2025年4月29日火曜日

帰国して5年、ギアチェンジを求めているのか?

































春のカフェ/フォーラムに対するコメントを読んで驚いたのは、このブログに移して見えてきた分量の多さであった

それぞれのサイトで読んでいる時には何も感じなかったのだが、自分が普段書いているものに比べるとかなり多い

今回は特にSHE札幌でのコメントが群を抜いていた

珍しいことである

いずれにせよ、これからも活発なコメントが飛び交うような会にしていかなければならないという思いを強くした



さて、このところ現世のいろいろなことに当たっていた

とにかく想像もしなかったようなことが起こるので、困ったものというか面白いというか

日常生活というのはこういうものなのだろう

そこで有効になるのが、先日触れたプレメディタチオである

心の動きの幅がほとんどなくなる

まだいくつか現世的なものは残ってはいるが、それは流れの中でこなせそうである

暫く中断を余儀なくされていた日課に戻ることができそうだ



振り返ってみれば、フランスから日本の戻ってきたのが2020年春なので、丁度5年が経過したことになる

気分を変えるには丁度良い切っ掛けになりそうである

今日の夕方、空を眺めているとそこに居座ったまま全く動かない雲を見た

その雲と付き合っているうちに、パリの夕暮れ時に眺めていた空のことが思い出された

気分がパリ時代と重なってきたのだろうか

新しい精神状態に入りつつあるとすれば幸いなことである












2025年4月28日月曜日

春のカフェ/フォーラムシリーズに寄せられたコメント(4)






3月14日には第20回サイファイカフェSHEが開催されたが、コメントが届かなかったので省略した

ということで、今日は4月12日に開催された第13回サイファイカフェSHE札幌について紹介して、この小シリーズを終えることとしたい


テーマ:免疫から哲学としての科学へ』を読む(1)免疫の理論史


会の要旨:

今回から、参加者からの提案を受け、拙著『免疫から哲学としての科学へ』を読み解くことにいたしました。第1回目は、その第1章「免疫学は何を説明しようとしてきたのか」を取り上げます。免疫学の理論史、思想史のような内容ですが、そこに科学という営みの特徴や哲学との関連が垣間見えることと思います。参加予定者は前もってこの章をお読みいただいた上で参加されると、免疫に関する理解が深まると思います。


寄せられたコメント:


◉ 昨日は力のこもったゼミ、どうも有り難うございました。次回をまた楽しみにしています。


◉ 全体(哲学)と部分(科学)の2つの解析の織り成す循環が免疫学の歴史でもあると感じ、人類のあくなき探求を垣間見た気がしてとても興奮しました。仮説が条件によって破壊され、新しい仮説にとってかわる。それが、より客観的、俯瞰的になることで新しい発見が起き、それが最終的には、統一理論にまで繋がるイメージができました。

目に見える状態で観測しなければ、科学じゃないとノーベル賞を取得したシェルドン・グラショーも言ってましたが、例えば、虚数という数字は人間には観測できない数値であるにも関わらずに、その概念を数学方程式に入れることにより飛行機が飛ぶ、という現実的な実用まで至っている。このことから、科学という人間の観測領域だけでは理解できない世界が、哲学という全体を捉えた学問によって、解明されていくイメージが沸き、次回の参加もとても楽しみになりました。

ありがとうございました!


◉ 昨日はいろいろと教えていただき、誠にありがとうございました。非常に楽しい時間でした。外界の刺激の前から存在する細胞に関して外界からの刺激でその後の運命が決まるという点では、免疫細胞のクローン増殖は不均一であるがん細胞のクローン増殖(進化)と類似しているなと改めて感じました。

昨日問題になったCDR1とCDR2の遺伝子配列の多様性獲得のメカニズムというのは、抗原認識後の体細胞超変異の段階でCDR1とCDR2に変異が入ったクローンが有利で選択されるというメカニズムではなく、抗原認識前にV遺伝子のCDR1とCDR2だけに多様性があることのメカニズムということでしょうか?その場合だと、V遺伝子のCDR1とCDR2に変異が入り多様性が生まれるとそのような個体が免疫的に進化的に有利だったからでしょうか。

