2026年1月28日水曜日

Mind in Life を読む(2)
































第1部は「エナクティブ・アプローチ」となっていて、以下の4つの章に分けられている

第1章 認知科学と人間の経験

第2章 現象学的結びつき

第3章 自律と創発

第4章 行動の構造


まず、第1章から始めたい

認知科学の歴史は非常に浅く、こちらも若い免疫学が1世紀以上前に始まったとすれば、それより半世紀から1世紀遅れの学問である

この言葉を耳にするようになったのは20世紀後半のことになるが、心についての学問はプラトンやアリストテレスにまで遡ることができる

この点も、免疫現象がペロポネソス戦争(431-404 BCE)の時に観察されていることと似ていると言えるだろう

認知科学は、心理学、神経科学、言語学、コンピュータサイエンス、AI、哲学などが統合されたプログラムで、認知の原理やメカニズムを解明することを目的としている

しかし、認知科学は認知を研究してはいるが、感情や愛情、動機付けや意識などの主観的な領域についての理解を深めるところには至っていない

その理由を探るため、著者は1950年代からの認知科学の歴史を振り返る

そこで明らかになるのは、3つのアプローチだという

第1は認知主義(cognitivism)で、著者によれば、心をコンピュータとして捉えるもので、1950年代から70年代に優勢だったもの

第2はコネクショニズム(connectionism)で、心をニューラルネットワークとして捉えるもので、80年代に認知主義に挑戦を始めた

第3は身体化された動態論(embodied dynamicism)で、心は身体が環境と相互作用し続ける絶え間ないプロセスの中にのみ存在するという考えで、90年代から出始めた

これからそれぞれの流れを詳しく見ていくようである









2026年1月22日木曜日

Mind in Life を読む(1)
































これから折に触れて、Evan Thompson(1962-)の Mind in Life(Harvard UP, 2007)を読むことにしたい

著者のエヴァン・トンプソンは、認知科学現象学心の哲学がご専門のブリティッシュコロンビア大学哲学教授で、仏教に関する著作もあるようだ

本書の副題は、「生物学、現象学、および心の科学」となっている

序を読むと、生命と心との連続性がテーマだという

生命の在るところには心があり、心の構築の特徴は生命のそれと重なる

その特徴とは自己組織化で、生命においてはすでに認知を含意している

そこから心的生命は身体的生命であり、世界に属している

心的生命の起源は脳にあるだけでなく、身体や環境に広がっている

本書において、生物学、現象学、心理学、神経科学の成果を用いて、生命と心――特に、経験や主観性という現象学的な側面――の関係に調和をもたらそうとしている

それは、意識や主観的経験と、脳や身体との関係がどうなっているのかという説明のギャップと言われる問題に向き合うためである

ただし、この問題に対する概念的な分析をしたり、意識に関する新規の理論やモデルを提唱したり、意識と自然を統合するような形而上学的推論をするものではない

むしろ、そのために必要になる経験の構造について、より豊かな現象学的説明をしたり、それに対する科学的説明をすることであり、現象学が心理学、神経科学、生物学と交渉を持つことである

つまり、経験の現象学的解析を、生命と心の科学的解析との相互に啓発し合う関係に導くことが本書の目的になる



本書の意図を読むと、拙著『免疫から哲学としての科学へ』の「免疫は心的要素を包摂する」という主張と響きあうところがある

ここで心と言われているところを免疫に置き換えれば、それがよく分る

ただ、疑問符が付く話も出てきそうな予感がする

いずれにせよ、どのような議論が展開するのか、興味をもって見守りたい











2026年1月21日水曜日

思考の澱を沈め、凪を待つ






今朝はゆっくりと音楽を流しながら 自由に考えが羽ばたくのを待つ


音が全くない中での深い瞑想とは違うが 何か新しいものが出てきそうな予感もする


いつもの錯覚だろうか











2026年1月20日火曜日

春のカフェ/フォーラムのご案内


























春のカフェ/フォーラムの予定が決まりましたのでお知らせいたします

皆様の参加をお待ちしております

本年もよろしくお願いいたします



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◉ 第13回ベルクソンカフェ
2026年3月4日(水)18:00~20:30 恵比寿カルフール B会議室
マルセル・コンシュの哲学(3)『生きることと哲学することを読む ①
サイト


◉ 第23回サイファイカフェSHE
2026年3月6日(金)18:00~20:30 恵比寿カルフール B会議室
フィリップ・クリルスキー『免疫の科学論』を読む ①
サイト


