるとすれば、そこに哲学の本質があると思われる古代ギリシアの哲学に当初から惹かれていたことも明確になってきた。『免疫から哲学としての科学へ』でも感じたが、わたしの中に本質に対する志向性があるのかもしれない。ギリシアの哲学については、今後の新たな思索対象となりそうである。



 2年前から、その年のプロジェクトを年初に決めるのではなく、年末に振り返った時に見えてきたものがプロジェクトであるという考え方で歩み始めた。わたしのフォルミュールで言えば、「目的は最後に現われる」のである。そして本年もまた、より豊かなものをもたらしてくれたことを改めて確認している。その年を縛りのないインプロヴィゼーションの中で過ごすことができるからではないかと考えている。これは科学の分野にいた時には採用できなかったものだが、これからもこのやり方で歩むことになるだろう。

 








2025年12月28日日曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(21)
































今日は、第3章、第1節「自然の哲学は反物理学的・反数学的な思想である」を読むことにしたい

自然哲学に数学的構造を取り入れることは、古代ではピタゴラス(572-494 BC)、プラトン(427-347 BC)の意見であったし、後のガリレイ(1564-1642)デカルト(1596-1650)の意見でもあった

しかし、「自然の哲学」に抽象化の道は適しておらず、むしろそれと対立する直接的で具体的なものを受け入れる

その具体例を見ていこう

3-1-1「数学的物理学に対するライプニッツの批判」では、ライプニッツ(1646-1716)の自然主義への愛着と機械論への敵意が指摘される

デカルトの哲学では、自然との出会いを実際には経験できず、その哲学は大きな「造りもの」だという

ライプニッツの宇宙は組織化されているが、それは通俗的機械論の道具立てとは「類において」異なっている

すなわち、ライプニッツの組織化は、限りなく細部へ下降して行き、1つの支配的モナドのもとに階層化されたモナドの集合体となる

宇宙の中には、荒廃し、不毛で死滅したものは何もなく、物質の各部分は草木に満ちた庭や魚のたくさんいる池のようなものと考えられている

デカルトの世界とは異なり、どこまで行っても生きているのである


ここで、ライプニッツとアリストテレス(384-322 BC)の自然主義の比較が出てくる

アリストテレスは、自然の因果性を、技術の因果性との類比によって考えながら人格化する

その過程で、自然と産業との連続性が存在するが、ライプニッツにおいては断絶である

ライプニッツ哲学で重要になる「形而上学的機械論」は、物理学者と数学者の粗末な機械論に取って代わるだけではない

この機械論は延長と運動から生まれるのではなく、目的性と調和の原理から出発し、モナドという「形而上学的点」の間の意識の関係しか残さない










2025年12月27日土曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(20)
































今日から第3章「近代における自然の哲学の諸特徴」に入る

近代の科学者が「自然哲学」という言葉を聞くと困惑を覚えるが、同様のことはこの領域の哲学者にも見られるという

ただし、ドイツロマン主義者だけはその内容を熟知していたようである

例えば、シェリング(1775-1854)は、この学問に多くの試論を書いている

ショーペンハウアー(1788-1860)の『意志と表象としての世界』もまた、生きようとする意志の宇宙的経験があらゆるものことの源泉として現れるという意味において、自然の哲学を構成している

ヘーゲル(1770-1831)においては、『哲学的諸学のエンチクロペディー』の中で、論理学と精神哲学の間に自然哲学が並んでいる

さらに、ライプニッツ(1646-1716)も科学者の機械論に立ち向かう自然哲学を書いているので、自然の哲学者の一人になる

彼はこう書いている
私は現代人に理ありとすることにかけてはいささかもやぶさかではないが、私の見るかぎり、彼らはあまりにも遠くへ改革をおしすすめたために、自然の尊厳について十分に偉大な観念をもたなかった

ジョージ・バークリー(1685-1753)も、数学者と物理学者の抽象的な合理主義に対して敵意を隠さず、 知覚の感覚的・直観的所与を自然の本当の言葉を生むべきものと解釈している

ベルクソン(1859-1941)は、当時けなされていた「自然の哲学」の代わりに「形而上学」という言葉を使っているが、本当の方向性は「自然の哲学」にあったとされている

これらの学説が近代の自然の哲学を構成するものとして、その特徴を探究するのが本章の目的のようである
















2025年12月26日金曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(19)































