2026年2月12日木曜日

Mind in Life を読む(7)

































今日は、第2章の第1節「構えとしての現象学」を読むことにしたい

現象学がどのような方法論を用いているのか、どのように実践されるのかについてのお話のようである

早速中に入りたい

日常生活において、専門家としてであれ、家族や仲間といるときであれ、われわれはその状況にただ身を晒している

フッサール(1859-1938)はこれを「自然的態度」と呼び、世界に対する反省のない向き合い方であるとしている

これに対して「現象学的態度」と呼ばれるものは、自然的態度から少し身を引き、その経験を見直そうとする

その際、判断を一旦保留して括弧に入れ(エポケー)、独断的にならずに自然的態度で経験した(われわれに現われた)ことを探究することになる

この過程は、哲学的には「現象学的還元」と呼ばれる

反省のない状態で世界にいる思考を否定するのではなくそのまま保持しながら、それがどのように受容され、経験されたのかに興味をシフトさせるのである

これなどは、前にある壁だけを見ていた人間の視界を、後ろの開けた(真理があるだろう)世界へと向きを変えるプラトンのやり方にも通じる

これは、哲学を通底する考え方なのかもしれない

現象学的還元は、心理学でいう「メタ認知」に導くとも言えそうである

第1段階でエポケーがあり、第2段階では現象学的心理学から超越的心理学への移行が起こるという

第2段階では、何があるかではなく、どのようにあるのか、その意味が問われる

そこには意識の志向性がある

「超越的」とは、われわれの経験の根源にまで至る構えを含意する言葉だとしている


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現象学的還元、エポケーなどを含む現象学の方法論を読みながら、フランスに渡る前にフランス人哲学者からいただいた言葉が浮かんでいた

わたしの拙いフランス語で書かれたブログをすべて読んだ感想として、端的に言えば、わたしはフッサールやハイデガーを愛するために生まれてきたという言葉が書かれていた

その意味は長い間よくわからなかったが、今回の説明を読むと重層的な意味を持っていたことが見えてくる

まず、2005年からブログを始めたが、これは意識を目の前のものを摑まえるだけでなく、少し下がってそれを別の角度から眺めようという心の動き(志向性あるいはその変化)の結果であった

ある意味、現象学的還元であり、エポケーにつながる動きである

2005年あるいはそれに先立つ数年は、意識の向かう方向に大きな転換が起こった時期に当たる

後に「意識と幸福の三層構造理論」を提唱しているが、その第1・2層から第3層への移行もまた、現象学的な変容と重なるところがある

こうして振り返ると、ここに至る芽は20年前にすでに出ていて、それを専門家は見抜いていたということになる

つまり、「意識と幸福の三層構造理論」に至る道は必然であったように見えるのである

それは同時に、この20年余りの間、全く意識することなく現象学を生きてきたことを意味している

「まず生きよ、それから哲学せよ」(primum vivere deinde philosophari)の結果辿り着いた驚くべき発見の朝である











2026年2月11日水曜日

Mind in Life を読む(6)




















今日から、本書を貫く現象学のテーマを概観する第2章「現象学的結びつき」に入る

現象学が重要になる理由として、以下の2つを挙げている

第1に、人間の心を理解しようとすれば、意識や主観性を問題にしなければならないが、現象学は生の経験を記述、分析、解釈することに根ざしていること

第2に、エナクティブ・アプローチでは、心の解析に生きたオーガニズムや身体が重要になるが、フッサール(1859-1938)やメルロー=ポンティ(1908-1961)の流れをくむ現象学は、生きた身体の哲学であること

これらの理由から、現象学が主観性や意識の研究を導き、成果の意義について哲学的フレームワークを提供する可能性があるとしている


本章の目的は2つある

第1は、フッサール現象学の中心概念、特に現象学的還元(経験の研究方法)と志向性について紹介すること

第2は、現象学の3つの相――静的(static)、遺伝的(genetic)、生成的現象学(generative)――を概観すること

(1)静的現象学とは、意識の構造を対象と対象に対する志向性を、時間的な生成過程を考慮に入れずに解析する

(2)遺伝的現象学は、志向性と対象との関係が時間経過とともにどのように現れるのかを解析する

例えば、ある経験が後にどのように動機づけするのかという視点から解析する

経験は「沈殿」する構造を持つが、その研究には生身の身体と時間意識が重要になる

(3)生成的現象学においては、経験の文化的、歴史的、間主観的成り立ちが重要になる








2026年2月8日日曜日

Mind in Life を読む(5)


































本日は、第1章「認知科学と人間の経験」の最終節「エナクティブ・アプローチ」を読むことにしたい

フランシスコ・ヴァレラ(1946-2001)は、スペインの詩人アントニオ・マチャード(1875-1939)の次の有名な詩を引用して「エナクティブ・アプローチ」の本質を指摘している
Caminante, no hay camino,
se hace camino al andar. 
旅人よ、道などない
歩くことで道は作られるのだ

Wanderer, the road is your footsteps, nothing else;

you lay down a path in walking.


