2025年10月1日水曜日

改めて、ブログ「フランスに揺られながら」から20年


























すでに触れているが、最初のブログ「フランスに揺られながら」のプラットフォーム goo のサービスが11月で終了なるとのことで、5月に Hatena Blog に記事を移した

このブログを始めたのはフランスに渡る2年前の2005年2月なので、今年で20年が経過したことになる

当時は気づいていなかったが、それはわたしの思索生活の始まりを意味していた

今振り返ると、この20年は一つの塊としてそこにある

もう少し具体的に言うと、それ以前のように出来事が下の方にどんどん堆積していくというイメージではなく、一つの同じ平面に散らばっているという感じなのである

そのため、視点を少しだけ上の方に移動すれば、その全体を眺望できるという状態になっている

過去が埋もれてしまわないとも言えるだろう


トルストイ(1828-1910)は、意識的に生活するようになってからその人間の人生が始まると言った

もしそうだとすれば、わたしはやっと成人したことになる

随分と遅い誕生ではあったが、それを支えていたのがブログ「フランスに揺られながら」だとすれば、感慨深いものがある

幼少期の記録がそこにあるとも言えるのだが、基本となる考えの芽はすでにそこに表れているような気がしていた

Hatena Blog は読みやすいので、折に触れて読み返し、確認したいものである











2025年9月30日火曜日

今年も四分の三が経過、何思う

































気が付くと、今年もすでに四分の三が流れ去っている

ということなのだが、そのすべてを掬い上げているという感覚もある

一日が長く感じられるようになって久しい

それは、一日の終わりに振り返ってみると、朝に想像していたものとは全く別物の日になっているということを経験し続けるようなものである

朝と夜が同じ一日とは思えないという感覚である

いずれにせよ、今年も年初には思いもしなかったようなことに踏み出している

そして、想像もしていなかったようなことが起こっている

残り四分の一も相当長い時間である

注意深く観察しながら歩みたいものである

10月からサイファイカフェSHE札幌(今回で15回目を迎える)を皮切りに秋のカフェ/フォーラムが始まる

どんな発見があるのか期待しながら、徐に準備を始めることにしたい












2025年9月29日月曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(11)





今日から、第2章「近代の自然哲学.自然学者.自然主義者.実証主義者」に入りたい

この章は、次のような構成になっている

第1節 自然哲学と近代自然学

 1 自然学と数学

 2 数学的自然学と実験技術

 3 自然哲学と技術的思考

第2節 自然哲学と自然主義者

 1 自然の秩序の表象の探究

 2 生理学の研究.機械論と生気論

 3 古い自然主義と新しい自然主義

第3節 自然哲学と実証哲学

 1 自然の秩序と技術の進歩

 2 自然哲学と諸科学の実証哲学

 3 自然哲学と現代の新実証主義












2025年9月19日金曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(10)





今日は、アリストテレス(384-322 BC)の自然学と敵対する体系としての原子論と新プラトン主義がテーマのようだ

なぜ原子論と新プラトン主義が敵対するのか

それは、アリストテレスの中では結びついていた「自然哲学」と「自然の哲学」の絆を緩めているからである

すなわち、原子論の自然哲学は客観的明証性の上に立っているし、新プラトン主義の自然の哲学は観念論的・内省的明証性から生まれているのである

この点について、前者についてはルクレティウス(c. 99-55 BC)の『物の本質について』、後者についてはプロティノス(c. 205-270)の『エンネアデス』にある「自然、観照、一者について」を例に検討してみたい


