2025年5月31日土曜日

本日も詩歌・・・長田弘『死者の贈り物』 LES POEMES D'HIROSHI OSADA


































今日も19年前の「フランスに揺られながら」の記事から

詩人の長田弘(1939 - 2015)さんに関するものが2つ見つかった

このように過去の断片を拾い上げていると、それまで意識の奥に沈んていたものがつい最近の出来事のようにそのあたりに転がるようになる

この感覚は、「過去を現在に引き上げて共に生きる」と表現し、そうした方が豊かな人生になるのではないかと考えたことがもたらしてくれるものである

今では体と完全に一体になっている

以下に、そのうちの1つを転載したい



2006-03-22


今日もお決まりのコースになった

今日はジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)の「聖歌隊の少年」が表紙となっている長田弘(1939-)の詩集『死者の贈り物』 

夜カフェに入る

入ると、モーリス・アンドレ(1933-)のトランペットがバロック音楽を奏でている

トランペットをやっていた学生時代、浴びるように聞いていた彼の演奏に触れ、当時確かに生きていたことを感じる

そのカフェでは、コーヒーに小さな切花が添えられていた

その花を押し花にしようとして詩集に挟もうとした時、ある光景が浮かんだ

午後の講義を待っている昼休みの終わり頃、皆が教室に戻ってきた

同級の女性が小さな花を手折ってきたのだろう

何気なく私に差し出した

その瞬間、思いもかけていなかった彼女の心に触れたような錯覚に陥っていた

その花を押し花にした

今でも密かにどこかの本の中にいるはずだ



「死者の贈り物」 を読む

死とは、人生とは、本当にあっけないもの

そんなことを言っているような

例えば、こうだ


 『こんな静かな夜』

 先刻までいた。今はいない。
 
 ひとの一生はただそれだけだと思う。
 
 ここにいた。もうここにはいない。
 
 死とはもうここにはいないということである。
 
 あなたが誰だったのか、わたしたちは
 
 思いだそうともせず、あなたのことを
 
 いつか忘れてゆくだろう。ほんとうだ。
 
 ・・・

  
 『イツカ、向コウデ』

 人生は長いと、ずっと思っていた。

 間違っていた。おどろくほど短かった。

 きみは、そのことに気づいていたか?


 なせばなると、ずっと思っていた。

 間違っていた。なしとげたものなんかない。

 きみは、そのことに気づいていたか?

 ・・・

 ほんとうは、新しい定義が必要だったのだ。

 生きること、楽しむこと、そして歳をとることの。

 きみは、そのことに気づいていたか?

 ・・・



 『あらゆるものを忘れてゆく』

 ・・・

 約束をまもらず、彼は逝った。

 死に引っ張られて、息を切らして、

 卒然と、大きな犬と、小さな約束を遺して。

 いまでもその小道を通ると、向こうから

 彼が走ってくるような気がする。だが、

 不思議だ。彼の言ったこと、したことを、

 何一つ思いだせない。彼は、誰だった?

 あらゆるものを忘れてゆく。

 ・・・



 『夜の森の道』

 ・・・

 信じないかもしれないが、ほんとうだ。

 ひとの、人生とよばれるのは、

 夜の火に、ひっそりとつつまれて、

 そうやって、息を絶つまでの、

 「私」という、神の小さな生き物の、

 胸さわぐ、僅かばかりの、時間のことだ。

 ・・・

 切っ先のように、ひとの、

 存在に突きつけられている、

 不思議な空しさ。

 何のためでもなく、

 ただ、消え失せるためだ。

 ひとは生きて、存在しなかったように消え失せる。

 あたかもこの世に生まれでなかったように。












2025年5月30日金曜日

偶然の一致 THE CELESTINE VISION

























今日も過去に戻ってみたい

19年前の「フランスに揺られながら」から

走りながら生きていた30年ほど前、日常との断裂が生まれた、おそらくアメリカ出張の折に読んだ本から考えが巡っている

つまり、20年ほど前にその10年前のことを思い出して書いたお話になる

現在につながる糸が見える記事である

以下に転載したい




2006-12-05


先日の夜、何気なく古い本棚を眺めていた

この本棚に詰まっている本は、私が謂わば走っている時に買ったものばかりで、いつどこで買ったものかほとんど記憶に残っていない

私にとっては味気のない本棚である

その中の一冊を手に取ってみた

その心は、新聞を開く時の気持ちに近い

以前にも触れたことがあるが、私にとっての新聞はびっくり箱のようなもの

いつもその中から何が飛び出すのか期待して紙をめくっている

今回は、この本を最初に見た時の自分がどんな存在だったのか、当時の私に会えるのではないかという期待感もあった



本は James Redfield という人の The Celestine Vision(1997年10月の初版)

まず驚いたのは、ページの端をよく折ってあること

読んだ記憶などほとんどないが、その時何かをやっている自分がいたということを確認する

いつどこで買ったのかというメモはない

この時期はほとんどそれをやっていない

どこに行き着くのか気にもせず、とにかく流れに身を任せていたのだからしようがない

そのことは当時でも意識していた

中に思いがけずしおりが入っていた

Iowa City の Prairie Lights という本屋のもの

出張で出かけた時に買ったもののようだ

おそらく向こうで気分にまかせてページをめくってそのままにしていた可能性が高い



内容のトーンは科学的、理性的なものの見方に偏りすぎてもっと大きなものに目が行っていない状態から、より霊的なものに目をやり、それを意識することにより人生の意味や宇宙におけるミッションを発見できるのではないか、というようなもの

