2025年11月30日日曜日

仙台で旧交を温め、『生き方としての哲学:より深い幸福へ』を人生の指針に



























昨夜は、昔の研究仲間で、退職後は臨床のお仕事をされているお二方との会食があった

いつもとは異なり、かなり離れたところにあるお店での語らいとなった

お一方はひと月前に突然奥様を亡くされたとのことで、辛い時期をお過ごしのようであった

日頃から批判的なことを聞いていることが多かったとのことだが、それがなくなった後の寂寥感は耐え難いものがあるとのこと

このような時期にお時間を割いていただいたことに感謝したい


最初に、わたしの近著『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』の話題を出そうとしたのだが、お一方はすでに購入され、3回は読み込まれているとのことで驚く

お話を伺うと、自らの生活を見直すきっかけになったようで、執筆の目的を達したと感じた

その中でピンとこなかったことがあるという

それは何だったのかを伺うと、「自分自身と会話する」とか「内的空間を充実する」とはどういうことを言っているのか掴めなかったという

記憶には残っていないのだが、以前に自然に囲まれた別荘にお呼ばれした時に、わたしが「ここは自分と対話するのに最適ですね」と言ったこともあったようだ

日常生活に追われていると内的対話の時間が取れないため、その内容が分からないということなのかもしれない

それだけではなく、一人になって自分と向き合う時間が怖いので避ける傾向があるとも言っておられた

これはまさにパスカル(1623-1662)が指摘していることで、人間が抱えている問題がそこにあるということなのだろう

自らに向き合う時間を増やし、日々の瞬間瞬間を味わい尽くすように生きると、人生の景色は大きく変わってくるのではないだろうか

そのあたりは近著に詳しいのでお読みいただければ幸いである

いずれにせよ、今夜のお話は著者冥利に尽きるものであった


また仕事の関係で、いろいろな方の人生の最後のステージにお付き合いすることが日常になっている方のお話で印象に残ることがあった

それは、過去における悔恨や現在の状態に対する不満が重くのしかかり、寝ることができずに夜を過ごしている方が少なくないとのお話があった

多くの方が自尊心を持ちながら生きてきたものの、最終段階を満たされない気持ちを抱えながら終えようとしているのを見ている気持ちはどんなものなのだろうか

古代ギリシア人であれば、心を苛む過去の激情や未来に対する不安から解放されるには、現在(いまここ)に集中するしかないというアドバイスを与えてくれることだろう

しかし、それを実践するのは意外に難しいということなのかもしれない


ものの見方次第で、これからの人生は益々豊かさを増してくるものと考えている

それは、いわゆる仕事をしているときには感じることができなかったようなレベルの豊穣をもたらしてくれるという意味である

その際に参考になる見方や考え方を教えてくれるヒントは、人類の遺産の中に眠っている

お話を伺いながら、その入り口として『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』は一読に値するのではないか

そんな我田引水の感想が浮かんでいた

そして、このような思索が巡る交歓も人生に豊かさを加えるものであることを再確認した一夜でもあった

またの仙台訪問が遠からぬことを願っている



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上の記事を書き終わった後、自己との対話に関連することを以前に書いていたことを思い出した

以下に貼り付けておきたい

 静寂と沈黙の時間、あるいは自己を自己たらしめるもの.医学のあゆみ 266: 184-187, 2018

ここには当日話題になったもう一つの問題に関連することも取り上げられていた

人生の最終盤に襲ってくる悔恨の念についてである

これほど今回の会食の話題に相応しいエセーもないだろう

是非一度お読みいただければ幸いである










2025年11月29日土曜日

再び広漠たる世界が現れる

























今日は完璧な快晴

それを見ているうちに紫煙の色を味わいたくなり、久しぶりにシガーに手が伸びた

暫くすると、このところ、このように晴れ上がった内的世界が広がっていないのではないかという疑問が湧いてきた

2007年に全的観想生活に入ったわたしの第4期前半(近著『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』 p. 112-117、参照)には、頭の中を整理したいという渇望があった

