2025年11月15日土曜日

イーロン・マスクが語る古代ギリシア哲学



秋のカフェ/フォーラムがひと段落して、少しのんびりできるようになった

Youtubeに行くと、わたしの辞書にはなかったイーロン・マスクが並んでいる

マスクに触れるのは初めてではないだろうか

そして、その話を聞いて驚いたのである

それが、わたしの考え、そしてわたしが体得したことと完全に重なっていたからである

それは新しいことではなく、古代ギリシアの哲学が教えていること、そのものなのである

それを実践することにより、時間はかかるが、確かにマスクが言っている境地に入ることができる

と、わたしは保証することができる

それにしても、こんなところでつながってくるとは思わなかった

驚きの週末である







2025年11月14日金曜日

第22回サイファイカフェSHEで免疫を統合的に議論する






















本日は第22回サイファイカフェSHEを開催し、拙著『免疫から哲学としての科学へ』を読みながら免疫を広い視野から検討した

免疫の本質に至る方法として、解析の対象になるものをできるだけ多く集め、そこに共通して見られる最少要素を探し出すというやり方を採用した

これはソクラテスがやった方法と同じで、アリストテレスはそれを本質を抽出する方法と見なした

その結果、本質的な機能要素として、認識、情報統合、反応、記憶の4つを抽出し、この過程を「認知」と仮に規定した

これは神経系と同じ機能要素で、最近の免疫と神経の直接の結びつきを示す結果はその前提を補強するものである

つまり、免疫は全身が一体となって機能する生存に不可欠の要素であることが示唆される

そこから、スピノザの「コナトゥス」とカンギレムの「規範性」を参照して、免疫を見直す作業を行った

これは著者が言う「科学の形而上学化」の過程であるが、その意義についても議論された

詳細は近いうちに専用サイトに掲載する予定である

訪問していただければ幸いである


























今回で『免疫から哲学としての科学へ』の読書会を完了したことになる

懇親会では、これからも免疫をテーマにした会を継続してほしいとの声が聞こえた

例えば、クリルスキー著『免疫の科学論』やコサール著『これからの微生物学』などの書評会あるいは読書会など

その他、今回の免疫論に続く「免疫論2.0」とでも呼ぶべきものが生まれるようであれば、それについての話があっても面白いのではないか

非常に積極的かつ具体的な提案があったので、来年に向けて考えておくことにしたい

決まり次第、お知らせする予定である

参加された皆様に改めて感謝したい













2025年11月12日水曜日

第13回カフェフィロPAWLで『免疫学者のパリ心景』を読み、古代に思いを馳せる
























今日は、第13回になるカフェフィロPAWLが開かれた

初めてではないかと思うが、参加申し込みされた5名のうち4名が欠席されるという事態になった

そのせいか、プログラムも話の内容も自由度の高いものになったようである

テーマは、拙著『免疫学者のパリ心景』の第2章「この旅で出会った哲学者とその哲学」からいくつかの節を読もうということであった

当初の予定では、ハイデガー、ディオゲネス、エピクテトス、マルクス・アウレリウスを読むことになっていた

しかし流れで、ハデガーではなく、エピクロスを読むことになった


本書が出たのはもう3年前になる

そのため、当時感じていた気持ちを再現するのに努めなければならないところもあった

印象の鮮明さが薄れてきているからだろう

例えば、この章のエピグラフはデカルトの『方法序説』から次の言葉を選んだ

当時の気持ちをこの一字一句が写し取っていると感じたからである
そしてちょうど八年前、こうした願望から、知人のいそうな場所からはいっさい遠ざかり、この地に隠れ住む決心をした。・・・ わたしはその群衆のなかで、きわめて繁華な都会にある便利さを何ひとつ欠くことなく、しかもできるかぎり人里離れた荒野にいるのと同じくらい、孤独で隠れた生活を送ることができたのだった。(谷川多佳子訳)
しかし、今では当時の感動は蘇ってこない

