2025年1月15日水曜日

シェリングを摘まみ読む
















自然哲学とは何ぞや、ということで関連するものを読み始めている

近代の自然哲学の源にはシェリング(1775-1854)がいるというような指摘をどこかで見た

ということで、シェリングを読んでみることにした

普段は浮かんでこない哲学者なのだが、前ブログで『学問論』を読んだことがある

今回は『自然哲学に関する考案』(1797:松山壽一訳)を読み、印象に残ったところを書き出すことにしたい

哲学は徹頭徹尾、自由の所産なのである(フィヒテ)。哲学は、何人にとっても、自分で作り上げたものにほかならず、哲学の理念といえども、哲学そのものの結果にほかならない。しかるに、「普遍妥当な」哲学などというものは不名誉な妄想である。

これも科学との違いを表している

形而上学にはその人の選択を許すところがあるが、科学は一つの共通の枠組みに収まるものしか認めない

 人間が自分自身を外界に対抗させるや否や、哲学への第一歩が踏み出された。かの分離によってはじめて思弁(反省)が始まる。自然が常に合一していたものを、それ以後、人間が分離することになる。人間は対象を直観から、概念を像から、挙句の果てには(人間が自分自身の客体となることによって)自分自身を自分自身から分離してしまう。

 しかしこの分離は手段でしかなく目的ではない。というのも、人間は行為すべく生まれついているからである。ところが人間は自省しなければしないほど活動的である。人間のもっとも高貴な活動は無自覚のそれである。人間が自己自身を客体化するや否や、もはや「全」人が行為してはいない。

そのうえで、病める哲学と健全な哲学を議論する

病める哲学とは思弁を目的とするものだが、健全な哲学は思弁を手段にするものだという


このような文章を哲学に入った時に読んでいたと想像すれば、おそらく沁み込んできたのではないだろうか

今回は、自分の中に出来上がりつつあるものを確認するという目で読んでいる

ところで、今年はシェリング生誕250年とのことなので、何か面白いことでもあるのだろうか







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