世界は最初から意味づけられているのではなく、行為によって意味のある世界が生じる

それが認知の本質だという主張である

「エナクティブ・アプローチ」という言葉は、ヴァレラ、トンプソン、ロッシュの1991年の著作 The Embodied Mind(『身体化された心』)の中で紹介されたものである

この言葉は、いくつかの考えを統合する狙いがある

第1は、生物には自律性があり、自らの認知領域を積極的に生成する

第2は、神経系はダイナミックな自律的システムで、計算理論のように情報を処理するのではなく、意味を生成する

第3は、認知とは、状況の中に置かれ、身体化された行動において発揮され、知覚と行動が繰り返す感覚運動パターンから立ち現れてくる。それは、内因的でダイナミックな神経活動パターンの形成を「修飾」させはするが、「決定」するものではない。

第4は、認知的存在の世界は、その脳によって内部的に表象される、事前に指定された外部の領域ではなく、その存在の自律的な行為と環境とのカプリングによってもたらされる関係性の領域である

 第5は、経験は心の理解にとって中心的なもので、現象学的に注意深く研究する必要がある

本書のモチベーションは、エナクティブ・アプローチが自我や主観性を説明することにより、説明のギャップを埋めることができるのかというところにある

そのためには、生物学、神経科学、心理学、哲学、現象学などの知を統合しなければならないだろう

これからの議論を貫く糸は、フッサール(1859-1938)によって始まり、メルロー=ポンティ(1908-1961)によって展開された現象学の伝統である

科学が「生きられた経験」(lived experience)や主観性などを解析しようとすると、現象学が欠かせない

この共同作業は、現象学の自然化にとっても重要になる

エナクティブ・アプローチと現象学が扱う心は、世界を造る(捏造する)のではなく、注意を向ける、明らかにするものである

心の志向性により世界が明かされるのである

主観性と意識、自律性と志向性、これらは心と生命をつなぐものでもある












2026年2月6日金曜日

学友との恒例の会食
















今日は学友の深津・池田両先生との会食があり、出かけた

恒例となって久しいが、一体いつからだったのか調べてみたところ、2012年が最初であることが分かった

わたしがフランスから一時帰国して神経心理学会で講演をした際、深津先生が聞きに来てくれたことが切っ掛けであった

それ以来、帰国の度に毎年2回ほど会食を続けてきたので、長い間ご厚誼を賜っていることになる

今日も他愛無い話から始まったが、中心は科学から哲学へと領域を超えて羽ばたいている(より正確には、彷徨っているか)魂についてではなかっただろうか


昨年のまとめでもこの場で触れたが、昨年は日本では無名のフランス人哲学者マルセル・コンシュ(1922-2022)の『形而上学』という本の翻訳をやっていた

その内容が日の目を見ることを願ってはいたが、何分わたし以外の日本人が話題にしているのを見たことがない

1冊しか売れない本を刊行する出版社があると想像する方がどうかしている

ところが、奇跡のようなことが起こり、理解を示してくれる出版社が見つかったのである

学術出版に打ち込んでいる知泉書館さんである

先日、知泉書館の社長と編集者の方と面談する機会があった

その中で、わたしの解釈によれば、領域を横断するような精神の動きに意義を認めておられる様子が伝わってきた

それが日本では稀であるというようなお話であった

精神的な活力が衰弱しているのではないかという観察が背後にあるのではないかと推察した

いずれにせよ、こちらが活を入れられるような面談となった


この話題を出したところ、そこから話が広がっていった

拙著『生き方としての哲学:より深い幸福へ』を精読していただいているようで、その中に出てきた「出来事」に当たる今回のような「出会い」が持つ意味へと展開

バディウ(1937-)によれば、それこそ真理への道であるという

どういう真理が現れるのか、わたし自身も興味を持っている

こういう流れで自然に話が続くほど、丁寧にお読みいただいている

嬉しくなる展開ではあった

というようなことでお開きになったが、何と来月もこの会合を持つことになった

これは異例の展開と言うべきだろう

次回はどんな話になるのか、楽しみにしながら待ちたいものである








2026年2月5日木曜日

Mind in Life を読む(4)



















本日は、1980年代から出てきた心的過程をニューラルネットワークとして捉える「コネクショニズ」(connectionism)から見ていきたい

これは、認知を単純なユニット間の結合パターンの動的変化と捉えるもので、それまで優勢だった認知主義(cognitivism)が心を脳の中に閉じ込めたのに対し、認知過程と環境との関係にまで広げるダイナミックな見方である

すなわち、言語や論理をもたない存在にも認知を認めるもので、生物界に広く存在することになるだけではなく、生態系にもつながる可能性を持っている

わたしが免疫論で展開した議論は、コネクショニズムと親和性が高いとも言えそうである

ただ、この考え方でも「説明のギャップ」は埋まらないままである


3番目に、前出の2つの理論に対抗する形で1990年代から出てきた「身体化された動的認知」(embodied dynamicism)について検討する

基本的には、心を脳に存在するニューラルネットワークとして捉えるのではなく、脳、身体、環境を巻き込んだ「身体化された」システムとして捉えるものである

この場合、インプットはその後の反応を指示するものとしてではなく、システムの動態に対する乱れとして捉えられる

また、内的状態についても外界の表象としてではなく、乱れに誘発された自己組織化として理解される

この考え方が提出された1990年代と言えば、例えば、1990年のフランシス・クリック(1916-2004)とクリストフ・コッホ(1956-)による「意識に相関した脳活動」(NCC)の提唱や、1995年のデイヴィッド・チャーマーズ(1966-)による「意識のハードプロブレム」の指摘などがあり、意識に対する新たな興味が醸成された時期とも重なっている 









