2025年6月6日金曜日

シオランの声を聴く


































昨日のフィルムに触発され、これまでのシオラン関係のブログ記事を集めてみることにした

今日は「パリから観る」の2010年9月15日の記事からシオランの声を聴いてみたい



1970年(59歳)

わたしは今まで眠られない夜の憂鬱の中でしか書いたことがない
7年間、全く眠ることができなかったのだ
書くためにはこの憂鬱が必要で、今でも書く前にはハンガリーのジプシー音楽を聴くことにしている
その一方で活力も持っていた
嫌悪と恍惚の間で積極的に悲しみを味わっている

 

わたしは書くのが嫌いで、余り書かなかった
ほとんどの時間は何もしていない
パリで最も仕事をしない人間なのだ

 

40歳でまだソルボンヌに登録していた
学生食堂で食事し、永遠にこの生活が続くことを願っていた
しかし27歳以降の登録が禁止されることになり、この楽園を追われたのだ

わたしはよく読み、休みなく読み直す
ドストエフスキーの全作品は5-6回読んだ
再読したもの以外について書くべきではない

ブッダを近くに感じる
それは彼が真の問題を理解していたからだ

 


1977年(66歳)

ルーマニアが好きだったのは原始的なところだ
もちろん洗練された人もいたが、わたしが好きだったのは文盲の人たち

本は打撃を与えるもの、危険なものでなければならない
読み手の人生を変えるものでなければならない
わたしが書く時には人を激しく非難し、覚醒させることを考えている
新聞を読むように読める本は好きではない
本はすべてをひっくり返し、人に疑問を投げかけるものでなければならない
わたしが書くものの有用性など考えていない
なぜなら、本当のところ、読み手のことなど考えていないからだ
わたしは自分自身のために書いている
わたしの中にある強迫観念、緊張を解放するためで、それ以上のものではない

 

哲学は爆発の形を取った断片としてしか成立しないと考えている
論文のように章立てで論じるのはもはや不可能である
この意味で、ニーチェは優れて解放者だった
彼こそ体系を目指すアカデミックな哲学を破壊したのだから
彼が解放者だと言うのは、その後すべてを語ることができるようになったからだ
今は一見まとまりを持っているように見える本を書く時でも断片的になっている

 

断片的な思考は経験のすべての側面を反映している
それに対し、体系的な思考は一つの側面、点検された側面しか反映していない
それは貧しいものである
ニーチェやドストエフスキーにはあらゆる経験、可能な限りの人間のタイプが描かれている
体系の中では一人の統率者だけが話すのだ
それ故、断片的思考が自由なのに対し、すべての体系は全体主義的になる

 

ルーマニア語で書く時、当然のことながら書いていることを意識しなかった
言葉がわたしから独立していなかった
しかしフランス語の場合、すべての言葉がわたしの意識に降りかかってきた
言葉がわたしの前に、外に、細胞の中にあり、それを探したのだ

 

わたしの人生は退屈に支配されていた
この感情は子供の時からのもので、本質的なものだ・・・
何も興味を引かず、何も意味を持たない状態だ
この感情が繰り返し訪れた
人生において真剣なことは何もやることができなかった
本当のところ、わたしは激しく生きてきた
ただ、存在に溶け込むことができなかった
わたしの辺縁性は偶然ではなく本質的なものだ・・・
無用であり、利用することができないことがわたしの夢だった
退屈のお蔭でこの夢を実現できたのだ

・・・わたしは覚醒させるために書くアウトサイダーにしか過ぎない


Cioran, Entretiens (Gallimard, 1995) より








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