今日は、2-3-3「自然哲学と現代の新実証主義」を読み、第2章を終えることにしたい

オーギュスト・コント(1798-1857)は、「進歩」という考えの偉大な立役者と考えられているが、自然については静的な見方を取っているという

彼は、あらゆる科学にとっての本質的な問題は、「秩序をそれにふさわしく完成する目的で眺めることである」としている

ラマルク(1744-1829)の変移説にはあまり興味を示さなかったが、キュヴィエ(1769-1832)の不変説については考察の限りを尽くしている

コントは宇宙の起源と運命に関して関心を示さず、真の実証的宇宙を太陽系と若干の星にしか広げていない

パスカル(1623-1662)の無限の宇宙という観念とは大きな違いである

当時の自然哲学が拒否感を示したのも、コントの実証主義が限界を設けているように見える点であった



アンバシェの著作をここまで読んだ印象の一つに、次のようなことがある

ある事実について語る時、事実だけがまず提示されるというのではなく、最初からその評価が抽象的に語られることが多いので、理解し難いという印象を拭えなかった

つまり、事実についての蓄積がないと、何を言っているのか分からないということになる

もう一つ思い当たるのは、原著に当たったわけではないので確かなことは言えないが、翻訳の問題があるのかもしれない

文字通り訳しても通じない場合の考え方である

その場合には、真意を汲み取った訳が必要になるような気もするが、もともとは直訳がよいと考えていた者としては判断が難しい

最近ではもともとの考えに否定的になってきてはいるのだが、、

これから先はどうであろうか















2025年12月25日木曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(18)
































今日は、2-3-2「自然哲学と諸科学の実証哲学」を読む

オーギュスト・コント(1798-1857)の自然哲学は、自然学や自然研究を構成する5~6の基礎科学の総体によって形作られる

科学の哲学は、これらの学問の整理や分類の原理以外の何ものでもない

科学の特徴として、極端な専門化の結果生まれる「細部の精神」があるのに対し、哲学的思考に特有な徴は「全体の精神」である

したがって、科学の哲学は最初、自然的・具体的な諸科学を除外する

コントがやったことは、哲学から技術者が取り扱う応用科学や技術を切り離すだけではなく、具体的・記述的とされる自然科学をも遠ざけたのである

彼はこう言っている
あらゆる種類の現象に関して二種類の自然科学を区別しなければならない。一つは抽象的・一般的なもので、考えうるすべての場合を考慮して、様々な段階の現象を支配している法則の発見を目的とする。 もう一つは個別的・具体的・記述的で、ときには厳密な意味における自然科学の名をもって呼ばれるものであるが、その法則をいろいろな存在者の事実上の歴史に適用する。

つまりコントによれば、科学の哲学が注目するのは第一のカテゴリーの法則だけであり、自然科学はその法則をもとに個別の事象の解明に当たるということだろうか


コントの科学の哲学は、自然を機械に還元するデカルト(1596-1650)の理想に与するものではない

 科学の哲学は、自然の多様性については遥かに意識的で、それぞれの基礎的学問に自然の一領域を帰属させている

そのため、科学の哲学が最上位にあり、他の領域による侵入を恐れる必要がなくなる

ところで、コントは単純なものから複雑なものへと絶えず取り組んでゆかねばならないという考えに反発している

生理学や社会学のような科学においては、全体から諸部分へ向かう方が適していると考えているようなのである

数学者がいたるところで分析と抽象を繰り返す百科全書的体系の主権を取り上げ、それを社会学者に委ねようとする

コントが見るところ、社会学は、知の構築物のあらゆる次元において自然の観念の「実証主義的」等価物である真の組織的同意を優位に立たせるのに最も適しているという

これは何を言っているのだろうか

実証主義的段階における自然に関する知は、神学的、形而上学的で抽象的な観念が力を及ぼすものではなく、全体において部分が調和しながら(普遍的同意=consensus universel を得ながら)動いているものとして捉える必要があり、社会学はそれに適しているという考えになるのだろうか

もしそうであれば、デカルトの機械論(還元論)に対して、実証主義をもとにした全体論を唱えるコントが見えてくるのだが、、








2025年12月24日水曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(17)































本日から、第2章、第3節「自然哲学と実証哲学」に入ることにしたい

この2つの哲学をつなぐ関係は、オーギュスト・コント(1798-1857)が示している

彼が主張する「実証哲学」と、ニュートン(1642-1727)以来「自然哲学」と呼ばれているものとの間には多くの類似点がある

しかしアンバシェによれば、自然哲学が自然現象という唯一のカテゴリー向かうのに対して、実証哲学は現象の全体に通暁し、天体の自然学である天文学、地上の自然学である生理学あるいは有機体の自然学、さらに社会の自然学である社会学などを包摂するという違いがある

実証精神はその出現以来、その枠を慎重にはみ出していったと見ている

実証主義はコントが歴史を省察したところに起源がある

彼はどのように自然を考察することを学んだのであろうか


まず、2-3-1「自然の秩序と技術の進歩」を読むことにする

コントが発見したとする「偉大な基本法則」として、3段階の法則がある

すなわち、我々の認識は、神学的あるいは虚構的状態、形而上学的あるいは抽象的状態、実証的あるいは科学的状態を次々に経過するというものである

神学的状態においては、人間精神は自然の諸現象を超自然的作動因の直接的産物として見る

この状態の一般的変形としての形而上学的段階においては、超自然的作動因に代わり、抽象的な力が自然現象を説明することになる

そして、実証的段階においては、「宇宙の起源や運命を探究することも、諸現象の内的原因を認識することもやめて、推理と観察をうまく組み合わせて活用しながら、もっぱら現象間の有効な諸法則を発見することに努める」

最後の段階と、その前の2段階との差を次のようにまとめる

神学者や形而上学者は、人間と世界の起源と運命について、解決不能な思弁へとしゃにむに突き進む

神学的思考は出来事の流れを神の意思、もしくは摂理の意図に依存させることにより、決定論からも実証的予見からも引き離す

これに対して実証主義者は、「賢明な慎み」を示し、実際的な問題にしか関心を抱かない












2025年12月23日火曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(16)
































本日は、2-2-2「生理学の研究.機械論と生気論」に入ることにしたい

自然主義者がアリストテレス(384-322 BC)に対する伝統的な忠誠を示したのに対し、近代の生理学者にはその痕跡は見られない

生理学における説明には、自然学と同様、アリストテレスの物活論との決裂が見られるからである

身体器官と自動水力装置との間に、機械論的比較をやる

デカルト(1596-1650)は、装置の運動に役立つバネを筋と腱の中に見出す

神経をパイプに譬え、水の流れを「動物精神」の流出に譬える

呼吸などの生命活動は、彼に川の流れが動かす水車や時計の運動を思い起こさせる

そして1世紀足らずの間に生気論からの多くの転向が見られる

この転換期において、機械論は自然学の領域を征服したが、生理学からは除外されることになる

これはどういうことなのだろうか

手法的には還元主義的、機械論的に生命現象を分析しているが、それだけでは説明できない個体に特有の傾向――それは生存に向けての努力(=コナトゥス)とも言えるものだが――について全体論的、哲学的に考えなければならない、あるいは生物にはそういう側面があるということなのか

クロード・ベルナール(1813-1878)は、次のようなことを言っている
生命力は、それが産出しない現象を支配するもので、物理的動因は、それが支配しない現象を産出するものである
生気論が話題にする生命力のようなものは、生命現象を直接産出するものではなく、物理的動因が現象の産出に直接手を下す

しかし、現象の全体を統括し、方向づけているのは生命力の方で、物理的動因ではない

ということなのだろうか

であるとすれば、生命現象の全体を支配している「生命力」と言われるようなものがあり、それに基づいて具体的な作用を及ぼしているのが物理化学的な要素であるという立場なのだろうか

いずれにせよ、生物学への科学的精神の働きは、2つの軸に沿って行われた

一つは、モデルの構築と類比の探究で、もう一つは、有機体を化学的構成部分に分解しようとする方向性であった

類比の探究においては、例えば、四肢の関節と梃、目とカメラ、神経衝動と電流、脳とコンピューターなどが類比とされるが、人工的なものは自然を完全に写し取るものとはなりえない

第二の道を進むと、そこに見られるのは有機体の外観を失った化学反応だけになってしまう










2025年12月22日月曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(15)

































今日は、第2章、第2節「自然哲学と自然主義者」の第1項「自然の秩序の表象の探究」を読むことにしたい

アリストテレス(384-322 BC)は、人間を比較の起点を見なして「存在の階梯」(scala naturæ)を作りあげた


その後も、同様の階梯(chain of being)が考案されたが、基本的には、一番下に鉱物が置かれ、植物、動物、そして最上位に人類が配置された

18世紀に至っても、スイスの博物学者シャルル・ボネ(1720-1793)は左図のような分類を提案している

下から見ていくと、石、植物、昆虫、貝、蛇、魚、鳥、四足類、そして最上位には人類が並んでいる

近代科学(物理学、天文学)において古代の世界観が拭い去られた時にも、生物哲学はアリストテレス主義に何ら批判を加えなかった

新しい合理精神が自然科学の中に入ると、存在(自然)の階梯という古代の形而上学的見方は、自然の体系に移行するようになる

自然をわれわれに晒された形相の階層として考察するのではなく、それらの形相を結び付けている分類体系を発見するようになる

リンネ(1707-1778)は、植物の部分の数、形態、比例、位置というような性質の中に、植物を区別するのに適したものを見出した

例えば、雄蕊だけを見ることにより、24種の分類に成功した

しかし、このやり方は古代の自然主義的方法によく似た純粋に記述的な方法を取っているビュフォン(1707-1788)のような者たちを激昂させた

このような対立は、キュヴィエ(1769-1832)の不変説とラマルク(1744-1829)の変移説の対立を予感させるものである

ダーウィン(1809-1882)は、注意深くこう書いている

「若干の優れた著者たちは、すべての種がそれぞれ独立に創造されたという仮説に十分満足しているようである。私の考えでは、造物主によって物質に課せられた法則について我々の知っていることは、地球の過去および現在の居住者の誕生と滅亡が二次的原因の結果であるという仮説と、もっともよく合致するように思われる。」