2026年2月4日水曜日

なぜ我々は自分たちのためにならない嘘を好むのか

 

Jean-François Revel (1924-2006)



最近漏れ聞こえてくる政治状況を見ながら、記憶の底にあった言葉が浮かび上がってきた

それが、今日のタイトルである

フランスに向かう前に立ち上げた最初のブログに書いた記事の中の言葉である

もう20年前のことになる

この観察をしたのは、アカデミー・フランセーズ会員で作家のジャン=フランソワ・ルヴェルさん

彼はこの疑問に向き合ってきて、その回答をまとめているようだが、わたしはまだ目を通していない

しかし、歴史を振り返れば、この疑問が浮かんでくるのはよくわかる

どうしてそのことが見えないの? 

という問いも成り立つが、もうそんなことはどうでもよくなっている可能性がある

威勢のいい方、何か面白そうな方に進んでみたくなるのが人間なのだ

とでも言いたいかのようである

以下に20年前の記事の関連部分を引用したい

こんなことも書いていたのか、という思いである


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フランスに揺られながら Dans le hamac de France

2006-04-07

私のもっとも深いところにある確信は、人の運命は情報の正確さ、誤りによって決まるというもの。それはこれまで教師、エッセイスト、編集者 (雑誌 L'Express の責任者を 1966-1981年の15年間勤める) の経験から培われ、確固たるものになった。

ただ、なぜ人は (個人、団体、政府すべてのレベルで) もっとも手に入りやすい真実ではなく、しばしば彼らのためにならない誤りや嘘を好むのか、という問題に常に直面した。この問題は "La connaissance inutile" 「無益な知識」 で論じている。

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[私語]
マスコミを見ていつも感じていることは、どうしてこうもふわふわした情報と議論に終始しているのだろうか、ということ。問題の在り処を示すような番組をほとんど見たことがない。そして何か過ちがあると、これから気をつけなければ、反省して出直さなければならないとその場をしのぎ、また同じことを繰り返す。ルヴェルさんの認識に立つとよく理解できる。要するに、人間とは真実など欲していないのだ、正しい判断であろうとなかろうとどうでもいいと思っている生き物なのだ、ということになる。人の求めるところに依存するマスコミにあっては、当然の内容ということになる。
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この記事の全文はこちらから








2026年2月3日火曜日

Mind in Life を読む(3)
































今日は、認知主義(cognitivism)とは何をいうのかについて、トンプソンの説明を聞いてみることにしたい

認知科学は、行動主義心理学に抗するものとして、1950年代に始まった

その中心には心のコンピュータモデルが据えられ、認知を情報処理過程とするものである

行動主義がインプットとアウトプットだけで判断するのに対して、認知主義はそこで抜けていた内的状態の重要性を説いた

そしてコンピュータ同様、心的プロセスは脳における表象の操作によって行われていると考えたのである

外から入ってきた感覚刺激が表象に変換され、それを操作することによってインプットに対する解決策をアウトプットするという説明をする

これは心の哲学の機能主義と結びついており、何でできているか(ハードウェア)ではなく、何をしているのか(ソフトウェア)が心には重要だと考える

そのため、認知は脳だけが担うというところから離れることになる

コンピュータモデルに当てはまるものがあれば、それは認知ということになる

例えば、身体に拡張された「身体化された認知」(embodied cognition)、環境へも拡張された「拡張された認知」(extended cognition)、さらに文化的遺産にも依存する「文化的認知」(cultural cognition)などへと展開している

そこでは認知が意識(主観的現象)とは切断されることになる

説明のギャップ」は埋まらないままで、新たにコンピュータの心と人間の心との関係を問う「心心問題」まで生まれることになったという

今日の流れは、わたしの免疫論とも通底しており、参考になるところ大である

今後の議論から目が離せなくなってきた














2026年1月30日金曜日

第3層の欠如を憂う


























昨日は、俳句がご趣味の友人とのデジュネとなった

最後に聞こえてきたのは、如何ともしがたい今の政治状況に対する何と言えばよいのか、苛立ちとも嘆息ともつかぬものであった

わたしの日常には地上の様子はほどんど入ってこないのだが、それでも漏れ聞こえてはきている

意識の第2層を去り第3層に住みついて長い身から言えることは、第3層に対する認識の欠如がその根底にあるということだろう

それは一義的には個人レベルでのことだが、当然のことながら社会のレベルに反映されることになる

その認識を深めるためにも、カフェ/フォーラムの活動の重要性は増してくるように感じた

新しいエティックの確立が求められているということである


一夜明けた今朝は完璧な快晴

久しぶりにその空を味わいながらの紫煙のとき

ほんの少しだけパリを思い出しながらの瞑想となった

同時に、先日思いついたベルクソンカフェについての本の英訳の息抜きにもなったようだ









2026年1月28日水曜日

Mind in Life を読む(2)
































