2026年1月30日金曜日

第3層の欠如を憂う


























昨日は、俳句がご趣味の友人とのデジュネとなった

最後に聞こえてきたのは、如何ともしがたい今の政治状況に対する何と言えばよいのか、苛立ちとも嘆息ともつかぬものであった

わたしの日常には地上の様子はほどんど入ってこないのだが、それでも漏れ聞こえてはきている

意識の第2層を去り第3層に住みついて長い身から言えることは、第3層に対する認識の欠如がその根底にあるということだろう

それは一義的には個人レベルでのことだが、当然のことながら社会のレベルに反映されることになる

その認識を深めるためにも、カフェ/フォーラムの活動の重要性は増してくるように感じた

新しいエティックの確立が求められているということである


一夜明けた今朝は完璧な快晴

久しぶりにその空を味わいながらの紫煙のとき

ほんの少しだけパリを思い出しながらの瞑想となった

同時に、先日思いついたベルクソンカフェについての本の英訳の息抜きにもなったようだ









2026年1月28日水曜日

Mind in Life を読む(2)
































第1部は「エナクティブ・アプローチ」となっていて、以下の4つの章に分けられている

第1章 認知科学と人間の経験

第2章 現象学的結びつき

第3章 自律と創発

第4章 行動の構造


まず、第1章から始めたい

認知科学の歴史は非常に浅く、こちらも若い免疫学が1世紀以上前に始まったとすれば、それより半世紀から1世紀遅れの学問である

この言葉を耳にするようになったのは20世紀後半のことになるが、心についての学問はプラトンやアリストテレスにまで遡ることができる

この点も、免疫現象がペロポネソス戦争(431-404 BCE)の時に観察されていることと似ていると言えるだろう

認知科学は、心理学、神経科学、言語学、コンピュータサイエンス、AI、哲学などが統合されたプログラムで、認知の原理やメカニズムを解明することを目的としている

しかし、認知科学は認知を研究してはいるが、感情や愛情、動機付けや意識などの主観的な領域についての理解を深めるところには至っていない

その理由を探るため、著者は1950年代からの認知科学の歴史を振り返る

そこで明らかになるのは、3つのアプローチだという

第1は認知主義(cognitivism)で、著者によれば、心をコンピュータとして捉えるもので、1950年代から70年代に優勢だったもの

第2はコネクショニズム(connectionism)で、心をニューラルネットワークとして捉えるもので、80年代に認知主義に挑戦を始めた

第3は身体化された動態論(embodied dynamicism)で、心は身体が環境と相互作用し続ける絶え間ないプロセスの中にのみ存在するという考えで、90年代から出始めた

これからそれぞれの流れを詳しく見ていくようである









2026年1月22日木曜日

Mind in Life を読む(1)
































これから折に触れて、Evan Thompson(1962-)の Mind in Life(Harvard UP, 2007)を読むことにしたい

著者のエヴァン・トンプソンは、認知科学現象学心の哲学がご専門のブリティッシュコロンビア大学哲学教授で、仏教に関する著作もあるようだ

本書の副題は、「生物学、現象学、および心の科学」となっている

序を読むと、生命と心との連続性がテーマだという

生命の在るところには心があり、心の構築の特徴は生命のそれと重なる

その特徴とは自己組織化で、生命においてはすでに認知を含意している

そこから心的生命は身体的生命であり、世界に属している

心的生命の起源は脳にあるだけでなく、身体や環境に広がっている

本書において、生物学、現象学、心理学、神経科学の成果を用いて、生命と心――特に、経験や主観性という現象学的な側面――の関係に調和をもたらそうとしている

それは、意識や主観的経験と、脳や身体との関係がどうなっているのかという説明のギャップと言われる問題に向き合うためである

ただし、この問題に対する概念的な分析をしたり、意識に関する新規の理論やモデルを提唱したり、意識と自然を統合するような形而上学的推論をするものではない

むしろ、そのために必要になる経験の構造について、より豊かな現象学的説明をしたり、それに対する科学的説明をすることであり、現象学が心理学、神経科学、生物学と交渉を持つことである

