今日は、第13回になるカフェフィロPAWLが開かれた
初めてではないかと思うが、参加申し込みされた5名のうち4名が欠席されるという事態になった
そのせいか、プログラムも話の内容も自由度の高いものになったようである
テーマは、拙著『免疫学者のパリ心景』の第2章「この旅で出会った哲学者とその哲学」からいくつかの節を読もうということであった
当初の予定では、ハイデガー、ディオゲネス、エピクテトス、マルクス・アウレリウスを読むことになっていた
しかし流れで、ハデガーではなく、エピクロスを読むことになった
本書が出たのはもう3年前になる
そのため、当時感じていた気持ちを再現するのに努めなければならないところもあった
印象の鮮明さが薄れてきているからだろう
例えば、この章のエピグラフはデカルトの『方法序説』から次の言葉を選んだ
当時の気持ちをこの一字一句が写し取っていると感じたからである
そしてちょうど八年前、こうした願望から、知人のいそうな場所からはいっさい遠ざかり、この地に隠れ住む決心をした。・・・ わたしはその群衆のなかで、きわめて繁華な都会にある便利さを何ひとつ欠くことなく、しかもできるかぎり人里離れた荒野にいるのと同じくらい、孤独で隠れた生活を送ることができたのだった。(谷川多佳子訳)
しかし、今では当時の感動は蘇ってこない
これは致し方ないのかもしれない
今その状態にはいないからである
ところで、今日読んだのはいずれも古代ギリシアの哲学者であった
当時の自由な空気が伝わってくるように、実に多様な哲学が展開されていた
大きな理由はキリスト教以前であったため、精神への拘束が少なかったためではないかという見方がある
マルセル・コンシュなどはそう考え、哲学者になるとはギリシア人になることである、といフォルミュールまで作っている
立ち居振る舞いが異常に見えることがあったとしても、そこには「精神の高貴さ」が認められるという発言もあった
現代社会ではなかなか聞くことがない言葉である
そういう精神の状態が希求されていないので致し方ないだろう
個人的には、そういう状態を求めたいところである
プラトンによれば、あるものの本質はその始祖に表れているという
そうだとすれば、哲学の本質的なものは古代ギリシアの哲学の中にあると言えるのではないだろうか
汲めども尽きぬ泉がそこにあることになる
詳細な内容は近いうちに専用サイトにまとめることにしている
訪問していただければ幸いである


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