2025年8月31日日曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(1)



























これから、半世紀前の本『自然の哲学』に目を通すことにした

モントリオール大学やチュニス大学の教授を務めたフランス人哲学者ミシェル・アンバシェ(Michel Ambacher, 1915-1982)による著作である

この本でアンバシェは、「自然哲学」と「自然の哲学」を峻別している

序論において、ガリレイ(1564-1642)、ニュートン(1642-1727)、コント(1798-1857)、ダーウィン(1809-1882)の流れにある「自然哲学」に対して、ライプニッツ(1646-1716)、バークリー(1685-1753)、シェリング(1775-1854)、ヘーゲル(1770-1831)、ベルクソン(1859-1941)の流れにあるものを「自然の哲学」としている

前者は自然を包括的、客観的に受け入れる科学者の態度にも通じるものであるのに対し、後者はドイツロマン派の "Naturphilosophie"(自然哲学)のように、機械論的な見方に質的・直感的要素を回復するものだという

この分類から見ると、わたしの場合、「自然哲学」から出発して「自然の哲学」の方向に進みたいと考えているようである

しかし、科学での時間が長かったこともあり、その枠から大胆に出るためにはかなり時間がかかりそうな予感がする

いずれにせよ、アンバシェの言う「自然の哲学」に向かうためのヒントを求めて読み進むことにしたい

第1章では、このような枠組みが、アリストテレスにおいては対立することも融合することもなく、共存していたことを示すようである









2025年8月29日金曜日

ピエール・アドーの古代哲学分析を読む


























このところ、ベルクソンカフェについて振り返っていた

カフェ開店から5回に亘って取り上げたピエール・アドー(1922-2010)のセクションをやっと終えることができた

一日にかける時間に限りがあるためか、一か月かかったことになる

カフェ/フォーラムのまとめもそうだが、短時間で終わらせるよりは、しばらくの間その題材と付き合うという心の状態が気に入ってきたようである

書く前よりは像が明確になってきたとは思うが、提示の仕方には更なる工夫をしてみたいものである

来週からアドーの次に取り上げたアラン・バディウ(1937-)に当たることになる

どのような展開になるのか、いつものように分らないが、こちらもひと月くらいは予定しておいた方がよさそうである



ところで、今日は午後から古い友人とのお茶があった

時間と場所が次々に変わるスリリングなスタートでどうなるのかと思ったが、現世における話題をいろいろ仕入れることができたのは幸いであった

こういう機会を得ると、我が生活はやはり天空に在ることを再確認することになる 

アドーによれば、古代哲学で重要になるのは宇宙的意識(conscience cosmique)だという

それは、宇宙という「全体」から見渡す普遍的な視点を獲得することにより身につくもののようである

毎日、天空に身を置いていると感じているのであれば、少しはその意識に近づいているのではないだろうか

そう思いたいところである

古代哲学についての概観が得られるようになると、わたしの生きる基盤になっている哲学のかなりの部分が古代からのものであることに気づく

ホワイトヘッド(1861-1947)ではないが、古代哲学の中に生きる上で重要になることが尽きているのではないか

とでも言いたい気分になってくる











2025年8月20日水曜日

もうそうなるのかというある気づき、あるいは時間というもの


































1989年から2007年までの18年間は東京で科学研究をしていた

2007年に思い立ち、フランスでの全的観想生活、言葉を換えれば隠遁生活に入った

そしていま、18年が経過しようとしていることに気づく

つまり、数字の年数を比較すれば、科学研究の時代と同じ期間、隠遁生活をしていたことになる

この事実を前にして、いろいろな感慨が巡る

科学研究をしていたのは、それほど長い間ではなかったのか

あるいは、そんなに長く隠遁生活の中にあったのか

ただ、時間の捉え方がこの間大きく変わってきたので、このような感慨は今のわたしにとって本質的なものではない

この変化の源を辿れば、2007年1月の山手線での閃きに突き当たる

「医学のあゆみ」のエッセイでも『免疫学者のパリ心景』でも取り上げたが、その時慌ててメモしたものには以下の言葉があった

いまを生きている自分

これまでに在ったいろいろな自分

普通は昔の自分を遠くに置いたまま

時には捨て去り、それとは別の自分を生きている

それが忙しく現実を生きるということかもしれない

しかし、それが最近変わってきているのではないか

一瞬そんな思いが過ぎった

それはこれまでに在ったすべての自分を現在に引き戻し

彼らと話をしながら生きている、あるいは生きようとしている
そんな感覚である
そのすべてを引き受け、そのすべてが求めるところに従って歩む
そうした方がより満ちた人生になるのではないか
そんな想いが静かに溢れてきた

この時に気づいた新たな空間がその後の年月を経てさらに広がり、茫洋としたものになってきた

包摂力を増したとでも言うのだろうか

それをできる限り拡大すれば、宇宙にもつながるものになりうるのではないか

そんな予感さえ生まれている

そのため、直線的に流れる時間の中にいた時にはあり得なかった、これまでの出来事がそのあたり一面に散らばっているというイメージなのである

そこには古い新しいがない

これまでの時間がひとところに集まっている、あるいは身の回りに広がっていると感じられるからだろう

それはなかなか良い感じなのである










2025年8月15日金曜日

ベルクソンカフェを振り返る



























ウィンドウズ10のサポートが10月で終わるとのニュースがどこからともなく入ってきた

今使っているパソコンはかなり長い間使っているので、そろそろ替え時かもしれない

ところで、このパソコンいつ買ったのだろうか、と記憶を辿ってみると、丁度10年前になることが分かった

今では遥か彼方の記憶の一断片に過ぎなくなっているが、当時は半年くらい重い気持ちで過ごしていた

2015年1月のブリュッセルでそれまで使っていたパソコンを盗まれたのであった

その時の記録が残っている

  記憶のクラススイッチ、あるいは「出来事」から創造へ(医学のあゆみ 255: 787-791, 2015)