つまり、経験の現象学的解析を、生命と心の科学的解析との相互に啓発し合う関係に導くことが本書の目的になる



本書の意図を読むと、拙著『免疫から哲学としての科学へ』の「免疫は心的要素を包摂する」という主張と響きあうところがある

ここで心と言われているところを免疫に置き換えれば、それがよく分る

ただ、疑問符が付く話も出てきそうな予感がする

いずれにせよ、どのような議論が展開するのか、興味をもって見守りたい











2026年1月21日水曜日

思考の澱を沈め、凪を待つ






今朝はゆっくりと音楽を流しながら 自由に考えが羽ばたくのを待つ


音が全くない中での深い瞑想とは違うが 何か新しいものが出てきそうな予感もする


いつもの錯覚だろうか











2026年1月20日火曜日

春のカフェ/フォーラムのご案内


























春のカフェ/フォーラムの予定が決まりましたのでお知らせいたします

皆様の参加をお待ちしております

本年もよろしくお願いいたします



************************************************

◉ 第13回ベルクソンカフェ
2026年3月4日(水)18:00~20:30 恵比寿カルフール B会議室
マルセル・コンシュの哲学(3)『生きることと哲学することを読む ①
サイト


◉ 第23回サイファイカフェSHE
2026年3月6日(金)18:00~20:30 恵比寿カルフール B会議室
フィリップ・クリルスキー『免疫の科学論』を読む ①
サイト


◉ 第14回カフェフィロPAWL
2026年3月11日(水)18:00~20:30 恵比寿カルフール B会議室
生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』を語り合う
サイト


◉ 第16回サイファイフォーラムFPSS
2026年3月14日(土)13:00~17:00 日仏会館 509会議室
(1) 矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑩ ポパーのプラトン批判 (2)
(2) 竹田 扇:デカルトの医学論――機械論に基づいた⼈体の統⼀的理解
(3) 白石裕隆:「文(ふみ)以前」を“詩"索する、地質・文学・遺跡紀行――川端康成「東海道」を端緒として
サイト


◉ 第16回サイファイカフェSHE 札幌
2026年4月11日(土)14:30~17:00 会場未定
免疫から哲学としての科学へ』を読む(4)免疫を形而上学化する











2026年1月19日月曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(33)
































『自然の哲学』も遂に最後まで辿り着いた

結論「自然の二つの顔」を読むことにしたい

本書では、「自然哲学」という科学のやり方を取るものと、「自然の哲学」というそこから距離を置く立場があり、それに合わせて自然には二通りの顔が付与されることになった

アリストテレス(384-322 BC)においては、この両方の内容を判別することができる

しかし、「自然哲学」と「自然の哲学」の関係が明瞭にされたのは、「所産的自然」と「能産的自然」の区別が提示された時である

以下に簡単にまとめておきたい

(1)所産的自然ということによって、ある時は直接的に感覚的生の知覚を通して、またある時は間接的に科学の観察と仮説と説明を通して、「自然哲学」の客観的世界全体を理解しなければならない

近代人が科学によって自然を支配、所有しようとする時、そこで問題になっているのは所産的自然である

ダーウィン(1809-1882)が、「自然選択」が関わる法則の下に見ている自然も客観的な考え方である

(2)能産的自然が介入するのはこの時で、「自然の哲学」の下での経験の内に現われる

例えば、アリストテレスの「ピュシス」、バークリー(1685-1753)の「言語」、シェリング(1775-1854)の「生産性」、ヘーゲル(1770-1831)の「解決されない矛盾」、ベルクソン(1859-1941)の「飛躍」と「持続」などの質的現象性の形を取っている

能産的自然の経験は、思考にとって「意識」と「身体」と「物質」とが常に一つの全体を成して現われるという意味で、主客の分裂を超えた進路の入口である

自然的であるとは、この3つの領域が同時に占有され、混合され、踏破される時にわれわれが関与するものである

(3)所産的自然の空間化された客観的な面と対立するのは主観的領域ではなく、われわれが生きるたびに構成され分解される自然的混合物の経験である

所産的自然において、時間と空間は客観的な存在としてあるが、能産的経験に変わる時、時間と空間は独立した状態を失う

それゆえ、自然のあらゆる経験には、二つの顔が確かに存在する

一つは空間と分子とアトムの表象により、専門的規則に従って獲得する自然化されるもの(所産的自然)であり、もう一つは組み合わさり重なり合う無限の混合物が、全く別の形の知性と支配により自然化するもの(能産的自然)である

「自然の哲学」は、すべてが関連している宇宙のために、複合物の質的で具体的な論理を展開するように促されるのである


(了)










2026年1月18日日曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(32)


