ここで二次的原因と言っているのは自然のメカニズムのことで、ダーウィンはさらにこう言っている

「人工的選択(淘汰)によれば、人間は自分に有益ないくつかの方向に、自然によって与えられる継起的変異を積み重ねるだけであるの対し、自然選択によると、有益な個体的変異の保持と有害な変異の除去を保証してくれるのは自然そのものである。」

人工的な選択が狭い範囲の目的しか達し得ないのに対し、自然選択では個体の生存(コナトゥス)という長い時間軸における自然の創造性が作用しているということだろう

ただ、このような自然選択の持つ力は、擬人的な思想を誘発しかねないので、ダーウィンはこう釘を刺している

「自然というときに私が理解するのはただ、数多くの自然的法則の協働と複雑な結果だけである。」

クロード・ベルナール(1813-1878)が生気論を攻撃した時に使った論理と同じである

こうして、自然と機械論が合体され、世界の物理化が進むことになる


 

 









2025年12月21日日曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(14)

































今年も残り少なくなってきた、というのが一般的な言い方になるだろう

しかし、これまでも書いている通り、一日、一週間がどんどん長くなっているので、相当の物が詰まっているのではないかと想像している

今日は静かに振り返りの時を過ごしていた

そこで思い出したのが、2か月前にはアンバシェの『自然の哲学』を読んでいたことである


ここで再開することにした

前回の記事では、近代の自然哲学と自然学、自然主義、実証主義を論じた第2章の第1節「自然哲学と近代自然学」を取り上げた

今回は第2章、第2節「自然哲学と自然主義者」について考えたい



近代的な自然学とアリストテレス(384-322 BC)の自然哲学の亀裂は早くから現れていたという

しかし、生物学などの領域では、ペリパトス派の思想から解放されるのにかなりの時間を要した

例えば、ビュフォン(1707-1788)は次のようなことを書いている
自然は一つの事物ではない。なぜなら、この事物はすべてであろうから。自然は一つの存在ではない。なぜなら、この存在は神であろうから。むしろ自然は、すべてを抱擁し、すべてに生命をあたえ、第一存在の力にしたがいながらその秩序によってしか動きはじめず、またその協力と同意によってしか行動しない生きた巨大な力である、と考えることができる。

18世紀を代表する科学者が、アリストテレスを彷彿とさせる思想を展開している

少し遅れて、ラマルク(1744-1829)もまたアリストテレス流の生命論を強調し、「自然の力」を喚起する

これはシェリング(1775-1854)やベルクソン(1859-1941)を予告しているかのようである

そして、アリストテレスの伝統との真の決別が起こるのは、現代になってからだという












2025年12月11日木曜日

免疫理解をもう一歩前に進めることができるのか


























今年の「行事」を無事に終えることができ、ホッとしているところである

振り返れば、スピノザとカンギレムの哲学を免疫理解に取り込んだ論文(Immunity in Light of Spinoza and Canguilhem)を発表したのが5年前

その内容を核としてまとめた『免疫から哲学としての科学へ』と Immunity: From Science to Philosophy を上梓することができたのは、それぞれ2年前と1年前

最近の時間の捉え方は、2007年にフランスに渡る前とは大きく異なっている

近著『生き方としての哲学:より深い幸福へ』に詳しいが、今は2007年から現在までを一塊のものとして携えて歩んでいるようなところがあるので、時間の流れを感じにくくなっている

そのため、5年前と言っても、仕事をしていた時の5年前ほどには昔に感じられないのである

いずれにせよ、その5年前の見方を一歩前に進めることができるのではないかという考えが蠢いているようなのである

ということで、その中身は吟味しておくべきではないかと考えるようになってきた

そこから抜け出すことができるのか、できないのか、今は全く見えない

見えることは、いつものようにゆっくりと眺めながら、瞑想しながら、歩むだろうということだけのようである











2025年12月8日月曜日

自然に溶け込み、いまここを味わう

 



今日は午後から古い友人と突然のお茶となった

なぜかいつも二転三転して場所と時間が決まる

秋のカフェ/フォーラムシリーズも終わり、ゆったりした気分での語らいとなった

いろいろな話題が出ていたようだが、特にAIの話に盛り上がりを見せた


夜、Youtubeに行くと、上のビデオが流れてきた

そこで語られていることは、古代ギリシアの哲人たちの考えとも重なる

拙著『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』にもあるように、わたしの考えも同じところに収斂しつつある