8月の会も参加できれば参加させていただきます。
今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。


◉ サイファイカフェSHE札幌 第13回の免疫論を読む(1)に参加させて頂きました。『免疫から哲学としての科学へ』を読むをテーマに、これまでにない参加人数(9名)で開催。免疫学という、微生物・外来異物への反応現象、生体の外との関連の中で個体の恒常性を保つ仕組み、そしてメタファーとしての免疫という用語の成り立ちからまずはスタート。外的要素との関連性から、生体反応の的確な観察、例えば免疫反応の強力化や免疫記憶など、生物としての人間集団の生体反応の的確な観察と正確な記述を基盤として、歴史的時間軸の中で熟考を重ね、仮説を提示するその熱量にまずは感嘆した。遺伝子はおろか、その現象の主役となる細胞の本態すら明瞭化していない時代に、そこまでの仮説を組み立てる思考能力に畏敬の念すら覚えざるを得ない。分子生物学、そして遺伝子組み換えといった人為的技術が高度に発展した現在を座標軸として、当時の思索、仮説を眺めてもその正確さに驚くこと頻りである。これぞ、免疫を軸とした科学者の哲学的思考の足跡と感じたのは自分だけではないと思う。あっぱれ。


◉ 昨日は大変楽しい会に参加させていただきありがとうございました。先生のお話は、主に免疫学のこれまでの歴史についてでしたが、既に確立された免疫についての知識の表層の部分を少しだけ知っている程度の我が身にとって、その確立に至るために多くの天才的科学者たちが多大なエネルギーを注ぎ込んで行なった仕事の事を思うと、結果はどうであれ、本当に頭が下がります。懇親会では、先生はじめメンバーの方々から、免疫や科学一般や哲学のこと、また言語や生死のことなど、興味深い話をたくさんお聴きすることができました。話は尽きず、野菜の育て方も丁寧に教えていただきました。次回も楽しみにしております。

先生以外の方のお話もという件につきましては、外部からの講師にお願いするという事であればよいのですが、内部の方のお話となると、お話する方の負担が大きくなりますので、慎重に考える必要があると思います。いずれにしましても、敷居が低く、広く開かれた会であってほしいと思います。


◉ 先日は、貴重な会を開催して頂きありがとうございました。先生の「科学の形而上学化」が具体的に展開される著書の学習は、知的な興奮を呼ぶものでした。また、懇親会では、医師ではない私にとっては、普段聞けない医師の意見を聞け、非常にためになるものでした。札幌では、こういう会は非常に貴重であり、人数が増えていくのも肯けます。


◉ 今回は参加者9名と過去最大の参加人数(?)となっただけあり、本会~懇親会を含めてより活発で様々な質問、感想、意見が取り交わされた感がありました。免疫の現象は紀元前の古代ギリシア時代に既に当を得て直観されていました。免疫という言葉自体はその後の古代ローマ時代に生成、その始原的な語義としては義務や負担からの免除に由来するものだったとのことです。病気から逃れる何らかのメカニズム(免疫)があるとの直観から由来していたにも関わらずそれに該当する医学的な用語が当時見当たらなかったせいか、法・倫理系の用語からヒントを得て作られたというのは、今考えると非常に示唆的です。”示唆的”というのは、免疫学という分野が追究されていく中で人間・生き物、自然の本質、さらに社会・倫理・法(人文系への敷衍には賛否両論はありますが)への思考を類推・誘発されやすく、従って”哲学的”思考にも馴染じみやすい主要な科学的分野の一つではないかという意味合いにおいてです。

実験生物学の黎明期である18世紀から免疫学の知見が積み重ねられていく中で、現代に至っては免疫を担う分子の同定が飛躍的に増加、それとともにメカニズムも複雑化しながら、アウトサイダー・マッツィンガーによる危険理論の提示等免疫という概念自体が広がり、再考も求められているといったexcitingな流れで第1回目講演が終了しました。

ありがとうございました。次回はどういう展開になるか今から楽しみです。












2025年4月27日日曜日

春のカフェ/フォーラムシリーズに寄せられたコメント(3)



































今日は、3月8日に開催された第13回サイファイフォーラムFPSSについて紹介したい


プログラム:

1)矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑦ プラトンの宇宙観

2)細井宏一:人文科学と自然科学の間にあるサイエンス ~考えるということ~  ——啓示か、観察か、それとも・・・——

3)岩倉洋一郎:科学は自らの発展を制御できるのか?