◉ 第14回カフェフィロPAWL
2026年3月11日(水)18:00~20:30 恵比寿カルフール B会議室
生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』を語り合う
サイト


◉ 第16回サイファイフォーラムFPSS
2026年3月14日(土)13:00~17:00 日仏会館 509会議室
(1) 矢倉英隆:シリーズ「科学と哲学」⑩ ポパーのプラトン批判 (2)
(2) 竹田 扇:デカルトの医学論――機械論に基づいた⼈体の統⼀的理解
(3) 白石裕隆:「文(ふみ)以前」を“詩"索する、地質・文学・遺跡紀行――川端康成「東海道」を端緒として
サイト


◉ 第16回サイファイカフェSHE 札幌
2026年4月11日(土)14:30~17:00 会場未定
免疫から哲学としての科学へ』を読む(4)免疫を形而上学化する











2026年1月19日月曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(33)
































『自然の哲学』も遂に最後まで辿り着いた

結論「自然の二つの顔」を読むことにしたい

本書では、「自然哲学」という科学のやり方を取るものと、「自然の哲学」というそこから距離を置く立場があり、それに合わせて自然には二通りの顔が付与されることになった

アリストテレス(384-322 BC)においては、この両方の内容を判別することができる

しかし、「自然哲学」と「自然の哲学」の関係が明瞭にされたのは、「所産的自然」と「能産的自然」の区別が提示された時である

以下に簡単にまとめておきたい

(1)所産的自然ということによって、ある時は直接的に感覚的生の知覚を通して、またある時は間接的に科学の観察と仮説と説明を通して、「自然哲学」の客観的世界全体を理解しなければならない

近代人が科学によって自然を支配、所有しようとする時、そこで問題になっているのは所産的自然である

ダーウィン(1809-1882)が、「自然選択」が関わる法則の下に見ている自然も客観的な考え方である

(2)能産的自然が介入するのはこの時で、「自然の哲学」の下での経験の内に現われる

例えば、アリストテレスの「ピュシス」、バークリー(1685-1753)の「言語」、シェリング(1775-1854)の「生産性」、ヘーゲル(1770-1831)の「解決されない矛盾」、ベルクソン(1859-1941)の「飛躍」と「持続」などの質的現象性の形を取っている

能産的自然の経験は、思考にとって「意識」と「身体」と「物質」とが常に一つの全体を成して現われるという意味で、主客の分裂を超えた進路の入口である

自然的であるとは、この3つの領域が同時に占有され、混合され、踏破される時にわれわれが関与するものである

(3)所産的自然の空間化された客観的な面と対立するのは主観的領域ではなく、われわれが生きるたびに構成され分解される自然的混合物の経験である

所産的自然において、時間と空間は客観的な存在としてあるが、能産的経験に変わる時、時間と空間は独立した状態を失う

それゆえ、自然のあらゆる経験には、二つの顔が確かに存在する

一つは空間と分子とアトムの表象により、専門的規則に従って獲得する自然化されるもの(所産的自然)であり、もう一つは組み合わさり重なり合う無限の混合物が、全く別の形の知性と支配により自然化するもの(能産的自然)である

「自然の哲学」は、すべてが関連している宇宙のために、複合物の質的で具体的な論理を展開するように促されるのである


(了)










2026年1月18日日曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(32)


