年の瀬を迎え、気持ちが穏やかになっているせいか、自然に中に入ってきた







2025年12月7日日曜日

スートゥナンスから丁度10年目の朝
























今から10年前の今日の今頃(時差を無視すれば)、スートゥナンス(博士論文審査会)があった

丁度そのひと月前にパリ同時多発テロ事件が発生、大学は閉鎖状態の中でのことであった

入り口で荷物検査の後に入った構内は、警備の人を見かけるだけの殺伐とした状態であった

あのような状態での発表会は、今振り返れば異常としか言いようがない

と同時に、懐かしい

年の初めにそれまでの資料が入った2つのパソコンをブリュッセルで盗まれ、スートゥナンスまでたどり着けるとは思っていなかった

しかし、その経験をし、翌年に博士号を与えられたことで新しい意識が芽生えてきた

それは哲学教育を受けた者としての義務のようなものであった

それまではシオラン(1911-1995)がそう願ったように、縛りのない学生としての生活を永遠に続けようと思っていたので、その変化は驚くべきものとして映った

今朝は当時の心象風景を垣間見るために、ブログを読み返していた

そして、現在のブログのヘッダーの写真は、この時期(2015年12月5日)に撮影されたものであることが分かった












2025年12月6日土曜日

サイファイ対話CoELP(哲学者との生命倫理対話)、盛会のうちに船出する





















本日、秋のサイファイカフェ/フォーラム・シリーズを締めくくる第1回サイファイ対話CoELPが盛会の内に終わった

この会は、CoELP=「哲学者との生命倫理対話」と銘打っているように、哲学者を招いて生命倫理に関する問題についての認識を深めることを目的に構想されたものである

今回の講師は中澤栄輔先生(東京大学)、テーマは「命の終わりの倫理」であった

お話の前半にはご自身のこれまでのあゆみの紹介があり、後半では今回のテーマについての検討が行われた

わたしが想像していた以上に、現場における生々しい問題に如何に向き合うのかという実践面に重点が置かれていた

純粋な思索の世界にとどまるのではなく、そこから社会的な貢献に向けて進むという意思のようなものを感じた

まさに theoria praxis のバランスの問題になるのだろうか

発表の後、時間が不足するほど多くの問題について活発な議論が展開していた

総括すると、CoELPは無事に船出することができたと言えるのではないだろうか

来年も開催に向けて準備したいと思わせてくれる第1回のCoELPであった

講師の任を快諾していただいた中澤先生、ならびに年末の週末というお忙しいところを参加していただいた多くの皆様に改めて感謝したい

詳細については、近いうちに専用サイトにまとめる予定なので、そちらを参照していただければ幸いである


最後に、今回のテーマに関連するエセーを『医学のあゆみ』のシリーズに書いたことを思い出したので、以下に貼り付けておきたい


● 生命か自由か、あるいは尊厳ある生の終わり方.医学のあゆみ 249: 202-206, 2014




































2025年12月1日月曜日

今日から師走、そこに何が詰まっているのか


























今年も最後の月に入った

今日も完璧な快晴で、朝から気分は静まり返っていた

そんな中、来年のカフェ/フォーラムについてぼんやり考えていた

一つだけ出口が見えたのは幸いであった

先日の広漠たる世界の方は、目には見えない歩みを始めたところである


今年を振り返るにはまだ早いが、かなりのものが詰まっているはずである

すぐに気づくいくつかの歩みがあった

一日は、(主観的にだが)日に日にその長さを増している

ひと月ということになれば、想像もできない長さになる

今月何があるのか、興味をもって観察したい


今週の土曜には、秋のカフェ/フォーラムシリーズを締めくくる第1回の生命倫理に関するサイファイ対話CoELPが予定されている

哲学者を招いての生命倫理対話である

今回は、中澤栄輔先生の「いのちの終わりの倫理」についてのお話に続いて、参加者が加わってディスカッションになる

どのような展開になるのか、期待される










2025年11月30日日曜日

仙台で旧交を温め、『生き方としての哲学:より深い幸福へ』を人生の指針に



























昨夜は、昔の研究仲間で、退職後は臨床のお仕事をされているお二方との会食があった

いつもとは異なり、かなり離れたところにあるお店での語らいとなった

お一方はひと月前に突然奥様を亡くされたとのことで、辛い時期をお過ごしのようであった

日頃から批判的なことを聞いていることが多かったとのことだが、それがなくなった後の寂寥感は耐え難いものがあるとのこと

このような時期にお時間を割いていただいたことに感謝したい


最初に、わたしの近著『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』の話題を出そうとしたのだが、お一方はすでに購入され、3回は読み込まれているとのことで驚く

