最近の話の中で、「わたしは目が覚めている時はすべての瞬間を意識している」と言ったことがある
仕事をしている時にはそうはいかなかった
おそらく、重要なこととそうでないことが分けられていたからではないかと想像している
それが全的観想生活に入ってからは変わり、すべてが重要なことになっているため、このような言葉に結晶化したのだろう
これはそこを目指したというのではなく、全的観想生活に入るとそれが自然な日常だったというだけの話である
ところで、このところ時間があると昔のカフェ/フォーラムの記録を読み返している
その度に発見があるので、楽しみながらの作業になっている
先日、ストア派に関連して「プロソケイ」(prosochè)という言葉が出てきた
これは、自分自身に対する継続的な注意深さのことで、そうすることにより道徳的な逸脱を監視する狙いがあるようだ
この言葉を見た時、話題にした会のことが浮かび上がってきた
と同時に、上述の事情で、ここ18年の間、知らないうちにプロソケイを実践していた、と表現できることに気づいたのである
ストア派にはさらに、「プレメディタチオ・マロールム」(praemeditatio malorum)というのもある
これは、将来起こるかもしれない災いを思い描いて、その時が来ても耐えられるように準備することを意味している
精神的な苦痛を軽減する方策として考えられたものだろう
英語では "negative visualization" とも言われるようだ
わたしの場合、そこまでのことをやったことはないが、日常的に数日先の具体的な行動については思い描くことはある
そのため、時の流れが非常にスムーズになり、完全なストレスフリーの状態になっている
これなども、その昔にはなかったことである
0 件のコメント:
コメントを投稿