2026年2月12日木曜日
Mind in Life を読む(7)
2026年2月11日水曜日
Mind in Life を読む(6)
今日から、本書を貫く現象学のテーマを概観する第2章「現象学的結びつき」に入る
現象学が重要になる理由として、以下の2つを挙げている
第1に、人間の心を理解しようとすれば、意識や主観性を問題にしなければならないが、現象学は生の経験を記述、分析、解釈することに根ざしていること
第2に、エナクティブ・アプローチでは、心の解析に生きたオーガニズムや身体が重要になるが、フッサール(1859-1938)やメルロー=ポンティ(1908-1961)の流れをくむ現象学は、生きた身体の哲学であること
これらの理由から、現象学が主観性や意識の研究を導き、成果の意義について哲学的フレームワークを提供する可能性があるとしている
本章の目的は2つある
第1は、フッサール現象学の中心概念、特に現象学的還元(経験の研究方法)と志向性について紹介すること
第2は、現象学の3つの相――静的(static)、遺伝的(genetic)、生成的現象学(generative)――を概観すること
(1)静的現象学とは、意識の構造を対象と対象に対する志向性を、時間的な生成過程を考慮に入れずに解析する
(2)遺伝的現象学は、志向性と対象との関係が時間経過とともにどのように現れるのかを解析する
例えば、ある経験が後にどのように動機づけするのかという視点から解析する
経験は「沈殿」する構造を持つが、その研究には生身の身体と時間意識が重要になる
(3)生成的現象学においては、経験の文化的、歴史的、間主観的成り立ちが重要になる
2026年2月8日日曜日
Mind in Life を読む(5)
Caminante, no hay camino,se hace camino al andar.
旅人よ、道などない
歩くことで道は作られるのだ
Wanderer, the road is your footsteps, nothing else;
you lay down a path in walking.
世界は最初から意味づけられているのではなく、行為によって意味のある世界が生じる
それが認知の本質だという主張である
「エナクティブ・アプローチ」という言葉は、ヴァレラ、トンプソン、ロッシュの1991年の著作 The Embodied Mind(『身体化された心』)の中で紹介されたものである
この言葉は、いくつかの考えを統合する狙いがある
第1は、生物には自律性があり、自らの認知領域を積極的に生成する
第2は、神経系はダイナミックな自律的システムで、計算理論のように情報を処理するのではなく、意味を生成する
第3は、認知とは、状況の中に置かれ、身体化された行動において発揮され、知覚と行動が繰り返す感覚運動パターンから立ち現れてくる。それは、内因的でダイナミックな神経活動パターンの形成を「修飾」させはするが、「決定」するものではない。
第4は、認知的存在の世界は、その脳によって内部的に表象される、事前に指定された外部の領域ではなく、その存在の自律的な行為と環境とのカプリングによってもたらされる関係性の領域である
第5は、経験は心の理解にとって中心的なもので、現象学的に注意深く研究する必要がある
本書のモチベーションは、エナクティブ・アプローチが自我や主観性を説明することにより、説明のギャップを埋めることができるのかというところにある
そのためには、生物学、神経科学、心理学、哲学、現象学などの知を統合しなければならないだろう
2026年2月6日金曜日
学友との恒例の会食
今日は学友の深津・池田両先生との会食があり、出かけた
恒例となって久しいが、一体いつからだったのか調べてみたところ、2012年が最初であることが分かった
わたしがフランスから一時帰国して神経心理学会で講演をした際、深津先生が聞きに来てくれたことが切っ掛けであった
それ以来、帰国の度に毎年2回ほど会食を続けてきたので、長い間ご厚誼を賜っていることになる
今日も他愛無い話から始まったが、中心は科学から哲学へと領域を超えて羽ばたいている(より正確には、彷徨っているか)魂についてではなかっただろうか
昨年のまとめでもこの場で触れたが、昨年は日本では無名のフランス人哲学者マルセル・コンシュ(1922-2022)の『形而上学』という本の翻訳をやっていた
その内容が日の目を見ることを願ってはいたが、何分わたし以外の日本人が話題にしているのを見たことがない
1冊しか売れない本を刊行する出版社があると想像する方がどうかしている
ところが、奇跡のようなことが起こり、理解を示してくれる出版社が見つかったのである
学術出版に打ち込んでいる知泉書館さんである
先日、知泉書館の社長と編集者の方と面談する機会があった
その中で、わたしの解釈によれば、領域を横断するような精神の動きに意義を認めておられる様子が伝わってきた
