秋のカフェ/フォーラム東京シリーズが始まった
今日は午前中から先日訪問した公園のカフェで準備したが、オープンスペースで考える喜びを味わいながらの作業となった
完全に時間が消える甘美な滞在ともなった
夜は、第12回ベルクソンカフェでマルセル・コンシュの『形而上学』の「まえがき」と「プロローグ」を読んだ
「まえがき」では、コンシュが考える自らの哲学を35の項目に要約したものが提示されている
彼が考える哲学は、現実の全体とその中にいる人間に位置についての「自然の光」(デカルトが言うところの)による真理の探究である
ここに出てくる「現実の全体」とは何をいうのか問われなければならないだろう
彼は道徳と倫理を分けて考えている
道徳とは人間が遂行しなければならない無条件の義務であり、倫理とはその上で個人の選択に任されているもの、生き方の選択である
そして、彼の倫理は幸福の探求でも知恵の探究でもなく、真理の探究だという
さらに、形而上学としての哲学は科学ではないし、そう主張する必要もない
科学は範囲を狭め、証拠をもとに論証を通して、コンセンサスの得られる仮ではあるが真理を獲得する
それに対して、形而上学としての哲学には証拠はなく、その方法論は瞑想だという
したがって、形而上学はそこに整合性があれば成立可能で、いくつもの可能性がある
一つの哲学は理性だけではなく、その人間のすべての能力、その人間の持てる資源を駆使して試みるものだという
それゆえ、哲学には一つの個性を刻印しているし、していなければ本物の哲学ではないと言いたいようである
というような調子で議論が展開していく
コンシュの議論は細かく厳密で、言葉の使い方にも細心の注意が払われているように感じるという感想もあった
詳細は近いうちに専用サイトにまとめる予定である
訪問していただければ幸いである
vendredi 7 novembre 2025
これまでに、参加者から以下のようなコメントが届いております。
◉ 本日の原文テキストは、これまでで最もスッと読める文章だった。講師も含め出席者の皆さんもそう感じていたためか、読後の質疑応答・議論の時間が長めに取れたのが良かった。今後の会も楽しみになるテンポであった、というのが今回の会の感想である。それでは、内容について、興味をもった点をここに記しておきたい。今回の読書会で取り上げられたテキストは、コンシュがフランス語で著した著作のprologueの文章である。講師が和訳されているテキストも配られて、仏語でまず読み、和訳の助けを得ながらコンシュの考えを理解する試みを行った。
講師の和訳が一冊の本になるときが楽しみである。そう感じさせる名訳を今回のテキストの中からひとつ挙げてみたい。仏語原文のテキストの Page5 の 28) La sagesse est une éthique cohérente avec une métaphysique. のcohérenteの和訳である。講師は、「矛盾しない」と講師の和訳テキストでは訳して下さっている。読者への「優しい配慮」だろう、と会の中で感じた。日常フランス語の和訳ならば、「首尾一貫した」とでも訳すのであろうが、敢えて「矛盾しない」と訳してくださっている。このような配慮に、講師の「コンシュ」という哲学者をに興味を抱いてくれる人が増えてくれたらな、という想いが伝わってくる。このcohérenteという言葉。「コヒーレント」といえば、理工系には、単なる日常語の「一貫性」なだけではなく、専門用語でもある。レーザー等の専門分野では、その分野の定義で使われている。であるから、哲学者が哲学の著作のなかで、cohérenteと使っているからには、哲学的な定義とその定義についての様々な議論もわかっていなくてはならないのだろう、と読者は想う。会の後で調べてみたらやはりそのようであった。
といった感じで、ひとつひとつこれは「哲学用語」であろうと、一語一語調べながらコンシュの原文を熟読するのも一つの読み方であろうが、哲学科の大学生ならばその余裕もあるかもしれない。そうした余裕がない者でも、コンシュの思想をまず垣間見てみようとするならば、ともかくも、まず、ひととおり通しで読んでコンシュの哲学の概観をつかんでみることである。そうした観点から講師の和訳を眺めるならば、読者に対する講師の思いやりと気遣いが感じられる名訳なのである。「矛盾しない」という訳は、「まあ、ともかく、ひととおりリズミカルにコンシュの考えを読んで把握して概観できるようになってから、細かい、哲学的言葉遣いを覚えて行けばいいさね。」という眼差しが読者を見守っているように感じられる。この著作の和訳本が上市されるときが楽しみである。
◉ 昨日はありがとうございました。マルセル・コンシュは自然を無限そのものとして捉え、古典期のパスカル、カント、ヘーゲルらの人格化された神に基づく哲学を批判し、無限を制限するその構造に異論を唱えています。それは、神が意思や目的を持つ存在として想定されると無限がそれによって制限されるということだと思います。ただ、コンシュのいう無限は私の頭には明確なイメージとして形成されていません。到達し得ない無限、無限の外側にも何かが想定されるニュアンスのような、明確にイメージできるものではないのかもしれませんが・・・。
コンシュは自然を神格化せずに、無限の自然こそが哲学の基底であると主張しています。この自由な思考の拡がりに私は共感を覚えます。コンシュは、すべての物事の場、あるいは普遍的な包摂体としての自然の哲学は、精神の合意を実現できなければならず、グーロバル化の時代においては、哲学的エキュリズム(統合主義)を可能にするものでなければならない。それは、自然主義的な知恵なしには進まないとしています。これは宗教や文化を越えて自然という共通の現実に基づいて人々が理解し合える可能性があることを示しているのではないかと思いました。
そして、形而上学としての哲学は科学ではない。一つの哲学は理性だけでなく、人間のすべての能力を駆使して試みるものなのである。哲学は人生と作品に最大限の価値を与えることを目指すもので、それはわれわれの後に続く者たちへの愛の中にあり、作品もまた愛の中にあると述べています。このコンシュの「形而上学」のまえがきとプロローグには、自然から多くのものことを感受しそして瞑想を重ねた結果である、彼の哲学の集体成が示されていると思いました。彼の哲学への姿勢と彼の人格もここには滲み出てきているように私には感じられました。理解不十分なことも多く、コンシュの自然哲学をもうすこし掘り下げていければと楽しみにしています。有難うございました。