寄せられたコメント:

◉ 昨日は私も改めて自分の人生(哲学研究)を振り返るよい機会となりました。ありがとうございました。拙い文ではありますが、昨日の感想を送らせていただきます。

● 矢倉先生のご発表については力が及びませんでした。目的論という観点で言えば、アリストテレスのそれとの対比の意味で、よい復習となりました。また、「あれ、そんなこと書いてありましたっけ?」という発見も結構ありました。自力で読むという頼りなく孤独な作業が、先生の丁寧な解説により、さらに豊かなものになりました。ありがとうございます。

●「人文科学と自然科学の間にあるサイエンス」について

「考える」ということがこれまでの会社員生活で欠落していたと気づかれる契機として、大阪大学の臨床哲学に触発された部分もあったのではないかと思いましたが、そうでもないということでした。発表のなかで触れられていた梶谷真司氏が推し進める哲学カフェでの「問う-考える」営みは、もとはと言えば、大阪大学の臨床哲学研究科がアカデミックな機関としては最初に日本に持ち込んだからです。

アヴェロエス、アクィナス、ボナヴェントゥラの3人の神学者の対比がわかりやすくまとめられ、より理解が進みました。「二重真理説」は、本来ならカントの理論理性と実践理性を分ける態度に通ずるものがあり、もっとシンパシーを感じてもよいはずですが、どこか「詭弁」めいたものと捉えていました。しかし今回の発表を拝聴し、むしろ二重真理説を好意的に受けとめるようになりました。

 ●「科学は自らの発展を制御できるのか?」について

前回のご発表と同様、科学者の側から危機感を発し、哲学(倫理学)が要請されているということに驚きを感じるとともに、社会にまた一つ希望を見出した気がしました。科研費研究においてもヒトの遺伝子操作に関する哲学研究が行われているにも関わらず、科学者に届いていないということは、もしかしたら声明や提言を出すまでに至っていないのかもしれないと、後から思いました(政治活動と一線を画しているつもりか?)。ですから今回出てきた「サイファイ研究所 ISHEとしての発信(?)」といった提案は非常に有意義な社会実践的な話であり、期待したいところです。

エンハンスメントを規制する説得力ある理由が見当たらないことについて。あらゆる危険や格差が克服された後にも最後まで残るであろう薄気味悪さや畏怖の念といった直観的な理由や生物学的多様性が損なわれるという理由以外に、その是非や自己決定権の割合はともかくドーピングや美容整形は少なくとも本人が自らの意志のもとで行なう行為であるが、エンハンスメントは本当に胎児が望んでいるかどうかわからないものを、所与のものとして施してよいのか、という問題に関わると、これも後からふと浮かびました。


◉ 3月は大変お世話になりありがとうございました。大変遅くなりましたが13-FPSSのコメントを送らせていただきます。よろしくお願いします。

● 矢倉先生の「哲学と科学シリーズ」⑦は、「プラトンの宇宙観」でした。プラトンはエンペドクレスの四元素とテアイテトスの幾何学の影響を受けその宇宙観を形成していったということでした。四元素を幾つかの正多面体との幾何学的な関係で示しています。その図を見せていただきましたが、私は全く理解できず、これはなにか比喩的なものであるのかという質問をしたところ、ハイゼンベルグもその図を見て全く不条理でその意味が何であるのかを理解できなかったという例を示していただきました。ハイゼンベルグのプラトンの本を読んだ最大の収穫は、結局、物質世界を理解しようとするならば、その一番小さな部分について数学的な形式を見つけるそれ以外にないのではないかという確信であったということでした。天才物理学者は同じ図を見ても到達点が違うと思いました。私が驚いたことは、プラトンにみられる「自然を超える存在」を認める宇宙観と「自然」が構築する宇宙観との対立が人類の歴史上このころに始まり、哲学史の底流を流れる大きな問題として、現在まで引き続き継がれているということでした。