お話を伺うと、自らの生活を見直すきっかけになったようで、執筆の目的を達したと感じた

その中でピンとこなかったことがあるという

それは何だったのかを伺うと、「自分自身と会話する」とか「内的空間を充実する」とはどういうことを言っているのか掴めなかったという

記憶には残っていないのだが、以前に自然に囲まれた別荘にお呼ばれした時に、わたしが「ここは自分と対話するのに最適ですね」と言ったこともあったようだ

日常生活に追われていると内的対話の時間が取れないため、その内容が分からないということなのかもしれない

それだけではなく、一人になって自分と向き合う時間が怖いので避ける傾向があるとも言っておられた

これはまさにパスカル(1623-1662)が指摘していることで、人間が抱えている問題がそこにあるということなのだろう

自らに向き合う時間を増やし、日々の瞬間瞬間を味わい尽くすように生きると、人生の景色は大きく変わってくるのではないだろうか

そのあたりは近著に詳しいのでお読みいただければ幸いである

いずれにせよ、今夜のお話は著者冥利に尽きるものであった


また仕事の関係で、いろいろな方の人生の最後のステージにお付き合いすることが日常になっている方のお話で印象に残ることがあった

それは、過去における悔恨や現在の状態に対する不満が重くのしかかり、寝ることができずに夜を過ごしている方が少なくないとのお話があった

多くの方が自尊心を持ちながら生きてきたものの、最終段階を満たされない気持ちを抱えながら終えようとしているのを見ている気持ちはどんなものなのだろうか

古代ギリシア人であれば、心を苛む過去の激情や未来に対する不安から解放されるには、現在(いまここ)に集中するしかないというアドバイスを与えてくれることだろう

しかし、それを実践するのは意外に難しいということなのかもしれない


ものの見方次第で、これからの人生は益々豊かさを増してくるものと考えている

それは、いわゆる仕事をしているときには感じることができなかったようなレベルの豊穣をもたらしてくれるという意味である

その際に参考になる見方や考え方を教えてくれるヒントは、人類の遺産の中に眠っている

お話を伺いながら、その入り口として『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』は一読に値するのではないか

そんな我田引水の感想が浮かんでいた

そして、このような思索が巡る交歓も人生に豊かさを加えるものであることを再確認した一夜でもあった

またの仙台訪問が遠からぬことを願っている



******************************************

上の記事を書き終わった後、自己との対話に関連することを以前に書いていたことを思い出した

以下に貼り付けておきたい

 静寂と沈黙の時間、あるいは自己を自己たらしめるもの.医学のあゆみ 266: 184-187, 2018

ここには当日話題になったもう一つの問題に関連することも取り上げられていた

人生の最終盤に襲ってくる悔恨の念についてである

これほど今回の会食の話題に相応しいエセーもないだろう

是非一度お読みいただければ幸いである










2025年11月29日土曜日

再び広漠たる世界が現れる

























今日は完璧な快晴

それを見ているうちに紫煙の色を味わいたくなり、久しぶりにシガーに手が伸びた

暫くすると、このところ、このように晴れ上がった内的世界が広がっていないのではないかという疑問が湧いてきた

2007年に全的観想生活に入ったわたしの第4期前半(近著『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』 p. 112-117、参照)には、頭の中を整理したいという渇望があった

そのために必要となると考えていたものが目の前に広がっていた

それは、その性質上、茫洋とした捉えどころのない宏大さを湛えてそこにあった

その姿を見ようとして長い間耐えていたようなところがある


さて、ここ数日のこと

当時と同質の霞がかかったような何かが目の前に広がり始めているのではないか

その感覚は漠然としてはいるが、確かな存在感をもってわたしの中に生まれつつある

いつの日かその霞が晴れて、新たな視界が広がることを願いながらこれからを歩むことになるのか

そんな気分の仙台の週末である









2025年11月25日火曜日

恒例の学友との会食
















今日は恒例になっている学友との会食がいつもの場所であった

昼間から日本酒を飲むことなどないので特別な時間となった

お酒が体の底をふんわり浮かせるような仄かな感覚の中、越し方に思いを馳せながらの味わい深い会話が進んだ

わたしの近著『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』にも目を通していただいたようだが、難しいという評価であった

科学の領域に長い間身を置いていた場合には、そう感じるのかもしれない

もう一つは、ベルクソンカフェで読んだ本の内容をそのまま紹介するようなところがあるので、わたしの言葉というよりは原著者の言葉が出てくるためではないかと想像した

それから、最後に出てくる時間の感じ方のところで、点としての現在ではなく、「過去がそのあたり一面に散らばっているような」複雑な現在という捉え方には納得するところがあるという感想も聞かれた