これは致し方ないのかもしれない

今その状態にはいないからである


ところで、今日読んだのはいずれも古代ギリシア・ローマの哲学者であった

当時の自由な空気が伝わってくるように、実に多様な哲学が展開されていた

大きな理由はキリスト教以前であったため、精神への拘束が少なかったためではないかという見方がある

マルセル・コンシュなどはそう考え、哲学者になるとはギリシア人になることである、といフォルミュールまで作っている

立ち居振る舞いが異常に見えることがあったとしても、そこには「精神の高貴さ」が認められるという発言もあった

現代社会ではなかなか聞くことがない言葉である

そういう精神の状態が希求されていないので致し方ないだろう

個人的には、そういう状態を求めたいところである

プラトンによれば、あるものの本質はその始祖に表れているという

そうだとすれば、哲学の本質的なものは古代ギリシアの哲学の中にあると言えるのではないだろうか

汲めども尽きぬ泉がそこにあることになる


詳細な内容は近いうちに専用サイトにまとめることにしている

訪問していただければ幸いである




































2025年11月9日日曜日

新著『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』が刊行される
































先週の金曜にアップロードした新著『生き方としての哲学:より深い幸福へ――アドー、コンシュ、バディウと考える』が本日発売になった


これは、フランス語を読み哲学する「ベルクソンカフェ」でこれまで取り上げた3人の哲学者の思想を「生き方としての哲学」という視点から読み直したものである

そこに、いずれの哲学者からも問題にされる幸福の問題が現れる

この問題にわたし自身も参加してみた

哲学が困難になっている現代社会において、哲学をより深く、しかしわれわれの日常との関係を考慮に入れながら捉え直そうとしている

進歩がないとされる哲学だが、ひとところに留まるということもまたありえないのだ

そのほかにも多くの思索を誘発する種子がいろいろな形で埋め込まれている

本書は今年設立したISHE(アイシー)出版が世に問う最初の作品となる

どうか手に取ってお読みいただき、コメントをお寄せいただければ幸いである


















2025年11月8日土曜日

第15回サイファイフォーラムFPSS、盛会のうちに終わる























今日は午後から日仏会館で第15回サイファイフォーラムFPSSが開催された

個人的には、いつものように直前まで準備に追われていた

最後のところでやっと着地点が見えてくるという幸いに恵まれ、比較的気持ちよく会に臨むことができた

プログラムは以下のようになっていた

最初に、わたしのシリーズ「科学と哲学」第9回として、カール・ポパー(1902-1994)によるプラトン批判を取り上げた

前回、プラトン哲学に対して批判的な目を向けている人物がいることに気づき、その視点を調べておく必要があると思ったのが切っ掛けである

具体的には、彼の論考『開かれた社会とその敵』の冒頭を読んで、プラトン哲学のどこがどのように問題なのかについて考えることにした

テーマが政治的な問題であり、生きるということと密接に関連しているためか、自分の中ではこれまでにないほど力が入っていたように感じた

それが外に現れていたのかどうかは分からないのだが、、



























それから、尾内達也氏による「時空間についてのTNS理論」と久永眞一氏の「妄想と幻覚の正体?」の発表があった

こちらの発表は内容が濃いだけでなく、スコープが広いため、時間内にその全貌を理解するところまではいかなかった

これから時間をかけてその姿が見えるところまで持っていく必要がありそうだ

まとめは専用サイトに掲載する予定なので、訪問していただければ幸いである









































2025年11月5日水曜日

第12回ベルクソンカフェでコンシュの『形而上学』を読む














秋のカフェ/フォーラム東京シリーズが始まった

今日は午前中から先日訪問した公園のカフェで準備したが、オープンスペースで考える喜びを味わいながらの作業となった

完全に時間が消える甘美な滞在ともなった

夜は、第12回ベルクソンカフェマルセル・コンシュの『形而上学』の「まえがき」と「プロローグ」を読んだ

「まえがき」では、コンシュが考える自らの哲学を35の項目に要約したものが提示されている

彼が考える哲学は、現実の全体とその中にいる人間に位置についての「自然の光」(デカルトが言うところの)による真理の探究である

ここに出てくる「現実の全体」とは何をいうのか問われなければならないだろう

彼は道徳と倫理を分けて考えている

道徳とは人間が遂行しなければならない無条件の義務であり、倫理とはその上で個人の選択に任されているもの、生き方の選択である

そして、彼の倫理は幸福の探求でも知恵の探究でもなく、真理の探究だという

さらに、形而上学としての哲学は科学ではないし、そう主張する必要もない

科学は範囲を狭め、証拠をもとに論証を通して、コンセンサスの得られる仮ではあるが真理を獲得する

それに対して、形而上学としての哲学には証拠はなく、その方法論は瞑想だという

したがって、形而上学はそこに整合性があれば成立可能で、いくつもの可能性がある

一つの哲学は理性だけではなく、その人間のすべての能力、その人間の持てる資源を駆使して試みるものだという

それゆえ、哲学には一つの個性を刻印しているし、していなければ本物の哲学ではないと言いたいようである

というような調子で議論が展開していく

コンシュの議論は細かく厳密で、言葉の使い方にも細心の注意が払われているように感じるという感想もあった

詳細は近いうちに専用サイトにまとめる予定である

訪問していただければ幸いである

















vendredi 7 novembre 2025

これまでに、参加者から以下のようなコメントが届いております。


◉ 本日の原文テキストは、これまでで最もスッと読める文章だった。講師も含め出席者の皆さんもそう感じていたためか、読後の質疑応答・議論の時間が長めに取れたのが良かった。今後の会も楽しみになるテンポであった、というのが今回の会の感想である。それでは、内容について、興味をもった点をここに記しておきたい。今回の読書会で取り上げられたテキストは、コンシュがフランス語で著した著作のprologueの文章である。講師が和訳されているテキストも配られて、仏語でまず読み、和訳の助けを得ながらコンシュの考えを理解する試みを行った。

