2026年3月14日土曜日

第16回サイファイフォーラムFPSS、盛会のうちに終わる


























本日は、春の東京シリーズ最後となる第16回サイファイフォーラムFPSSが日仏会館で開かれた

年度末のお忙しいところ、参加していただいた皆様に改めて感謝したい

今回のプログラムは以下のようになっていた

 (1) 矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑩ ポパーのプラトン批判 (2)

 (2) 竹田扇:デカルトの医学論――機械論に基づいた⼈体の統⼀的理解

 (3) 白石裕隆:「文(ふみ)以前」を“詩"索する、地質・文学・遺跡紀行――川端康成「東海道」を端緒として


まずわたしの演題だが、最後の最後まで落としどころをどこにするのか迷っていた

プラトンの哲学の中にポパーが見た危ない点は、その自然主義とヒストリシズムであった

ここで言う自然主義は、一般に考えられている哲学的自然主義とは異なっている

哲学における自然主義は、自然界に在る物質と原因だけが自然現象を説明できるとする考えで、超越的な説明を拒否する

これに対して、ポパーが言うプラトンの自然主義とは、社会制度を自然の秩序(自然の中に見られる規則性や法則など)として説明する立場のことで、社会制度を法則のように確固たるものとして固定化する可能性(ポパーの立場から言えば、危険性になるのか)がある

現代においてしばしば見られる、科学の成果をもとに人間社会の成り立ちを説明しようとする流れの中に、プラトンの自然主義と共通するものがあるように感じられるのはわたしだけだろうか

別の言い方をすれば、このやり方の源にプラトンがいるのかもしれない

プラトンのヒストリシズムの方は、国家の本質は原初にあった理想国家で、それが歴史の過程で腐敗した国家へと変容するとする考え方である

ポパーの批判は、まず、歴史に法則はないし(人間の知識と行為は時とともに変化するから)、歴史法則を信じる(歴史に必然があると考える)ことにより、問題が出てもそれは目的地に着くための過程であると捉えらえれ、個人の自由な選択を抑圧する全体主義に結びつくという理由からであった

さらに、プラトンの思想の中に個人を国家の下に置く傾向が強いことが挙げられる

ポパーによれば、全体主義の根源にはプラトンの哲学があることになる


竹田氏のデカルトの医学論についての発表は、この2月に知泉書館から翻訳が刊行されたデカルトの『⼈間論』を軸に、デカルトの医学関連の書籍を加えた文献的考察やデカルトの科学と哲学の歴史的位置づけなどについて触れられるものであった

膨大な情報があったので、時間をかけてさらに検討する必要がありそうだ

白石氏の発表は、全国各地に足を運び、その環境に入ったときに浮かび上がる言葉以前の状態を哲学しようとしていた

「書斎から出て哲学せよ」ということだろうか

こちらの内容についてもゆっくりと振り返り、まとめることになるだろう


三人三様の発表であったが、それぞれの間に何らかの関係が見えてくるのか、こないのか

これから発表内容をじっくり見直し、それらが熟成し、つながりを見せてくるのを待つことになる

近いうちに、その内容は専用サイトに掲載予定である

訪問していただければ幸いである
































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