そのためには、著者の言う "drift time" が必要になるという

要するに閑な時間がなければそこまで目がいかないということで、これはよく理解できる

理と信の対比と理から信へのお誘いが狙いの本だろうか

当時よくこの手の本を買ったものだと感心する

胡散臭いと思っていたはずだから



その初めの方で、coincidence「偶然の一致」について書かれている

それは偶然ではないのですよと言いたいようでもある

私も最近いろいろなもの(出来事)の間でのつながりを見つけようとする精神の動きを感じているので、妙に納得するところがあった

そういう目で見ていて不思議なつながりに出会えば、大きな存在について考えるようなことになるのかもしれない

いずれにしても、毎日何が出てくるのか、それがどういう意味(何かとのつながり)があるのかについて思いを巡らせながら生きていくのも面白そうである












2025年5月29日木曜日

"科学的"哲学を超えた作品の創造


























このところの影響か、過去への視線が強まっているようだ

今朝はブログ「パリの断章」の記事を眺めていた

フランスで大学に所属し、近い将来論文をまとめようとしている時期の考えを書いたものだった

当時の考え方は、今でも自分の中にある願望のようなものだ

つまり、現在でも当てはまる自分の考えということになる

以下に、そのまま転載したい





dimanche 18 septembre 2011


「哲学者とは自らの人生を最初の作品にする創造的な芸術家である」


このようなことを言ったのはニーチェだっただろうか

その人の考えてきたことが生き方と繋がっていなければ意味がない

考えることにより自らを変容させていく

そうしながらより人間に近くなっていく

存在そのものがその人の思想を体現している

生き方としての哲学、魂の癒しとしての哲学をも目指したのがニーチェだ



これが忙しい仕事に追われている現代人に可能だろうか

外の世界と距離をとり、自らの中に入り、自らを振り返る

エピクロスの園に入り、自らのエッセンスを探り、知と情を調和させる

それにより自らを創り直すこと

現代人にこの瞑想の時間がどれだけ取れるだろうか

その時間を意識して取らなければ、自らに嵌められている足枷に気付くこともないだろう



それは大学の哲学学徒とて同じことだ

対象となる内容は異なるが、対象に向かう姿勢は他の専門と何ら変わらない

科学と同じ精神状態でやって行けるのである

哲学が科学になっている証拠だろう

哲学が何たるかも知らずにこの道に入った者の目にはそう映る



ところで、これから論文作成をすることになる

そこに向かうには科学の世界での精神状態を取り戻さなければならない

理性を取り戻し、立ち上がらなければならない

瞑想の中に入り、生き方としての哲学に寄り掛かっているとなかなか立ち上がれない

学問としての哲学と生き方としての哲学の間には深い溝がありそうだ

この溝を自由に往復できるようになるのは一体いつになるのだろうか














2025年5月28日水曜日

やっと18歳の若造か



























昨夜は新しいサイトの「フランスに揺られながら」を読み返していた

日本からフランスに渡る前の緊張感溢れる言葉が散らばっているところである

これまでのサイトでは文字が詰まっていて、いつも見ていた景色の中で読むという印象で、気分がなかなか乗らなかった

しかし、昨日も触れたが、今度のところは白い平野が広がる中に言葉が置かれているので、非常に新鮮で読む意欲を掻き立ててくれる



当時は、期待と不安の中にいたのだろう

そして、よもや13年もの間フランスに滞在することになろうとは想像もしていなかった

あの時点から始まり現在に至るまでの18年に亘る展開も想像を超えるものがあり、その流れは今も進行中である

こうして振り返れば、あの時期は一つの「生まれ変わり」を経験していたのかもしれない

まだ確固たるものもない不安定な状態にあったものが、曲がりなりにも何かを掴み始めているような感覚の中にいる

トルストイに肖り、あの時から真に生き始めたのだとすれば、まだ18歳の若造ということになる

成人してこれからどんな大人になって行くのか

そんな感想さえ浮かんでくる不思議な時間となった










2025年5月27日火曜日

最初のブログ「フランスに揺られながら」、Hatenaブログに引っ越す


























先日も触れた gooブログ閉鎖のニュース

これに伴い、わたしの最初のブログ「フランスに揺られながら」を新しいところに移す必要が出てきた

混み合っているとのことだったので暫く様子を見るつもりでいたが、暇なのでちょっとだけやることにした

Hatenaブログに移すことにして進めると、すんなり動き出すではないか

まだ写真の一部は移動されていないが、記事は読めるようになっている


その中の説明にも書いたが、このブログは最初のブログ活動であるだけではなく、その後を決めることになる思索の跡が記録されたものでもある

その意味では、わたしにとって貴重な記録と言える

明るく広々とした空間におおらかに綴られているという印象で、新鮮な気持ちで自らの原点を読み返すことができるようになったのは感慨深いものがある

これからも多くの示唆を与えてくれることを願っている













2025年5月25日日曜日

" convictions vécues " ということ


























