Johann Gottfried von Herder (1744–1803)
今年の記録を読み直しているが、4月は、8月に刊行予定の Immunity のゲラ校正や、それに伴ういろいろな人とのやり取りに追われていた
そんな中、新しいプロジェが浮かび、構想を展開している様子が書かれているところがあった
しかし、このプロジェはその後どこかに行ってしまい、現在の記憶には残っていない
この際、改めて取り上げることにした
もう記憶の彼方だが、マーガレット・マクドナルド(Margaret Macdonald, 1903-1956)というイギリスの女性哲学者についてのエッセイを読んでいた
バートランド・ラッセル(1872-1970)のように、哲学理論は科学と同じでなければならないと考える人たちがいる
しかし、マクドナルドは彼らとは異なり、哲学は新しい事実を提示するのではなく、これまであったものに新しい光を与えることであると考えていたという
共感するところ大である
『免疫から哲学としての科学へ』も、免疫についての新しい事実を明らかにしたのではなく、これまで明らかになっていたことについて新しい解釈を加えたものである
デカルトの « lavartus prodeo »(わたしはマスクをして前に進む)と自分のスタイルとに共通するところがあるという記述があった
これは、真理の追及に邪魔になることは避けて進むのだが、人との交流をシャットダウンすることを意味しない
『免疫学者のパリ心景』でも触れているように、この道に入る前から « lavartus prodeo » のようにやりたいと思っていたのである
ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(1744-1803)の『人類歴史哲学考』が刊行された
このような著作は「壮大で遠大な」構想の下に書かれていることを想像させる
ヘルダーと交流のあったゲーテ(1749-1832)は、次のような言葉を残している(『詩と真実』、第2部、第10章)
このような精神のうちに、いかなる動きがあったか、このような資性のうちに、いかなる醗酵があったのかは、到底とらえることも述べることもできるものではない。しかし、彼がのちに多年にわたってつとめ、なしとげたことを考えてみるとき、彼のひそかな努力が非常なものであったことは、容易に察せられるのである。(山崎章甫訳)
「壮大なもの」に惹かれることが多くなっているため、反応したものと思われる
フィリップ・ゴフ(Philip Goff)の Galileo's Error を途中まで読んでいたようだ
大昔に感じられる頃のことなのだが、そう言われてみれば思い出す
一般向けの本なので、説明がやや諄く感じられるとある
そこまでやらないと、多くの人には通じないということなのか
年内に残りを読むことはできるだろうか
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