そのために必要となると考えていたものが目の前に広がっていた

それは、その性質上、茫洋とした捉えどころのない宏大さを湛えてそこにあった

その姿を見ようとして長い間耐えていたようなところがある


さて、ここ数日のこと

当時と同質の霞がかかったような何かが目の前に広がり始めているのではないか

その感覚は漠然としてはいるが、確かな存在感をもってわたしの中に生まれつつある

いつの日かその霞が晴れて、新たな視界が広がることを願いながらこれからを歩むことになるのか

そんな気分の仙台の週末である









2025年11月25日火曜日

恒例の学友との会食
















今日は恒例になっている学友との会食がいつもの場所であった

昼間から日本酒を飲むことなどないので特別な時間となった

お酒が体の底をふんわり浮かせるような仄かな感覚の中、越し方に思いを馳せながらの味わい深い会話が進んだ

わたしの近著『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』にも目を通していただいたようだが、難しいという評価であった

科学の領域に長い間身を置いていた場合には、そう感じるのかもしれない

もう一つは、ベルクソンカフェで読んだ本の内容をそのまま紹介するようなところがあるので、わたしの言葉というよりは原著者の言葉が出てくるためではないかと想像した

それから、最後に出てくる時間の感じ方のところで、点としての現在ではなく、「過去がそのあたり一面に散らばっているような」複雑な現在という捉え方には納得するところがあるという感想も聞かれた

いずれにせよ、自分が感じ取った経験がない場合には、言葉を読んでもピンと来ないところがあるのではないかとのことであった

その意味では、自分の知っていることしか理解できないという矛盾の中に入ることになる

プラトンの時代からのジレンマと言えるかもしれない

来年も味わい深いお話をしたいものである













2025年11月20日木曜日

シオラン届く
































シオランのコピーが届いた

昔買ったものと表紙が違っている

丁度前の記事が昔のものなので、よく分るだろう

今回手に入れたのは、どこにいても読めるようにするためである

どうも真剣になりつつあるようには見えるのだが、いつもの三日坊主に終わるかどうか、様子を見ることになる

フランスからの買い物は、以前は Amazon.fr を使っていたのだが、なぜかうまくいかなくなり、フランスとの距離が遠のいていた

今回、このコピーをどうしても欲しいと思ったのだろう

探して辿り着いたのが、灯台下暗しで FNAC だった

利用するのは初めてだったが、注文から4日で届くという国内の注文と変わらない速さで、驚くと同時に気に入ってしまった

フランスとの距離が再び近くなったように感じている

さらに数冊注文した










2025年11月17日月曜日

エミール・シオランが15年振りに蘇る




















先週のカフェフィロPAWLで話題になったエミール・シオラン(1911-1995)

その時、これからのカフェで話題にしても面白いのではないかというアイディアが浮かんだ

今朝、シオランと自分との関係を調べる意味で、ブログ記事に当たってみた

始める前は、2つ前くらいのブログにあるのではないかと思い探したが、予想は外れた

何と最初のブログに最初の記事(2006年8月4日)があったのである

よくよく思い返してみれば、そしてPAWLで紹介したエピソードを考えれば、それは当然のことなのかもしれない

フランスに渡る前にフランス人からこの哲学者の名前を聞き、興奮したと思われるからだ

その興奮がフランスでも残っていたのだろう

2010年秋までは折に触れて何かを書いている

しかし、それ以降記事は見られない

と思ったのだが、今年の6月に蘇っており、「シオランをパスカルのように読んでみたい」などとこのブログに書いている

いずれにせよ、今年15年振りに蘇ったことになる

この機会にお付き合いを再開してもよいのではないか

そんな気分になっている週の始めである

これなどもバディウの言う「出来事」に当たるのだろう

それは真理への扉であったが、この出来事はどんな真理に導いてくれるのだろうか


ところで、今日の写真は2008年10月26日の記事で使ったもので、懐かしい








2025年11月15日土曜日

イーロン・マスクが語る古代ギリシア哲学



秋のカフェ/フォーラムがひと段落して、少しのんびりできるようになった

Youtubeに行くと、わたしの辞書にはなかったイーロン・マスクが並んでいる

マスクに触れるのは初めてではないだろうか

そして、その話を聞いて驚いたのである

それが、わたしの考え、そしてわたしが体得したことと完全に重なっていたからである

それは新しいことではなく、古代ギリシアの哲学が教えていること、そのものなのである

それを実践することにより、時間はかかるが、確かにマスクが言っている境地に入ることができる

と、わたしは保証できる

それにしても、こんなところでつながってくるとは思わなかった

驚きの週末である







2025年11月14日金曜日

第22回サイファイカフェSHEで免疫を統合的に議論する






















本日は第22回サイファイカフェSHEを開催し、拙著『免疫から哲学としての科学へ』を読みながら免疫を広い視野から検討した

免疫の本質に至る方法として、解析の対象になるものをできるだけ多く集め、そこに共通して見られる最少要素を探し出すというやり方を採用した

これはソクラテスがやった方法と同じで、アリストテレスはそれを本質を抽出する方法と見なした

その結果、本質的な機能要素として、認識、情報統合、反応、記憶の4つを抽出し、この過程を「認知」と仮に規定した

これは神経系と同じ機能要素で、最近の免疫と神経の直接の結びつきを示す結果はその前提を補強するものである

つまり、免疫は全身が一体となって機能する生存に不可欠の要素であることが示唆される

そこから、スピノザの「コナトゥス」とカンギレムの「規範性」を参照して、免疫を見直す作業を行った

これは著者が言う「科学の形而上学化」の過程であるが、その意義についても議論された

詳細は近いうちに専用サイトに掲載する予定である

訪問していただければ幸いである


























今回で『免疫から哲学としての科学へ』の読書会を完了したことになる

懇親会では、これからも免疫をテーマにした会を継続してほしいとの声が聞こえた

例えば、クリルスキー著『免疫の科学論』やコサール著『これからの微生物学』などの書評会あるいは読書会など

その他、今回の免疫論に続く「免疫論2.0」とでも呼ぶべきものが生まれるようであれば、それについての話があっても面白いのではないか

非常に積極的かつ具体的な提案があったので、来年に向けて考えておくことにしたい

決まり次第、お知らせする予定である

参加された皆様に改めて感謝したい




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jeudi 20 novembre 2025

本日までに以下のコメントが届いております。


◉ CRSPR/Cas9を免疫に含めるかどうかについてやや議論が混乱した印象がありますが、結局、免疫の定義が不明確であったため起こったものと考えます。獲得免疫を念頭に置くのか、それとも自然免疫を含めた広い概念を指すのかによって、かなり議論が変わってきます。先生が免疫の本質的要素として抽出した、認識、情報統合、反応、記憶という4つの要素は獲得免疫系が持つ特徴で、教科書的には自然免疫では認識、即反応と考えられており、情報統合、記憶は無いというのが一般的な捉え方だと思います。もっとも最近、Neteaらは自然免疫にも記憶がある、と言っていますが、確かに一部では正しいのだと思いますが、必ずしも全ての自然免疫に記憶があるとは言えないと思います。従って、CRSPR/Cas9を含めた免疫系にこのような4要素がある、というのは言い過ぎでは無いでしょうか。また、このような要素が神経系と共通するから精神活動が神経系の独占物では無い、というのも説得力に欠けると思います。むしろ、IL-1, IL-6, IL-17, TNFなど多くのサイトカインが免疫系と神経系で共通に機能しており、精神活動に影響を及ぼすことが両者の近縁性を示しているのでは無いでしょうか。


◉ 免疫を起点とした科学の形而上学化に対する矢倉先生の思索の道程を、4回の議論で理解、咀嚼して、科学の形而上学化に対する適切なコメントを述べるだけの学識経験が私にはありませんので、感想という形でコメントさせていただきます。 

 本書では、矢倉先生が免疫の研究者としてそして哲学者として、膨大な免疫研究の情報を時系列に集積しそこに横たわる様々な課題を免疫のみならず哲学的な視点からそれらを見直し全体として繋ぎ合わせ、免疫の本質とは一体どにようなものであるかを考察されています。この方法はプラトンの本質主義に近いものであると述べておられます。そして、免疫はすべての生物に偏在し生命の維持に不可欠である。免疫はオーガニズム全体で担われていて、神経系や内分泌系などのシステムとも連動し生体を制御している。さらには免疫の本質には生物学的極性を制御する規範性(倫理性)を伴う心的性質をも包摂するものではないかと思考の輪を広げています。 この免疫という複雑科学を形而上学化するという試みは、その先にある「心」とは「生物・生命」とはそして「自然」とはなにかという問いへと繋ながる一里塚のように感じました。科学と社会の発展を漸進的に実践している矢倉先生の姿がそこには見られます。これからの科学者が持つべき姿勢、あるいは指標が表出しているように思われました。 

 本書で取り上げられた免疫とはなにかという問いは、本書が刊行される以前の12-SHEミニマルコグニション(2017.10.24)に遡ります。ここでは認識(認知、心性)を構成する最小要素(ミニマルコグニション)は何か、そして最初の認識能が進化のどのレベルで出現したかという問題がとりあげられています。私は免疫の知識もなくそして心的な活動とその進化をどのように考えるのかという意識もないままにこの議論に参加しました。内容をよく理解できなかったのですが直感的にミニマルコグニションは定義の問題ではないだろうかという意見を述べた記憶があります。 その後、本書が刊行され(2023.3.16)その合評会(17-SHE, 2023.11.17)が開かれてそこへも参加いたしました。免疫の専門家の方が半数参加されていたため、免疫研究そのものに対する議論は少なく主に科学の形而上学化の意義に議論が集中しました。私には免疫についても科学の形而上学化に対しても消化不良の感が残りましたので、他のカフェの懇親会の折に、矢倉先生に本書を題材にしたシリーズでの議論の場の設定を提案したところ矢倉先生はそれを実現してくださいました。 

 4回のシリーズを終えて、結局、免疫を理解する鍵であるミニマルコグニションをどう定義するかについては、私自身は免疫における4つの機能的要素(抗原刺激の需要、情報の統合、適切な反応、経験の記憶)を心的要素を含んだミニマルコグニションと定義していいのではないかと考えました。しかし、免疫の専門家の方からはその機能は生体防御であり、そこを科学的に明確な根拠なく心的要素を導入し踏み超えるべきではないという意見がありました。議論が偏ることなく展開されています。現時点では大多数の専門家が合意する定義は存在しないように見えます。これは、早急に結論を求めるべきでない、あるいは求められない問題だと思います。形而上学的な視点を持ち循環論に陥らずオープンエンドで科学の進展を待ちつつ定義すべき課題と思います。 

矢倉先生は、なぜこのような科学の形而上学化を行う必要があるかという問いに対しては、科学は局所を機能的に解析する方法であり全体的な意味を問わない、問うことができない。そして形而上学からは科学で得られない意味に関する視座を得ることができる。結局、我々の認識を豊かにする科学と文化の架橋(形而上学による知の再統合)に「意義」を見出せるかがカギであると述べておられます。 科学の形而上学化の必要性とその意義については、参加者全員が賛意を示されたと理解しています。 貴重な議論に参加させていただきありがとうございました。 












2025年11月12日水曜日

第13回カフェフィロPAWLで『免疫学者のパリ心景』を読み、古代に思いを馳せる
























今日は、第13回になるカフェフィロPAWLが開かれた

初めてではないかと思うが、参加申し込みされた5名のうち4名が欠席されるという事態になった

そのせいか、プログラムも話の内容も自由度の高いものになったようである

テーマは、拙著『免疫学者のパリ心景』の第2章「この旅で出会った哲学者とその哲学」からいくつかの節を読もうということであった

当初の予定では、ハイデガー、ディオゲネス、エピクテトス、マルクス・アウレリウスを読むことになっていた

しかし流れで、ハデガーではなく、エピクロスを読むことになった


本書が出たのはもう3年前になる

そのため、当時感じていた気持ちを再現するのに努めなければならないところもあった

印象の鮮明さが薄れてきているからだろう

例えば、この章のエピグラフはデカルトの『方法序説』から次の言葉を選んだ

当時の気持ちをこの一字一句が写し取っていると感じたからである
そしてちょうど八年前、こうした願望から、知人のいそうな場所からはいっさい遠ざかり、この地に隠れ住む決心をした。・・・ わたしはその群衆のなかで、きわめて繁華な都会にある便利さを何ひとつ欠くことなく、しかもできるかぎり人里離れた荒野にいるのと同じくらい、孤独で隠れた生活を送ることができたのだった。(谷川多佳子訳)
しかし、今では当時の感動は蘇ってこない

これは致し方ないのかもしれない

今その状態にはいないからである


ところで、今日読んだのはいずれも古代ギリシア・ローマの哲学者であった

当時の自由な空気が伝わってくるように、実に多様な哲学が展開されていた

大きな理由はキリスト教以前であったため、精神への拘束が少なかったためではないかという見方がある

マルセル・コンシュなどはそう考え、哲学者になるとはギリシア人になることである、といフォルミュールまで作っている

立ち居振る舞いが異常に見えることがあったとしても、そこには「精神の高貴さ」が認められるという発言もあった

現代社会ではなかなか聞くことがない言葉である

そういう精神の状態が希求されていないので致し方ないだろう

個人的には、そういう状態を求めたいところである

プラトンによれば、あるものの本質はその始祖に表れているという

そうだとすれば、哲学の本質的なものは古代ギリシアの哲学の中にあると言えるのではないだろうか

汲めども尽きぬ泉がそこにあることになる


詳細な内容は近いうちに専用サイトにまとめることにしている

訪問していただければ幸いである




























lundi 17 novembre 2025

本日までに以下のコメントが届いておりました。


◉ 挫折やコンプレックス、人間関係の悩みに苛まれ生きづらさを感じていた思春期、心の奥底に「コポコポと小さく湧くきれいな泉」があることに気付いた。以来、「これが枯れるまでは自分は大丈夫」と自己肯定の象徴として今日まで湧き続けているこの泉は、先生がいうところの私の「内なるモーター」ではないかと腑に落ちた。このように、先生の本を読むことやカフェでの語らいは、日常で感じる違和感や希望のような抽象的なものが言語化され顕在化していく悦びを堪能できる至上のひとときとなっている。

今回の中では他に、エピクテトスの解釈からの「ガイア理論」・「内なる自然」・「すなお」(天草地方の方言である「のさる」=いいことも悪いことも、自分の今あるすべての境遇は、天からの授かりものとして受け入れる、という言葉が思い浮かんだ)が自分の中にあるものの発見につながった。また、エピクロスの「幸せに至る四つの処方箋」は私の「内なるモーター」にさらなる推進力を与えてくれるもののように感じた。このモーターに導かれ「エピキュリアン」そして「魂の医者」を目指し研鑽していきたい。

エピクロスの節のエピソードにある「Carpe diem」について、私は「今を生きろ」と意訳し座右の銘の一つとしている。この言葉をフランスに向けて旅立つ先生に贈った方がシオランの研究者だったとうかがい、シオランのニヒリズムとこの言葉が対極にあるようで一瞬不思議に感じた。が、すぐにとても納得するような感覚となった。納得する理由をうまく言葉にできない自分がもどかしい。