それが日本では稀であるというようなお話であった
精神的な活力が衰弱しているのではないかという観察が背後にあるのではないかと推察した
いずれにせよ、こちらが活を入れられるような面談となった
この話題を出したところ、そこから話が広がっていった
拙著『生き方としての哲学:より深い幸福へ』を精読していただいているようで、その中に出てきた「出来事」に当たる今回のような「出会い」が持つ意味へと展開
バディウ(1937-)によれば、それこそ真理への道であるという
どういう真理が現れるのか、わたし自身も興味を持っている
こういう流れで自然に話が続くほど、丁寧にお読みいただいている
嬉しくなる展開ではあった
というようなことでお開きになったが、何と来月もこの会合を持つことになった
これは異例の展開と言うべきだろう
次回はどんな話になるのか、楽しみにしながら待ちたいものである
2026年2月5日木曜日
Mind in Life を読む(4)
本日は、1980年代から出てきた心的過程をニューラルネットワークとして捉える「コネクショニズム」(connectionism)から見ていきたい
これは、認知を単純なユニット間の結合パターンの動的変化と捉えるもので、それまで優勢だった認知主義(cognitivism)が心を脳の中に閉じ込めたのに対し、認知過程と環境との関係にまで広げるダイナミックな見方である
すなわち、言語や論理をもたない存在にも認知を認めるもので、生物界に広く存在することになるだけではなく、生態系にもつながる可能性を持っている
わたしが免疫論で展開した議論は、コネクショニズムと親和性が高いとも言えそうである
ただ、この考え方でも「説明のギャップ」は埋まらないままである
2026年2月4日水曜日
なぜ我々は自分たちのためにならない嘘を好むのか
Jean-François Revel (1924-2006)
最近漏れ聞こえてくる政治状況を見ながら、記憶の底にあった言葉が浮かび上がってきた
それが、今日のタイトルである
フランスに向かう前に立ち上げた最初のブログに書いた記事の中の言葉である
もう20年前のことになる
この観察をしたのは、アカデミー・フランセーズ会員で作家のジャン=フランソワ・ルヴェルさん
彼はこの疑問に向き合ってきて、その回答をまとめているようだが、わたしはまだ目を通していない
しかし、歴史を振り返れば、この疑問が浮かんでくるのはよくわかる
どうしてそのことが見えないの?
という問いも成り立つが、もうそんなことはどうでもよくなっている可能性がある
威勢のいい方、何か面白そうな方に進んでみたくなるのが人間なのだ
とでも言いたいかのようである
以下に20年前の記事の関連部分を引用したい
こんなことも書いていたのか、という思いである
*****************************************
フランスに揺られながら Dans le hamac de France
2006-04-07
----------------------------
[私語]
この記事の全文はこちらから
2026年2月3日火曜日
Mind in Life を読む(3)
2026年1月30日金曜日
第3層の欠如を憂う
2026年1月28日水曜日
Mind in Life を読む(2)
2026年1月22日木曜日
Mind in Life を読む(1)
2026年1月21日水曜日
2026年1月20日火曜日
春のカフェ/フォーラムのご案内
◉ 第14回カフェフィロPAWL
2026年3月11日(水)18:00~20:30 恵比寿カルフール B会議室
『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、
(2) 竹田 扇:デカルトの医学論――機械論に基づいた⼈体の統⼀的理解
(3) 白石裕隆:「文(ふみ)以前」を“詩"索する、地質・文学・
サイト
◉ 第16回サイファイカフェSHE 札幌
2026年4月11日(土)14:30~17:00 会場未定
『免疫から哲学としての科学へ』を読む(4)
2026年1月19日月曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(33)
2026年1月18日日曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(32)
2026年1月17日土曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(31)
2026年1月16日金曜日
『生き方としての哲学:より深い幸福へ』を肴に会食
2026年1月15日木曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(30)
