禅に十牛図という悟りに至るプロセスを10段階に分けて分かりやすく説明した図があるという
その10段階とは、ウィキによれば以下のようになっている
- 尋牛(じんぎゅう): 仏性の象徴である牛(真の自己)を見つけようと発心したが、牛は見つからない段階
- 見跡(けんぜき/けんせき): 経や教えによって仏性を求めようとするが、分別の世界からはまだ逃れられない段階
- 見牛(けんぎゅう): 行においてその牛を身上に実地に見た境位
- 得牛(とくぎゅう): 牛を捉まえたとしても、それを飼いならすのは難しく、時には姿をくらます状態
- 牧牛(ぼくぎゅう): 本性を得たならばそこから真実の世界が広がるので、捉まえた牛を放さぬように押さえておくことが必要になる状況
- 騎牛帰家(きぎゅうきか): 心の平安が得られれば、牛飼いと牛は一体となり、牛を御する必要もなくなる状態
- 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん/ぼうぎゅうそんにん): 家に戻ってくれば、牛を捉まえてきたことを忘れ、牛も忘れる状態
- 人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう/にんぎゅうぐぼう): 牛を捉まえようとした理由を忘れ、捉まえた牛を忘れ、捉まえたことも忘れる状態
- 返本還源(へんぽんかんげん/へんぽんげんげん): ここに至り、何もない清浄無垢の世界からは、ありのままの世界が目に入るようになる
- 入鄽垂手(にってんすいしゅ): 悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益で、再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要がある
これを見て感じたことは、次のようなことである
そのような意識は全くなかったが、わたしがフランスに渡ってからやっていたことは禅の修業にも通じるものではなかったのか
この感覚は10年が経過したくらいからあったものだが、今回十牛図を見て、わたしの歩みと完全に重なっていることに驚いた
禅の言う悟りに至る道は、どうも洋の東西を問わず存在するようである
この春のサイファイカフェSHE札幌でも取り上げたプラトンの洞窟の比喩、向上道(アナバシス)と向下道(カタバシス)なども基本的には同じ考え方で貫かれている
新たな認識に至った朝である
0 件のコメント:
コメントを投稿