自然哲学は、原理的に自己の理性の分析と自然の働きとの間に平衡を打ち立てようとする

例えば、アリストテレスは自然の働きを職人の活動に透写して説明する

擬人論的な側面である

これに対して自然の哲学は、擬人論的思考を遠ざけ、自然についての経験と一致させて(自然からの与件に合わせて)説明しようとする

物の本質について』には、自然と理性の擬人論的同化が最初から見られる

しかしアリストテレスとは異なり、そこから超越的で至上の自然についての経験への超出が見られない

自然は本質的に物体と物体が運動する空虚から成り立っていると考える

アリストテレスの有限で円環的なコスモスに対して、あらゆる方向で衝突し合う混乱した無限の宇宙像を描くのである

すべては盲目的進化の結果であり、そこでは偶然と必然が主役で、神を見ることはない


プロティノスと新プラトン主義の思想は、遥かに高く、遥かに遠いところから見る自然の哲学を現している

エンネアデス』では、自然の機械論的解釈をアリストテレスの技術主義として隔てている

自然は形相であって、形相と質料の合成物ではないとする

自然は手仕事によるのではなく、霊魂であるという唯心論的自然学に向かう

事物が存在するのではなく、精神的生の運動が存在する

観照する主観しか存在しないのである

プロティノスにおいて、自然はどう解釈されるのだろうか

彼は答える
自然とは、沈黙の、だがいくらか曖昧な観照である。なぜなら、自然についての観照とは別の、またそれよりもっと明確な観照があるからである。
より明確な観照とは、霊魂が知性的秩序を観照することによって成し遂げる観照だという

自然が質料の中に映る夢のように見えるのは、この観照の下層においてである

そして、この層の反映を抽象すれば、あらゆる実在を欠いた場所しか残らないという


プロティノスによれば、行動は決して観照の延長や補足物ではなく、それはむしろ観照の「衰弱」を意味している

彼は言う

「観照が人間のうちで衰弱する時こそ、人間は行動に移る」

わたしはいかなる図形も引かないが、「わたしが観照すると、物体の線はあたかもわたしから落ちるかのように現実化する」

観照こそ、人間の最高の営みであり、それは生成的な力を持つと言いたいようである

これで第1章が終わったことになる







2025年9月17日水曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(9)





これまで見たように、アリストテレス(384-322 BC)の自然学の体系内部には、探求者の「自然哲学」と理論家の「自然の哲学」が同居し、そうあることを理想としていた

しかし、彼の後継者や中世のアリストテレス学徒はこの課題を成し遂げるすべを知らなかった

彼らの中では、「自然哲学」と「自然の哲学」の間に亀裂があり、2つの学問の間の調和は消失していくのである

中世文明が確立した時期を見ると、ギリシア・ローマの自然主義の伝統を継承するロバート・グロステスト(c. 1175-1253)、ロジャー・ベーコン(1214-1294)、ヴァンサン・ド・ボーヴェ(c. 1184/1194–c. 1264)、アルベルトゥス・マグヌス(c. 1200-1280)などの探究者群が見られる

彼らは明晰な観察者であり貪欲な経験の蒐集者ではあったものの、認識の分散を克服して体系的全体へと統合させることには興味を示さなかった

しかし同時代に真の哲学的精神を発揮したのは、スコラの神学者や形而上学者の一派であった

中でも著名なのは、トマス・アクィナス(c. 1225-1274)である

しかし、彼の興味は神学であり、彼が付きあっていた科学は、モンテーニュ(1533-1592)に言わせれば、千年以上昔の書物の中の死んだ科学であった

「自然の哲学」が実験的探求から断ち切られていたのである

聖トマスの著作を見ると、「自然の哲学」に帰せられる形相性を通しての解析よりもはるかに多くの質料性において考察されている

「自然の哲学」の考察――原理と原因のレベルにおける世界の出来事の考察――を止めるのである

ガリレイ(1564-1642)の『新科学対話』(1638)においても哲学者を皮肉っている










2025年9月16日火曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(8)



今日は、「第一動者」(不動の動者)についてである

アリストテレス(384-322 BC)の世界において、自己自身で可能態から現実態に移行するものは何もないとすれば、動いているものは他のものによって動かされていなければならない

しかし、このような原因と結果の連鎖を際限なく遡ること(無限後退)ができない

そこから、形なく、動かず、永遠で、その衝撃が宇宙の果てまで伝わる「第一動者」が想定されることになる

 アンバシェは言う

運動と変化についての感覚的経験に出発点を置きながらも、形而上学的分析は感覚的経験を、経験的特殊性を通してではなく、「存在としてのかぎりにおいて」われわれに把捉させる

ここは「科学の形而上学化」を考えるうえでも重要なところだと思うが、具体的にどういうことを言っているのだろうか

最初はあくまでも経験から出発する

そこから明らかになったことを個別の経験的レベルに留めるのではなく、その存在のレベルにおいて成り立つ構造や法則に思考を飛躍させるのが形而上学である、と言いたいのだろうか