講師の和訳が一冊の本になるときが楽しみである。そう感じさせる名訳を今回のテキストの中からひとつ挙げてみたい。仏語原文のテキストの Page5 の 28) La sagesse est une éthique cohérente avec une métaphysique. のcohérenteの和訳である。講師は、「矛盾しない」と講師の和訳テキストでは訳して下さっている。読者への「優しい配慮」だろう、と会の中で感じた。日常フランス語の和訳ならば、「首尾一貫した」とでも訳すのであろうが、敢えて「矛盾しない」と訳してくださっている。このような配慮に、講師の「コンシュ」という哲学者をに興味を抱いてくれる人が増えてくれたらな、という想いが伝わってくる。このcohérenteという言葉。「コヒーレント」といえば、理工系には、単なる日常語の「一貫性」なだけではなく、専門用語でもある。レーザー等の専門分野では、その分野の定義で使われている。であるから、哲学者が哲学の著作のなかで、cohérenteと使っているからには、哲学的な定義とその定義についての様々な議論もわかっていなくてはならないのだろう、と読者は想う。会の後で調べてみたらやはりそのようであった。

といった感じで、ひとつひとつこれは「哲学用語」であろうと、一語一語調べながらコンシュの原文を熟読するのも一つの読み方であろうが、哲学科の大学生ならばその余裕もあるかもしれない。そうした余裕がない者でも、コンシュの思想をまず垣間見てみようとするならば、ともかくも、まず、ひととおり通しで読んでコンシュの哲学の概観をつかんでみることである。そうした観点から講師の和訳を眺めるならば、読者に対する講師の思いやりと気遣いが感じられる名訳なのである。「矛盾しない」という訳は、「まあ、ともかく、ひととおりリズミカルにコンシュの考えを読んで把握して概観できるようになってから、細かい、哲学的言葉遣いを覚えて行けばいいさね。」という眼差しが読者を見守っているように感じられる。この著作の和訳本が上市されるときが楽しみである。


◉ 昨日はありがとうございました。マルセル・コンシュは自然を無限そのものとして捉え、古典期のパスカル、カント、ヘーゲルらの人格化された神に基づく哲学を批判し、無限を制限するその構造に異論を唱えています。それは、神が意思や目的を持つ存在として想定されると無限がそれによって制限されるということだと思います。ただ、コンシュのいう無限は私の頭には明確なイメージとして形成されていません。到達し得ない無限、無限の外側にも何かが想定されるニュアンスのような、明確にイメージできるものではないのかもしれませんが・・・。

コンシュは自然を神格化せずに、無限の自然こそが哲学の基底であると主張しています。この自由な思考の拡がりに私は共感を覚えます。コンシュは、すべての物事の場、あるいは普遍的な包摂体としての自然の哲学は、精神の合意を実現できなければならず、グーロバル化の時代においては、哲学的エキュリズム(統合主義)を可能にするものでなければならない。それは、自然主義的な知恵なしには進まないとしています。これは宗教や文化を越えて自然という共通の現実に基づいて人々が理解し合える可能性があることを示しているのではないかと思いました。

そして、形而上学としての哲学は科学ではない。一つの哲学は理性だけでなく、人間のすべての能力を駆使して試みるものなのである。哲学は人生と作品に最大限の価値を与えることを目指すもので、それはわれわれの後に続く者たちへの愛の中にあり、作品もまた愛の中にあると述べています。このコンシュの「形而上学」のまえがきとプロローグには、自然から多くのものことを感受しそして瞑想を重ねた結果である、彼の哲学の集体成が示されていると思いました。彼の哲学への姿勢と彼の人格もここには滲み出てきているように私には感じられました。理解不十分なことも多く、コンシュの自然哲学をもうすこし掘り下げていければと楽しみにしています。有難うございました。