本日は、3-4-2「自然の有機体はたがいに組み合わさり重なり合った精神と身体と物質との混合物でできている」を読みたい

これまでの分析から、自然の哲学は、すべては空間と運動とアトムに関わるという客観的な理解の仕方と著しい対照をなす理解の仕方を目指すものであることが見えてきた

すなわち、自然は様々な種類の混合物から質的に発生したものであるという直観が優勢になる

これはベルクソン(1859-1941)が多大な貢献をした見方である

ベルクソン哲学は、数学と物理学から着想を得た量的論理学の支配下で、質的で直観的な思考の復興に取り掛かったのである

より具体的には、科学が諸要素に分解して解析する傾向があるのに対し、諸要素が断絶することなく相互につながるという見方で置換しようとした

これは「持続」に通じる考え方で、科学がこの世界を細切れの静止画として見るのに対し、音色を変えるメローディーとして捉えようとしたと形容される内容である

前の要素が次の要素に浸透するように全体として変化していく世界である

フッサール(1859-1938)の分析とも響きあう考え方である

彼は、現在には過去や未来が浸透し合っていると考え、次のような要素を提案している

 原印象(Urimpression): 今まさに知覚している経験
 
 把持(Retention) : 今この瞬間、過ぎ去ったばかりの過去を記憶としてではなく、今の一部として保持している
 
 予持 (Protention): 同時に、次に来る瞬間を無意識に先取りしている

これは、近著『生き方としての哲学:より深い幸福へ』の中でも触れている「現在」の捉え方(p.45-46、p.113-115)と非常に近く、よく理解できる


ベルクソンは『創造的進化』(1907年)において、「混合物」の質的論理と「モデル」の機械的論理の対照を、生命と宇宙発生の問題に適用した

物質と記憶』(1896年)は、心理学に対してこのやり方を適用したものである












2026年1月17日土曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(31)
































今朝、昨夜も話題に出ていたシューベルト(1797-1828)を流しながらシガーをやる

わずか31年しか生きていなかったことを改めて確認し、やはり驚嘆する


今日は、第3章、第4節「自然は数多くの種類の混合物からできた媒介的有機体である」に入りたい

これまで自然の哲学について考えてきたが、「所産的自然」と「能産的自然」との緊張関係が現れることになった

そして最後に残るのは、シェリング(1775-1854)が言うように、「能産的自然」しかないことを確認した

ベルクソン(1859-1941)に言わせれば、科学的知性の捏造と対立する組織化としての力として現れる自然の概念である

したがって、自然のこのような性格を正確に位置づけ、客観的で世俗的な体裁を超えて了解するやり方を探索することが残されている


早速、3-4-1「自然は、人間によって客観的に仕上げられた世界と、人間には近づきがたいところにある原理とのあいだに介在する有機体である」について検討したい

その出発点として、ヘーゲル(1770-1831)が言っていたように、自然の感覚による現前とその「概念」を混同しないようにすることがある

なぜなら、客観的な所与として現れる自然は素朴な意識にとってのものであり、包括的に考察される自然はそういうものではないからである

つまり、客観的で感覚的自然は、人間の明晰で総合的な了解に達するためにあるからである

人間が知覚するものは純然たる自然ではなく、「所産的自然」に当たるものである

それは人間が立法者と実験者という二重の役割を通して、自らがデミウルゴスとなって了解する自然である


そこで、人間による客観的で世俗的な外見を通してではなく、創造主の仕業を見るならばどうなるであろうか

ここに神学が入り込む余地がある

ニカイア信条(325年)によれば、「私たちは、見えるものも見えないものも含め、すべてのものの創造主である全能の父なる唯一の神を信じます」と公言している

問題は、その信仰によって達せられた実在や出来事は、科学に依存する可知性を表していないことである

ここで言う「可知性」(intelligibility)は、単に意味が理解できるということではなく、理性によって、構造・法則・因果として、主体から独立に、共有可能な形で理解できること、あるいはそのような理解構造になっていることを指している

信仰による理解はすべてが神に帰せられ、「神秘」に迷い込むところがあり、可知性が要求する構造を持っていない

自然神学啓示神学(一般的な神学)とは異なり、理性を用いて世界(自然)の原理に迫るが、カント(1724-1804)が言うように、デミウルゴスのような有効な組織者(職工)ではあるが創造者でないものしか発見できないだろう