本日は、3-4-2「自然の有機体はたがいに組み合わさり重なり合った精神と身体と物質との混合物でできている」を読みたい

これまでの分析から、自然の哲学は、すべては空間と運動とアトムに関わるという客観的な理解の仕方と著しい対照をなす理解の仕方を目指すものであることが見えてきた

すなわち、自然は様々な種類の混合物から質的に発生したものであるという直観が優勢になる

これはベルクソン(1859-1941)が多大な貢献をした見方である

ベルクソン哲学は、数学と物理学から着想を得た量的論理学の支配下で、質的で直観的な思考の復興に取り掛かったのである

より具体的には、科学が諸要素に分解して解析する傾向があるのに対し、諸要素が断絶することなく相互につながるという見方で置換しようとした

これは「持続」に通じる考え方で、科学がこの世界を細切れの静止画として見るのに対し、音色を変えるメローディーとして捉えようとしたと形容される内容である

前の要素が次の要素に浸透するように全体として変化していく世界である

フッサール(1859-1938)の分析とも響きあう考え方である

彼は、現在には過去や未来が浸透し合っていると考え、次のような要素を提案している

 原印象(Urimpression): 今まさに知覚している経験
 
 把持(Retention) : 今この瞬間、過ぎ去ったばかりの過去を記憶としてではなく、今の一部として保持している
 
 予持 (Protention): 同時に、次に来る瞬間を無意識に先取りしている

これは、近著『生き方としての哲学:より深い幸福へ』の中でも触れている「現在」の捉え方(p.45-46、p.113-115)と非常に近く、よく理解できる


ベルクソンは『創造的進化』(1907年)において、「混合物」の質的論理と「モデル」の機械的論理の対照を、生命と宇宙発生の問題に適用した

物質と記憶』(1896年)は、心理学に対してこのやり方を適用したものである












2026年1月17日土曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(31)
































今朝、昨夜も話題に出ていたシューベルト(1797-1828)を流しながらシガーをやる

わずか31年しか生きていなかったことを改めて確認し、やはり驚嘆する


今日は、第3章、第4節「自然は数多くの種類の混合物からできた媒介的有機体である」に入りたい

これまで自然の哲学について考えてきたが、「所産的自然」と「能産的自然」との緊張関係が現れることになった

そして最後に残るのは、シェリング(1775-1854)が言うように、「能産的自然」しかないことを確認した

ベルクソン(1859-1941)に言わせれば、科学的知性の捏造と対立する組織化としての力として現れる自然の概念である

したがって、自然のこのような性格を正確に位置づけ、客観的で世俗的な体裁を超えて了解するやり方を探索することが残されている


早速、3-4-1「自然は、人間によって客観的に仕上げられた世界と、人間には近づきがたいところにある原理とのあいだに介在する有機体である」について検討したい

その出発点として、ヘーゲル(1770-1831)が言っていたように、自然の感覚による現前とその「概念」を混同しないようにすることがある

なぜなら、客観的な所与として現れる自然は素朴な意識にとってのものであり、包括的に考察される自然はそういうものではないからである

つまり、客観的で感覚的自然は、人間の明晰で総合的な了解に達するためにあるからである

人間が知覚するものは純然たる自然ではなく、「所産的自然」に当たるものである

それは人間が立法者と実験者という二重の役割を通して、自らがデミウルゴスとなって了解する自然である


そこで、人間による客観的で世俗的な外見を通してではなく、創造主の仕業を見るならばどうなるであろうか

ここに神学が入り込む余地がある

ニカイア信条(325年)によれば、「私たちは、見えるものも見えないものも含め、すべてのものの創造主である全能の父なる唯一の神を信じます」と公言している

問題は、その信仰によって達せられた実在や出来事は、科学に依存する可知性を表していないことである

ここで言う「可知性」(intelligibility)は、単に意味が理解できるということではなく、理性によって、構造・法則・因果として、主体から独立に、共有可能な形で理解できること、あるいはそのような理解構造になっていることを指している

信仰による理解はすべてが神に帰せられ、「神秘」に迷い込むところがあり、可知性が要求する構造を持っていない

自然神学啓示神学(一般的な神学)とは異なり、理性を用いて世界(自然)の原理に迫るが、カント(1724-1804)が言うように、デミウルゴスのような有効な組織者(職工)ではあるが創造者でないものしか発見できないだろう

さらに、実証的な分析が進めば進むほど、神学的な解釈は後退することになり、神という仮説は不要になるかもしれない

しかしその時こそ、能産的自然の経験が現れ、われわれの経験的な出来事の世界と、超越的原理が住まうところとの間に、包括的で構成的な自然の活動圏が入り込んでくるという














2026年1月16日金曜日

『生き方としての哲学:より深い幸福へ』を肴に会食


























今日は、ここ数年で恒例になった感がある免疫学者の笠原正典先生との会食に出かけた

調べたところ、10か月振りになる

イントロは体調の話だったが、すぐにわたしの近著『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』(ISHE出版)についてのコメントへと移っていった