第1部は「エナクティブ・アプローチ」となっていて、以下の4つの章に分けられている

第1章 認知科学と人間の経験

第2章 現象学的結びつき

第3章 自律と創発

第4章 行動の構造


まず、第1章から始めたい

認知科学の歴史は非常に浅く、こちらも若い免疫学が1世紀以上前に始まったとすれば、それより半世紀から1世紀遅れの学問である

この言葉を耳にするようになったのは20世紀後半のことになるが、心についての学問はプラトンやアリストテレスにまで遡ることができる

この点も、免疫現象がペロポネソス戦争(431-404 BCE)の時に観察されていることと似ていると言えるだろう

認知科学は、心理学、神経科学、言語学、コンピュータサイエンス、AI、哲学などが統合されたプログラムで、認知の原理やメカニズムを解明することを目的としている

しかし、認知科学は認知を研究してはいるが、感情や愛情、動機付けや意識などの主観的な領域についての理解を深めるところには至っていない

その理由を探るため、著者は1950年代からの認知科学の歴史を振り返る

そこで明らかになるのは、3つのアプローチだという

第1は認知主義(cognitivism)で、著者によれば、心をコンピュータとして捉えるもので、1950年代から70年代に優勢だったもの

第2はコネクショニズム(connectionism)で、心をニューラルネットワークとして捉えるもので、80年代に認知主義に挑戦を始めた

第3は身体化された動態論(embodied dynamicism)で、心は身体が環境と相互作用し続ける絶え間ないプロセスの中にのみ存在するという考えで、90年代から出始めた

これからそれぞれの流れを詳しく見ていくようである









2026年1月22日木曜日

Mind in Life を読む(1)
































これから折に触れて、Evan Thompson(1962-)の Mind in Life(Harvard UP, 2007)を読むことにしたい

著者のエヴァン・トンプソンは、認知科学現象学心の哲学がご専門のブリティッシュコロンビア大学哲学教授で、仏教に関する著作もあるようだ

本書の副題は、「生物学、現象学、および心の科学」となっている

序を読むと、生命と心との連続性がテーマだという

生命の在るところには心があり、心の構築の特徴は生命のそれと重なる

その特徴とは自己組織化で、生命においてはすでに認知を含意している

そこから心的生命は身体的生命であり、世界に属している

心的生命の起源は脳にあるだけでなく、身体や環境に広がっている

本書において、生物学、現象学、心理学、神経科学の成果を用いて、生命と心――特に、経験や主観性という現象学的な側面――の関係に調和をもたらそうとしている

それは、意識や主観的経験と、脳や身体との関係がどうなっているのかという説明のギャップと言われる問題に向き合うためである

ただし、この問題に対する概念的な分析をしたり、意識に関する新規の理論やモデルを提唱したり、意識と自然を統合するような形而上学的推論をするものではない

むしろ、そのために必要になる経験の構造について、より豊かな現象学的説明をしたり、それに対する科学的説明をすることであり、現象学が心理学、神経科学、生物学と交渉を持つことである

つまり、経験の現象学的解析を、生命と心の科学的解析との相互に啓発し合う関係に導くことが本書の目的になる



本書の意図を読むと、拙著『免疫から哲学としての科学へ』の「免疫は心的要素を包摂する」という主張と響きあうところがある

ここで心と言われているところを免疫に置き換えれば、それがよく分る

ただ、疑問符が付く話も出てきそうな予感がする

いずれにせよ、どのような議論が展開するのか、興味をもって見守りたい











2026年1月21日水曜日

思考の澱を沈め、凪を待つ






今朝はゆっくりと音楽を流しながら 自由に考えが羽ばたくのを待つ


音が全くない中での深い瞑想とは違うが 何か新しいものが出てきそうな予感もする


いつもの錯覚だろうか











2026年1月20日火曜日

春のカフェ/フォーラムのご案内


























春のカフェ/フォーラムの予定が決まりましたのでお知らせいたします

皆様の参加をお待ちしております

本年もよろしくお願いいたします



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◉ 第13回ベルクソンカフェ
2026年3月4日(水)18:00~20:30 恵比寿カルフール B会議室
マルセル・コンシュの哲学(3)『生きることと哲学することを読む ①
サイト


◉ 第23回サイファイカフェSHE
2026年3月6日(金)18:00~20:30 恵比寿カルフール B会議室
フィリップ・クリルスキー『免疫の科学論』を読む ①
サイト


◉ 第14回カフェフィロPAWL
2026年3月11日(水)18:00~20:30 恵比寿カルフール B会議室
生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』を語り合う
サイト


◉ 第16回サイファイフォーラムFPSS
2026年3月14日(土)13:00~17:00 日仏会館 509会議室
(1) 矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑩ ポパーのプラトン批判 (2)
(2) 竹田 扇:デカルトの医学論――機械論に基づいた⼈体の統⼀的理解
(3) 白石裕隆:「文(ふみ)以前」を“詩"索する、地質・文学・遺跡紀行――川端康成「東海道」を端緒として
サイト


◉ 第16回サイファイカフェSHE 札幌
2026年4月11日(土)14:30~17:00 会場未定
免疫から哲学としての科学へ』を読む(4)免疫を形而上学化する











2026年1月19日月曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(33)
