2026年1月14日水曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(29)
本日は、3-3-3「シェリングの哲学における自然の質的経験」について読むことにしたい
シェリング(1775-1854)は、自身の哲学全体を思弁的自然学と経験的自然学という2つの「自然学」に分けていたので、客観的経験と構成的経験の区別は明瞭に現われていた
思弁的自然学とは、自然を内側から動かす内的衝動に関心を持つ自然の哲学である
それは諸事物の非客観的な側面に向かう
これに対する経験的自然学は、世界の表面で起きることしか考慮に入れない
ショーペンハウアー(1788-1860)によれば、経験的自然学は自然の外貌を作っている客観的・機械的な側面には執着するが、普遍的運動性の根源にまでは決して遡らない
したがって、この自然学は哲学ではなく自然科学と解され、観察者によって報告される事実の積み上げに過ぎなくなる
その総体は受動的堆積であり、産物でしかない
もし、そこに能動的で生産的な相の下に直視すれば、それは世界であることを止め、自然となる
この見方によれば、自然とは産物(所産的自然:natura naturata)と生産性(能産的自然:natura naturans)が同一の状態にあるもので、世界とは前者を蒐集した総体を指すことになる
自然の哲学のためには、自然の諸力が包蔵する創造的活力を呼び出さなければならない
シェリングによれば、そこには我々が直観し得ないような無限の進化と生成が見える
宇宙の設計者の設計になる進化や、物質世界の機械論的変容による進化は問題にならない
2026年1月13日火曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(28)
第一に、先の原理に従えば、自然の中に実在する実体的なすべてのものは世界から追放され、 その場に諸観念の架空の体系が建っている、と言って人は私に反論するであろう。存在するすべての事物は、ただ知性の中にだけ存在する。すなわち、それらはたんに想像的なものにすぎない。太陽や月や星は一体何になるのか? 家、河、山、木、石をどう考えるのか、それどころか、われわれ自身の身体そのものをどう考えたらよいのか?
先の原理は、諸事物が絶えず無化され、ついで再び創造されるということを含意していると反論するであろう。感官の対象は、人がそれを知覚するときにのみ存在する。それゆえ木は庭にあり、椅子はサロンにあるが、それは誰かがそれらを知覚するためにそこにいるときなのである。私は眼を閉じる、すると部屋の中のすべての家具は無に帰化する。それらを蘇らせるためには私が眼を開けるだけで十分である。
あらゆる結果を直接に、命令一下、つまり意志の働きによって生み出すのが精神であれば、すべての技巧的なものは無用になる。観念に属する諸器官は、いかなる能力も活動性も所有しておらず、それらに割り当てられる結果と必然的に結びついてはいない。例えば、懐中時計の歯車装置を細工する時計工にそれが見られるのだが、そういうことはすべて、針を差し向け針に時を告げさせるのが至上の知性であると言ってしまえば空しくなる。空しい細工師は、なぜそれをも問題にしないのだろう。
諸観念の結合は、原因と結果の関係でなく、徴表や記号と意味された事物との関係だけを含意している。私が見る火は、近づけば被る苦痛の原因ではない。その火は、私にその苦痛を予告する徴表なのである。同じように私が聞く騒音は、これこれの運動の結果とか、周囲の諸物体の衝撃の結果ではない。それはそういうものの徴表なのである。
物理学者に対するバークリーの挑戦はここで終わる
2026年1月11日日曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(27)
医学のあゆみ 263 (6): 551-555, 2017
2026年1月10日土曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(26)
世界を満たしている物質と生命は我々の内でも同じである。すべての事物に働きかける諸力を、我々は自身の内に感じ、つくられるものとみずからつくるものとの内的本質がいかなるものであろうとも、我々は現にその諸力である。
こうして、主観性と客観性の道の他に、第三の道が現れる
その道は、客観性の姿が内省によって間接化された時、すでにシェリング(1775-1854)がやったような形で開けているのである
これはどういう意味だろうか
外から観察して裁断する科学でも、内から主観的な世界を見るのでもなく、われわれの中にある世界を形成する力そのものを経験すること
客観的な世界をわれわれの生の経験として捉えなおすことが内省による間接化で、シェリングの「自然は目に見える精神である」という認識につながり、それが第三の道になるということなのだろうか


















