これは以前から感じていることだが、先ほど形になってきた
それは、哲学に対する態度というか、哲学との付き合い方とでもいうべきものについてである
特に、哲学を専門として生活をしなければならないという立場にはいないわたしのような者にとっては、なお一層そうではないかと考えていることである
われわれは人生を歩む中で、何かに引っかかり、大きな疑問の中に放り込まれることがある
その時、もがくように出口を求めて模索する
それが自らの実存に関わることであれば、その模索はさらに真剣なものになるだろう
わたしの場合、そこで出合ったのが哲学者の言葉だったのである
それは視界を開く力があった
それ以来、それまで生きる中で出来上がってきたわたしの中にあるものと共振するものを拾い上げてきた
それがわたしと哲学との距離感であり、付き合い方である
つまり、哲学を勉強しましょうと言って始めたのではなく、先日のローマ人の言葉ではないが、まず生きることがあり、その後に哲学だったのである
そこには哲学に向かう必然性があったことになる
そういう学びは真剣なものにならざるを得ない
より正確に言えば、学んでいるという意識さえなくなり、まさに生きることと直接つながる営みと言えるだろう
哲学は知識ではないと言う
いろいろな哲学者の思想を理解して貯えるというような営みではないということだろう
それは科学と言ってもよい頭の使い方だからだ
そうではない何か、未だに科学とは別に哲学が存在している理由に根差すもの
そういうもの底に抱えながら歩みたいものである
今、マルセル・コンシュ(1922-2022)という日本では無名の哲学者の本を読んでいる
2006年に初めて遭遇して以来、折に触れてその考えに接してきた
わたしの考えにも影響を与えているのか、あるいはすでにわたしの中にあったものが反応しているのか
次第に馴染んできたように感じている
これなども、名前の通った哲学者について勉強しましょうというのとは違うやり方になるだろう
わたしのような立場の人間にとっては、このような哲学(者)との付き合い方が最も自然で、長続きするように感じている
他方、誰でも知っている人を対象にした方が、より広く認知される可能性が高いということも言われる
生き残りをかけている専門家であればそういう見方をして、あるところに群がっていくのも頷ける
しかし、それは哲学本来の在り方ではないような気がしているし、普通に生きている人間にとっても重要な要素ではない
どれだけ自分の生き方に関わる考えを生み出しているのかが問われるのだ
研究対象として哲学者を見るという視線ではなく、自らの実存にとっての重要性を見極める洞察力の方が求められている
哲学に限らず、一つのことに対してこのような付き合い方をする人が増えるほど、多様で柔軟で活力ある空間が生まれるような気がしている
今朝浮かんだ考えのスケッチはこんなところだろうか
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