自然と生命を考える
In Search of a New Philosophy of Nature and Life
2025年10月1日水曜日
改めて、ブログ「フランスに揺られながら」から20年
2025年9月30日火曜日
今年も四分の三が経過、何思う
2025年9月29日月曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(11)
2025年9月19日金曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(10)
自然とは、沈黙の、だがいくらか曖昧な観照である。なぜなら、自然についての観照とは別の、またそれよりもっと明確な観照があるからである。
2025年9月17日水曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(9)
2025年9月16日火曜日
ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(8)
今日は、「第一動者」(不動の動者)についてである
アリストテレス(384-322 BC)の世界において、自己自身で可能態から現実態に移行するものは何もないとすれば、動いているものは他のものによって動かされていなければならない
しかし、このような原因と結果の連鎖を際限なく遡ること(無限後退)ができない
そこから、形なく、動かず、永遠で、その衝撃が宇宙の果てまで伝わる「第一動者」が想定されることになる
アンバシェは言う
運動と変化についての感覚的経験に出発点を置きながらも、形而上学的分析は感覚的経験を、経験的特殊性を通してではなく、「存在としてのかぎりにおいて」われわれに把捉させる
ここは「科学の形而上学化」を考えるうえでも重要なところだと思うが、具体的にどういうことを言っているのだろうか
最初はあくまでも経験から出発する
そこから明らかになったことを個別の経験的レベルに留めるのではなく、その存在のレベルにおいて成り立つ構造や法則に思考を飛躍させるのが形而上学である、と言いたいのだろうか
それが、不動の動者に至った思考過程だということなのだろうか
『天体論』の「自然哲学」が観察のデータと数学的表象においてしか考察しないの対して、「自然の哲学」は第一動者を一種の世界霊魂という形で盲目的必然性として把握するところで満足する
「形而上学」は、それが神学であるがゆえに、第一動者の存在そのものにまで到達する
形而上学者は、自然学的事実や機構、あるいは自然学者の第一動者以上のもの――天界と自然全体を経巡っているのは、渇仰と欲望の徴表のような何かである、というような――を見るという
自然とすべての自然的存在によって住み慣らされた領域の外へわれわれを導き出すのである
アンバシェは次のようにアリストテレスの思想をまとめる
形而上学者の宇宙の原理は「純粋の現実態」であり、すべての存在がそれを渇仰する。それは自己自身の内に自己の対象を見出す至福で単独な思惟である。
宇宙の原理は純粋の現実態であり、思惟だと言っている
これはどういう意味なのだろうか
現実態とはすでに完結してしまったものなので、他のものによって動かされることがない
むしろ相手に働きかけるもの、相手を引き付けるもので、それは真善美のような憧れの対象になるものでなければならない
そのような憧れの対象の在り方は、自己充足した思惟、自分に閉じた至福の思惟に他ならないという
宇宙を動かしている原理は、このような思惟だと言いたいようだ
驚くべき思考の羽ばたきである