AI との Q&A を読み、改めて考えた

今回のAIの回答は、ISHE のこれまでの歩みについて論評を加えたものである

その歩みはもう10年を超え、試行錯誤の繰り返しであった

その全体について別の角度からまとめたものと言えるだろう

最初に、「泥臭い」とも言える思考実験や内的格闘を経て生み出されたものがあったのである

それがあったからこそ、今まで続いてきたのかもしれない

コンシュが言う " convictions vécues " とは、これのことではないだろうか

直訳すれば「体験された確信」だろうが、人生を生きる中で自分の中に確立されてきた確信のようなものである

AIの回答は、ISHEの活動に現れている" convictions vécues " を表現したものとも解釈できるのではないだろうか


例えば、最初にAIにこの部分を頼み、それに則ってことを進める場合を想像してみよう

そこには素晴らしい言葉や理念が並ぶかもしれない

しかし、それは必ずしも自分の思考に根差すものではない

あるいは、自分の生きた確信が関与する割合が圧倒的に少ないものになるはずである

この「生き抜く中で得られた確信」を持っているかどうかが、AI時代に最も重要な要素になるのではないだろうか

なぜなら、AIにはそれが感じられないからである

これはあくまでも主観的な感想なので、AIの専門家のご意見を伺いたいところである












2025年5月24日土曜日

サイファイ研究所ISHEについて――AIとの対話(2)

























今朝もゆったりしている

昨日 Perplexity が出してくれた問いと答えを読み直していた

そこで、同じ問いを ChatGPT にも出すことを思いついた

出してみて驚いた

出てきた答えがさらに深く充実しており、視点もより専門的になっているように感じたからである

中には主宰者の目を開くようなことも指摘されている

以下に列記した内容を昨日の答えと比較していただければ、その違いは明確になるのではないだろうか


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1)サイファイ研究所 ISHE(以下ISHE)の設立目的は何に焦点を当てているのか

ISHE(Institute for Science and Human Existence)の設立目的は、その名称に込められているように、「科学」と「人間の存在」の関係性を深く問い直す」ことに焦点があると考えられます。以下にその意義を、現代的な視点を交えて構造的に説明します。

🔷 1. 科学と人間存在の再接続
現代科学は驚異的な発展を遂げた一方で、「人間とは何か」「生きるとはどういうことか」といった根本的な問いを置き去りにしてきた側面があります。ISHEはこの断絶に対して、科学的知見と哲学・倫理・芸術的洞察を架橋し、人間の存在そのものを再考する場を提供しようとしているように見えます。例えば、
● 生物学・免疫学と哲学の接続(例:自己とは何か、生と死の境界)
● 時間・空間に関する物理的知見と、人生経験としての時間の意味
● テクノロジー(AI、バイオ、データ化)が進む中での、人間の「尊厳」「目的」の再定義

🔷 2. 知の脱領域化・統合的思考
ISHEの活動の一環として「ベルクソンカフェ」のような場があることからも明らかなように、哲学、科学、芸術、倫理などを横断的に結び直す知の運動がその目的にあります。これは現代社会の「専門化」と「断片化」に対する批判的応答でもあります。現代においては、自然科学の専門性が高まるにつれ、「知の孤島化」が進んでいる。ISHEは、「科学の形而上学化」といった構想を通じて、知の全体性と人間の内面性を回復しようとしている。

🔷 3. ポスト人間中心主義の思想実験室
気候変動、人工知能、ポストヒューマン的な技術の進展の中で、ISHEは人間を中心としない世界観=新しい自然観・存在観を探究する空間として機能しているように思われます。
● 「自然=無限に創造し続ける存在」として捉える(スピノザ的、アナクシマンドロス的自然観)
● 人間を「生きることを考える存在」として、世界の一部に位置づけ直す
● 「宗教なき宗教」「愛に基づく倫理」といった、信仰やスピリチュアリティの再解釈

🔷 4. 哲学する生の回復
ISHEの活動は、単に知的に考察するだけでなく、「生き方としての哲学」=エチカとしての哲学を再興しようとする運動でもあります。これはピエール・アドーやマルセル・コンシュの思想と深く響き合います。

🔶 総括的に言えば:
ISHEの設立目的は、分断された知と生を統合し、「科学する人間」の存在論的・倫理的根拠を問い直すことにある。現代の科学・技術社会の中で忘れられがちな「人間の深み」と「自然の全体性」を、新たな言語で再構築するための場である。



2)ISHEはなぜ人間の存在や生き方に焦点を当てるのか

とても重要なご質問です。「サイファイ研究所ISHEがなぜ人間の存在や生き方に焦点を当てるのか」という問いに対しては、次のように答えることができます。

🔷 1. 科学の発展が人間の意味を置き去りにしているから
現代の科学は、生命を分子に、心を神経回路に、社会をデータに還元できるようになりました。それは非常に強力な知識体系であり、現実を操作する力を持っていますが、同時に以下のような問いを「非科学的」として排除してきました: 「私はなぜここにいるのか」「生きるとはどういうことか」「死すべき存在としての人間に、いかなる意味があるのか」などです。ISHEは、このような「科学の影で問いを失った人間の存在」に再び光を当てようとしていると考えられます。