● 細井先生の「人文科学と自然科学の間にあるサイエンス~考えることー啓示か、観察、それとも・・・」は、科学者であり宗教家である細井先生が、哲学、神学そして科学の歴史を遡りそれらの関連性を広範な資料で示してくださいました。浅学の私にはその内容に追従できない部分も多々あり、質問もプリミティブなことばかりでした。ギリシャ哲学と神学の関係、神学における科学への動機とその位置づけ、そして現代へと続く科学の形而上学化、やはり問いをたて「考える」ためには基底を学ばなければと改めて思いました。

● 岩倉先生は「科学は自らの発展を制御できるか」で、現在の人類が科学技術の進展により直面したAIと遺伝子改変の問題を採りあげてくださいました。どちらもこれまで科学技術がもたらした危険性とは全く異質なもので、取り扱い次第では人類が違う種へと移行してしまうかもしれないような問題なのかもしれません。国家、企業体そして個人は、倫理観も価値観もそして正義もそれぞれの立場により異なったものであります。さらに、そこには過当競争が存在します。これらの事柄からはいろいろなストーリーが生み出され、未来の予測は全く不能です。制御は極めて困難であろうことが予想されます。しかし、現実はこれまでどおり試行錯誤で進んでいくことになるのでしょうが、AIも遺伝子改変も進歩の速度がこれまでとは桁違いに早いです。矢倉先生の言われるように「宗教・哲学・精神的探究を重視する生き方の探究」を志向する人を増やしていくことが、科学の発展を自ら制御する唯一の道であるように思われました。












2025年4月26日土曜日

春のカフェ/フォーラムシリーズに寄せられたコメント(2)


























第2回は、3月6日に開催された第12回カフェフィロPAWLについて紹介したい

テーマ:免疫学者のパリ心景』を読む vol. 1――なぜフランスで哲学だったのか――

ファシリテーター: 岩永勇二(医歯薬出版)


会の要旨:

「偶然は存在しない。あるのは約束された出遭い (rendez-vous) だけだ」

――本書巻頭エピグラフより

科学と哲学、西洋と東洋、フランス語と日本語…。その両者を往還する明晰な思考から紡ぎだされる『免疫学者のパリ心景』を読んでいると、自分の頭のなかの澱がゆっくりとけて、とても静かで、みずみずしい世界へと誘われる心地よさを感じます。

このたび贅沢にも著者である矢倉先生に朗読をお願いし、内容の再確認だけにとどまらずに、著者の「声と身体」を通した生きた読書体験となることを期待して、この会を企画させていただきました。

初回は、留学の契機となったご経験と、出会った哲学者を述べた箇所の朗読を聴いた後、当日参加される方が感じたインスピレーションをもとに、全員で意見交換ができれば幸いです.

どのような会になるかは、もちろん始まってみないと誰にも分かりませんが、「オープン」で「インタラクティブ」なトークセッションとなることを期待します。

ところで書物を読むとは、印刷された活字を読み、著者の思考をなぞるばかりでなく、書物の魂とのその都度の出遭い、コミュニケーションの体験ともなりうるのではないでしょうか。

今宵のこの読み直し、語り直しの体験が本書との予想もしていなかったような、思いがけない “約束された出遭い” となることを願って――。


寄せられたコメント:

◉ 岩永氏にオーガナイズしていただいた『免疫学者のパリ心景』を読む読書会は、会議室の光を落として、参加者が矢倉先生の朗読の声を心静かに受けとめるという環境ですすめられました。もし会議室の外から部外者がその状況を眺めるとすれば、まるでオカルト集団が怪しげな集会を行っているかに見えたかもしれません。しかしそんなこととは根本的に違うのは、朗読のなかからそれぞれの心に浮かび上がってくる想いを互いに交錯させ、それを表現し合うことで自身のなかで考えを練り上げて、自分の考えを拡げていこうとすることです。

矢倉先生ご自身も、朗読をすすめるなかで、ご自身の著書であるのに、よくこんなに多彩な内容を筋道たてて書けたものだという感想を述べておられました。まさにそこに矢倉先生の「生き方としての哲学」が表出したのものであり、それこそが哲学の普遍性ではないのかと思った次第です。貴重な時間を持てたことを感謝いたします。











2025年4月25日金曜日

春のカフェ/フォーラムシリーズに寄せられたコメント(1)

































今日から何回かに分けて、春のカフェ/フォーラムシリーズの内容と寄せられたコメントを読み直し、その営みを改めて振り返ることにした

第1回は、3月4日に開かれた第11回ベルクソンカフェについて紹介したい

テーマ:マルセル・コンシュの哲学――2006年のインタビュー記事を読む――

会の要旨:

ベルクソンカフェでは、フランス語のテクストを読み、哲学することを目指しています。テクストは、わたしが関心を持っている現代フランスの哲学者マルセル・コンシュMarcel Conche, 1922-2022)の2006年のインタビュー記事(Philosophie Magazine)です。この中で、日本ではほとんど知られていないコンシュが「自然」「時間」「哲学と科学」「形而上学」などについてどのように考えていたのかが語られています。


寄せられたコメント:

◉ 昨日はベルグソンカフェにはじめて参加させていただきました。有り難うございました。マルセル・コンシュのPhilosohie Magazineのフランス語のインタビュー記事を読みながらコンシュの哲学に対する考え方を議論するという方式で、とても充実した内容で時間があっという間に過ぎていました。

コンシュの哲学と宗教に対する独自の見解、科学と哲学の違い、時間に対する考え方、行動と活動の意味、モラルとエティックスの違い、そして私の課題でもある真理としての自然とは何か、さらに真理と幸福について、死に対する観かたと話題は多岐に亘りました。テキストの中で私の印象に残ったコンシュの言葉は「自然の存在は、世界の把握を直接的なものにします。それは「主体」とか「表象」とかいう概念を無意味にします」でした。

マルセル・コンシュの『形而上学』の翻訳を始められている由、早い刊行を楽しみにしています。さらには、その本を題材にまた皆様と議論が出来れば、もう一段深い現代哲学の理解につながるのではないかと個人的にはそれを楽しみにしています。貴重な時間をありがとうございました。











