2025年3月30日日曜日

3月を振り返って
















今月も終わりに近づいてきた

これで今年の四分の一が終わることになる

今月は、前半で春のカフェ/フォーラム東京シリーズが終わった

それぞれの会の中に相互につながる要素が見つかり、わたしにとっては興味深いシリーズとなった

今月後半はそれらを反芻しつつ模索・瞑想する中で、いくつか新しいプロジェが浮かんできた

いつものように、どのように展開するのか、長い目で様子を見る以外にはないのだが、ひょっとすると面白いところに辿り着けるかもしれないというものもある


ところで、今回のシリーズでも改めて感じたことだが、仕事をしていた時とは異なり、「・・年前」という感覚が薄れているようである

仕事をしていた時には感じたであろうその数字が示す昔には感じなくなっている

例えば、昔は2年前と言うとそれなりの前に感じていたはずである

ここで昔というのは、仕事をしていた18年ほど前までのことだが、その時点で18年前などというと遥か彼方に過ぎ去ってしまった大昔というイメージだった

しかし今は、フランスに渡った時のことを大昔などとは全く感じない

わたしのすぐそこにある


このような感慨が再び浮かんできたのは、コロナで日本に戻らざるを得なくなってから5年が経過したことに気づいたからだ

ただ、仕事をしていた時の感覚での5年昔には感じられない

それは、当時がそのまま「いま・ここ」にあるという感覚の中にいるためではないかと想像している

これは永遠の感覚に近づいているサインではないかとも思っている

いずれにせよ、今年はこのような区切りの年に当たる

何か変化を呼び込まなければならないような気分にもなってくる







2025年3月27日木曜日

「科学の形而上学化」(MOS)のもう一つの側面について

































以下の考察を、サイファイ研ISHEのMOSのページにアップしたので、ここに転載したい


これまでMOSの方向性として強調してきたのは、科学が明らかにした成果について形而上学、歴史、神学などの視点を動員して省察する必要性であった。しかし、このような方向性には同時に、科学の営みそのものに対する批判的な視座も内包されている。それらを分析することは、これまで強調してきたMOSの営みが提示する現在の科学の範囲を超える「新しい科学」だけではなく、現在の科学が抱えている存在論的な問題点を炙り出し、それらを超克する「より緻密な科学」を創出する上で重要な貢献につながるはずである。その試みの概略をスケッチしておきたい。

まず、自然科学は価値中立的であり、形而上学とは一線を画しているという見方について考えてみたい。MOSの前提も、形而上学と決別したものとして科学を捉えるところにあった。しかし、実際にはどうであろうか。科学者が意識しているか否かは分からないが、自然科学を動かしている信念のようなもの(信仰とまでは言わないまでも)があるのではないだろうか。例えば、自然界は理性によって理解可能である、原因と結果から自然現象は説明可能であり、そこには法則性がある、それは数学的様式によって表現可能である、観察できるものが存在するものであり、観察可能なものだけを対象とする、など、科学には暗黙の前提があるように見える。

このような前提は、人類が歩む中で出来上がってきた歴史が刻まれた考え方である。例えば、ソクラテス以前の哲学者のヘラクレイトス(c.540-c.480 BC)はロゴス(理性・言葉・秩序)を世界の根本原理とし、ピタゴラス(582-496 BC)は「万物は数である」と考えていた。ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)も「自然という書物は数学という言葉で書かれている」という見方を採っていた。これらは自然がどのように出来上がっているのかについての考え方を示す言葉であり、科学の前提・信念は科学そのものに内在する形而上学と言ってもよいのではないだろうか。 

このことは、意識されることが少ない科学の形而上学について、哲学的に省察することもMOSの大きな役割になるということを意味している。換言すれば、「科学の形而上学の形而上学化」(metaphysicalization of metaphysics of science: MOMOS)とでも言うべき試みになる。この形而上学化の過程においても哲学だけではなく、歴史、倫理、詩などを動員して当たることになる。具体的な問題として、量子論の確率的要素や非線形力学など必ずしも合理的には見えない自然が姿を現し、数式には表しきれない生命現象も明らかにされている。これらを問題にすることはすなわち、科学の暗黙の前提を問い直すことに繋がり、科学とはどういう営みなのか、さらに科学はどうあるべきなのかという根源的な思索へとわれわれを導くはずである。

このように、冒頭に掲げたMOSの2つの側面を追求することは、現在進行中の科学を批判的、発展的に認識するだけではなく、「形而上学的解析を含めた科学」という新しい科学の姿を模索する上でも重要なステップになるものと確信している。





 

2025年3月24日月曜日

春のカフェ/フォーラム東京シリーズのまとめを終える
















春のカフェ/フォーラム東京シリーズのまとめを終えることができた

以前とは異なり、ゆっくりと跡を辿りながらの作業であった

おかげさまで、示唆に富む発見に満ちたシリーズとなった

参加された皆様に改めて感謝いたします

ご参考までに、以下に貼り付けておきます


マルセルコンシュの哲学――2006年のインタビュー記事を読む―― 

 

免疫学者のパリ心景』を読む (1)なぜフランスで哲学だったのか

 

① 矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑦ プラトンの宇宙観

② 細井宏一: 人文科学と自然科学の間にあるサイエンス ~考えるということ~  ——啓示か、観察か、それとも・・・——

③ 岩倉洋一郎: 科学は自らの発展を制御できるのか?  


免疫から哲学としての科学へ』を読む (2)自己を認識し、他者を受け容れる

コメントなどありましたら、お知らせいただければ幸いです


これで、春のシリーズは札幌の会を残すだけとなった


第13回サイファイカフェSHE 札幌 

 4月12日(土)15:00~17:30 ( 京王プレリアホテル札幌 会議室)

免疫から哲学としての科学へ』を読む(1)免疫の理論史

 

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております




 