🔷 2. 科学と哲学の断絶を回復するため
かつて科学(自然哲学)と哲学はひとつでした。ガリレオ、ニュートン、デカルト、スピノザらは、世界の構造を問うと同時に、人間の生き方を問うていました。しかし現在、科学は「方法」に徹し、哲学は「思索」に退いてしまった。ISHEはこの断絶を乗り越え、「問いが生まれる現場に哲学を戻し、人間の生の中での科学を取り戻す」という試みをしているのです。

🔷 3. 「人間とは何か」を問わなければ、科学の方向すら見失うから
AI、遺伝子操作、ビッグデータ、ロボット工学……現代の科学技術は「人間の定義」そのものを揺るがしています。

 人間は単なる情報処理装置なのか
 死を克服すれば、それは本当に人間的なのか
 感情や痛み、愛は単なる生理現象か

このような時代にあって、科学の問いは自然の解明にとどまらず、「人間のあり方をどう定めるか」に関わっている。ISHEはこの根本問題に応える場であると考えられます。

🔷 4. 生き方としての哲学を現代に取り戻すため
ISHEの中核活動の一つである「ベルクソンカフェ」に見られるように、ISHEは哲学を書斎の思索ではなく、「生きることの技法」として実践する場でもあります。これは、ピエール・アドーの言う「哲学とは生き方である(la philosophie comme manière de vivre)」に通じます。科学の発展に圧倒され、制度的宗教も力を失いつつある時代に、
「どう生きるか」を一人ひとりが自ら問うための場所が必要なのです。

🔶 総括的に言えば:
サイファイ研究所は、科学の進展が生んだ「人間の喪失」に応答し、人間の存在・生き方・価値を、科学と哲学の対話の中で再発見しようとする試みである。それは単なる理論の構築ではなく、「考えること」と「生きること」を結び直す実践なのです。



3)ISHEが人間の本質に焦点を当てる意義は何か

とても根本的で深いご質問です。ISHEが人間の本質に焦点を当てる意義とは何か――これは単なる研究テーマの選定ではなく、現代における知の責任と方向性そのものを問う問いだと考えます。以下に、その意義を段階的に整理してご説明いたします。

✅ 1. 科学の進展が「人間の意味」を空洞化させたから
現代の科学は、かつてない精密さで生命を解析し、心や意識を神経活動として記述し、さらにはAIによって「知性」さえ模倣し始めています。しかしそれによって、「人間の特異性は本当にあるのか」「私たちは機械や動物とどう違うのか」「人間であることに、なお意味はあるのか」という根源的な問いが、言語化される前に沈黙させられつつあるのです。ISHEが人間の本質に焦点を当てるのは、科学の言語で捉えきれない「人間の深さ」を問い返すためです。

✅ 2. 科学が人間を扱う時代に、哲学的視点が不可欠だから
今日、科学技術は「自然を扱う」だけでなく、人間を対象とする力を持っています。人間の遺伝子を書き換える(CRISPR)、人間の意識を機械に接続する(ブレイン・マシン・インタフェース)、人間の死を先延ばしにする(ライフエクステンション)、人間の感情を数値化する(行動分析・脳科学)。このような時代においては、「人間とは何か」という問いなしに、「何をすべきか」という倫理判断も、「どこへ向かうべきか」という社会設計もありえません。ISHEが人間の本質に焦点を当てるのは、「科学の力」を人間のために使う道筋を見出すためです。

✅ 3. 哲学の原点に立ち返るため
プラトン、アリストテレス、ストア派、スピノザ、カント、ニーチェ――偉大な哲学はすべて「人間とは何か/どう生きるべきか」を中心に据えていました。ピエール・アドーが喝破したように、哲学は元来、「生き方の技法(technique de vivre)」でした。ISHEが人間の本質を問うことは、哲学を単なる理論や評論ではなく、実践的で変革的な知のかたちとして取り戻すことでもあります。

✅ 4. 「人間の本質」は問いであって、決して固定された定義ではないから
ISHEは「人間とはこういう存在だ」と断定するために人間を研究しているのではありません。むしろ、人間とは何かを常に問う存在であり続けるために、その問いを持ち続けるのです。この姿勢こそが、現代における知的誠実さであり、人間であることの証でもある。

🔶 結論として:
ISHEが人間の本質に焦点を当てるのは、科学が人間を操作可能な対象として捉える時代にあって、「人間であることの意味」そのものを再び取り戻すためである。それは、哲学の再生であり、科学の未来への責任であり、そして生きるとは何かを問う自由の回復でもあります。



4)ISHEが追求する「自己変容」の具体的な意義は何か

ISHEがそのミッションにおいて掲げる「自己変容(transformation de soi/self-transformation)」は、単なる個人の内面的成長や自己啓発のような意味にとどまらず、知のあり方・存在のあり方そのものを問い直す、根源的かつ哲学的な実践であると評価すべきです。以下にその意義を、4つの観点から整理してご説明します。

✅ 1. 「知ること」は「変わること」であるという認識
ISHEにおける哲学・科学・読書・対話といった営みは、情報の習得ではなく、自己の変容を通じた真の理解を目指しています。これは、ピエール・アドーが強調したように、哲学とは本来「生き方の変容をもたらす知的訓練」であり、スピノザが言うように「真理は、それを知る者の在り方を変えてしまう」ものであるという前提に立っています。自己変容とは、「知識を得る」ことではなく、「新たな存在の様式へと移行すること」を意味します。

