2025年10月25日土曜日

ミシェル・アンバシェ『自然の哲学』を読む(13)




第2章では自然哲学と自然学、自然主義、実証主義との関係が論じられるようだ

今日は第1節「自然哲学と近代自然学」の中から、気になったところをメモすることにしたい

近代自然学はプラトン主義の一種の復権、復讐だという

アリストテレスは感覚器官を通して自然を描くが、それはデカルトが「混乱した観念」というように、真の本性を認識しない

本来的存在との出会いは、感覚の世界ではなく、知性的・数学的世界において成される

ガリレイは、数学は人間理性が神の理性と出会う十字路を成していると言う

そこにおいて、神と同じだけの明白さと確実さをもって世界の本性を明らかにできると考えられる

それゆえ、数学の哲学が確実なものとして出現できたなら、それは唯一真実の自然の哲学を獲得できただろう

しかし、そこに実用主義的精神が侵入してきたのである

デカルトはガリレイの実用主義を告発している

ガリレイは数学的方法を用いて、若干の演繹はするが、原因と原理の考察にまで遡らなかった

プラトンを忘れて、実用主義を選んでいるというのである


ニュートンは、次のようなことを言っている
数学と自然哲学のあらゆる難問においては、分析によって行う方法が総合に先立つべきである。この方法は、経験と観察から成り立っており、それらから結論を帰納する際には、常に確証される事実を問題としていなければならない。なぜなら、単なる仮定は自然哲学には存在しないからである。反対に、分析によって、構成されるものから構成するものへ、運動からそれを生む力へ、一般に結果から原因へ、さらに個別的原因からより一般的な原因へと処理するのである。総合はその後から介入することによって、発見された諸原因から諸現象の説明を演繹するためにそれらの原因を原因とするだけである。

 現代の科学者であれば、納得できる内容ではないだろうか


ニュートンは、技術よりも哲学に留意し、手先の力ではなく、自然の諸力について書き留めるとして、自らの努力と認識を技術者や職人の実用主義的知と対立させている

しかし、オーギュスト・コントは、科学的経験は本質的に技巧であるという

なぜなら、科学的経験は諸現象の考証を容易にするために、人為的状況の中に物体を置くことによって、自然の状況の外で観察するからである

天文学などの一部の近代科学は、自然哲学の伝統に沿い、古代の知者と同様、自然を真に発見した

他方、近代科学は自然の諸条件から遠ざける機械論的精神や技術的関心の虜になり、技術主義に走っているのではないか

さらに専門化は、われわれの精神を細部に閉じ込める

ベルクソンはこう言っている
近代科学が実験的方法を創始したことは確かである。けれどもそのことは、近代科学がそれ以前に研究されていた経験の領域をあらゆる方面に拡大したという意味ではない。全く反対に、近代科学は経験の領域を一つならずの点で狭めたのである、しかもそれが近代科学の力となっている。

これも納得させられる言葉である

 

 





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