2025年3月19日水曜日

人生を味わい直すディネ


























今日は免疫学者の笠原正典氏に時間を割いていただき、歓談の時を持った

昨年もお話を伺う機会があったが、調べたところ7ヶ月前のことであった

ということで、久しぶりの会食となった


お話を伺っていると、悠々自適の生活を送っておられるとのことで、いろいろと人生を振り返ることが多くなっているようであった

その過程で、これまで理解していなかったことを納得するという機会が増えているとのこと

その感覚はわたしの中にもある

音楽や歴史、宗教に造詣が深く、話題が縦横に巡るという流れであった

ただ、哲学はちょっと、という感じであった

わたしも音楽や歴史には興味があるので、結構楽しみながらお話を伺っていた

バッハに関しては前回も伺ったが、今回はメンデルスゾーンが強調されていた

聴きながら、芸術的な作品の評価において重要になるものは何なのか、という疑問が湧いてきた

それが何なのかは分からないが、作る側としては自分の中にあるものをできるだけピュアな形で表現しておくということに尽きるのではないだろうか

逆に言うと、それしかできることはないということになる

それに反応する人が出るか出ないかは、天に任せるしかないような気がしている

それから、以前にも触れた記憶があるが、マイアミ大学を訪問した際に案内されたアメリカ最南端の地での写真も持参していただいた

そこには今では認識もできない若かりし頃の姿が映し出されていた

ヘミングウェイの家も含めて、懐かしい思い出である

その他、いろいろな方の消息を確かめることも行われたが、これも人生の歩みをある程度やった人同士の会話になるのだろうか


気が付くとお客さんはいなくなり、3時間半があっという間に過ぎていた

いつものように、これでよいのだ、というのが結論になりそうである



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jeudi 20 mars 2025

昨夜、携帯で見た34年前のマイアミでの写真が笠原氏から送られてきた

アメリカ最南端に行ったことがあるという証拠の品として以下に貼り付けておきたい

ここに写っているのがわたしであると認識できればの話ではあるのだが、、































2025年3月16日日曜日

あるカフェでの出来事から時間と幸福へ
















最後は激しい花粉症で終わった2週間にわたる東京でのカフェ/フォーラムシリーズ

現世に降りてのこの期間は怒涛のような毎日であった

コンシュさんではないが、まさに「縮小された時間」に生きるとはこういうことを言うのだろう

このようなことは、それまでの「果てしない時間」に近い状態ではなかったので、いつものようにすごい落差を感じた

それに関連すると思うのだが、時間に関する感じ方の違いを再確認する出来事があった


今回のPAWLで拙著『免疫学者のパリ心景』の朗読会があった

その中で「2年前に出された本は・・・でしょうか」というような質問が聞こえてきた

それを聞いた時、「2年前に」何かやっていただろうかという思いで、何のことを質問されているのか瞬時には理解できなかったのである

仕事をしていた時の感覚で2年前と言えば、自分の中ではかなり前になる

当時は時間がどんどん後ろに流れ去り、1年前でもかなり昔という感覚の中にいたからだ

免疫から哲学としての科学へ』のことを訊かれていることが分かり、それを書いたのがもう2年も前(仕事をしている時の感覚での)になることに驚いたのだった

今では、いつも目に見えるそのあたりに過去が転がっている状態になっているので、その本を書いてから2年も経っているという感覚がなくなっていたのである


今回の朗読会で読んだ中に、このことに関連するところがあった

それは、フランスに渡る2007年の初めに浮かんできた一つの感慨である


いまを生きている自分

これまでに在ったいろいろな自分

普通は昔の自分を遠くに置いたまま

時には捨て去り、それとは別の自分を生きている

それが忙しく現実を生きるということなのかもしれない

しかし、それが最近変わってきているのではないか

一瞬そんな思いが過ぎった

それはこれまでに在ったすべての自分を現在に引き上げ

彼らと話をしながら生きている、あるいは生きようとしている

そんな感覚である

そのすべてを引き受け、そのすべてが求めるところに従って歩む

そうした方がより満ちた人生になるのではないか

そんな想いが静かに溢れてきた

 

それ以来、このような考えが基底にあったのだろう

フランスに渡ってからすでに18年、カフェ/フォーラムを始めてからでも14年も経過しているが、そんな昔に始めたという感覚はなく、いつもそのあたりに転がっている

そんな感覚の中にいる

その一つの証左として、今回のPAWLでのやり取りを了解したのである

これは仕事をしていた時、あるいは「縮小された時間」に生きていた時にはあり得なかったことである

そしてこの時間の捉え方は、幸福感に至る重要な要素になるような気がしている








2025年3月14日金曜日

第20回サイファイカフェSHEで免疫を論じる
























春のカフェ/フォーラムシリーズ最終日の今日は、第20回サイファイカフェSHEで拙著『免疫から哲学としての科学へ』を肴に、生物研究のあり方や自己免疫、共生について考えた

学生さん2名を含む多くの方に参加していただいた

改めて感謝したい

話題提供者の花粉症がピークに達したようで、お聞き苦しい状態になったことをお詫びしたい


今日は、前回の積み残しとなった生物学における統一理論をどのように考えるのかという問題から始まった

さらに、仮説の位置づけあるいは重要性と同時に、別の分野の知あるいは見方が及ぼす影響などについても言及があった

それから予定されていた自己免疫と共生(特に細菌や胎児との)という現象の科学的、哲学的な側面についての議論が展開した

最後に、オーガニズムについても議論する予定であったが、それを終えることができず、次回に持ち越された

今回も落ち着いた議論が展開して視界が開ける瞬間があった

参加者の皆さんにとっても有意義な時間であったことを願うばかりである

今日の詳しい内容に関しては、近いうちに専用サイトにまとめる予定である



次回の第21回SHEは7月9日(水)、恵比寿カルフールB会議室で予定している

免疫から哲学としての科学へ』の第3章、第4章をテーマにしたい

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております






































2025年3月13日木曜日

エネルゲイアとエネルギー再考

























春のシリーズも充実のうちに経過し、明日の拙著『免疫から哲学としての科学へ』を読むサイファイカフェSHEで終ることになった

このシリーズに参加された皆様に改めて感謝したい

今回も、準備段階からそれぞれの会の内容にいろいろなつながりが見え、全体がカクテル状態になってくるのを感じていた

あるいは、それぞれを関連付けたくなる心の動きが出てきていると言い換えることができるかもしれない

いずれにせよ、それなりの時を経た証しと言えるのではないだろうか



ところで今回、参加者から「エネルギッシュですね」という言葉が出てきたのを聞き、驚いた

自分の中ではエネルギーを使っているという感覚が全くなかったからだ

そこで関連付けたくなったのが、今回のカフェフィロP'AWLでも話題になった「現実性、現実態」と訳されるアリストテレスの「エネルゲイア」である

この言葉はエネルギーの語源になっていると言われるが、「エネルギーからは想像できないような意味がある」としてきた

しかし、今回のような感想を聞くと、実は深いところでつながっているのではないか、と思い始めたのである

それはこういうことである



まず、エネルゲイアに関する藤澤令夫氏の説明を聞いてみたい

彼は、単純な動きや移動を意味する「キネーシス」と比較しながら、エネルゲイアの特徴を以下のようにまとめている
1)キネーシスはその行為自体が目的ではないが、エネルゲイアはそれ自身が目的であり、目的が行為の中に内在する 
2)キネーシスの場合には現在の状態とその完了が乖離するが、エネルゲイアの場合には現在において完了してしまう
3)キネーシスは目的に至るまでは常に未完成だが、エネルゲイアはいつも完成され、完全である
4)キネーシスは時間の内にあるが、エネルゲイアは時間とは無縁である
5)キネーシスは「どこからどこまで」という条件に規定されるが、エネルゲイアにはそれがない
6)キネーシスには速い遅いがあるが、エネルゲイアには速さと遅さがない

つまり、エネルゲイアにおいては、今何かをやった瞬間に目的を達成してしまっているので、常に満たされた状態にいることができる

これこそ幸福と言ってもよいのではないだろうか

しかし、忙しく仕事に追われていると、この状態を経験できない

常に先にある目標に向かっているからだ

さらにこの状態に入ると、自分が移動しているという感覚がなくなり、周りが勝手に動いていくように感じられるのである

つまり、どこに行くのにも、何をやるのにも、自分が前に向かって運動しているという感覚はなく、自分は今ここにいるだけで周りが動いてくれるので、精神的に全く疲れないのである

こう説明した時、何を呑気なことを言っているのか、信じられない、などという声も耳に入ったが、本当にそれが実感なのである


そこで今日の本題である

実はそこに、エネルゲイアと、エネルギーあるいはエネルギッシュとの深いつながりがあるのではないかと思えてきたのである

つまり、この状態に入ると、身体的にはどうか分からないが、精神的には何をやっても全く疲れないので、外から見るとエネルギッシュに見えるということになる

なぜなら、本人は何かをやった瞬間に常に完成し、常に満たされた状態にいるからである

この感覚はフランスに渡る数年前から自分のものになっており、フランスでそれがエネルゲイアであることを藤澤令夫氏の著作で知り、何でもすでに考えられていることに驚いたのである

こうして振り返ると、アリストテレスのこの概念は、わたしの生活の根底を支えてきたキーコンセプトなっていたことが見えてくる

今回のシリーズの大発見(あるいは再発見)と言ってよいかもしれない








2025年3月12日水曜日

現世で生きるということ
















今回の滞在は、現世との接触に溢れていた

一つの可能性を探っていたからである

そこで有効だったのが、先週のPAWLでも取り上げられたアリストテレスの「エネルゲイア」である

これを我が物にすると、どんなにスケジュールが混み合っていても、少なくとも精神的には疲れない


普段は天空(あるいは沼底)で気楽に暮らしているのだが、そこではすべてがスムーズに進む(ように感じている)