『自然の哲学』も遂に最後まで辿り着いた

結論「自然の二つの顔」を読むことにしたい

本書では、「自然哲学」という科学のやり方を取るものと、「自然の哲学」というそこから距離を置く立場があり、それに合わせて自然には二通りの顔が付与されることになった

アリストテレス(384-322 BC)においては、この両方の内容を判別することができる

しかし、「自然哲学」と「自然の哲学」の関係が明瞭にされたのは、「所産的自然」と「能産的自然」の区別が提示された時である

以下に簡単にまとめておきたい

(1)所産的自然ということによって、ある時は直接的に感覚的生の知覚を通して、またある時は間接的に科学の観察と仮説と説明を通して、「自然哲学」の客観的世界全体を理解しなければならない

近代人が科学によって自然を支配、所有しようとする時、そこで問題になっているのは所産的自然である

ダーウィン(1809-1882)が、「自然選択」が関わる法則の下に見ている自然も客観的な考え方である

(2)能産的自然が介入するのはこの時で、「自然の哲学」の下での経験の内に現われる

例えば、アリストテレスの「ピュシス」、バークリー(1685-1753)の「言語」、シェリング(1775-1854)の「生産性」、ヘーゲル(1770-1831)の「解決されない矛盾」、ベルクソン(1859-1941)の「飛躍」と「持続」などの質的現象性の形を取っている

能産的自然の経験は、思考にとって「意識」と「身体」と「物質」とが常に一つの全体を成して現われるという意味で、主客の分裂を超えた進路の入口である

自然的であるとは、この3つの領域が同時に占有され、混合され、踏破される時にわれわれが関与するものである

(3)所産的自然の空間化された客観的な面と対立するのは主観的領域ではなく、われわれが生きるたびに構成され分解される自然的混合物の経験である

所産的自然において、時間と空間は客観的な存在としてあるが、能産的経験に変わる時、時間と空間は独立した状態を失う

それゆえ、自然のあらゆる経験には、二つの顔が確かに存在する

一つは空間と分子とアトムの表象により、専門的規則に従って獲得する自然化されるもの(所産的自然)であり、もう一つは組み合わさり重なり合う無限の混合物が、全く別の形の知性と支配により自然化するもの(能産的自然)である

「自然の哲学」は、すべてが関連している宇宙のために、複合物の質的で具体的な論理を展開するように促されるのである


(了)










2026年1月18日日曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(32)


































本日は、3-4-2「自然の有機体はたがいに組み合わさり重なり合った精神と身体と物質との混合物でできている」を読みたい

これまでの分析から、自然の哲学は、すべては空間と運動とアトムに関わるという客観的な理解の仕方と著しい対照をなす理解の仕方を目指すものであることが見えてきた

すなわち、自然は様々な種類の混合物から質的に発生したものであるという直観が優勢になる

これはベルクソン(1859-1941)が多大な貢献をした見方である

ベルクソン哲学は、数学と物理学から着想を得た量的論理学の支配下で、質的で直観的な思考の復興に取り掛かったのである

より具体的には、科学が諸要素に分解して解析する傾向があるのに対し、諸要素が断絶することなく相互につながるという見方で置換しようとした

これは「持続」に通じる考え方で、科学がこの世界を細切れの静止画として見るのに対し、音色を変えるメローディーとして捉えようとしたと形容される内容である

前の要素が次の要素に浸透するように全体として変化していく世界である

フッサール(1859-1938)の分析とも響きあう考え方である

彼は、現在には過去や未来が浸透し合っていると考え、次のような要素を提案している

 原印象(Urimpression): 今まさに知覚している経験
 
 把持(Retention) : 今この瞬間、過ぎ去ったばかりの過去を記憶としてではなく、今の一部として保持している
 
 予持 (Protention): 同時に、次に来る瞬間を無意識に先取りしている

これは、近著『生き方としての哲学:より深い幸福へ』の中でも触れている「現在」の捉え方(p.45-46、p.113-115)と非常に近く、よく理解できる


ベルクソンは『創造的進化』(1907年)において、「混合物」の質的論理と「モデル」の機械的論理の対照を、生命と宇宙発生の問題に適用した

物質と記憶』(1896年)は、心理学に対してこのやり方を適用したものである












2026年1月17日土曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(31)
































今朝、昨夜も話題に出ていたシューベルト(1797-1828)を流しながらシガーをやる

わずか31年しか生きていなかったことを改めて確認し、やはり驚嘆する


今日は、第3章、第4節「自然は数多くの種類の混合物からできた媒介的有機体である」に入りたい

これまで自然の哲学について考えてきたが、「所産的自然」と「能産的自然」との緊張関係が現れることになった

そして最後に残るのは、シェリング(1775-1854)が言うように、「能産的自然」しかないことを確認した

ベルクソン(1859-1941)に言わせれば、科学的知性の捏造と対立する組織化としての力として現れる自然の概念である

したがって、自然のこのような性格を正確に位置づけ、客観的で世俗的な体裁を超えて了解するやり方を探索することが残されている


早速、3-4-1「自然は、人間によって客観的に仕上げられた世界と、人間には近づきがたいところにある原理とのあいだに介在する有機体である」について検討したい

その出発点として、ヘーゲル(1770-1831)が言っていたように、自然の感覚による現前とその「概念」を混同しないようにすることがある

なぜなら、客観的な所与として現れる自然は素朴な意識にとってのものであり、包括的に考察される自然はそういうものではないからである

つまり、客観的で感覚的自然は、人間の明晰で総合的な了解に達するためにあるからである

人間が知覚するものは純然たる自然ではなく、「所産的自然」に当たるものである

それは人間が立法者と実験者という二重の役割を通して、自らがデミウルゴスとなって了解する自然である


そこで、人間による客観的で世俗的な外見を通してではなく、創造主の仕業を見るならばどうなるであろうか

ここに神学が入り込む余地がある

ニカイア信条(325年)によれば、「私たちは、見えるものも見えないものも含め、すべてのものの創造主である全能の父なる唯一の神を信じます」と公言している

問題は、その信仰によって達せられた実在や出来事は、科学に依存する可知性を表していないことである

ここで言う「可知性」(intelligibility)は、単に意味が理解できるということではなく、理性によって、構造・法則・因果として、主体から独立に、共有可能な形で理解できること、あるいはそのような理解構造になっていることを指している