さらに、実証的な分析が進めば進むほど、神学的な解釈は後退することになり、神という仮説は不要になるかもしれない

しかしその時こそ、能産的自然の経験が現れ、われわれの経験的な出来事の世界と、超越的原理が住まうところとの間に、包括的で構成的な自然の活動圏が入り込んでくるという














2026年1月16日金曜日

『生き方としての哲学:より深い幸福へ』を肴に会食


























今日は、ここ数年で恒例になった感がある免疫学者の笠原正典先生との会食に出かけた

調べたところ、10か月振りになる

イントロは体調の話だったが、すぐにわたしの近著『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』(ISHE出版)についてのコメントへと移っていった

読後の全体的な感想は、共感するところが多かったとのこと

人生のフェーズが似ているところにあることが、その原因ではないかと想像した

古代の哲学、特にストア派の哲学はすでに読まれているとのことで、生き方の真理はこのあたりにすでに書かれているという印象であった

ご自身のフランス哲学体験は若い時に触れたサルトル(1905-1980)くらいなので、今回取り上げた3名の哲学者は初めてとのことであった

おそらく、多くの日本人にとっても、名前を聞いてもピンと来ないという状態なのではないかと想像した

その中で、マルセル・コンシュ(1922-2022)の本が刊行されることがあれば、購入していただけるとのことであった

カフェ/フォーラムでも感じたが、ほとんどの日本人は知らない名前が飛び交うのに触れるのは、わたしにとって irréel であり、嬉しいことでもある

また、この世界(人生)の出来事は決められているのか(運命なのか)、自分が決めているのかという古くからの問題も出てきた

わたしは決められているという感覚があるのに対し、自分が決めているという感覚は持ちたいというお考えのようであった

その一方で、今回の本で示した「人生20年相転移説」や過去の出来事が散らばっている平面として現在を捉える見方などは、納得するところ大であったとのこと

それから、海外での生活を振り返るようなセッションもあり、気がつくと3時間あまりがあっという間に過ぎていた

またの機会が訪れることを願っている










2026年1月15日木曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(30)
































3-3-4「ヘーゲルの哲学における自然と歴史」を読み、第3章、第3節「自然の哲学は質的に構成する経験から生まれる」を終えたい

シェリング(1775-1854)は自然の創造的自発性を喚起したが、それは美的直観に極めて近い

彼は、自然の生産的過程と、精神がもろもろの表象を生み出す過程との間に完全な同一性を見た

後者における表象は、外部からではなく、内部からくるものである

自然の観念は、そこに外から来る目的性を導入する時、破壊される

「わたしが自然をわたし自身の生と同様に理解できるのは、わたしを自然と同一にする場合に限られる」ということになる

他方、ヘーゲル(1770-1831)はシェリング同様、芸術作品の精神的形式が自然的形式より遥かに優れていると判断する時でも、ギリシア人から受け継いだ人為主義に根底から従おうとはしない

換言すれば、両者とも自然に対する芸術作品の優位性は認めるが、加工されていない自然は美ではなく、そこに人間の精神が働きかけ精神的形式にしたものが優れているとする古代ギリシアの考え方に完全に合意していたわけではない


シェリングの場合、目的性は自然の本質を表現しているが、そこには外部からの人為ではなく、内部からの働きかけが見られなければならない

自然と生命のカテゴリーは至上である

これに対してヘーゲルは、自然が直接的に存在する第一の原理として現れるのは、最初外的で、ついで感覚的意識にとってでしかないと考える

精神の生命が脆弱であるため自然は外化されたままである

有機的自然は歴史を持たないとヘーゲルは言う

ここに、創造性を持った生きた主体としての自然(能産的自然)を見ていたシェリングの道と、精神を失った「死んだ」自然よりは歴史や人間の精神を高く評価するヘーゲルとの道は分かれていくようである



ここには、実に示唆に富むシェリングとヘーゲルの対比が示されている

わたしの歩みを振り返ってみれば、自然を外にある対象として記述していたところから、自然そのものの中に精神的なものを見出そうとしているところへと変容しているように見える

それは、今日の対比で言えば、ヘーゲルというよりはシェリングにより近い見方ということになるだろうか

科学から哲学に移ったことが大きな影響を与えていることは間違いないだろう











2026年1月14日水曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(29)



















本日は、3-3-3「シェリングの哲学における自然の質的経験」について読むことにしたい

シェリング(1775-1854)は、自身の哲学全体を思弁的自然学と経験的自然学という2つの「自然学」に分けていたので、客観的経験と構成的経験の区別は明瞭に現われていた

