2025年3月8日土曜日

第13回サイファイフォーラムFPSS、終わる






















今日は、終わりには雪になった寒い一日であった

そんな中、第13回のサイファイフォーラムFPSSが開催された

年度末のお忙しいところ、お集まりいただいた皆様には改めて感謝したい

プログラムは以下の通りであった

 1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑦ 「プラトンの宇宙論」

 2)細井宏一: 人文科学と自然科学の間にあるサイエンス——啓示か、観察か、それとも・・・——

 3)岩倉洋一郎: 科学は自らの発展を制御できるのか?


1)拙「科学と哲学」シリーズはすでに7回目を迎え、ソクラテス以前の哲学者が終わり、前回からプラトンに入っている

今回はその宇宙論について概観した

プラトンの世界観は、常に在る生成しないものと、常に生成・消滅し、真に在ることのないものを識別することから始まる

宇宙はそのどちらになるのかとの問いが出されるが、それは後者である

物体性があり、感覚で捉えられるからである(そういうものは生成されたものなので)

それでは一体、誰がどのように宇宙を造ったのか

それが語られた


2)細井氏は、自らの人生を振り返り、それまで欠落していたと結論された「考える」という営みに入られた経緯から始められた

その後、科学、哲学、神学など幅広い領域について、豊富な歴史的考察を交えた分析が進められた

よく理解できないことが少なくなかったので、時間をかけて振り返ることにしたい

今回、一貫して強調されていたのは、人間の特徴である「考える」ことをどのようにやっていくのかということではなかっただろうか

それは科学を考える以前に重要になることのように感じられた


3)岩倉氏の話題は、特に遺伝子改変や人工知能の領域における最近の進歩がもたらしている倫理的な問題についてであった

指摘された問題については、専用サイトにまとめる予定である

演題は、科学がこれらの問題について考え、制御することができるのかという問いであった

個人的には、それは難しいのではないかというのが直感的な回答になるだろう

なぜなら、現在の科学にはこのような問題を考える自省的な側面が組み込まれているようには見えないからである

そこで提唱しているのが「形而上学化された科学」で、現在の科学の中に、このような問題について考える営みを内包させた新しい科学(「新しい知のエティック」と言ってもよいだろう)である

もし、上述の新しい科学が広く実践されるようになれば、この問いの答えはイエスに変わる可能性はあるだろう


いずれの演題の詳細も、近日中に専用サイトに掲載する予定である


























2025年3月6日木曜日

第12回カフェフィロPAWL開催される






















本日は、第12回カフェフィロPAWLにおいて拙著『免疫学者のパリ心景――新しい「知のエティック」を求めて』(医歯薬出版、2022)の朗読会 vol. 1 が開催された

まず、寒い中お運びいただき、議論に積極的に参加していただいた皆様に感謝したい

会のスタイルや運営は、プログラムにある通り、この本の編集者である医歯薬出版の岩永勇二氏にお任せした

驚いたのは、室内を暗転させ、灯りは本に取り付ける小さな読書灯だけというセッティングであった

詩的な内容の本では、このようなスタイルの朗読会が少なくないという

拙著が詩的な雰囲気を持つものであるという評価があったのだろうか

いずれにせよ、この状態で指定された箇所を読み進んだが、この環境が実に不思議な影響を及ぼしていた

読んでいるテクストには、その昔、全身で向かっていた歩みのエキスのようなものが書かれてある

そのため、その背後にあるものまで浮かび上がってきて、こみ上げてくるものがあった

あの暗闇で拙い読みを聴いていた皆様は、一体どのような印象を持たれたのだろうか

伺ってみたいものである


今日の話題は、なぜフランスで哲学だったのかという問いと、フランスに向かう前に刻印を残した二人の哲学者、ピエール・アドーとマルセル・コンシュについて触れた後、わたしが生きる上で非常に重要だったアリストテレスの「エネルゲイア」について考えるというものであった

エネルゲイアについては、この概念を知った後にそれを自らの生活に生かしたというのではなく、それまでの歩みの中で感じ取っていたことが実はエネルゲイアという状態だったという気付きであった

わたしが哲学に入ってからは、このような発見が相次いだと言っても過言ではないだろう

幸福にも深く関係すると考えているエネルゲイアという状態を、実際に経験されている方は意外に少なかった

忙しい仕事に打ち込む、コンシュ流に言えば「縮小された時間」に生きている場合には、それは難しいのかもしれない


また、哲学を体系の構築ではなく、世界の見方の変容と捉えている二人の哲学者が刻印を残したが、それはわたし自身がそのような性向を持った人間であることを示しているのかもしれない