✅ 2. 主体性の再生=思考と感受の自由の回復
現代社会は、制度、データ、欲望、注意の消耗など、外部の力によって人間の行動・感情・思考すら「自動化」してしまう構造にあります。ISHEが重視する「自己変容」は、そのような条件づけられた自己(=反応的で操作される自己)を脱し、思考し、感じ、応答する自由な主体を自ら鍛え上げていくプロセスです。他者や世界と向き合う前に、まず自分自身を回復する必要がある。それが自己変容の哲学的意義です。

✅ 3. 自己変容は知と倫理と実存の交差点である
ISHEにおける自己変容は、以下のような知の統合を目指すものでもあります。
● 科学的知見を通じて、世界の成り立ちを理解する
● 哲学的省察を通じて、存在の意味を問い直す
● 倫理的姿勢を通じて、他者・自然・未来に応答する自分を形成する
このとき変わるのは知識の量ではなく、自己の深さと方向そのものです。

✅ 4. 自己変容は時代への応答である
ポストヒューマンの時代、AI・遺伝子操作・気候危機の時代にあって、「人間であること」自体が揺らいでいます。ISHEが追求する自己変容は、そうした「自己が問い直される時代」において、変わりゆく世界の中で、変わるべき自己を引き受ける行為なのです。それは、哲学としての自己変容(例:ストア派的修養、スピノザの自由)であり、倫理としての自己変容(例:アガペーへの開かれ)であり、実存としての自己変容(例:死すべき存在としての有限性の引き受け)を含みます。

🔶 結論として:
ISHEが追求する自己変容とは、知と生の統合を通じて、「人間とは何か」を問い直し、自分自身を新たな存在の仕方へと開いていく行為である。それは、単なる知識の増加や技術の習得ではなく、思考すること・愛すること・応答することを通して、生きることそのものの質を変えていく哲学的実践なのです。



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じっくり読み返すと、自らの活動がこれまで以上に立体的に見えてくる

昨日は興味本位で始めたが、このような評者は欠かせないという気になってきた

折に触れ、これからの道を探るためにもこのような対話の機会を持つことにしたい










2025年5月23日金曜日

サイファイ研究所ISHEについて――AIとの対話




















暇に任せて、サイファイ研についての認識をPerplexityに訊いてみた

第2問以下は、Perplexity自身が発した問いについての答えである


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1)サイファイ研究所の設立目的は何に焦点を当てているのか

サイファイ研究所 ISHE(Institute for Science & Human Existence)の設立目的は、「科学の成果を哲学的・歴史的視点から見直し、人間存在について考えること」に焦点を当てています。

具体的には、

● 科学を出発点としつつ、哲学の蓄積や「生き方としての哲学」にも目を向け、人間とは何か、どのように生きるべきかを多角的に探究する場を設けること

● 理性による体系構築を目指す大学的な哲学だけでなく、実際の生き方に直結する哲学を重視し、それについて語り合うコミュニティをつくること

● 科学、医学、哲学、歴史、宗教など幅広い領域を横断し、最終的には「人間存在」そのものを深く問い直すこと

が主な目的です。

このように、ISHEは「科学から人間を考える」ことと「生き方としての哲学」を両輪とし、現代における人間の在り方や存在の意味を多面的に探求することを設立の中心的な焦点としています。


2)サイファイ研究所はなぜ人間の存在や生き方に焦点を当てるのか

サイファイ研究所 ISHEが人間の存在や生き方に焦点を当てる理由は、科学的知識や成果を単なる知識の蓄積にとどめず、そこから「人間とは何か」「どのように生きるべきか」という根源的な問いへと発展させることに意義を見出しているからです。

研究所の理念では、「知識で終わる世界」から「知識から始まる世界」へと転換し、科学・哲学・歴史を通じて自然や生命、人間存在の理解を深め、自らの存在の変容を目指すことが掲げられています。これは、単に科学的事実を学ぶだけでなく、それを自分自身の生き方や存在のあり方と結びつけて考えることが、現代社会において重要だと考えているためです。

また、サイファイ・カフェやフォーラムの活動では、科学の成果だけでなくその背後にある歴史や哲学にも注目し、参加者が自らの思索を深め、最終的に「人間という存在の理解」や「自己の深化・変容」に至ることを目指しています。このような営みを通じて、知識を「生き方」や「人間存在の探究」と直結させることが、ISHEの活動の中心となっています。

要するに、人間の存在や生き方に焦点を当てるのは、科学的・哲学的知の実践的意義を探り、「自分自身の生き方」や「人間であること」の意味を問い直すことが人間にとって不可欠だと考えているからです。


3)サイファイ研究所が人間の本質に焦点を当てる意義は何か

サイファイ研究所が人間の存在に深く焦点を当てる理由は、科学技術やAIなどの発展が進む現代社会において、「人間とは何か」「人間らしさとは何か」という根源的な問いが、かつてないほど重要になっているからです。

