前回の記事で、「翻訳した後でなければ理解できない」という言葉を引いた
そして、翻訳には途轍もない労力を要すると続けた
さらにそこから、翻訳からは離れたいという方向に進んだ
しかし、別のところに向かうこともできたことに気づく
それは、一人の人間の考えを理解するには、途方もない労力を要するということだ
そう考えると、外国人の考えを理解しようとしたなら、翻訳という労力を払わなければならないことになる
これは、理解すること自体がそんなに容易なことではないことを意味している
改めて、そのことに思いが至る
もとを辿れば、ジョージ・スタイナー(1929–2020)の「翻訳することは、理解することである」あたりに行き着くのだろうか
これは以前にも指摘したことだが、この状況は日本語でも同じではないだろうか
理解するために、そこにある言葉をなぞるだけでは不十分で、それを言い換えたり、そこから広がる世界を思い描いたりする「翻訳」が必要になるということである
そうしながら、アドー(1922–2010)が言う「文章が自ら語り出すのを待つこと」なのだろう
医学のあゆみ 257: 803-807, 2016

0 件のコメント:
コメントを投稿