いずれにせよ、自分が感じ取った経験がない場合には、言葉を読んでもピンと来ないところがあるのではないかとのことであった

その意味では、自分の知っていることしか理解できないという矛盾の中に入ることになる

プラトンの時代からのジレンマと言えるかもしれない

来年も味わい深いお話をしたいものである













2025年11月20日木曜日

シオラン届く
































シオランのコピーが届いた

昔買ったものと表紙が違っている

丁度前の記事が昔のものなので、よく分るだろう

今回手に入れたのは、どこにいても読めるようにするためである

どうも真剣になりつつあるようには見えるのだが、いつもの三日坊主に終わるかどうか、様子を見ることになる

フランスからの買い物は、以前は Amazon.fr を使っていたのだが、なぜかうまくいかなくなり、フランスとの距離が遠のいていた

今回、このコピーをどうしても欲しいと思ったのだろう

探して辿り着いたのが、灯台下暗しで FNAC だった

利用するのは初めてだったが、注文から4日で届くという国内の注文と変わらない速さで、驚くと同時に気に入ってしまった

フランスとの距離が再び近くなったように感じている

さらに数冊注文した










2025年11月17日月曜日

エミール・シオランが15年振りに蘇る




















先週のカフェフィロPAWLで話題になったエミール・シオラン(1911-1995)