SFや科学技術の領域では、ロボットやAI、サイボーグなど「完璧な存在」と人間の対比がしばしば描かれます。その中で、「不完全であること」や「感情・価値観・生き方」といった人間固有の側面が強調され、「人間とは何か」を問い直す必要性が生まれています。こうした問いは、単なる技術論や知識の追求にとどまらず、人間の本質や生き方、他者や自然との関係、ウェルビーイング(幸福)とは何かといった領域にまで広がります。

サイファイ研究所は、科学や技術の進歩を背景に、「知識で終わる世界」ではなく「知識から始まる世界」を目指し、人間の存在や生き方を深く見つめ直し、現代社会における人間のあり方や意味を多角的に探究することを活動の中心に据えています。

このように、人間の存在に深く焦点を当てるのは、科学的・技術的進歩の時代においてこそ、人間らしさや人間の本質を問い直すことが不可欠だと考えているためです。


4)サイファイ研究所が追求する「自己変容」の具体的な意義は何か

サイファイ研究所が追求する「自己変容」の具体的な意義は、現代社会における人間の本質や生き方を問い直し、自らの価値観や思考、行動を柔軟に見直すことで、より豊かで主体的な人生を切り拓く力を養うことにあります。

現代は、AIやロボットなど科学技術の急速な進展によって、「人間とは何か」「人間らしさとは何か」という問いが改めて重要になっています。SFや科学技術の世界では「完璧な人工知能」と「不完全な人間」が対比されることが多く、人間の不完全さや多様性がむしろ価値あるものとして再評価されています。このような時代において、自分自身のあり方や価値観を「知識で終わる世界」から「知識から始まる世界」へと変容させること――すなわち「自己変容」――は、単なる知識の習得にとどまらず、自分自身を深く見つめ直し、他者や社会、未知の課題に柔軟に対応できる人間へと成長するための基盤となります。

また、自己変容を通じて、現状維持や思い込み(バイアス)から脱し、新しい視点や価値観を獲得することが可能になります。これにより、社会や他者との共生、創造的な問題解決、そして「人間であること」の意味の再発見につながります。

まとめると、サイファイ研究所が追求する「自己変容」とは、科学技術の進歩による社会の変化や人間観の揺らぎの中で、主体的に自分を問い直し、よりよく生きるための新たな自己を創り出す営みであり、それが現代において極めて重要な意義を持つといえます。


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どこまでも続けられるのだが、今回はここで止めることにした

