一昨日は朝の願いが通じたのか、これまで閉ざされていた地平が一気に繋がり、広がるのを感じた
何かが動き出す兆しのようなものなのかもしれない
それまで何も見えなかったところに、想像もしていなかったところとのつながりが次々に現れるということがこれまでにもあった
一番劇的だったのは、フランスでの生活を模索していた時のことである
その過程は、拙著『免疫学者のパリ心景』の「フランスでの全的生活を模索する」(p. 11-24)に詳しい
ドクターに進むときにも同様のことがあった
こちらは、同書の「フランスの大学院教育を受けて」(p.33-58)の後半に出てくる
今回の流れも質的には近いものを感じている
このところ、サイファイ研ISHEの過去を振り返っている
昨日は春のカフェフィロPAWLの記録を読み、その中にあった質疑応答の一節を思い出していた
科学から哲学に移ったのは、科学という営みに限界を見たからか、という質問があった
それに対する答えは、そこまで科学について考えていなかったというものであった
つまり、自分のやっていることに対する思考が全くなかったことが哲学に向かわせたというのが答えであった
もし、われわれの存在が永遠の命を持っているのだとすれば、そのようなことを考える必要はなかったであろう
しかしその判断は、われわれの生が有限であるという深い認識に至っていたからこそのものであった
できるうちに考えておこうというのが、その理由ということになる
ISHEの営みもその過程に寄与している
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