その時、これからのカフェで話題にしても面白いのではないかというアイディアが浮かんだ

今朝、シオランと自分との関係を調べる意味で、ブログ記事に当たってみた

始める前は、2つ前くらいのブログにあるのではないかと思い探したが、予想は外れた

何と最初のブログに最初の記事(2006年8月4日)があったのである

よくよく思い返してみれば、そしてPAWLで紹介したエピソードを考えれば、それは当然のことなのかもしれない

フランスに渡る前にフランス人からこの哲学者の名前を聞き、興奮したと思われるからだ

その興奮がフランスでも残っていたのだろう

2010年秋までは折に触れて何かを書いている

しかし、それ以降記事は見られない

と思ったのだが、今年の6月に蘇っており、「シオランをパスカルのように読んでみたい」などとこのブログに書いている

いずれにせよ、今年15年振りに蘇ったことになる

この機会にお付き合いを再開してもよいのではないか

そんな気分になっている週の始めである

これなどもバディウの言う「出来事」に当たるのだろう

それは真理への扉であったが、この出来事はどんな真理に導いてくれるのだろうか


ところで、今日の写真は2008年10月26日の記事で使ったもので、懐かしい








2025年11月15日土曜日

イーロン・マスクが語る古代ギリシア哲学



秋のカフェ/フォーラムがひと段落して、少しのんびりできるようになった

Youtubeに行くと、わたしの辞書にはなかったイーロン・マスクが並んでいる

マスクに触れるのは初めてではないだろうか

そして、その話を聞いて驚いたのである

それが、わたしの考え、そしてわたしが体得したことと完全に重なっていたからである

それは新しいことではなく、古代ギリシアの哲学が教えていること、そのものなのである

それを実践することにより、時間はかかるが、確かにマスクが言っている境地に入ることができる

と、わたしは保証できる

それにしても、こんなところでつながってくるとは思わなかった

驚きの週末である







2025年11月14日金曜日

第22回サイファイカフェSHEで免疫を統合的に議論する






















本日は第22回サイファイカフェSHEを開催し、拙著『免疫から哲学としての科学へ』を読みながら免疫を広い視野から検討した

免疫の本質に至る方法として、解析の対象になるものをできるだけ多く集め、そこに共通して見られる最少要素を探し出すというやり方を採用した

これはソクラテスがやった方法と同じで、アリストテレスはそれを本質を抽出する方法と見なした

その結果、本質的な機能要素として、認識、情報統合、反応、記憶の4つを抽出し、この過程を「認知」と仮に規定した

これは神経系と同じ機能要素で、最近の免疫と神経の直接の結びつきを示す結果はその前提を補強するものである

つまり、免疫は全身が一体となって機能する生存に不可欠の要素であることが示唆される

そこから、スピノザの「コナトゥス」とカンギレムの「規範性」を参照して、免疫を見直す作業を行った

これは著者が言う「科学の形而上学化」の過程であるが、その意義についても議論された

詳細は近いうちに専用サイトに掲載する予定である

訪問していただければ幸いである


























今回で『免疫から哲学としての科学へ』の読書会を完了したことになる

懇親会では、これからも免疫をテーマにした会を継続してほしいとの声が聞こえた

例えば、クリルスキー著『免疫の科学論』やコサール著『これからの微生物学』などの書評会あるいは読書会など

その他、今回の免疫論に続く「免疫論2.0」とでも呼ぶべきものが生まれるようであれば、それについての話があっても面白いのではないか

非常に積極的かつ具体的な提案があったので、来年に向けて考えておくことにしたい

決まり次第、お知らせする予定である

参加された皆様に改めて感謝したい




*************************************

jeudi 20 novembre 2025

本日までに以下のコメントが届いております。


◉ CRSPR/Cas9を免疫に含めるかどうかについてやや議論が混乱した印象がありますが、結局、免疫の定義が不明確であったため起こったものと考えます。獲得免疫を念頭に置くのか、それとも自然免疫を含めた広い概念を指すのかによって、かなり議論が変わってきます。先生が免疫の本質的要素として抽出した、認識、情報統合、反応、記憶という4つの要素は獲得免疫系が持つ特徴で、教科書的には自然免疫では認識、即反応と考えられており、情報統合、記憶は無いというのが一般的な捉え方だと思います。もっとも最近、Neteaらは自然免疫にも記憶がある、と言っていますが、確かに一部では正しいのだと思いますが、必ずしも全ての自然免疫に記憶があるとは言えないと思います。従って、CRSPR/Cas9を含めた免疫系にこのような4要素がある、というのは言い過ぎでは無いでしょうか。また、このような要素が神経系と共通するから精神活動が神経系の独占物では無い、というのも説得力に欠けると思います。むしろ、IL-1, IL-6, IL-17, TNFなど多くのサイトカインが免疫系と神経系で共通に機能しており、精神活動に影響を及ぼすことが両者の近縁性を示しているのでは無いでしょうか。


◉ 免疫を起点とした科学の形而上学化に対する矢倉先生の思索の道程を、4回の議論で理解、咀嚼して、科学の形而上学化に対する適切なコメントを述べるだけの学識経験が私にはありませんので、感想という形でコメントさせていただきます。 

 本書では、矢倉先生が免疫の研究者としてそして哲学者として、膨大な免疫研究の情報を時系列に集積しそこに横たわる様々な課題を免疫のみならず哲学的な視点からそれらを見直し全体として繋ぎ合わせ、免疫の本質とは一体どにようなものであるかを考察されています。この方法はプラトンの本質主義に近いものであると述べておられます。そして、免疫はすべての生物に偏在し生命の維持に不可欠である。免疫はオーガニズム全体で担われていて、神経系や内分泌系などのシステムとも連動し生体を制御している。さらには免疫の本質には生物学的極性を制御する規範性(倫理性)を伴う心的性質をも包摂するものではないかと思考の輪を広げています。 この免疫という複雑科学を形而上学化するという試みは、その先にある「心」とは「生物・生命」とはそして「自然」とはなにかという問いへと繋ながる一里塚のように感じました。科学と社会の発展を漸進的に実践している矢倉先生の姿がそこには見られます。これからの科学者が持つべき姿勢、あるいは指標が表出しているように思われました。 

 本書で取り上げられた免疫とはなにかという問いは、本書が刊行される以前の12-SHEミニマルコグニション(2017.10.24)に遡ります。ここでは認識(認知、心性)を構成する最小要素(ミニマルコグニション)は何か、そして最初の認識能が進化のどのレベルで出現したかという問題がとりあげられています。私は免疫の知識もなくそして心的な活動とその進化をどのように考えるのかという意識もないままにこの議論に参加しました。内容をよく理解できなかったのですが直感的にミニマルコグニションは定義の問題ではないだろうかという意見を述べた記憶があります。 その後、本書が刊行され(2023.3.16)その合評会(17-SHE, 2023.11.17)が開かれてそこへも参加いたしました。免疫の専門家の方が半数参加されていたため、免疫研究そのものに対する議論は少なく主に科学の形而上学化の意義に議論が集中しました。私には免疫についても科学の形而上学化に対しても消化不良の感が残りましたので、他のカフェの懇親会の折に、矢倉先生に本書を題材にしたシリーズでの議論の場の設定を提案したところ矢倉先生はそれを実現してくださいました。 

 4回のシリーズを終えて、結局、免疫を理解する鍵であるミニマルコグニションをどう定義するかについては、私自身は免疫における4つの機能的要素(抗原刺激の需要、情報の統合、適切な反応、経験の記憶)を心的要素を含んだミニマルコグニションと定義していいのではないかと考えました。しかし、免疫の専門家の方からはその機能は生体防御であり、そこを科学的に明確な根拠なく心的要素を導入し踏み超えるべきではないという意見がありました。議論が偏ることなく展開されています。現時点では大多数の専門家が合意する定義は存在しないように見えます。これは、早急に結論を求めるべきでない、あるいは求められない問題だと思います。形而上学的な視点を持ち循環論に陥らずオープンエンドで科学の進展を待ちつつ定義すべき課題と思います。 

矢倉先生は、なぜこのような科学の形而上学化を行う必要があるかという問いに対しては、科学は局所を機能的に解析する方法であり全体的な意味を問わない、問うことができない。そして形而上学からは科学で得られない意味に関する視座を得ることができる。結局、我々の認識を豊かにする科学と文化の架橋(形而上学による知の再統合)に「意義」を見出せるかがカギであると述べておられます。 科学の形而上学化の必要性とその意義については、参加者全員が賛意を示されたと理解しています。 貴重な議論に参加させていただきありがとうございました。