このところ(と言うかいつもなのだが)、外形的には単調な日々が続いている
午前中はぼさーっとして考えを巡らし、午後からは集中の時間を取り、寝る前の数時間はリラックスするというのが形になってきた
そして眠りに入る30分ほどをその辺にある本を取り出しての読書に充てている
一昨年の暮れに偶然始まり去年のパリ行きまで続いたのだが、パリから戻りすっかり忘れていた習慣である
それが昨年末に蘇り、今も続いている
これまでシェリング哲学についての論評を読んでいたが、全くと言っていいほど反応する言葉に出会わなかった
やはりシェリング本人の声を聴く方が先だろう
ここ数日は、鶴見俊輔の『戦時期日本の精神史 1931〜1945年』をパラパラとやっていた
昨日のところには、日本の鎖国性という問題が出てきた
島国という物理的な条件から生まれた自己完結性
周りの人は皆、遠い親戚という感覚
鎖国がそれをさらに増強したかもしれない
しかし、この傾向は開国した後も続いている
ある現象を見た時に世界を視野に入れて考えることが、インテリの間でも少ない
それから、外国人と対した時も相手に自分の考えを理解してもらおうとする能力が欠如しているという
説得して相手を共に歩ませることが苦手なのである
それは戦時中、外国の土地に入った時にも見られたようだ
自らを振り返れば、最初にアメリカに行った時、20代のわたしは自分を説明できないことに戸惑った
それまで、周りの人はほとんどが同じ背景を持っており、違った部分は非常に限られていると勝手に想像していたからかもしれない
自分を説明するというような頭の使い方をしたことがなかったのである
第三者が存在しない環境だったのである
それ以来、この存在をどのような枠組みに入れて語るのかということが一つの問題になった
違う環境に入れば入るほど、枠組みの取り方がいろいろ変わってくる
その幅が増えるほど、理解する力や受容する力も上昇するものと思われる
確かに、意識の中に第三者がいない状態においては、言論が家の中でのお話のようになってくる
日本の言論空間を見ていつも感じるのは、他者(親戚や世間を超える)が見ているという感覚の欠如と言えるものである
これは、今でも続いているという鎖国性とどこかで繋がっているような気がしている
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