思弁的自然学とは、自然を内側から動かす内的衝動に関心を持つ自然の哲学である

それは諸事物の非客観的な側面に向かう

これに対する経験的自然学は、世界の表面で起きることしか考慮に入れない

ショーペンハウアー(1788-1860)によれば、経験的自然学は自然の外貌を作っている客観的・機械的な側面には執着するが、普遍的運動性の根源にまでは決して遡らない

したがって、この自然学は哲学ではなく自然科学と解され、観察者によって報告される事実の積み上げに過ぎなくなる

その総体は受動的堆積であり、産物でしかない

もし、そこに能動的で生産的な相の下に直視すれば、それは世界であることを止め、自然となる

この見方によれば、自然とは産物(所産的自然:natura naturata)と生産性(能産的自然:natura naturans)が同一の状態にあるもので、世界とは前者を蒐集した総体を指すことになる

自然の哲学のためには、自然の諸力が包蔵する創造的活力を呼び出さなければならない

シェリングによれば、そこには我々が直観し得ないような無限の進化と生成が見える

宇宙の設計者の設計になる進化や、物質世界の機械論的変容による進化は問題にならない










2026年1月13日火曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(28)
































本日は、3-3-2「バークリーにおける自然の質的経験」を読みたい

バークリー(1685-1753)の説ほど科学的客観性のドグマを激しく攻撃するものはないだろう

ジョン・ロック(1632-1704)の概念に、存在するそのものが持つ客観的な性質(延長や運動など)を示す第一性質と、感覚が作用する主観的な性質である第二性質がある

この第一性質と第二性質を同一だとすれば、物理的世界の骨組みはすべて抽象的観念に還元されることになる

この場合、自然を分析・操作する上では何の問題も生じないが、自然の中に実在的な根拠がなくなる

バークリー自身、この立場が招くであろう批判を自覚していた

彼の『人知原理論』(1710)には、こう書かれてある
第一に、先の原理に従えば、自然の中に実在する実体的なすべてのものは世界から追放され、 その場に諸観念の架空の体系が建っている、と言って人は私に反論するであろう。存在するすべての事物は、ただ知性の中にだけ存在する。すなわち、それらはたんに想像的なものにすぎない。太陽や月や星は一体何になるのか? 家、河、山、木、石をどう考えるのか、それどころか、われわれ自身の身体そのものをどう考えたらよいのか?
先の原理は、諸事物が絶えず無化され、ついで再び創造されるということを含意していると反論するであろう。感官の対象は、人がそれを知覚するときにのみ存在する。それゆえ木は庭にあり、椅子はサロンにあるが、それは誰かがそれらを知覚するためにそこにいるときなのである。私は眼を閉じる、すると部屋の中のすべての家具は無に帰化する。それらを蘇らせるためには私が眼を開けるだけで十分である。

バークリーによれば、私が眼を閉じるとき、諸事物は引き続き存在することができるが、それは別の知性の内になければならない

これは、フッサール(1859-1938)の言う思考するモナドの「相互主観性」の立場から理解可能になるだろう

すなわち、他者を自分と同じように世界を経験する主体(モナド)として認め、わたしというモナドが知覚を止めても、他のモナドからなる共同体が世界を経験、維持していると考えるからである


バークリーは、「自然物は存在する」と言う

この自然物とは物理的な存在ではなく、神という至高の知性によって、一貫性のあるルール(自然法則)に従って提示される観念の集まりのことである

彼はこう言っている
あらゆる結果を直接に、命令一下、つまり意志の働きによって生み出すのが精神であれば、すべての技巧的なものは無用になる。観念に属する諸器官は、いかなる能力も活動性も所有しておらず、それらに割り当てられる結果と必然的に結びついてはいない。例えば、懐中時計の歯車装置を細工する時計工にそれが見られるのだが、そういうことはすべて、針を差し向け針に時を告げさせるのが至上の知性であると言ってしまえば空しくなる。空しい細工師は、なぜそれをも問題にしないのだろう。
ここで「観念に属する諸器官」と言っているのは、物理的なものではなく、経験から生まれた観念の集合のことで、それが機能したとしてもそこで現われるものとはつながっていない