その年の12月にスートゥナンスがあったので、哲学の領域での博士になってから10年ということも意味している

ただ、自分の中ではそのような長さを持った時間としては捉えられていないようである

外からは10年という時間に見えるこの満ちた内的経験について解きほぐすことも、これからのプロジェになりそうである



ところで、このところベルクソンカフェの「これまで」を振り返っている

現在、最初に取り上げたピエール・アドー(1922-2010)についてまとめようとしているが、意外に大変である

どこまで踏み込むのかという問題が付いて回るからだ

今回のプロジェはベルクソンカフェの営みを紹介するものなので、そこで読んだものを中心にまとめるという方向性で固まりつつある

他の哲学者として、アラン・バディウ(1937-)とマルセル・コンシュ(1922-2022)が控えている

このお二方についても同じ考え方で向き合うことになるだろう

現段階でどのようなものになるのかは想像できない

ただ、小冊子ではあるが自分に照らして読み進むことができるようなものにしたいという気持ちではいる
















2025年8月6日水曜日

第14回サイファイカフェSHE札幌のまとめ
















先週土曜に開催したサイファイカフェSHE札幌のまとめをサイトにアップした

免疫から哲学としての科学へ』で論じられている中から話題にしたことをできるだけ拾い上げるようにした

今回も、生物が如何に精巧なメカニズムに支えられているのかということを驚きをもって確認した

と同時に、それでも完璧な制御はできず(それが生物か)、いろいろな問題を生み出すけれでも、それに対応する方法も準備しているという目を見張るようなことが行われている

このような本を読み、生物の細部に入ることにより初めて見えてくる素晴らしき世界である

汲めども尽きぬ世界がそこに広がっている

次回も驚きの心をもって読み進みたいものである







2025年8月3日日曜日

読書会の意味、改めて
































昨日で今年の夏のカフェ/フォーラムシリーズを終えた

2つのカフェと1つのフォーラムであったが、2つのカフェとも東京と札幌における拙著『免疫から哲学としての科学へ』の読書会となった

読書会をやりながら感じていたのは、全くの想像ではあるのだが、この本を一人で読むだけでそこに書かれてある世界を掴むことはかなり難しいのではないかということであった

かといって、この読書会で補足しながら話していることを本の中に入れることにも無理があるように見える

膨大な本になる可能性があるからだ

今回の本に関しては、かなり細かい科学的事実を拾い上げ、事実の間の論理的なつながりを明確にすることに努めた

その理由は、この本の内容がこれからの省察の基礎になるものなので、それを最初に示しておくことが重要だと考えたからである

将来何らかの疑問や問題が出てきた時に戻るべき資料庫を用意しておくという意味もあった

また、最初からメッセージを掲げて進み、その背後にある事実を置き去りにするというやり方には与したくなかったからでもある

そのため、事実を把握するのにかなりの労力を要することになるが、その部分が著者による解説で軽減されるということがあるのではないだろうか

また、これからの読書会では、事実から思考を飛躍させるところも出てくるので、そのような部分でも著者の声はさらに参考になるのではないかと想像している


いずれにせよ、この読書会は以下の予定で続くことになっている

東京: 11月14日(金)「免疫の形而上学」

札幌: 10月18日(土)「オーガニズムレベルと生物界の免疫」

    2026年4月?日(土) 「免疫の形而上学」


興味をお持ちの方の参加をお待ちしております








2025年8月2日土曜日

第14回サイファイカフェSHE札幌、盛会のうちに終わる












今日は第14回のサイファイカフェSHE札幌の日で、拙著『免疫から哲学としての科学へ』の2回目の読書会であった

北の都といえども暑さは容赦をしてくれない中、7名の方の参加があり、充実した質疑応答があった

今回は、仮説の意義や自己免疫、共生、オーガニズムの問題について考えた

最近明らかになっていることは、我々は単独で存在していることはできず、あるいは実際に他の生物と共生関係を保ちながら生きている

開かれたプロセスとしての存在、関係性の中にあるわれわれの「生」という視点から思索を深めるための起点を得たような気分である

詳細なまとめは、近いうちにSHE札幌のサイトに掲載する予定である

こちらを参照していただければ幸いである


九鬼周造(1888-1941)に次の歌がある

一巻にわが半生はこもれども繙く人の幾たりあらむ 

創作者が感じるであろう孤独や空しさのようなものが窺える

その背後に、それでも書くのだという固い気持ちもあることを信じたいところではある

このような境地から見ると、今回のような会で拙著が丁寧に読まれる機会が得られることは至福と言ってもよいだろう

長いスパンでいろいろな方の中を通り過ぎることになるとすれば、嬉しい限りである


第3回の読書会は、10月18日(土)に開催予定です

詳細は追ってお知らせいたします

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております