2026年1月30日金曜日
第3層の欠如を憂う
2026年1月28日水曜日
Mind in Life を読む(2)
2026年1月22日木曜日
Mind in Life を読む(1)
2026年1月21日水曜日
2026年1月20日火曜日
春のカフェ/フォーラムのご案内
◉ 第14回カフェフィロPAWL
2026年3月11日(水)18:00~20:30 恵比寿カルフール B会議室
『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、
(2) 竹田 扇:デカルトの医学論――機械論に基づいた⼈体の統⼀的理解
(3) 白石裕隆:「文(ふみ)以前」を“詩"索する、地質・文学・
サイト
◉ 第16回サイファイカフェSHE 札幌
2026年4月11日(土)14:30~17:00 会場未定
『免疫から哲学としての科学へ』を読む(4)
2026年1月19日月曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(33)
2026年1月18日日曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(32)
2026年1月17日土曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(31)
2026年1月16日金曜日
『生き方としての哲学:より深い幸福へ』を肴に会食
2026年1月15日木曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(30)
2026年1月14日水曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(29)
本日は、3-3-3「シェリングの哲学における自然の質的経験」について読むことにしたい
シェリング(1775-1854)は、自身の哲学全体を思弁的自然学と経験的自然学という2つの「自然学」に分けていたので、客観的経験と構成的経験の区別は明瞭に現われていた
思弁的自然学とは、自然を内側から動かす内的衝動に関心を持つ自然の哲学である
それは諸事物の非客観的な側面に向かう
これに対する経験的自然学は、世界の表面で起きることしか考慮に入れない
ショーペンハウアー(1788-1860)によれば、経験的自然学は自然の外貌を作っている客観的・機械的な側面には執着するが、普遍的運動性の根源にまでは決して遡らない
したがって、この自然学は哲学ではなく自然科学と解され、観察者によって報告される事実の積み上げに過ぎなくなる
その総体は受動的堆積であり、産物でしかない
もし、そこに能動的で生産的な相の下に直視すれば、それは世界であることを止め、自然となる
この見方によれば、自然とは産物(所産的自然:natura naturata)と生産性(能産的自然:natura naturans)が同一の状態にあるもので、世界とは前者を蒐集した総体を指すことになる
自然の哲学のためには、自然の諸力が包蔵する創造的活力を呼び出さなければならない
シェリングによれば、そこには我々が直観し得ないような無限の進化と生成が見える
宇宙の設計者の設計になる進化や、物質世界の機械論的変容による進化は問題にならない
2026年1月13日火曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(28)
第一に、先の原理に従えば、自然の中に実在する実体的なすべてのものは世界から追放され、 その場に諸観念の架空の体系が建っている、と言って人は私に反論するであろう。存在するすべての事物は、ただ知性の中にだけ存在する。すなわち、それらはたんに想像的なものにすぎない。太陽や月や星は一体何になるのか? 家、河、山、木、石をどう考えるのか、それどころか、われわれ自身の身体そのものをどう考えたらよいのか?