それが、不動の動者に至った思考過程だということなのだろうか


天体論』の「自然哲学」が観察のデータと数学的表象においてしか考察しないの対して、「自然の哲学」は第一動者を一種の世界霊魂という形で盲目的必然性として把握するところで満足する

「形而上学」は、それが神学であるがゆえに、第一動者の存在そのものにまで到達する

形而上学者は、自然学的事実や機構、あるいは自然学者の第一動者以上のもの――天界と自然全体を経巡っているのは、渇仰と欲望の徴表のような何かである、というような――を見るという

自然とすべての自然的存在によって住み慣らされた領域の外へわれわれを導き出すのである


アンバシェは次のようにアリストテレスの思想をまとめる

形而上学者の宇宙の原理は「純粋の現実態」であり、すべての存在がそれを渇仰する。それは自己自身の内に自己の対象を見出す至福で単独な思惟である。

宇宙の原理は純粋の現実態であり、思惟だと言っている

これはどういう意味なのだろうか

現実態とはすでに完結してしまったものなので、他のものによって動かされることがない

むしろ相手に働きかけるもの、相手を引き付けるもので、それは真善美のような憧れの対象になるものでなければならない

そのような憧れの対象の在り方は、自己充足した思惟、自分に閉じた至福の思惟に他ならないという

宇宙を動かしている原理は、このような思惟だと言いたいようだ

驚くべき思考の羽ばたきである






2025年9月15日月曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(7)



















生物学的研究のおかげで、第三の要素が「自然の哲学」に入ってくる

生について、記述的・観察できる特性を考察するのではなく(それは「自然哲学」の仕事である)、原理や原因のレベルで分析することが課題になる

アリストテレス(384-322 BC)は、生の自然的原理を霊魂(プシュケー)であるという

最も初歩的な霊魂は、栄養摂取的な生を営む上で基底にあるようなもの

次に動物の感覚的霊魂があり、五感を通して受け取るもののほかに、快楽、苦痛、嫌悪、欲望を感じる能力も持っている

さらに、想像や記憶を持つ動物もおり、人間に見られる最高の能力は知性あるいは理性である


そのうえで改めて、アリストテレスにとって 自然学とは「自然的な運動や変化をもつ存在の研究」であり、自然的な存在は「質料」(ヒューレ)と「形相」(エイドス)から成り立つ

霊魂を神学的なものではなく自然学の対象とし、自然体としての生命存在の原理 として理解されると考えたのである

彼の出発点は、自然的発動者としての霊魂が、自然それ自体のように、運動の原理であるはずだという考えである

しかし、自然的運動は有魂の存在には含まれないと言われる

霊魂は動かされず、動かす主動者であり、運動の原因である

霊魂は質料の形相化のレベルに位置づけるられる

目の霊魂は視覚を働かせることであるという言い方をする

霊魂は「自然的・有機的物体の第一の現実態」(生きているものに生命を与える第一の現実態)である

霊魂の本質的特徴として示されるのは、形相と目的になる














2025年9月14日日曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(6)





自然の定義の後に、自然活動を構成する四原因(質料因、形相因、作用因、目的因)に影響を与える条件 ≪宇宙論的カテゴリー≫ の考察が続く


1)偶然と必然: 

アリストテレス(384-322 BC)の自然学では、目的をもって(必然的に)運動・生成する
 
しかし、われわれの日常では目的もなく偶々起こることがある

アリストテレスは、一見すると目的論に反するこのような現象を説明する必要があった

この問題に対して、偶然を「秩序の外の混沌」ではなく、「秩序の中の副次的現象」として位置づけ、彼の考えの大枠を保持した


2)無限と空虚:

  デモクリトス(c. 460-c.370 BC)やエピクロス(341-270 BC)によれば、分割できない原子と空虚からこの世界は成り立っている

そこでは、いろいろな種類の原子が空虚の中を動く機械論的な世界が垣間見える

アリストテレスは、世界には「現実態における」無限はなく、「可能態としての」無限は存在するとした

さらに、そこには「現実的な」空虚も含まないとした

なぜなら、空虚の中では運動は無限の速度になるから

無限や空虚を認めると、目的論的世界観が揺らぐと考えたからだろうか


3)場所と時間:

アリストテレスの世界観の特徴は、次のように言うことができるだろう

第一に、重いものは低所に、軽いものは高所に向かうのが自然であるということと、第二に、存在は一続きの包まれるものと包むものからできているということがある

これにより、存在を限定し、そのものにとって自然な(目的に沿った)動きをすると理解していることが分る

アリストテレスの場所は「包むものの動かない第一の限界」と定義され、「不動の包むもの」である

これに対して、例えば液体を入れた瓶や船を運ぶ川は、「場所」というよりは「容れもの」になるだろう

時間は、運動と意識との依存関係で規定される

われわれの精神が全く動いていない(と思われる)時、あるいは周りの運動に気づかない時には時間が経過したように感じない

運動がない時には時間は存在せず、時間は運動の数によって測定できることになる

月下の世界の出来事は時間の中に包まれ、諸物体は普遍的な場所の中に包まれている
 
のちにプロティノス(c. 205-270)が言うような至福な、消滅を免れる存在は、時間の中に包まれてもいないし、時間で測定されもしない

最近のわたしの経験から想像するとすれば、これは絶対的幸福の状態と言えるのかもしれない










2025年9月11日木曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(5)































これまで、自然(天体、月下の世界、植物、動物)を事実と観察において見る「自然哲学」について簡単に触れてきた

今日から、それとは別の流れにある「自然の哲学」について見ることにする

前者が経験的探求に重きを置くが、こちらは諸現象の存在と運動についての説明に重点が置かれる

具体的には、8巻に及ぶ『自然学』と3巻から成る『霊魂論』である


自然哲学はコスモスの像から始まったが、自然の哲学は自然的世界の定義とともに始まる

アリストテレス(384-322 BC)によれば、「自然的」とは自身の中に動的自立性(運動・静止)の原理を有するもののことである

例えば、星の周転、軽い物体の上昇、重い物体の落下、動物の移動など

しかし、寝台とか外套などの類はすべて技術の産物であるので、自然的傾向を有しないとする

自然と技術の関係を見ると、自然も技術も目的のために作用する

この両者は、目的因によって説明されるのである

さらにアリストテレスは、鍛冶屋の技術と動物の発生を比較する

この両者は外的作用と内的作用という違いはあるが、質料に形相を与えて一つの目的を達成するという点では共通する

技術は自然を模倣すると言われる所以である


アリストテレスは、自然学(天文学、光学などを除き)と数学を乖離させる

自然に対する自然学的アプローチと数学的アプローチは両立しないという立場である

数学は感覚的特性を考慮に入れないが、自然学の対象は感覚的質料と形相を持ち、目的に向かう傾向がある

したがって、 後のガリレイ(1564-1642)やデカルト(1596-1650)がするような運動の評価や測定は自然学の問題にはならない

自然の哲学の目的は、個々の運動が宇宙的全体の調和にどのように寄与しているのかを探ることである









2025年9月6日土曜日

秋のカフェ/フォーラム・シリーズのご案内





秋のカフェ/フォーラムの予定が以下のように決まりましたので、お知らせいたします


◉ 2025年10月18日(土)
第15回サイファイカフェSHE 札幌

『免疫から哲学としての科学へ』を読む(3)
オーガニズムレベルと生物界における免疫を見渡す


◉ 2025年11月5日(水)
第12回ベルクソンカフェ

マルセル・コンシュの哲学(2)
『形而上学』の「まえがき」と「プロローグ」を読む
<このように変更になりました――2025.9.11>


◉ 2025年11月8日(土)
第15回サイファイフォーラムFPSS

(1)矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑨
カール・ポパーによるプラトン批判
(2)尾内達也: 時間論の起源とTime being-Labour being Theory
(3)久永眞一: 妄想と幻覚の正体?


◉ 2025年11月12日(水)
第13回カフェフィロPAWL

『免疫学者のパリ心景』を読む(2)
この旅で出会った哲学者とその哲学
ファシリテーター: 岩永勇二(医歯薬出版)


◉ 2025年11月14日(水)
第22回サイファイカフェSHE

『免疫から哲学としての科学へ』を読む(4)
免疫の形而上学


◉ 新企画です
2025年12月6日(土)
第1回サイファイ対話CoELP(哲学者との生命倫理対話)

講師: 中澤栄輔(東京大学)
生命倫理の問題を考える―いのちの終わりの倫理



興味をお持ちの方の参加をお待ちしております
よろしくお願いいたします