こちらが何らかの働きかけをすれば、それにちゃんと答えてくれるのが普通である

ところが、現世に降りるとその予想が覆されることがある

こちらが伝えたつもりになっていたものを相手が見ていないことがある

ということなど考えも及ばなかったのだ

現世においては、そういうことがあるので注意するように生きなければならないのだろう

今回の教訓である

いずれにせよ、今回模索している可能性はまだオープンである






2025年3月10日月曜日

学生時代の音楽仲間と再会、熱く語り合う






今回の滞在を前に、学生オーケストラの後輩である山崎君(Trp)からお誘いをいただいた

思い返せば、昨年も同じお誘いをいただき、懐かしい時を過ごした

今回は、前回参加された山下(Ob)、安養寺(Fg)両君に加え、新しい方とお会いすることができた

わたしの「パリから見えるこの世界」というエッセイシリーズについて、毎回のように文学的で哲学的な示唆に富むコメントをお送りいただいた先輩の松山さん

当時の演奏会でラベルのピアノ協奏曲などを共演した思い出深いピアノの植田克己さん
今や日本の音楽界を支えるような存在になられている

さらに、同期の毛利君(Cla)、20年ほど前のラ・フォル・ジュルネで偶然会って以来の後輩塩野君(Ob)にも足を運んでいただいた


昨年もそうであったが、残念ながら逆光のため、皆さんのお顔が判然としないのは幸いなのだろうか

不思議なもので、会った途端に学生時代の口調になるだけではなく、全身で反応しているのには驚いた

今回も学生時代の全く記憶にない行状が明らかになり、内心赤面することもあった

さすがに、わたしのように楽器をなくした人はいなかったうえ、機会をとらえて今でも演奏されているようだ

わたしの生活に興味を持たれている方がおり、詳細に質問をされてきた

日常に追われていると、異次元の世界に見えたのではないだろうか

最後までピンとは来ていないようであったが、それでよいのだと思う

わたしが「最後の眠り」について話した時、横にいた塩野君がリヒャルト・シュトラウス(1864-1949)の「4つの最後の歌」の最後が非常に良い!と教えてくれた

4つの歌とは

 「春」 (Frühling)
 「九月」 (September)
 「眠りにつくとき」 (Beim Schlafengehen)
 「夕映えの中で」 (Im Abendrot) 

最初の3つはヘルマン・ヘッセ(1877-1962)作で、最後はヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ(1788-1857)という初めてのドイツの詩人作

ヘッセについては松山さんからもいろいろなコメントをいただいたので、不思議な感じがしている

ところで「夕映えの中で」が何をうたっているのか、AI に訊いてみた

  困難と喜びをともにしながら
  私たちは手を携えて歩んできた。
  いま、静かな大地を見下ろしながら
  (ともに)旅の疲れを癒している。

  まわりの谷はゆるやかに傾き、
  すでに空は夕闇に染まりゆく。
  ただ二羽の雲雀だけが
  夢見心地に霞の中へと舞い上がる。

  さあ、こちらへ来て、
  彼らの羽ばたきを見守ろう。
  まもなく眠りの時が訪れる。
  この孤独の中で
  道に迷わぬように――。


演奏はカラヤン(1908-1989)+グンドゥラ・ヤノヴィッツ(1937- )が最高とのことだったので、以下に貼り付けておきたい















2025年3月8日土曜日

第13回サイファイフォーラムFPSS、終わる






















今日は、終わりには雪になった寒い一日であった

そんな中、第13回のサイファイフォーラムFPSSが開催された

年度末のお忙しいところ、お集まりいただいた皆様には改めて感謝したい

プログラムは以下の通りであった

 1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑦ 「プラトンの宇宙論」

 2)細井宏一: 人文科学と自然科学の間にあるサイエンス——啓示か、観察か、それとも・・・——

 3)岩倉洋一郎: 科学は自らの発展を制御できるのか?


1)拙「科学と哲学」シリーズはすでに7回目を迎え、ソクラテス以前の哲学者が終わり、前回からプラトンに入っている

今回はその宇宙論について概観した

プラトンの世界観は、常に在る生成しないものと、常に生成・消滅し、真に在ることのないものを識別することから始まる

宇宙はそのどちらになるのかとの問いが出されるが、それは後者である

物体性があり、感覚で捉えられるからである(そういうものは生成されたものなので)

それでは一体、誰がどのように宇宙を造ったのか

それが語られた


2)細井氏は、自らの人生を振り返り、それまで欠落していたと結論された「考える」という営みに入られた経緯から始められた

その後、科学、哲学、神学など幅広い領域について、豊富な歴史的考察を交えた分析が進められた

よく理解できないことが少なくなかったので、時間をかけて振り返ることにしたい

今回、一貫して強調されていたのは、人間の特徴である「考える」ことをどのようにやっていくのかということではなかっただろうか

それは科学を考える以前に重要になることのように感じられた


3)岩倉氏の話題は、特に遺伝子改変や人工知能の領域における最近の進歩がもたらしている倫理的な問題についてであった

指摘された問題については、専用サイトにまとめる予定である

演題は、科学がこれらの問題について考え、制御することができるのかという問いであった

個人的には、それは難しいのではないかというのが直感的な回答になるだろう

なぜなら、現在の科学にはこのような問題を考える自省的な側面が組み込まれているようには見えないからである

そこで提唱しているのが「形而上学化された科学」で、現在の科学の中に、このような問題について考える営みを内包させた新しい科学(「新しい知のエティック」と言ってもよいだろう)である

もし、上述の新しい科学が広く実践されるようになれば、この問いの答えはイエスに変わる可能性はあるだろう

いずれの演題の詳細も、近日中に専用サイトに掲載する予定である



なお、第14回FPSSは、7月12日(土)恵比寿カルフールのGalleryで13時から開催されます

プログラムは決まり次第、この場に掲載する予定です

次回もよろしくお願いいたします