2025年1月19日日曜日

サイファイ研究所ISHE 春のカフェ/フォーラムのプログラム決まる



ISHE研の春のカフェ/フォーラムのプログラムが以下のように決まりました

興味をお持ちの方の参加をお待ちしております

よろしくお願いいたします


◉ 2025年3月4日(火) 
テーマ: マルセルコンシュの哲学――2006年のインタビュー記事を読む―― 
恵比寿カルフール B会議室 
 
◉ 2025年3月6日(木) 
テーマ: 『免疫学者のパリ心景』を読む
ファシリテーター: 岩永勇二(医歯薬出版) 
恵比寿カルフール B会議室 
 
◉ 2025年3月8日(土) 
プログラム:

① 矢倉英隆: シリーズ「科学と哲学」⑦ プラトンの宇宙観

② 細井宏一: 人文科学と自然科学の間にあるサイエンス――啓示か、観察か、それとも・・・ ――

③ 岩倉洋一郎: 科学は自らの発展を制御できるのか?  

 日仏会館 509会議室 

 

◉ 2025年3月11日(火) 
テーマ: マルセルコンシュの哲学――2006年のインタビュー記事を読む―― 
恵比寿カルフール B会議室 
 
◉ 2025年3月14日(金) 
テーマ: 『免疫から哲学としての科学へ』の第2章を読む 
恵比寿カルフール B会議室
 

 

◉ 2025年4月12日(土) 
テーマ: 『免疫から哲学としての科学へ』の第1章を読む 
京王プレリアホテル札幌 会議室










2025年1月15日水曜日

シェリングを摘まみ読む
















自然哲学とは何ぞや、ということで関連するものを読み始めている

近代の自然哲学の源にはシェリング(1775-1854)がいるというような指摘をどこかで見た

ということで、シェリングを読んでみることにした

普段は浮かんでこない哲学者なのだが、前ブログで『学問論』を読んだことがある

今回は『自然哲学に関する考案』(1797:松山壽一訳)を読み、印象に残ったところを書き出すことにしたい

哲学は徹頭徹尾、自由の所産なのである(フィヒテ)。哲学は、何人にとっても、自分で作り上げたものにほかならず、哲学の理念といえども、哲学そのものの結果にほかならない。しかるに、「普遍妥当な」哲学などというものは不名誉な妄想である。

これも科学との違いを表している

形而上学にはその人の選択を許すところがあるが、科学は一つの共通の枠組みに収まるものしか認めない

 人間が自分自身を外界に対抗させるや否や、哲学への第一歩が踏み出された。かの分離によってはじめて思弁(反省)が始まる。自然が常に合一していたものを、それ以後、人間が分離することになる。人間は対象を直観から、概念を像から、挙句の果てには(人間が自分自身の客体となることによって)自分自身を自分自身から分離してしまう。

 しかしこの分離は手段でしかなく目的ではない。というのも、人間は行為すべく生まれついているからである。ところが人間は自省しなければしないほど活動的である。人間のもっとも高貴な活動は無自覚のそれである。人間が自己自身を客体化するや否や、もはや「全」人が行為してはいない。

そのうえで、病める哲学と健全な哲学を議論する

病める哲学とは思弁を目的とするものだが、健全な哲学は思弁を手段にするものだという


このような文章を哲学に入った時に読んでいたと想像すれば、おそらく沁み込んできたのではないだろうか

今回は、自分の中に出来上がりつつあるものを確認するという目で読んでいる

ところで、今年はシェリング生誕250年とのことなので、何か面白いことでもあるのだろうか







2025年1月11日土曜日

アトリエのわたし



























寒い日が続いているが、雪がないのは幸いである

毎日、太陽が出て地球が暖まるのを待って、外に出るようになっている

そんな中、一つのことに気がついた

それは、暖まるのを待って家にいる間、生きていないのではないかということだ

動物であれば冬眠をするが、それと余り変わらないような気がしてきた

そう思ったのは、アトリエにいる時は同じように寒いのだが、高い精神の集中を見るからだ

天空の生活においては、その時間だけが生きている時間のように見えてきたのである

そういう認識に達すると、やるべきことがはっきりしてくる

これは意外に大きな発見になるのではないだろうか

それがこの身を促す力を持っているからだ

本当に身に染みて認識しているかどうか、明日から注意深く観察したい











2025年1月5日日曜日

自然哲学について考える

































自然哲学という領域がある

哲学あるいは科学の起源にあると考えられている

しかし、その後の経過を見ると、科学からも哲学からも遠ざけられているようである

現代科学では哲学は排除され、大学の哲学においても自然哲学は存在しないかマイナーな存在でしかないという

科学を経て哲学に入ったわたしのような者から見ると、自然哲学的アプローチは魅力的に見える

拙著『免疫から哲学としての科学へ』は、免疫を自然哲学的に解析したものと言えるのではないかと思っていた

その理解は正しいのか、間違っているのか

これから折に触れて、この問いについて考えていくことにした

 こちらから

このようなプロジェになりそうなことが、これからを歩む中で飛び出すことを期待したい









2025年1月2日木曜日

ジル・ドゥルーズの「生きる」とは

















ジル・ドゥルーズ(1925-1995)が考えた「生きる」とは、次のようなことであった


それは、自分を動かし、実験することであり、時に傷つけるかもしれないけれども、われわれの力を高め、喜びで満たしてくれる可能性を秘めた「存在」「ものこと」「状況」に出会うことである。一人ひとりが望むべきことは、「ものことや他者の身体と自分の身体とがどのように適合しないのかを理解すること」、つまり世界がわれわれにどのような影響を及ぼすのかを理解し、それを最大限に活用することである。

 

我流に解釈すれば

変化を恐れずこの世界に身を晒し、そこで起こる変化を観察しながら最善を引き出し、自らが変容していくことを受け入れること。

ということになるのだろうか

それはこれからの生にとって益々重要になりそうな知恵と言ってもよいだろう







2025年1月1日水曜日

2025年を迎えて



























2020年3月、コロナでフランスが閉鎖されたその日に一時帰国してから5回目の正月を迎えた

それ以来、フランスに定住者として戻ることはなかった

担々とした日々の中にあると、あれから5年も経ったとは思えない

担々とした日々とは、「いまここへの集中」の中にあるということである

それを繰り返しているうちに、これまで何度か触れているが、永遠の中にいるような感覚が生まれてきた

一日が益々長く感じられるようになっているのである

一日のそれぞれの時間に特有の表情があることが見え始め、それに合わせるかのように内的風景も変わってくる

外から見ると何の変哲もない日々に見えるのだろうが、内的には実に豊かなものを湛えている

日常レベルにおける幸福は人それぞれの形があるのだろうが、これも幸福と言ってもよいのかもしれない

幸福について、簡単なまとめをISHEサイトに「意識と幸福の三層構造」としてアップした

ご意見をいただければ幸いである



さて、2025年を迎え、新たな気持ちが湧いているだろうか

今年も特定の目標を持つことなく、その時々に打ち込むというやり方で歩むことになるだろう

どのような年になるのか想像もできない中、早速動き出したところである

今年もお付き合いいただければ幸いである