彼はこうも言っている
諸観念の結合は、原因と結果の関係でなく、徴表や記号と意味された事物との関係だけを含意している。私が見る火は、近づけば被る苦痛の原因ではない。その火は、私にその苦痛を予告する徴表なのである。同じように私が聞く騒音は、これこれの運動の結果とか、周囲の諸物体の衝撃の結果ではない。それはそういうものの徴表なのである。

物理学者に対するバークリーの挑戦はここで終わる

 

意識が自然の質的・感覚的現前と交流すると、眼は世界に開かれる

思考はもはや空間を測ったり、質量や力に専念したりしなくなり、説明を要しない一連の意味作用全体を背負うことになる

自然はもはや感覚を生産する機械や動いている物体を収める容器ではなくなる

自然はそれが交流する精神に対して、本能的に利用するすべを知っている記号の読解のための手段をその都度与えながら、精神を教育する以外に運命を持っていないのである













2026年1月11日日曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(27)

































今日から第3章「自然の哲学は質的に構成する経験から生まれる」に入りたい

これまで、数学的物理学と形而上学との対比から自然の哲学を見てきたが、それは何ではないのかという点に重点が置かれていた

この章では、自然の哲学が何であるのかに議論を進めるようである

まず、第1節「客観的経験と構成的経験」から始めたい

客観的認識と呼ばれるものには、2つの領域がある

第1は、認識主体が外部世界の客観的存在に自発的に直面することで生まれる領域である

コギトの重要性を発見したデカルト(1596-1650)以前の実在論はすべてこの領域にあり、一般的に「素朴な」客観性と言われる

例えば、アリストテレス(384-322 BC)が天体の運行を客観的に説明するために天動説を採用する場合などである

そこでは、地上にいる認識主体が観察した結果であるという条件が意識されていないが故に、素朴とされる

第2の客観性は、科学が観察や実験を駆使して生み出した「実証的」とか「批判的」と呼ばれるものである


しかし、有用性を示す科学的客観性は、空間的ないし機械的局面にしか及ばない

そのような知は、自然の中に現前している存在条件の全体を保持、表現しているとは言えないのではないかとアンバシェは指摘する

つまり、それは真実の知ではなく、専門の中に埋没した知になっているというのである

部分を対象にした有益な視点を離れて考察する必要が出てきた時、客観的認識は無力である

そこで求められるのが、全体化する能力がある構成的・包括的経験である

この構成的経験(認識)とは、どのようなことを言っているのだろうか

客観的認識が自然を要素に分解して、現象の測定、数値化に重点を置くのに対し、構成的認識は全体としての自然がどのような複雑な活動により構成されるのかという視点を重視する

その際、観念論や超越論的哲学に陥ることなく、質的経験に基づくべきだと考えるのである



******************************

最後の「自然の哲学でカギになる構成的経験には、観念ではなく質的経験が重要になる」というところと重なる認識に至ったことを思い出したので、以下に貼り付けておきたい

改めて読み返してみて、確信が持てないまま書き進んでいる様子が窺えるものの、現在のわたしの歩みの基礎にある考え方が明確に示されている貴重なエセーであると感じた

また、昨年立ち上げたISHE出版の活動を予感させるような気づきも記されていて驚いた

いろいろなことが網の目のように繋がってきていることに目を見張っているこの頃である











2026年1月10日土曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(26)

































客観性、有効性、先行性などにおいて優位性を示す科学は、裁断と抽象という方法を用いなければならない

これは「知性」の作用によるが、科学はこの性質ゆえに哲学的直観にその優位性を明け渡すことになる

哲学的直観は、個別性、主観性を超えて自然の全体に広がる

なぜなら、意識は自己を外化することを止める時、自分自身に向き合うことになり、そうすることにより自分を超えた多くのものとの接触が始まるからだという

ベルクソン(1859-1941)はこう言っている
世界を満たしている物質と生命は我々の内でも同じである。すべての事物に働きかける諸力を、我々は自身の内に感じ、つくられるものとみずからつくるものとの内的本質がいかなるものであろうとも、我々は現にその諸力である。


こうして、主観性と客観性の道の他に、第三の道が現れる 

その道は、客観性の姿が内省によって間接化された時、すでにシェリング(1775-1854)がやったような形で開けているのである

これはどういう意味だろうか

外から観察して裁断する科学でも、内から主観的な世界を見るのでもなく、われわれの中にある世界を形成する力そのものを経験すること

客観的な世界をわれわれの生の経験として捉えなおすことが内省による間接化で、シェリングの「自然は目に見える精神である」という認識につながり、それが第三の道になるということなのだろうか