読後の全体的な感想は、共感するところが多かったとのこと

人生のフェーズが似ているところにあることが、その原因ではないかと想像した

古代の哲学、特にストア派の哲学はすでに読まれているとのことで、生き方の真理はこのあたりにすでに書かれているという印象であった

ご自身のフランス哲学体験は若い時に触れたサルトル(1905-1980)くらいなので、今回取り上げた3名の哲学者は初めてとのことであった

おそらく、多くの日本人にとっても、名前を聞いてもピンと来ないという状態なのではないかと想像した

その中で、マルセル・コンシュ(1922-2022)の本が刊行されることがあれば、購入していただけるとのことであった

カフェ/フォーラムでも感じたが、ほとんどの日本人は知らない名前が飛び交うのに触れるのは、わたしにとって irréel であり、嬉しいことでもある

また、この世界(人生)の出来事は決められているのか(運命なのか)、自分が決めているのかという古くからの問題も出てきた

わたしは決められているという感覚があるのに対し、自分が決めているという感覚は持ちたいというお考えのようであった

その一方で、今回の本で示した「人生20年相転移説」や過去の出来事が散らばっている平面として現在を捉える見方などは、納得するところ大であったとのこと

それから、海外での生活を振り返るようなセッションもあり、気がつくと3時間あまりがあっという間に過ぎていた

またの機会が訪れることを願っている










2026年1月15日木曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(30)
































3-3-4「ヘーゲルの哲学における自然と歴史」を読み、第3章、第3節「自然の哲学は質的に構成する経験から生まれる」を終えたい

シェリング(1775-1854)は自然の創造的自発性を喚起したが、それは美的直観に極めて近い

彼は、自然の生産的過程と、精神がもろもろの表象を生み出す過程との間に完全な同一性を見た

後者における表象は、外部からではなく、内部からくるものである

自然の観念は、そこに外から来る目的性を導入する時、破壊される

「わたしが自然をわたし自身の生と同様に理解できるのは、わたしを自然と同一にする場合に限られる」ということになる

他方、ヘーゲル(1770-1831)はシェリング同様、芸術作品の精神的形式が自然的形式より遥かに優れていると判断する時でも、ギリシア人から受け継いだ人為主義に根底から従おうとはしない

換言すれば、両者とも自然に対する芸術作品の優位性は認めるが、加工されていない自然は美ではなく、そこに人間の精神が働きかけ精神的形式にしたものが優れているとする古代ギリシアの考え方に完全に合意していたわけではない


シェリングの場合、目的性は自然の本質を表現しているが、そこには外部からの人為ではなく、内部からの働きかけが見られなければならない

自然と生命のカテゴリーは至上である

これに対してヘーゲルは、自然が直接的に存在する第一の原理として現れるのは、最初外的で、ついで感覚的意識にとってでしかないと考える

精神の生命が脆弱であるため自然は外化されたままである

有機的自然は歴史を持たないとヘーゲルは言う

ここに、創造性を持った生きた主体としての自然(能産的自然)を見ていたシェリングの道と、精神を失った「死んだ」自然よりは歴史や人間の精神を高く評価するヘーゲルとの道は分かれていくようである



ここには、実に示唆に富むシェリングとヘーゲルの対比が示されている

わたしの歩みを振り返ってみれば、自然を外にある対象として記述していたところから、自然そのものの中に精神的なものを見出そうとしているところへと変容しているように見える

それは、今日の対比で言えば、ヘーゲルというよりはシェリングにより近い見方ということになるだろうか

科学から哲学に移ったことが大きな影響を与えていることは間違いないだろう











2026年1月14日水曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(29)



















本日は、3-3-3「シェリングの哲学における自然の質的経験」について読むことにしたい

シェリング(1775-1854)は、自身の哲学全体を思弁的自然学と経験的自然学という2つの「自然学」に分けていたので、客観的経験と構成的経験の区別は明瞭に現われていた

思弁的自然学とは、自然を内側から動かす内的衝動に関心を持つ自然の哲学である

それは諸事物の非客観的な側面に向かう

これに対する経験的自然学は、世界の表面で起きることしか考慮に入れない

ショーペンハウアー(1788-1860)によれば、経験的自然学は自然の外貌を作っている客観的・機械的な側面には執着するが、普遍的運動性の根源にまでは決して遡らない

したがって、この自然学は哲学ではなく自然科学と解され、観察者によって報告される事実の積み上げに過ぎなくなる

その総体は受動的堆積であり、産物でしかない

もし、そこに能動的で生産的な相の下に直視すれば、それは世界であることを止め、自然となる

この見方によれば、自然とは産物(所産的自然:natura naturata)と生産性(能産的自然:natura naturans)が同一の状態にあるもので、世界とは前者を蒐集した総体を指すことになる

自然の哲学のためには、自然の諸力が包蔵する創造的活力を呼び出さなければならない

シェリングによれば、そこには我々が直観し得ないような無限の進化と生成が見える

宇宙の設計者の設計になる進化や、物質世界の機械論的変容による進化は問題にならない