2025年5月8日木曜日

脱自的に生きる



























この春のカフェフィロPAWLで、拙著『免疫学者のパリ心景』の読書会をやった

その中に、2007年1月、山手線の中で突然浮かんできた考えをメモに収めたという場面が出てくる

メモの内容は以下のようなものであった

いまを生きている自分
これまでに在ったいろいろな自分
普通は昔の自分を遠くに置いたまま
時には捨て去り、それとは別の自分を生きている
それが忙しく現実を生きるということなのかもしれない
しかし、それが最近変わってきているのではないか
一瞬そんな思いが過ぎった
それはこれまでに在ったすべての自分を現在に引き上げ
彼らと話をしながら生きている、あるいは生きようとしている
そんな感覚である
そのすべてを引き受け、そのすべてが求めるところに従って歩む
そうした方がより満ちた人生になるのではないか
そんな想いが静かに溢れてきた

                                        免疫学者のパリ心景』p. 83-84

 

これが新たな発見として蘇ってきたのは、ハイデガー(1889-1976)が現存在の在り方として使った「脱自」(Ekstase)という言葉の意味を探っている時だった

脱自とは、文字通り ek-(外に)+ stasis(立つ)こと

つまり、自分の外に出ること、自己を超えて外に立ち、そこから自分を眺めるような開かれた存在の状態だという

さらにこの脱自は、過去・現在・未来という時間とも関係してくる

ハイデガーの時間は、3つに区切られた時間が並んでいるというようなものではなく、3つの時間に対して自己を超えることを意味する

すなわち、過去への脱自においては過去を引き受け、未来への脱自はまだ見えないところに向かって自己を投企し、現在への脱自においては、世界に関わり自己を現成させることである

さらに、この3つが別々にあるのではなく、開かれた地平に向かって相互に関連しながら広がるというイメージのようである

その中で自己の意味や可能性も見えてくるということなのだろうか

そして、これがハイデガーの言う時間であり、人間の本質的な在り方なのだろう

想像をたくましくすると、脱自は深いところで「エクスタシー」とつながっていそうである


18年前に始めた観想生活を「全的生活」と名づけていたが、ハイデガーに肖れば、「脱自的生活」の中にあったとも言えるだろう

昔の小さなエピソードがこのように繋がってくるのを目撃することは、わたしにとっては大発見で、何とも言えないものがある

当時頭にあった " Primum vivere deinde philosophari "(まず生きよ、そして哲学せよ)の言葉通り、自らが生きて感じ取っていたことが、実は深い真理に繋がっていることに気づいたことになる 

ここでいう真理とは、哲学的省察の蓄積の中に眠っているもののことである

哲学的省察が欠かせない理由がここにもある

役に立つ立たないの問題ではなく、必須なのである

今日の一日も広大な地平が広がっていることを願いたいものである



 






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