ベルクソンによれば、世界についての科学的研究は、文章についての文法的研究に相当しているという

バークリー(1685-1753)は科学者を「自然の文法家」と呼んでいるので、ベルクソンとの親近性がある

一方、哲学的直観についてベルクソンは、文学的霊感に譬えることができるとしている

哲学的行為は、単語と構文の複雑さを通して叙述の単純さを把握するのに似て、出来事と事物との縺れに与えられる包括的な意味の把握になる

ベルクソンにおいて、直観を科学によって運ばれる素材と結びつけるものとされる「精神的共感」に関しては、留保が必要である

直観はしばしば客観的認識の所与に反することがある

科学的断定に対して、直観は「不可能だ!」と囁く

そう言えるということは、ここで言われる自然の哲学が主観主義ではないという証左である

ここのところはどう理解すればよいのだろうか

ベルクソンの直観は、対象の内側に入り込み、対象が持つ言葉にできない生きた秩序と一体になる(対象の声を聴く)作業である

その上で、科学が出してくる断定に対してNONと言う

それは、個人的な好みや意見から出てくるのではなく、自然との直接的な接触を経験したという確かな手応えから生まれている

そのため主観主義とは言えないと結論することになるのだろうか


第三の道としての自然の哲学をこのように解釈すると、科学の形而上学化(MOS)と重なるところが多く、MOSをさらに深化させるためには直観という方法についてもう少し真剣に考察すべきではないかという思いが湧いてくる











2026年1月9日金曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(25)
































今日は、 3-2-3「自然の哲学の精神は主観主義ではない」に入りたい

科学が客観的な規則に従って世界を見るとするならば、哲学に残されているのは主観的な領域だけになる傾向がある

ただ、哲学的探求が主観的な経験から生まれるという印象を与えるのは、自然の哲学ではない

自然の哲学の別の道が開かれるのが、ベルクソン(1859-1941)の哲学の内部である

つまり、援用する直観は、主観性に関わることもなく、諸科学の客観性からも十分な距離を取ることができるのである

自然の哲学には、主観性とも科学の客観性とも距離を取った新たな道が可能であるということなのだろうか


ベルクソンによれば、経験が2つの異なった相に生じることにより、2つの認識法が可能になるという

1つは、空間の中で出会う測定可能な多数の客観的事実の前に我々を立たせるもので、科学が求める予見と技術介入が関わる経験の相である

もう1つは、法則や数量に逆らう質的形式のもとに経験が現われ、実在が意識に示現するときの直観的内容の相である

前者は科学や知性のやり方に対応しているのに対し、後者では直観や内的経験が重要になる

客観性や有効性において、科学は哲学に対して優位を示しているだけではなく、先行性も有しているように見える

なぜなら、哲学的直観は科学が集めた事実から出発しなければならないだろうから

ベルクソンは、この点を認識しない安易な主観的直観を空想であると排除し、「哲学は諸科学を手本にする」としている

ここに、一般的に言われている主観性を放棄するのである









2026年1月6日火曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(24)
































 本日で 3-2-2「自然の哲学と観念論の精神の違い」を読み終えたい

これまで、シェリング(1775-1854)の自然の哲学が、観念論による自然(ある目的を持って作られた自然という意味か)に反対して自然の生産性(外からのプログラムのようなものに従って生み出すのではなく、自然自体がすべてを生み出すということか)を喚起することを見てきた

カント(1724-1804)は、時計のような人為的存在と並んで、自律的に組織化する能力を持った生物のような自然的存在があることは見ていた

そこから、アリストテレス(384-322 BC)の外部に設計者がいるとする人為的目的性に対して、自らを組織化する「自然の目的」と名づけたものが出てくる

しかしカントは、目的性の判断は「精神の目」にあるとした

つまり、目的がそこに在るというのは、それを見ている側の精神の作用によるもので、実際に自然の中に在るとは考えなかったのである

したがって、シェリングはカントを全面的には認めることはできなかった

客観の虜にならない反省が可能な者は、生み出された客観としての自然(所産的自然、natura naturata)から能動的な生み出す自然(能産的自然、natura naturans)を推論できなければならない

