今日も暑かったが、外に出てコンシュの『形而上学』について見直していた
きっちり読んで、批判的に見るというようなやり方ではなく、暑さの中、もやーっとした中から浮かび上がる像を観察するというやり方で
どれだけ一般化できるのか分からないが、フランス人の思考を日本人が理解することはあるのだろうか、という考えが浮かぶことがある
以前に(もう7年も前になるが)、クリルスキーさんの『免疫の科学論』を訳したことがある
その時にも感じたのだが、そこに描かれた免疫の像を掴もうとするのだが、砂が指の間から落ちるように逃げていくのである
わたしの中にある思考スタイルと違うからなのだろうか、という感想を持ったことを思い出す
今回のコンシュさんの形而上学の場合も、日本人が言う「分かりやすさ」を感じることはなかった
もちろん、対象に対する知識が少ないということもあるのだろうが、それ以上に、対象に向かう思考のやり方に違いがあるような気がしているのだが、
このように思考そのものに違いがある場合、それを理解するには、おそらく時間をかけて馴染むしか方法はないのかもしれない
忙しく生活に追われている現代人にとって、それは可能なのだろうか
もし昔のような生活を今もしていたとするならば、このようなことは視界にも入っていなかったであろう
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