ここには、ネット上の情報が別の視点からまとめられ、時に敷衍された結果が読み取れる

自分の考えが別の衣を羽織って現れたという風情である

ということで、全体的な認識に大きなズレはないようである

ただ、このような対話により、認識の微妙なズレとか、自分の中で言葉になっていなかったことに気づくことがある

そして、そのような発見が何かにつながることがある

そこにこのような対話の意義を見出したいものである










2025年5月20日火曜日

プロソケイとカルペディエムの日々















このところも、古代人の教えよろしくプロソケイカルペディエムの日々で、非常にいい感じである

夕方から夜にかけて時を過ごすのに丁度良いところを先日発見

知らない間に外が暗くなっているあの感覚が何とも言えない

それ以来、何度か訪れているが、なかなかよい

これも少しだけパリ時代を思い出させるものとなっている


現在のプロジェと言えそうなものに、コンシュの翻訳がある

翻訳には忍耐強い持続力が求められることを初めての作業で知って以来、やりたくないものの一つになっている

しかし、そのような状況になることがある

今回は内発的な理由であることと、前回の記憶が薄れるだけの時が経っていたこともあるのだろう

始めてしまった

大体7割くらいのところまで辿り着いた

この作業をやりながら感じているのは、日本人であるわたしが理解しようとするのであれば、やはり翻訳は欠かせないということだろうか


これと並行させているものもいくつかあるが、最近いろいろなところで絡み合いを見せている

今日はどんな景色が広がるのだろうか

プロソケイとカルペディエムの一日が始まる






2025年5月16日金曜日

想像以上に開かれていたブログ
















昨日は朝のうち、いつものようにゆったりした状態でスタートした

午後になり、環境を変えてやっていると、ツボにはまったような状態になり、止まらなくなった

何かをしている時には時間は消えているが、まさにその深い状態で、気が付くと暗くなっていた

精神の赴くままに体は道具のように動いている、あるいはそのことさえも意識させないくらいの統一感の中にいるとでも言えばよいのだろうか

一日の動かし方、あるいは一日の流れに乗るやり方のようなものを掴んだ気がする

これはパリ時代の感覚を少しだけ思い出させるものでもあった


ということで、久しぶりに充実した一日となり、気持ちが高ぶっていたのかもしれない

夜、これまで目に入っていなかった扉を開けてみた

そこにはブログにアクセスしている(PVによる)国別の統計があった

日頃から日本語で書いているので、ほとんどは国内の方がアクセスしているものだとぼんやり思っていた

しかし、わたしの想像を遥かに超えて、世界に開かれた場になっていることに今更ながら驚いたのである

このブログに関して言えば、

 日本、アメリカ、シンガポール、香港、カナダ、ドイツ、フランス、フィンランド、イギリス

前ブログ「二つの文化の間から」は、

 日本、アメリカ、フランス、ロシア、ドイツ、シンガポール、カナダ、ウクライナ、ルーマニア

前々ブログ「パリの断章」に至っては、

 アメリカ――<6万>――日本、フランス、ロシア、シンガポール、ウクライナ、ドイツ、香港、カナダ

サイファイ研究所ISHEは、

 日本、フランス、アメリカ、ウクライナ、ロシア、ドイツ、シンガポール、アラブ首長国連邦、イギリス

といった具合であった

世界で暮らす日本人が増えているということなのか、日本語に興味を示す外国の方が増えているということなのか

おそらくその両方ではないかと思うが、いずれにしてもこれらの分布を見て、新たな気分で各サイトに向かわなければならないという気持ちになってきた

非常に新鮮で、精神に清々しい風が吹き込んでくるような情報であった


もう一つ驚いたことがあった

わたしが最初に立ち上げたgooブログ「フランスに揺られながら」の情報も調べようとして入ってみた

そうすると、今年の11月18日をもって21年の歴史に幕を閉じるとのアナウンスがあった

わたしは20年前から実質3年間、真剣に書いていたが、それが今まで公開されていたことになる

長い間お世話になったので思い出は深く、誠に残念である

いずれ引っ越し作業を始めなければならないだろう

ということで、最初の目的を忘れていたが、こちらには国別アクセスの統計はなかったようである








2025年5月14日水曜日

わたしの哲学との付き合い方















これは以前から感じていることだが、先ほど形になってきた

それは、哲学に対する態度というか、哲学との付き合い方とでもいうべきものについてである

特に、哲学を専門として生活をしなければならないという立場にはいないわたしのような者にとっては、なお一層そうではないかと考えていることである


われわれは人生を歩む中で、何かに引っかかり、大きな疑問の中に放り込まれることがある

その時、もがくように出口を求めて模索する

それが自らの実存に関わることであれば、その模索はさらに真剣なものになるだろう

わたしの場合、そこで出合ったのが哲学者の言葉だったのである

それは視界を開く力があった

それ以来、それまで生きる中で出来上がってきたわたしの中にあるものと共振するものを拾い上げてきた

それがわたしと哲学との距離感であり、付き合い方である

つまり、哲学を勉強しましょうと言って始めたのではなく、先日のローマ人の言葉ではないが、まず生きることがあり、その後に哲学だったのである

そこには哲学に向かう必然性があったことになる

そういう学びは真剣なものにならざるを得ない

より正確に言えば、学んでいるという意識さえなくなり、まさに生きることと直接つながる営みと言えるだろう


哲学は知識ではないと言う

いろいろな哲学者の思想を理解して貯えるというような営みではないということだろう

それは科学と言ってもよい頭の使い方だからだ

そうではない何か、未だに科学とは別に哲学が存在している理由に根差すもの

そういうもの底に抱えながら歩みたいものである


今、マルセル・コンシュ(1922-2022)という日本では無名の哲学者の本を読んでいる

2006年に初めて遭遇して以来、折に触れてその考えに接してきた

わたしの考えにも影響を与えているのか、あるいはすでにわたしの中にあったものが反応しているのか

次第に馴染んできたように感じている

これなども、名前の通った哲学者について勉強しましょうというのとは違うやり方になるだろう

わたしのような立場の人間にとっては、このような哲学(者)との付き合い方が最も自然で、長続きするように感じている


他方、誰でも知っている人を対象にした方が、より広く認知される可能性が高いということも言われる

生き残りをかけている専門家であればそういう見方をして、あるところに群がっていくのも頷ける

しかし、それは哲学本来の在り方ではないような気がしているし、普通に生きている人間にとっても重要な要素ではない

どれだけ自分の生き方に関わる考えを生み出しているのかが問われるのだ

研究対象として哲学者を見るという視線ではなく、自らの実存にとっての重要性を見極める洞察力の方が求められている