2025年4月23日水曜日

ロバート・ライシュとジョーゼフ・ウェルチ



今朝はロバート・ライシュさんの駄弁りを聞くところから始まった

前々回の大統領選挙の時にも何度か見た記憶がある

鋭い観察眼と語り、ユーモアのセンスが垣間見える対談には教えられることが多かった

今回もアメリカ人ならではの物おじしない若手との掛け合いが面白いだけではなく、いろいろな考えが巡っていた

中心は、ハーバードと中国と最高裁という巨大な組織に対するトランプの態度の分析であった

ハーバード大学がトランプの要求を拒否したことを受けてのことなのだろう

詳しくはビデオをご覧いただくことにして、ここではその中にあった一つのエピソードを紹介するにとどめたい


それは、赤狩りの嵐が吹き荒れた時の公聴会での出来事である

番組の中でもその場面が流れていたが、ジョーゼフ・ウェルチという法律家の行動であった

彼は同じ事務所に所属していた若い法律家と共産党との関係をマッカーシーに執拗に問い質される

それに対して、ウェルチはこう言い放った

「上院議員。もう十分です。あなたはついに良識(decency)を失ってしまったのですか」

この発言から赤狩りの潮目が変わったと言われている

この行動に対してライシュが賞を与えたいと発言したのを見たウェルチの孫娘が、微笑ましい写真とともに手紙をくれたという

ちょっとした良い話と言ってもよいだろう

今日もよいスタートが切れそうだ


ところで、このビデオが現れたのは、数日前にカリフォルニア大学バークレー校でのライシュさんの演説を見たからだろうか

アクティブに社会に関わるご老人である










2025年4月20日日曜日

すべての瞬間を意識している、あるいは「プロソケイ」再び



























最近の話の中で、「わたしは目が覚めている時はすべての瞬間を意識している」と言ったことがある

仕事をしている時にはそうはいかなかった

おそらく、重要なこととそうでないことが分けられていたからではないかと想像している

それが全的観想生活に入ってからは変わり、すべてが重要なことになっているため、このような言葉に結晶化したのだろう

これはそこを目指したというのではなく、全的観想生活に入るとそれが自然な日常だったというだけの話である



ところで、このところ時間があると昔のカフェ/フォーラムの記録を読み返している

その度に発見があるので、楽しみながらの作業になっている

先日、ストア派に関連して「プロソケイ」(prosochè)という言葉が出てきた

これは、自分自身に対する継続的な注意深さのことで、そうすることにより道徳的な逸脱を監視する狙いがあるようだ

この言葉を見た時、話題にした会のことが浮かび上がってきた

と同時に、上述の事情で、ここ18年の間、知らないうちにプロソケイを実践していた、と表現できることに気づいたのである

ストア派にはさらに、「プレメディタチオ・マロールム」(praemeditatio malorum)というのもある

これは、将来起こるかもしれない災いを思い描いて、その時が来ても耐えられるように準備することを意味している

精神的な苦痛を軽減する方策として考えられたものだろう

英語では "negative visualization" とも言われるようだ

わたしの場合、そこまでのことをやったことはないが、日常的に数日先の具体的な行動については思い描くことはある

そのため、時の流れが非常にスムーズになり、完全なストレスフリーの状態になっている

これなども、その昔にはなかったことである










2025年4月18日金曜日

意識の三層構造再び、あるいはイアン・マギルクリスト






昨日のこと、Youtubeから初めての人の話が流れてきた

イアン・マギルクリスト(Iain McGilchrist, 1953-)という精神分析や神経科学を専門とするイギリスの哲学者のようだ

一時期、左脳と右脳の機能分担が話題になった

注意したことはなかったのだが、左脳は言語による思考に関与し、右脳は言語を介さない認識に関与するというようなことではなかったかと思う

この説に対して、マギルクリストは異議を申し立てる

彼によれば、左脳は分析的思考、何かを制御しようとする思考に関わり、右脳は現象をそのまま理解しようとするもので、より難しい思考だとしている

西洋文明では左脳的思考が優勢になっており、これからの問題解決には右脳的思考が重要になると言っている

言葉を換えれば、前者は科学的思考で、後者は歴史や哲学を絡めた思考となるだろう

そして、これはそのまま、わたしが言っている「意識の三層構造」の考え方と重なることに驚いたのである



意識の三層構造については、もう9年前に「医学のあゆみ」に連載したシリーズ『パリから見えるこの世界』に以下のエッセイを書いている

以下にオリジナルの図を貼り付けておきたい





この図を見ながら簡単に説明したい


第1層は日常生活で使われる意識で、ほとんど反射的な反応の中にあり、思考というものが行われていない

第2層は専門的な職業の中で使われる意識で、多くは科学的・分析的思考が行われると想像される

自分自身を振り返り、仕事をしている時にはこの2層に留まっていたことが分かったのである

なぜなら、長年に亘るフランスでの生活がこの2層とは全く違う意識の中にあることに気づいたからであった

それは、職業人ではなく人間として、一つの領域に留まるのではなく領域を超えて、つまり全体的な視野でものを考える層を構成しており、第3層と名づけた

その上で、第3層の開拓こそ、現代の諸問題の解決に欠かせないと考えるようになり、いろいろな活動をするようになったという点で、わたしの中では最重要概念の一つになっている