シェリングのフォルミュールによれば、「自然は目に見える精神であり、精神は目に見えない自然である」となる

シェリングの影響を受けていたと思われるエマーソン(1803-1882)は、「自然は思考の具現であり、世界は精神の沈殿である」という言葉を残している

自然は精神が沈殿したものである

何という表現だろうか

自然には精神の発露が見られるというシェリングの自然の哲学は、確かにカントの哲学を突き破ったことが分かる










2026年1月4日日曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(23)
































新しい年を迎え、年を越してしまったアンバシェを読み始めることにしたい

今日は 3-2-2「自然の哲学と観念論の精神の違い」のつづきから

自然の体系が同時にわれわれの精神の体系でもある」と考えたシェリング(1775-1854)の哲学を掘り下げるためには、2つの考え方を理解する必要があるという


1つは、すべての近代の哲学は観念論に捧げられていることである

彼はフィヒテ(1762-1814)を通してカント(1724-1804)の超越論的観念論へ、さらにカントを超えてデカルト(1596-1650)バークリー(1685-1753)の唯心論に結びつく

シェリングはこう言っている
認識者を存在から分離することはほとんど不可能であるから、この企てはむしろ不可避的に認識者自身以外のすべてのものに存在を拒むことになり・・・至る所認識者、精神的なものしか存在せず、精神的でないすべてのものは精神の表象の内にしか存在しないと断言することになる。・・・それはまた、デカルトのすぐ後でマルブランシュ(1638-1715)が、それからやや遅れて、神と物質的身体の表象が生み出すときの有限な精神との外には何も存在しないとしたバークリーが到達した結論である。

これをどのように解釈すればよいのだろうか

近代における、特にデカルト以降の認識論において、認識する主体と認識される客体が分けられるようになる

認識と存在が分離されることになるが、そこで確実なのは認識する側にあるとされる

しかし、そのような分離はできないとシェリングは考えているようである

認識主体は存在しており、認識される側の存在が怪しくなる

外界に存在するものは、精神の中に表象されるものとしてしか存在できなくなる

その結果、実際にマルブランシュは、我々が知覚するのはものそのものではなく、神のうちにある観念として認識すると考えた

またバークリーは、esse est percipi (存在するとは、知覚されることである)という有名な言葉にもあるように、存在するのは神と有限な精神とそこにおける表象だけで、物質的自然は存在しないと考えることになる

しかしシェリングは、この考えに満足していたわけではない


そこで、もう1つの考えを検討する必要が出てくる

彼は、認識主体に先行するものとして自然を見ており、アリストテレス(384-322 BC)の実在論に向かうのである

シェリングは、アリストテレス同様、全体と部分ができる組織化の場合には概念(一つにまとめる原理のようなもの)が存在すると考える

しかし、概念が自然の組織化と縁を切らないままそこに住みついていることをアリストテレスは見ていないとして批判する

これはどういうことだろうか

アリストテレスは、自然物において全体が部分に先行し、目的論的に組織化されているという概念構造は認めていた

しかし、その概念は知性による認識によって把握されるもので、自然が自ら生み出すものとは考えなかった

シェリングは、自然というものは自らが組織化し、概念へと向かう自己生成の特徴を捉えていた

換言すれば、自然が最初から概念を宿しているのではなく、自らが組織化によって概念になっていくと考えたのである

自然と精神とが結びついてくる

したがって、超越的存在から与えられた作品として考察するやいなや、自然の観念はことごとく破壊されることになる










2026年1月1日木曜日

年のはじめに























2026年が明けた

年末に触れたように、年の初めにプロジェクトを掲げることはしなくなっている

そうは言っても大枠は決まっている

それは、サイファイカフェ/フォーラムを開催しながら、その時その時に浮かんできた問題について考えるということである

今年もこの大きな枠内で自由に動き回りたい


すでに、この春のカフェ/フォーラムシリーズの日程は決まっているのでお知らせしたい

 ◉ 2026年3月4日(水)18:00~20:30 第13回ベルクソンカフェ

 ◉ 2026年3月6日(金)18:00~20:30 第23回サイファイカフェSHE

 ◉ 2026年3月11日(水)18:00~20:30 第14回カフェフィロPAWL

 ◉ 2026年3月14日(土)13:00~17:00 第16回サイファイフォーラムFPSS

 ◉ 2026年4月11日(土)14:30~17:00 第16回サイファイカフェSHE 札幌

プログラムの詳細は、決まり次第この場に公表する予定である


今年もよろしくお願いいたします