信仰による理解はすべてが神に帰せられ、「神秘」に迷い込むところがあり、可知性が要求する構造を持っていない

自然神学啓示神学(一般的な神学)とは異なり、理性を用いて世界(自然)の原理に迫るが、カント(1724-1804)が言うように、デミウルゴスのような有効な組織者(職工)ではあるが創造者でないものしか発見できないだろう

さらに、実証的な分析が進めば進むほど、神学的な解釈は後退することになり、神という仮説は不要になるかもしれない

しかしその時こそ、能産的自然の経験が現れ、われわれの経験的な出来事の世界と、超越的原理が住まうところとの間に、包括的で構成的な自然の活動圏が入り込んでくるという














2026年1月16日金曜日

『生き方としての哲学:より深い幸福へ』を肴に会食


























今日は、ここ数年で恒例になった感がある免疫学者の笠原正典先生との会食に出かけた

調べたところ、10か月振りになる

イントロは体調の話だったが、すぐにわたしの近著『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』(ISHE出版)についてのコメントへと移っていった

読後の全体的な感想は、共感するところが多かったとのこと

人生のフェーズが似ているところにあることが、その原因ではないかと想像した

古代の哲学、特にストア派の哲学はすでに読まれているとのことで、生き方の真理はこのあたりにすでに書かれているという印象であった

ご自身のフランス哲学体験は若い時に触れたサルトル(1905-1980)くらいなので、今回取り上げた3名の哲学者は初めてとのことであった

おそらく、多くの日本人にとっても、名前を聞いてもピンと来ないという状態なのではないかと想像した

その中で、マルセル・コンシュ(1922-2022)の本が刊行されることがあれば、購入していただけるとのことであった

カフェ/フォーラムでも感じたが、ほとんどの日本人は知らない名前が飛び交うのに触れるのは、わたしにとって irréel であり、嬉しいことでもある

また、この世界(人生)の出来事は決められているのか(運命なのか)、自分が決めているのかという古くからの問題も出てきた

わたしは決められているという感覚があるのに対し、自分が決めているという感覚は持ちたいというお考えのようであった

その一方で、今回の本で示した「人生20年相転移説」や過去の出来事が散らばっている平面として現在を捉える見方などは、納得するところ大であったとのこと

それから、海外での生活を振り返るようなセッションもあり、気がつくと3時間あまりがあっという間に過ぎていた

またの機会が訪れることを願っている










2026年1月15日木曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(30)
































3-3-4「ヘーゲルの哲学における自然と歴史」を読み、第3章、第3節「自然の哲学は質的に構成する経験から生まれる」を終えたい

シェリング(1775-1854)は自然の創造的自発性を喚起したが、それは美的直観に極めて近い

彼は、自然の生産的過程と、精神がもろもろの表象を生み出す過程との間に完全な同一性を見た

後者における表象は、外部からではなく、内部からくるものである

自然の観念は、そこに外から来る目的性を導入する時、破壊される

「わたしが自然をわたし自身の生と同様に理解できるのは、わたしを自然と同一にする場合に限られる」ということになる

他方、ヘーゲル(1770-1831)はシェリング同様、芸術作品の精神的形式が自然的形式より遥かに優れていると判断する時でも、ギリシア人から受け継いだ人為主義に根底から従おうとはしない

換言すれば、両者とも自然に対する芸術作品の優位性は認めるが、加工されていない自然は美ではなく、そこに人間の精神が働きかけ精神的形式にしたものが優れているとする古代ギリシアの考え方に完全に合意していたわけではない


シェリングの場合、目的性は自然の本質を表現しているが、そこには外部からの人為ではなく、内部からの働きかけが見られなければならない

自然と生命のカテゴリーは至上である

これに対してヘーゲルは、自然が直接的に存在する第一の原理として現れるのは、最初外的で、ついで感覚的意識にとってでしかないと考える

精神の生命が脆弱であるため自然は外化されたままである

有機的自然は歴史を持たないとヘーゲルは言う

ここに、創造性を持った生きた主体としての自然(能産的自然)を見ていたシェリングの道と、精神を失った「死んだ」自然よりは歴史や人間の精神を高く評価するヘーゲルとの道は分かれていくようである



ここには、実に示唆に富むシェリングとヘーゲルの対比が示されている

わたしの歩みを振り返ってみれば、自然を外にある対象として記述していたところから、自然そのものの中に精神的なものを見出そうとしているところへと変容しているように見える

それは、今日の対比で言えば、ヘーゲルというよりはシェリングにより近い見方ということになるだろうか

科学から哲学に移ったことが大きな影響を与えていることは間違いないだろう











2026年1月14日水曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(29)



