先の原理は、諸事物が絶えず無化され、ついで再び創造されるということを含意していると反論するであろう。感官の対象は、人がそれを知覚するときにのみ存在する。それゆえ木は庭にあり、椅子はサロンにあるが、それは誰かがそれらを知覚するためにそこにいるときなのである。私は眼を閉じる、すると部屋の中のすべての家具は無に帰化する。それらを蘇らせるためには私が眼を開けるだけで十分である。
あらゆる結果を直接に、命令一下、つまり意志の働きによって生み出すのが精神であれば、すべての技巧的なものは無用になる。観念に属する諸器官は、いかなる能力も活動性も所有しておらず、それらに割り当てられる結果と必然的に結びついてはいない。例えば、懐中時計の歯車装置を細工する時計工にそれが見られるのだが、そういうことはすべて、針を差し向け針に時を告げさせるのが至上の知性であると言ってしまえば空しくなる。空しい細工師は、なぜそれをも問題にしないのだろう。
諸観念の結合は、原因と結果の関係でなく、徴表や記号と意味された事物との関係だけを含意している。私が見る火は、近づけば被る苦痛の原因ではない。その火は、私にその苦痛を予告する徴表なのである。同じように私が聞く騒音は、これこれの運動の結果とか、周囲の諸物体の衝撃の結果ではない。それはそういうものの徴表なのである。
物理学者に対するバークリーの挑戦はここで終わる
2026年1月11日日曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(27)
医学のあゆみ 263 (6): 551-555, 2017
2026年1月10日土曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(26)
世界を満たしている物質と生命は我々の内でも同じである。すべての事物に働きかける諸力を、我々は自身の内に感じ、つくられるものとみずからつくるものとの内的本質がいかなるものであろうとも、我々は現にその諸力である。
こうして、主観性と客観性の道の他に、第三の道が現れる
その道は、客観性の姿が内省によって間接化された時、すでにシェリング(1775-1854)がやったような形で開けているのである
これはどういう意味だろうか
外から観察して裁断する科学でも、内から主観的な世界を見るのでもなく、われわれの中にある世界を形成する力そのものを経験すること
客観的な世界をわれわれの生の経験として捉えなおすことが内省による間接化で、シェリングの「自然は目に見える精神である」という認識につながり、それが第三の道になるということなのだろうか
2026年1月9日金曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(25)
前者は科学や知性のやり方に対応しているのに対し、後者では直観や内的経験が重要になる
客観性や有効性において、科学は哲学に対して優位を示しているだけではなく、先行性も有しているように見える
なぜなら、哲学的直観は科学が集めた事実から出発しなければならないだろうから
ベルクソンは、この点を認識しない安易な主観的直観を空想であると排除し、「哲学は諸科学を手本にする」としている
ここに、一般的に言われている主観性を放棄するのである
2026年1月6日火曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(24)
2026年1月4日日曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(23)
認識者を存在から分離することはほとんど不可能であるから、この企てはむしろ不可避的に認識者自身以外のすべてのものに存在を拒むことになり・・・至る所認識者、精神的なものしか存在せず、精神的でないすべてのものは精神の表象の内にしか存在しないと断言することになる。・・・それはまた、デカルトのすぐ後でマルブランシュ(1638-1715)が、それからやや遅れて、神と物質的身体の表象が生み出すときの有限な精神との外には何も存在しないとしたバークリーが到達した結論である。
これをどのように解釈すればよいのだろうか
近代における、特にデカルト以降の認識論において、認識する主体と認識される客体が分けられるようになる
認識と存在が分離されることになるが、そこで確実なのは認識する側にあるとされる
しかし、そのような分離はできないとシェリングは考えているようである
認識主体は存在しており、認識される側の存在が怪しくなる
外界に存在するものは、精神の中に表象されるものとしてしか存在できなくなる
その結果、実際にマルブランシュは、我々が知覚するのはものそのものではなく、神のうちにある観念として認識すると考えた
またバークリーは、esse est percipi (存在するとは、知覚されることである)という有名な言葉にもあるように、存在するのは神と有限な精神とそこにおける表象だけで、物質的自然は存在しないと考えることになる
しかしシェリングは、この考えに満足していたわけではない
そこで、もう1つの考えを検討する必要が出てくる
彼は、認識主体に先行するものとして自然を見ており、アリストテレス(384-322 BC)の実在論に向かうのである
シェリングは、アリストテレス同様、全体と部分ができる組織化の場合には概念(一つにまとめる原理のようなもの)が存在すると考える
しかし、概念が自然の組織化と縁を切らないままそこに住みついていることをアリストテレスは見ていないとして批判する
これはどういうことだろうか
アリストテレスは、自然物において全体が部分に先行し、目的論的に組織化されているという概念構造は認めていた
しかし、その概念は知性による認識によって把握されるもので、自然が自ら生み出すものとは考えなかった
シェリングは、自然というものは自らが組織化し、概念へと向かう自己生成の特徴を捉えていた
換言すれば、自然が最初から概念を宿しているのではなく、自らが組織化によって概念になっていくと考えたのである
自然と精神とが結びついてくる
したがって、超越的存在から与えられた作品として考察するやいなや、自然の観念はことごとく破壊されることになる