2025年11月1日土曜日

今日から11月




















今日から11月

気がついたら今年もここまで来たかという感じである

1日は長く、ドラマがあり、1年の中には計り知れないものが詰まっている

年の初めにはこのようになっていると想像もできなかったことがいくつもある

かなり前からそう感じるようになってきた

プロジェを決めなくなったため、自分を拘束するものがなくなった

それが非常に良い効果を及ぼしているようだ

プロジェとは、年の終わりに見えてくるものになったのである


今年もまだ2か月残っている

どんなことが詰まっているのか

静かに見守りながら歩むことにしたい








2025年10月30日木曜日

カフェ/フォーラムの準備とエセーのまとめ
















このところ、カフェ/フォーラムの準備をしているが、いつものように直前まで当たることになるだろう

それと並行して、これまでのベルクソンカフェで取り上げた哲学者の思想をテーマにしたエセーをまとめている

ベルクソンカフェを含めたサイファイ研究所 ISHEの活動についても簡単に触れている

ここに来てその姿が見えてきたので、遠からず日の目を見ることになるのではないかと思っている


今日は午後から、ランドネがご趣味の方の案内で、何十年振りかで昭和公園を訪れた

ほとんど座っているのが日常なので、かなり歩かされたという感じである

幸い、それほど体には堪えなかったようだ

広い空間が広がっているので、中には瞑想などに使えそうなところもあった

その気になった時の候補の一つに入れておくことにしたい









2025年10月26日日曜日

トランペット アンサンブル J Four の演奏を楽しむ

 



日曜の朝


Youtubeで流れてきたこの演奏を聴くことにした

このところなかなか受け付けなかったトランペットだが、昔から気に入っていた教会でのオルガンとの共演を楽しむことができた

以前に聴いていたものとは違う文化的な背景も新鮮に感じたのかもしれない

どこかに旅をしたような、久しぶりに晴れやかな気分になった


お楽しみを!








2025年10月25日土曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(13)




第2章では自然哲学と自然学、自然主義、実証主義との関係が論じられるようだ

今日は第1節「自然哲学と近代自然学」の中から、気になったところをメモすることにしたい

近代自然学はプラトン主義の一種の復権、復讐だという

アリストテレスは感覚器官を通して自然を描くが、それはデカルトが「混乱した観念」というように、真の本性を認識しない

本来的存在との出会いは、感覚の世界ではなく、知性的・数学的世界において成される

ガリレイは、数学は人間理性が神の理性と出会う十字路を成していると言う

そこにおいて、神と同じだけの明白さと確実さをもって世界の本性を明らかにできると考えられる

それゆえ、数学の哲学が確実なものとして出現できたなら、それは唯一真実の自然の哲学を獲得できただろう

しかし、そこに実用主義的精神が侵入してきたのである

デカルトはガリレイの実用主義を告発している

ガリレイは数学的方法を用いて、若干の演繹はするが、原因と原理の考察にまで遡らなかった

プラトンを忘れて、実用主義を選んでいるというのである


ニュートンは、次のようなことを言っている
数学と自然哲学のあらゆる難問においては、分析によって行う方法が総合に先立つべきである。この方法は、経験と観察から成り立っており、それらから結論を帰納する際には、常に確証される事実を問題としていなければならない。なぜなら、単なる仮定は自然哲学には存在しないからである。反対に、分析によって、構成されるものから構成するものへ、運動からそれを生む力へ、一般に結果から原因へ、さらに個別的原因からより一般的な原因へと処理するのである。総合はその後から介入することによって、発見された諸原因から諸現象の説明を演繹するためにそれらの原因を原因とするだけである。

 現代の科学者であれば、納得できる内容ではないだろうか


ニュートンは、技術よりも哲学に留意し、手先の力ではなく、自然の諸力について書き留めるとして、自らの努力と認識を技術者や職人の実用主義的知と対立させている

しかし、オーギュスト・コントは、科学的経験は本質的に技巧であるという

なぜなら、科学的経験は諸現象の考証を容易にするために、人為的状況の中に物体を置くことによって、自然の状況の外で観察するからである

天文学などの一部の近代科学は、自然哲学の伝統に沿い、古代の知者と同様、自然を真に発見した

他方、近代科学は自然の諸条件から遠ざける機械論的精神や技術的関心の虜になり、技術主義に走っているのではないか

さらに専門化は、われわれの精神を細部に閉じ込める

ベルクソンはこう言っている
近代科学が実験的方法を創始したことは確かである。けれどもそのことは、近代科学がそれ以前に研究されていた経験の領域をあらゆる方面に拡大したという意味ではない。全く反対に、近代科学は経験の領域を一つならずの点で狭めたのである、しかもそれが近代科学の力となっている。

これも納得させられる言葉である