アドーの著作は日本でも翻訳されるようになってきたが、コンシュに関しては未だ日の目を見ていない

現在、コンシュの翻訳を進めているところだが、リスキーなプロジェクトには見えるが、刊行を考える出版社が出てくることを願うばかりである


会の詳細については、近いうちに専用サイトに紹介する予定である

なお、朗読会の vol. 2 を第13回カフェフィロPAWLとして、11月に開催する方向で考えていきたい

次回も盛会であることを願うばかりである









































2025年3月4日火曜日

コンシュ哲学を語る第11回ベルクソンカフェ終わる






















今夜は大雪が心配されたが、第11回ベルクソンカフェを開催した

冷たい霙が降る中お集まりいただいた皆様には改めて感謝したい

今回は、前回のFPSSでも取り上げたマルセル・コンシュという現代フランス哲学を代表する哲学者の生の声を聴くことにした

具体的には、2006年の Philosophie Magazine 第1号に載ったインタビュー記事を読み、その哲学について語り合った

まず、いかなる観点からも正当化できない子供の苦しみの存在を絶対悪と認識したことに由来する無神論哲学について語られる

神というものは理性で説明すべきものではないとして、神学者、神学的哲学者を批判する

彼の批判は、神の啓示を信じている人々に対するものではないことを断っている

そして、哲学と神学、さらに科学との違いを明確にする

科学が狭い領域について証明を通して真実を所有していくのに対して、哲学は瞑想を通して現実の全体についての真理を得ようと試みることであるとする

その方法についてはこれが唯一の道であると断言できないため、いくつかの可能性が生まれる

それを選ぶのは、その人の意見(変わりやすいもの)ではなく、人生を歩む中で感得した確信による

その哲学を生きることができるようなものでなければならないという


また、時間の捉え方として「果てしない時間」と「縮小された時間」を区別し、普通の人は時間に追われて生きると言われるように「縮小された時間」を生きている

しかし「果てしない時間」から見ると、われわれの存在は閃光のようなものになり、モンテーニュに言わせれば、存在の名に値しない

「果てしない時間」という視点がなければ、日常に埋没するだけで、哲学には向かうことはないのかもしれない

その他、彼の哲学的立場としての唯物論ではない自然主義、特にギリシアにおけるすべてを包含するピュシス(Physis)という意味における「自然」の重要性、道徳と倫理の峻別、平和主義、さらに行動と活動、および社会的・政治的自己実現と他者との関係のニュアンスに重点を置く生き方の対比などが語られている

近いうちに専用サイトにまとめる予定なので、そちらを参照していただければ幸いである


当初2回に分けて読む予定だったが、初回が順調に進み、読み終えてしまった

ということで、次週の会はキャンセルということにしたい

何卒、ご理解をいただければ幸いである




































2025年3月3日月曜日

春の会食終わる
















春を迎えて恒例になっている学友との会食があった

今日は春らしい雰囲気になったが、外は寒かったようで、午後から白いものが降っていた

いつものことだが、他愛もないことを駄弁って時を貪ったという感じだろうか

それでよいのだ、というのが結論になるのだが、、


わたしにとっては久しぶりに沼の底から体を出した状態になったので、いろいろ話していたのではないだろうか

特に、このところ考えていた現世における問題なども含めて

学友は某国のビジネスマン指導者の考えには違和感を覚えているようで、最近ヨーロッパの指導者との違いが際立つようになったとの分析をされていた

その点は同意せざるを得ない

ここに来て、歴史の蓄積の差がじわじわと出てきているのだろうか

日本も根本にかえって考え直さなければならないのだが、考えるという行為がどこかに行っている状態なので、なかなか大変である


ところで、厳しい現実の中で生き残りをかけて戦っている人たちがいる一方、何のためになるのか分からないようなことに精を出しているように見えるわたしのような歩みはどう考えればよいのだろうか

ご両人ともやや呆れ顔のように見えたのは気のせいだろうか







2025年3月1日土曜日

春のカフェ/フォーラムを目前に控えて




















今日は暖かな日和である

この冬に入る時には、これから寒さに耐えなければならないと暗い気持ちでいたが、想像以上に穏やかな冬となってくれた

今日そこから抜け出て春になったことを確信した


あと数日で「春」のカフェ/フォーラムシリーズが始まる

このようなアクセントが生活に入ると、我が日常の特徴が明確になる

かなり前から気づいているが、再度確認しておきたい

意識の面から言うと、すべての時間をほぼ完全に自分のものとしている

つまり、そのすべてが意識されているという状態だろうか

いろいろな刺激が入る普通の日常では、この状態は維持できない

その深さまで入ることができない

少なくとも自らの中はいつも静寂に包まれていなければならないからだ

もし今の意識状態を知らないとすれば、この違いに気づかずに終わる可能性が高い

生物学的に言えば、代謝が抑えられ、冬眠状態に近いように見える


この状態から立ち上がりを見せるのが、このシリーズである

これまでに醸成されてきたものを遥か下方に眺めながら、外界との接触に入ることになる

できるだけ濃厚な交換ができるようにしたいものである

どのような発見があるのか楽しみにしながら、この2週間を過ごすことになるだろう