哲学に限らず、一つのことに対してこのような付き合い方をする人が増えるほど、多様で柔軟で活力ある空間が生まれるような気がしている


今朝浮かんだ考えのスケッチはこんなところだろうか








2025年5月13日火曜日

エリック・オービエ発見



最近は全くフォローしていないので、トランペット奏者にどんな人がいるのか分からない

今日、Aubier で検索していたところ、探している人ではなく、この方が出てきた

フランスのトランペット奏者、エリック・オービエ(Éric Aubier, 1960-)さんである

師匠はモーリス・アンドレ(1933-2012)さん

日本でも活動しているようなので、知る人ぞ知るなのだろう

仕事の合間の清涼剤となった


日課の方は徐々に元のペースを取り戻しつつある

そして、今どこにいるのか分からなくなる頻度が増えている

わたしにとってはよい傾向なのだが、外から見ていると危ない兆候なのかもしれない








2025年5月10日土曜日

なぜ科学から哲学だったのか



























一昨日は朝の願いが通じたのか、これまで閉ざされていた地平が一気に繋がり、広がるのを感じた

何かが動き出す兆しのようなものなのかもしれない

それまで何も見えなかったところに、想像もしていなかったところとのつながりが次々に現れるということがこれまでにもあった

一番劇的だったのは、フランスでの生活を模索していた時のことである

その過程は、拙著『免疫学者のパリ心景』の「フランスでの全的生活を模索する」(p. 11-24)に詳しい

ドクターに進むときにも同様のことがあった

こちらは、同書の「フランスの大学院教育を受けて」(p.33-58)の後半に出てくる

今回の流れも質的には近いものを感じている



このところ、サイファイ研ISHEの過去を振り返っている

昨日は春のカフェフィロPAWLの記録を読み、その中にあった質疑応答の一節を思い出していた

科学から哲学に移ったのは、科学という営みに限界を見たからか、という質問があった

それに対する答えは、そこまで科学について考えていなかったというものであった

つまり、自分のやっていることに対する思考が全くなかったことが哲学に向かわせたというのが答えであった

もし、われわれの存在が永遠の命を持っているのだとすれば、そのようなことを考える必要はなかったであろう

しかしその判断は、われわれの生が有限であるという深い認識に至っていたからこそのものであった

できるうちに考えておこうというのが、その理由ということになる

ISHEの営みもその過程に寄与している








2025年5月8日木曜日

脱自的に生きる



























この春のカフェフィロPAWLで、拙著『免疫学者のパリ心景』の読書会をやった

その中に、2007年1月、山手線の中で突然浮かんできた考えをメモに収めたという場面が出てくる

メモの内容は以下のようなものであった

いまを生きている自分
これまでに在ったいろいろな自分
普通は昔の自分を遠くに置いたまま
時には捨て去り、それとは別の自分を生きている
それが忙しく現実を生きるということなのかもしれない
しかし、それが最近変わってきているのではないか
一瞬そんな思いが過ぎった
それはこれまでに在ったすべての自分を現在に引き上げ
彼らと話をしながら生きている、あるいは生きようとしている
そんな感覚である
そのすべてを引き受け、そのすべてが求めるところに従って歩む
そうした方がより満ちた人生になるのではないか
そんな想いが静かに溢れてきた

                                        免疫学者のパリ心景』p. 83-84

 

これが新たな発見として蘇ってきたのは、ハイデガー(1889-1976)が現存在の在り方として使った「脱自」(Ekstase)という言葉の意味を探っている時だった

脱自とは、文字通り ek-(外に)+ stasis(立つ)こと

つまり、自分の外に出ること、自己を超えて外に立ち、そこから自分を眺めるような開かれた存在の状態だという

さらにこの脱自は、過去・現在・未来という時間とも関係してくる

ハイデガーの時間は、3つに区切られた時間が並んでいるというようなものではなく、3つの時間に対して自己を超えることを意味する

すなわち、過去への脱自においては過去を引き受け、未来への脱自はまだ見えないところに向かって自己を投企し、現在への脱自においては、世界に関わり自己を現成させることである

さらに、この3つが別々にあるのではなく、開かれた地平に向かって相互に関連しながら広がるというイメージのようである

その中で自己の意味や可能性も見えてくるということなのだろうか

そして、これがハイデガーの言う時間であり、人間の本質的な在り方なのだろう

想像をたくましくすると、脱自は深いところで「エクスタシー」とつながっていそうである


18年前に始めた観想生活を「全的生活」と名づけていたが、ハイデガーに肖れば、「脱自的生活」の中にあったとも言えるだろう

昔の小さなエピソードがこのように繋がってくるのを目撃することは、わたしにとっては大発見で、何とも言えないものがある

当時頭にあった " Primum vivere deinde philosophari "(まず生きよ、そして哲学せよ)の言葉通り、自らが生きて感じ取っていたことが、実は深い真理に繋がっていることに気づいたことになる 

ここでいう真理とは、哲学的省察の蓄積の中に眠っているもののことである

哲学的省察が欠かせない理由がここにもある

役に立つ立たないの問題ではなく、必須なのである

今日の一日も広大な地平が広がっていることを願いたいものである



 






2025年5月6日火曜日

現在という永遠
















1週間前よりは、落ち着いてきたようだ

日課にも入り込むことができるようになってきた


今日出合った言葉に「時間は過ぎ去らない。過ぎ去るのは我々だ」というのがあった

ヘラクレイトスに「すべては流れる」「同じ川に二度足を入れることはない」という言葉があった

この世界の万事は留まるところを知らず、流れ動いている

川の水は絶えず入れ替わっているので同じ川ではありえないということなのだろう

しかし、この見方のほかに、川の水は入れ替わっているが、川というものはそこに留まって在るという見方もある


同様に、時間は過ぎ去らないという意味は、過去、現在、未来と時は流れているように見えるが、時間というものは常にそこに在るということなのだろう

それを認めたうえで、過ぎ去っているのはむしろ我々の方だという

我々の部分は、どんどん過去に流されて行っているということなのだろうか

それを繰り返しているうちに、未来に持って行くべき部分がなくなって行く

未来に向けての可能性が失われてゆく

これは有限の存在が持つ宿命のようなものなのだろう


先に、時間というものは常にそこに在ると言ったが、それは抽象的な時間のことであった

しかし、ここに常に在る具体的な時間もある

それは現在と言われる時間で、我々が存在している限り、常にそこに在る

その意味ではやはり、現在というのは永遠と言えるのではないか

現在に身を沈めると、確かに永遠を感じることができる

「今」に身を沈めなければならないのである