本日は、3-3-3「シェリングの哲学における自然の質的経験」について読むことにしたい

シェリング(1775-1854)は、自身の哲学全体を思弁的自然学と経験的自然学という2つの「自然学」に分けていたので、客観的経験と構成的経験の区別は明瞭に現われていた

思弁的自然学とは、自然を内側から動かす内的衝動に関心を持つ自然の哲学である

それは諸事物の非客観的な側面に向かう

これに対する経験的自然学は、世界の表面で起きることしか考慮に入れない

ショーペンハウアー(1788-1860)によれば、経験的自然学は自然の外貌を作っている客観的・機械的な側面には執着するが、普遍的運動性の根源にまでは決して遡らない

したがって、この自然学は哲学ではなく自然科学と解され、観察者によって報告される事実の積み上げに過ぎなくなる

その総体は受動的堆積であり、産物でしかない

もし、そこに能動的で生産的な相の下に直視すれば、それは世界であることを止め、自然となる

この見方によれば、自然とは産物(所産的自然:natura naturata)と生産性(能産的自然:natura naturans)が同一の状態にあるもので、世界とは前者を蒐集した総体を指すことになる

自然の哲学のためには、自然の諸力が包蔵する創造的活力を呼び出さなければならない

シェリングによれば、そこには我々が直観し得ないような無限の進化と生成が見える

宇宙の設計者の設計になる進化や、物質世界の機械論的変容による進化は問題にならない










2026年1月13日火曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(28)
































本日は、3-3-2「バークリーにおける自然の質的経験」を読みたい

バークリー(1685-1753)の説ほど科学的客観性のドグマを激しく攻撃するものはないだろう

ジョン・ロック(1632-1704)の概念に、存在するそのものが持つ客観的な性質(延長や運動など)を示す第一性質と、感覚が作用する主観的な性質である第二性質がある

この第一性質と第二性質を同一だとすれば、物理的世界の骨組みはすべて抽象的観念に還元されることになる

この場合、自然を分析・操作する上では何の問題も生じないが、自然の中に実在的な根拠がなくなる

バークリー自身、この立場が招くであろう批判を自覚していた

彼の『人知原理論』(1710)には、こう書かれてある
第一に、先の原理に従えば、自然の中に実在する実体的なすべてのものは世界から追放され、 その場に諸観念の架空の体系が建っている、と言って人は私に反論するであろう。存在するすべての事物は、ただ知性の中にだけ存在する。すなわち、それらはたんに想像的なものにすぎない。太陽や月や星は一体何になるのか? 家、河、山、木、石をどう考えるのか、それどころか、われわれ自身の身体そのものをどう考えたらよいのか?
先の原理は、諸事物が絶えず無化され、ついで再び創造されるということを含意していると反論するであろう。感官の対象は、人がそれを知覚するときにのみ存在する。それゆえ木は庭にあり、椅子はサロンにあるが、それは誰かがそれらを知覚するためにそこにいるときなのである。私は眼を閉じる、すると部屋の中のすべての家具は無に帰化する。それらを蘇らせるためには私が眼を開けるだけで十分である。

バークリーによれば、私が眼を閉じるとき、諸事物は引き続き存在することができるが、それは別の知性の内になければならない

これは、フッサール(1859-1938)の言う思考するモナドの「相互主観性」の立場から理解可能になるだろう

すなわち、他者を自分と同じように世界を経験する主体(モナド)として認め、わたしというモナドが知覚を止めても、他のモナドからなる共同体が世界を経験、維持していると考えるからである


バークリーは、「自然物は存在する」と言う

この自然物とは物理的な存在ではなく、神という至高の知性によって、一貫性のあるルール(自然法則)に従って提示される観念の集まりのことである

彼はこう言っている
あらゆる結果を直接に、命令一下、つまり意志の働きによって生み出すのが精神であれば、すべての技巧的なものは無用になる。観念に属する諸器官は、いかなる能力も活動性も所有しておらず、それらに割り当てられる結果と必然的に結びついてはいない。例えば、懐中時計の歯車装置を細工する時計工にそれが見られるのだが、そういうことはすべて、針を差し向け針に時を告げさせるのが至上の知性であると言ってしまえば空しくなる。空しい細工師は、なぜそれをも問題にしないのだろう。
ここで「観念に属する諸器官」と言っているのは、物理的なものではなく、経験から生まれた観念の集合のことで、それが機能したとしてもそこで現われるものとはつながっていない

彼はこうも言っている
諸観念の結合は、原因と結果の関係でなく、徴表や記号と意味された事物との関係だけを含意している。私が見る火は、近づけば被る苦痛の原因ではない。その火は、私にその苦痛を予告する徴表なのである。同じように私が聞く騒音は、これこれの運動の結果とか、周囲の諸物体の衝撃の結果ではない。それはそういうものの徴表なのである。

物理学者に対するバークリーの挑戦はここで終わる

 

意識が自然の質的・感覚的現前と交流すると、眼は世界に開かれる

思考はもはや空間を測ったり、質量や力に専念したりしなくなり、説明を要しない一連の意味作用全体を背負うことになる

自然はもはや感覚を生産する機械や動いている物体を収める容器ではなくなる

自然はそれが交流する精神に対して、本能的に利用するすべを知っている記号の読解のための手段をその都度与えながら、精神を教育する以外に運命を持っていないのである













2026年1月11日日曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(27)

