今年の元旦、意識の3層構造と幸福の問題が結びつき、一つの考えになった

それをサイファイ研究所ISHEのページにアップしたので、ご参考までに以下に貼り付けておきたい











2025年4月12日土曜日

第13回サイファイカフェSHE札幌、盛会のうちに終わる






本日は午後から、拙著『免疫から哲学としての科学へ』の第1章を読む、第13回サイファイカフェSHE札幌が開催された

新しい方が1名、飛び込みの方が2名おられたため、9名という多くの参加者を迎え、盛会となった

最初に、この本がどのような意図のもとに書かれたのかについて簡単に説明した後、免疫学の歴史を振り返る第1章に入った

本章のタイトルは、「免疫学は何を説明しようとしてきたのか」で、以下のような構成になっている

1 「免疫」という言葉、あるいはメタファーについて

2 免疫学が確立される前に明らかにされていたこと

3 近代免疫学の誕生

4 新しい選択説の出現

5 免疫を担う主要要素はどのように発見されたのか

6 免疫反応の開始はどのように説明されたのか

7 クローン選択説に対抗する新しい理論的試み

8 新しい理論的枠組みを生み出すもの

今日は駆け足ではあったが、第6節まで読み終えることができた

ということで、次回は第7節から始めて第2章に入ることになる

会の詳細は、近日中に専用サイトにまとめる予定である

なお、次回の開催は8月2日(土)15:00~17:30で、会場はもう少し広いところになるかもしれない

専用サイトあるいはこのブログを注意していただければ幸いである





















カフェの最中は、参加者がどのように感じているのか、なかなか察することができない

それが懇親会になると、いろいろな反応が耳に入り、興味をもって話を聞いていただいていたのだということが分かってくる

皆さん盛り上がっていたのか、本日は懇親会の2次会なるものも開かれた

珍しいことである






















こちらの方も話に花が咲き、いろいろな話題が耳に入ってきた

中に、東京でやっているサイファイフォーラムFPSSのように参加者が話題提供する試みを札幌でも取り入れてはどうかという提案があった

これだけの方が参加されるということであれば、開催は可能ではないかと思われるので、どのようなスタイルにするのか、これから考えることにしたい

具体化された段階で、このブログと専用サイトでお知らせする予定である

今回も実り多い意見交換と交歓の時を持つことができた

これで今年の春のカフェ/フォーラムシリーズがすべて終了したことになる

このシリーズに参加された皆様に改めて感謝したい

夏のシリーズもよろしくお願いいたします













2025年4月5日土曜日

どこかに飛び立ちたい気分















今朝は天気に恵まれたせいか、久しぶりにシガーを愉しんだ

そこに流れてきたのが、この曲である

トニー・ベネットレディー・ガガ




春の陽気とともにどこかに飛び立ちたい気分になる

そうならない方がおかしいタイミングであった

その勢いに乗って、外にではなく内に向かうことにした

このところ当たっているマルセル・コンシュさんの『形而上学』の中へ

少しは捗ることを願いながら






2025年4月3日木曜日

翻訳するように読み返す

































4月に入ってから3日が経過しつつあるが、1ヶ月ぶりにやっと以前の日常が戻ってきた

久し振りにコンシュ著『形而上学』の一文一文にじっくり向き合っている

訳すという作業により、文章の奥深さというか、その背後にあるいろいろなものがよりよく見えるようになる

それから、これまでのカフェの記録をやはり訳すように読み直している

そこに潜んでいるであろうこれまでには見えなかったものを探すと同時に、そこから一つの塊が見えてこないかを模索しながら



もう一つ、来週土曜には春のカフェ/フォーラムシリーズ最後になる第13回サイファイカフェSHE札幌が控えている

今回から拙著『免疫から哲学としての科学へ』を読み、免疫という現象の意味と科学という営みについて考えることにしている

3回か4回のシリーズになる予定だが、こちらも翻訳するように読み進みたい

このシリーズを通じて、新しい景色が見えてくることを願っている

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております