今日は、アリストテレス(384-322 BC)の自然学と敵対する体系としての原子論と新プラトン主義がテーマのようだ
なぜ原子論と新プラトン主義が敵対するのか
それは、アリストテレスの中では結びついていた「自然哲学」と「自然の哲学」の絆を緩めているからである
すなわち、原子論の自然哲学は客観的明証性の上に立っているし、新プラトン主義の自然の哲学は観念論的・内省的明証性から生まれているのである
この点について、前者についてはルクレティウス(c. 99-55 BC)の『物の本質について』、後者についてはプロティノス(c. 205-270)の『エンネアデス』にある「自然、観照、一者について」を例に検討してみたい
自然哲学は、原理的に自己の理性の分析と自然の働きとの間に平衡を打ち立てようとする
例えば、アリストテレスは自然の働きを職人の活動に透写して説明する
擬人論的な側面である
これに対して自然の哲学は、擬人論的思考を遠ざけ、自然についての経験と一致させて(自然からの与件に合わせて)説明しようとする
『物の本質について』には、自然と理性の擬人論的同化が最初から見られる
しかしアリストテレスとは異なり、そこから超越的で至上の自然についての経験への超出が見られない
自然は本質的に物体と物体が運動する空虚から成り立っていると考える
アリストテレスの有限で円環的なコスモスに対して、あらゆる方向で衝突し合う混乱した無限の宇宙像を描くのである
すべては盲目的進化の結果であり、そこでは偶然と必然が主役で、神を見ることはない
プロティノスと新プラトン主義の思想は、遥かに高く、遥かに遠いところから見る自然の哲学を現している
『エンネアデス』では、自然の機械論的解釈をアリストテレスの技術主義として隔てている
自然は形相であって、形相と質料の合成物ではないとする
自然は手仕事によるのではなく、霊魂であるという唯心論的自然学に向かう
事物が存在するのではなく、精神的生の運動が存在する
観照する主観しか存在しないのである
プロティノスにおいて、自然はどう解釈されるのだろうか
彼は答える
自然とは、沈黙の、だがいくらか曖昧な観照である。なぜなら、自然についての観照とは別の、またそれよりもっと明確な観照があるからである。
より明確な観照とは、霊魂が知性的秩序を観照することによって成し遂げる観照だという
自然が質料の中に映る夢のように見えるのは、この観照の下層においてである
そして、この層の反映を抽象すれば、あらゆる実在を欠いた場所しか残らないという
プロティノスによれば、行動は決して観照の延長や補足物ではなく、それはむしろ観照の「衰弱」を意味している
彼は言う
「観照が人間のうちで衰弱する時こそ、人間は行動に移る」
わたしはいかなる図形も引かないが、「わたしが観照すると、物体の線はあたかもわたしから落ちるかのように現実化する」
観照こそ、人間の最高の営みであり、それは生成的な力を持つと言いたいようである
これで第1章が終わったことになる
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