今後の先生のシオラン解釈の会を楽しみにしています。その際に、今回残念ながら時間がとれなかったハイデッガーを併せてもおもしろいかもと感じました。









2025年11月9日日曜日

新著『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』が刊行される
































先週の金曜にアップロードした新著『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』が本日発売になった


これは、フランス語を読み哲学する「ベルクソンカフェ」でこれまで取り上げた3人の哲学者の思想を「生き方としての哲学」という視点から読み直したものである

そこに、いずれの哲学者からも問題にされる幸福の問題が現れる

この問題にわたし自身も参加してみた

哲学が困難になっている現代社会において、哲学をより深く、しかしわれわれの日常との関係を考慮に入れながら捉え直そうとしている

進歩がないとされる哲学だが、ひとところに留まるということもまたありえないのだ

そのほかにも多くの思索を誘発する種子がいろいろな形で埋め込まれている

本書は今年設立したISHE(アイシー)出版が世に問う最初の作品となる

どうか手に取ってお読みいただき、コメントをお寄せいただければ幸いである


















2025年11月8日土曜日

第15回サイファイフォーラムFPSS、盛会のうちに終わる























今日は午後から日仏会館で第15回サイファイフォーラムFPSSが開催された

個人的には、いつものように直前まで準備に追われていた

最後のところでやっと着地点が見えてくるという幸いに恵まれ、比較的気持ちよく会に臨むことができた

プログラムは以下のようになっていた

最初に、わたしのシリーズ「科学と哲学」第9回として、カール・ポパー(1902-1994)によるプラトン批判を取り上げた

前回、プラトン哲学に対して批判的な目を向けている人物がいることに気づき、その視点を調べておく必要があると思ったのが切っ掛けである

具体的には、彼の論考『開かれた社会とその敵』の冒頭を読んで、プラトン哲学のどこがどのように問題なのかについて考えることにした

テーマが政治的な問題であり、生きるということと密接に関連しているためか、自分の中ではこれまでにないほど力が入っていたように感じた

それが外に現れていたのかどうかは分からないのだが、、



























それから、尾内達也氏による「時空間についてのTNS理論」と久永眞一氏の「妄想と幻覚の正体?」の発表があった

こちらの発表は内容が濃いだけでなく、スコープが広いため、時間内にその全貌を理解するところまではいかなかった

これから時間をかけてその姿が見えるところまで持っていく必要がありそうだ

まとめは専用サイトに掲載する予定なので、訪問していただければ幸いである









































2025年11月5日水曜日

第12回ベルクソンカフェでコンシュの『形而上学』を読む














秋のカフェ/フォーラム東京シリーズが始まった

今日は午前中から先日訪問した公園のカフェで準備したが、オープンスペースで考える喜びを味わいながらの作業となった

完全に時間が消える甘美な滞在ともなった

夜は、第12回ベルクソンカフェマルセル・コンシュの『形而上学』の「まえがき」と「プロローグ」を読んだ

「まえがき」では、コンシュが考える自らの哲学を35の項目に要約したものが提示されている

彼が考える哲学は、現実の全体とその中にいる人間に位置についての「自然の光」(デカルトが言うところの)による真理の探究である

ここに出てくる「現実の全体」とは何をいうのか問われなければならないだろう

彼は道徳と倫理を分けて考えている

道徳とは人間が遂行しなければならない無条件の義務であり、倫理とはその上で個人の選択に任されているもの、生き方の選択である

そして、彼の倫理は幸福の探求でも知恵の探究でもなく、真理の探究だという

さらに、形而上学としての哲学は科学ではないし、そう主張する必要もない

科学は範囲を狭め、証拠をもとに論証を通して、コンセンサスの得られる仮ではあるが真理を獲得する

それに対して、形而上学としての哲学には証拠はなく、その方法論は瞑想だという

したがって、形而上学はそこに整合性があれば成立可能で、いくつもの可能性がある

一つの哲学は理性だけではなく、その人間のすべての能力、その人間の持てる資源を駆使して試みるものだという

それゆえ、哲学には一つの個性を刻印しているし、していなければ本物の哲学ではないと言いたいようである

というような調子で議論が展開していく

コンシュの議論は細かく厳密で、言葉の使い方にも細心の注意が払われているように感じるという感想もあった

詳細は近いうちに専用サイトにまとめる予定である

訪問していただければ幸いである

















vendredi 7 novembre 2025

これまでに、参加者から以下のようなコメントが届いております。


◉ 本日の原文テキストは、これまでで最もスッと読める文章だった。講師も含め出席者の皆さんもそう感じていたためか、読後の質疑応答・議論の時間が長めに取れたのが良かった。今後の会も楽しみになるテンポであった、というのが今回の会の感想である。それでは、内容について、興味をもった点をここに記しておきたい。今回の読書会で取り上げられたテキストは、コンシュがフランス語で著した著作のprologueの文章である。講師が和訳されているテキストも配られて、仏語でまず読み、和訳の助けを得ながらコンシュの考えを理解する試みを行った。

講師の和訳が一冊の本になるときが楽しみである。そう感じさせる名訳を今回のテキストの中からひとつ挙げてみたい。仏語原文のテキストの Page5 の 28) La sagesse est une éthique cohérente avec une métaphysique. のcohérenteの和訳である。講師は、「矛盾しない」と講師の和訳テキストでは訳して下さっている。読者への「優しい配慮」だろう、と会の中で感じた。日常フランス語の和訳ならば、「首尾一貫した」とでも訳すのであろうが、敢えて「矛盾しない」と訳してくださっている。このような配慮に、講師の「コンシュ」という哲学者をに興味を抱いてくれる人が増えてくれたらな、という想いが伝わってくる。このcohérenteという言葉。「コヒーレント」といえば、理工系には、単なる日常語の「一貫性」なだけではなく、専門用語でもある。レーザー等の専門分野では、その分野の定義で使われている。であるから、哲学者が哲学の著作のなかで、cohérenteと使っているからには、哲学的な定義とその定義についての様々な議論もわかっていなくてはならないのだろう、と読者は想う。会の後で調べてみたらやはりそのようであった。

といった感じで、ひとつひとつこれは「哲学用語」であろうと、一語一語調べながらコンシュの原文を熟読するのも一つの読み方であろうが、哲学科の大学生ならばその余裕もあるかもしれない。そうした余裕がない者でも、コンシュの思想をまず垣間見てみようとするならば、ともかくも、まず、ひととおり通しで読んでコンシュの哲学の概観をつかんでみることである。そうした観点から講師の和訳を眺めるならば、読者に対する講師の思いやりと気遣いが感じられる名訳なのである。「矛盾しない」という訳は、「まあ、ともかく、ひととおりリズミカルにコンシュの考えを読んで把握して概観できるようになってから、細かい、哲学的言葉遣いを覚えて行けばいいさね。」という眼差しが読者を見守っているように感じられる。この著作の和訳本が上市されるときが楽しみである。


◉ 昨日はありがとうございました。マルセル・コンシュは自然を無限そのものとして捉え、古典期のパスカル、カント、ヘーゲルらの人格化された神に基づく哲学を批判し、無限を制限するその構造に異論を唱えています。それは、神が意思や目的を持つ存在として想定されると無限がそれによって制限されるということだと思います。ただ、コンシュのいう無限は私の頭には明確なイメージとして形成されていません。到達し得ない無限、無限の外側にも何かが想定されるニュアンスのような、明確にイメージできるものではないのかもしれませんが・・・。

コンシュは自然を神格化せずに、無限の自然こそが哲学の基底であると主張しています。この自由な思考の拡がりに私は共感を覚えます。コンシュは、すべての物事の場、あるいは普遍的な包摂体としての自然の哲学は、精神の合意を実現できなければならず、グーロバル化の時代においては、哲学的エキュリズム(統合主義)を可能にするものでなければならない。それは、自然主義的な知恵なしには進まないとしています。これは宗教や文化を越えて自然という共通の現実に基づいて人々が理解し合える可能性があることを示しているのではないかと思いました。

そして、形而上学としての哲学は科学ではない。一つの哲学は理性だけでなく、人間のすべての能力を駆使して試みるものなのである。哲学は人生と作品に最大限の価値を与えることを目指すもので、それはわれわれの後に続く者たちへの愛の中にあり、作品もまた愛の中にあると述べています。このコンシュの「形而上学」のまえがきとプロローグには、自然から多くのものことを感受しそして瞑想を重ねた結果である、彼の哲学の集体成が示されていると思いました。彼の哲学への姿勢と彼の人格もここには滲み出てきているように私には感じられました。理解不十分なことも多く、コンシュの自然哲学をもうすこし掘り下げていければと楽しみにしています。有難うございました。







2025年11月1日土曜日

今日から11月




















今日から11月

気がついたら今年もここまで来たかという感じである

1日は長く、ドラマがあり、1年の中には計り知れないものが詰まっている

年の初めにはこのようになっていると想像もできなかったことがいくつもある

かなり前からそう感じるようになってきた

プロジェを決めなくなったため、自分を拘束するものがなくなった

それが非常に良い効果を及ぼしているようだ

プロジェとは、年の終わりに見えてくるものになったのである


今年もまだ2か月残っている

どんなことが詰まっているのか

静かに見守りながら歩むことにしたい