今日から第3章「自然の哲学は質的に構成する経験から生まれる」に入りたい

これまで、数学的物理学と形而上学との対比から自然の哲学を見てきたが、それは何ではないのかという点に重点が置かれていた

この章では、自然の哲学が何であるのかに議論を進めるようである

まず、第1節「客観的経験と構成的経験」から始めたい

客観的認識と呼ばれるものには、2つの領域がある

第1は、認識主体が外部世界の客観的存在に自発的に直面することで生まれる領域である

コギトの重要性を発見したデカルト(1596-1650)以前の実在論はすべてこの領域にあり、一般的に「素朴な」客観性と言われる

例えば、アリストテレス(384-322 BC)が天体の運行を客観的に説明するために天動説を採用する場合などである

そこでは、地上にいる認識主体が観察した結果であるという条件が意識されていないが故に、素朴とされる

第2の客観性は、科学が観察や実験を駆使して生み出した「実証的」とか「批判的」と呼ばれるものである


しかし、有用性を示す科学的客観性は、空間的ないし機械的局面にしか及ばない

そのような知は、自然の中に現前している存在条件の全体を保持、表現しているとは言えないのではないかとアンバシェは指摘する

つまり、それは真実の知ではなく、専門の中に埋没した知になっているというのである

部分を対象にした有益な視点を離れて考察する必要が出てきた時、客観的認識は無力である

そこで求められるのが、全体化する能力がある構成的・包括的経験である

この構成的経験(認識)とは、どのようなことを言っているのだろうか

客観的認識が自然を要素に分解して、現象の測定、数値化に重点を置くのに対し、構成的認識は全体としての自然がどのような複雑な活動により構成されるのかという視点を重視する

その際、観念論や超越論的哲学に陥ることなく、質的経験に基づくべきだと考えるのである



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最後の「自然の哲学でカギになる構成的経験には、観念ではなく質的経験が重要になる」というところと重なる認識に至ったことを思い出したので、以下に貼り付けておきたい

改めて読み返してみて、確信が持てないまま書き進んでいる様子が窺えるものの、現在のわたしの歩みの基礎にある考え方が明確に示されている貴重なエセーであると感じた

また、昨年立ち上げたISHE出版の活動を予感させるような気づきも記されていて驚いた

いろいろなことが網の目のように繋がってきていることに目を見張っているこの頃である











2026年1月10日土曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(26)

































客観性、有効性、先行性などにおいて優位性を示す科学は、裁断と抽象という方法を用いなければならない

これは「知性」の作用によるが、科学はこの性質ゆえに哲学的直観にその優位性を明け渡すことになる

哲学的直観は、個別性、主観性を超えて自然の全体に広がる

なぜなら、意識は自己を外化することを止める時、自分自身に向き合うことになり、そうすることにより自分を超えた多くのものとの接触が始まるからだという

ベルクソン(1859-1941)はこう言っている
世界を満たしている物質と生命は我々の内でも同じである。すべての事物に働きかける諸力を、我々は自身の内に感じ、つくられるものとみずからつくるものとの内的本質がいかなるものであろうとも、我々は現にその諸力である。


こうして、主観性と客観性の道の他に、第三の道が現れる 

その道は、客観性の姿が内省によって間接化された時、すでにシェリング(1775-1854)がやったような形で開けているのである

これはどういう意味だろうか

外から観察して裁断する科学でも、内から主観的な世界を見るのでもなく、われわれの中にある世界を形成する力そのものを経験すること

客観的な世界をわれわれの生の経験として捉えなおすことが内省による間接化で、シェリングの「自然は目に見える精神である」という認識につながり、それが第三の道になるということなのだろうか


ベルクソンによれば、世界についての科学的研究は、文章についての文法的研究に相当しているという

バークリー(1685-1753)は科学者を「自然の文法家」と呼んでいるので、ベルクソンとの親近性がある

一方、哲学的直観についてベルクソンは、文学的霊感に譬えることができるとしている

哲学的行為は、単語と構文の複雑さを通して叙述の単純さを把握するのに似て、出来事と事物との縺れに与えられる包括的な意味の把握になる

ベルクソンにおいて、直観を科学によって運ばれる素材と結びつけるものとされる「精神的共感」に関しては、留保が必要である

直観はしばしば客観的認識の所与に反することがある

科学的断定に対して、直観は「不可能だ!」と囁く

そう言えるということは、ここで言われる自然の哲学が主観主義ではないという証左である

ここのところはどう理解すればよいのだろうか

ベルクソンの直観は、対象の内側に入り込み、対象が持つ言葉にできない生きた秩序と一体になる(対象の声を聴く)作業である

その上で、科学が出してくる断定に対してNONと言う

それは、個人的な好みや意見から出てくるのではなく、自然との直接的な接触を経験したという確かな手応えから生まれている

そのため主観主義とは言えないと結論することになるのだろうか


第三の道としての自然の哲学をこのように解釈すると、科学の形而上学化(MOS)と重なるところが多く、MOSをさらに深化させるためには直観という方法についてもう少し真剣に考察すべきではないかという思いが湧いてくる